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灯りの町のパン屋「ツィール」

「灯りの花」で知られるマルグ市。

花が咲かない時間には、ごく普通の暮らしが、他所よりは少し穏やかに流れている。


マルグ市の朝は、火と粉の匂いで始まる。


町の南通りを歩けば、ほのかに焦げたような、でも焼き立ての匂いが鼻をくすぐる。

それを追うように歩く人々が、自然と店の前に列を作る。


パン屋「ツィール」。


この町で唯一、“噛むたびに覚悟がいる”と評されるパンを売る店だ。


小さな看板と煙突が目印。

石造りの店から、朝の熱気がそっと町へ漏れていく。


* * *


ツィールのパンは、とにかく硬い。


かたちも独特だ。

三角にとがったもの、楕円形の角に筋を刻んだもの、手のひらより大きい平たいパンもある。

どれも歯が折れそうなほどしっかりしていて、初見の旅人はよく眉をひそめる。


「これ、武器か何かですか?」


「そう。腹が減ったら食べるけど、襲われたら投げて逃げられる」


そんな冗談が常連の間で交わされていた。


だが、食べてみると、不思議とまた食べたくなる。

バリッとした表面のあとに、噛むほどに広がる甘みと塩気。

中身は決してパサつかず、じんわりと湿気を抱えている。


そう、“噛んで育てる味”がした。


このパンは、誰かと語らうように食べるのがちょうどいい。


だからこの町の人たちは、静かに列に並び、買ったパンをそっと袋に入れて帰っていく。


言葉は少なく、けれどみんな満足そうだった。


* * *


パン職人の名は、カデル。


髪は短く、無愛想で、余計なことは言わない。


「焼けた」

「あと五分」

「切るな、裂け」


朝に使う言葉はそれくらい。


生地を捏ね、手でまとめ、ひとつひとつ天板に乗せていく。

オーブンの前に立つと、目が鋭くなる。

火加減、膨らみ、焦げ目、そのすべてを目で判断している。


彼の焼くパンには、“不安”がない。


迷いがないことは、たしかに味に出る。


それを知っている常連たちは、文句も質問も言わず、ただパンを買っていく。

そしていつしか「これがツィールの味だ」と言われるようになった。


味の好みではない。

町の空気に合う、温度のようなもの。


朝の静けさに似合う味。


* * *


ある朝、少年が店先に立っていた。


片手には硬貨、もう片手には昨日のパンの包み紙。


「これと同じのください」


カデルはうなずいて、同じかたちのパンを袋に入れた。

少年はそれを受け取って、指で袋越しにパンを押した。


「あれ?」


小さな声がもれた。


「……昨日より、やわらかい?」


カデルの手が、一瞬止まった。


パンの表面は、たしかにいつもよりわずかにへこむ。

生地の湿度が高かったかもしれない。

寝かせる時間がいつもより少し長かったかもしれない。

だが、どれも些細な差異だった。


「焼き加減かもな」


カデルはそれだけ言った。


少年はパンを持ったまま、しばらく考えていた。

そしてぽつりと、ひとこと。


「なんか、今日の方が……あったかい気がする」


店内のオーブンが、ゴウンと音を立てて火を吐いた。


カデルは次のパンを取り出しながら、目を伏せた。


「……焼き立てだからな」


それ以上の言葉はなかった。


けれどその日のパンは、ほんの少しだけ売れ行きが早かった。


* * *


昼すぎ、買い物袋を下げた女性が店をのぞいた。


「朝は売り切れだったのよ、角のあるやつ。あれ、うちの子のお気に入りなの」


「午後焼きはない。明日の朝」


「そうよねぇ。あの食感じゃ、朝以外は無理ね。しっとりしてたら歯が負けるもの」


女性は笑いながら言ったが、カデルはその一言に、ほんの一拍だけ反応した。


──しっとり。


それは今朝のパンに使われた言葉ではなかった。


少年は「やわらかい」と言った。

そして「……あったかい」とも。


それがなぜか、耳に残っていた。


その夜、カデルはひとつだけ、余ったパンを切って口にした。


たしかに、いつもよりも軽い。

噛んだ瞬間にわかる。水分の抱え方が違う。

ふわふわではないが、角の下にかすかに“やわらかさ”がある。


焼きが足りないのではない。

失敗でもない。


けれどこれは──いつもとは、違う。


「……ツィールの味、か」


彼は小さくつぶやいた。


パンは、職人ひとりのものではない。

食べる人がいて、町があって、流れる時間があって、ようやく“味”になる。


明日は、もう少し水を減らしてみよう。


いつもの食感に戻すか。

それとも──もう少し、迷ってみるか。


オーブンの火を落としながら、カデルは考えた。


* * *


翌朝、列はいつもより少し長かった。


そしてその中に、昨日の少年がまた並んでいた。


手にしたパンをそっと押して、うれしそうにうなずく。

その姿に気づいたカデルは、何も言わなかった。

ただ、翌日も焼き加減をほんの少しだけ変えた。


* * *


町のパン屋「ツィール」では、今日もパンが焼かれている。


噛みしめると、朝の匂いがする。

食べ終えると、ちょっとだけ顔がゆるむ。


町に溶けた味。

火の中で少しだけ変化した、“迷い”のあるパン。


それでも、変わらず人が並ぶ。

パンが焼かれ、食べられる日常がある。


それだけで、じゅうぶんに“ツィールの味”だった。

パンは迷わないで焼けた方がいい。

……でも、迷った朝にしか焼けない味もある。


また、この町のどこかで。

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