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灯りの町のひと匙支度

灯りの町、マルグ市。


その朝は、まだ息をひそめている。


昨夜咲き誇った灯りの花は、今はすっかりしおれて、路地のすみに影のようにたたずんでいる。

花の香りも光も消えたけれど、その余韻は町の空気にしずかに溶けていた。


茶館「匙屋」の扉が、わずかに軋む音をたてて開く。


ミナは、鍵束を手に、しばらく入口から店内を見渡した。

静まり返った椅子たち、昨日と変わらぬ卓上、紅茶の匂いがわずかに残る空気。

風が足元を抜けていく。


「よし」


小さくつぶやいて、ミナは店の一日を始めた。


* * *


最初にするのは、椅子をすべてひっくり返して足を拭くこと。

花の季節になると外からの客が増えて、靴についた花粉や土が床に落ちる。

床板の掃除と合わせて、椅子の脚も丁寧に拭くのが匙屋のやり方だ。


一つひとつ手に取って、布で拭きながら、昨日の客たちをぼんやりと思い出す。


──この椅子は、あの人。

──これは、若い旅人。

──あの子、また来るかな。


椅子の脚が床板をこすって、かすかに音を立てた。

その音は、まだ半ば眠っている町を起こさないように、そっと灯りを点けるような音だった。


* * *


カウンターに立ち、ティーポット、カップ、砂糖壺、匙の数を確認する。


「3、4、5……うん」


昨日、角砂糖を四つ入れてほしいと言った青年がいたことを思い出した。

“昨日の花が綺麗すぎて、ちょっと泣きそうになって”──そう笑っていた。


ミナは、棚の角砂糖を少しだけ補充する。

人の心がゆれるとき、砂糖の数もゆれる。

それは匙屋でしか気づけない、小さな変化。


* * *


扉の外、通りの石畳はすでに掃き清められていた。

落ち葉も花びらもなく、わずかな湿り気だけが、そこに“昨日”があったことを知らせてくれる。


それだけで、この町が“今日を始めてる”って、わかる気がした。


台所で湯を沸かしながら、ミナは天井の梁を見上げる。


この建物はかなり古く、ミナが生まれる前から茶館だった。

名前も変わらず「匙屋」。


“どんな日にもひと匙の甘さを”

それが、先代──祖父の口癖だった。


ミナが店を継いだとき、町は今よりもう少し寂しかった。

灯りの花も、こんなに人を集めるものではなかった。


でも、時が経つにつれて少しずつ変わっていった。


パン屋が朝から開くようになり、吟遊詩人が広場で歌うようになり、旅人や新しい住人が増え、

そして、誰かが「話せる場所」を欲しがるようになった。


ミナは、それを特別なこととは思っていない。

誰かが毎朝お茶を淹れてくれるだけで、町は少しずつ息を吹き返すのだと、そう思っている。


だから今日も、湯を沸かす。

たとえ誰も来なくても、それはこの町の“灯りの準備”なのだ。


* * *


湯が沸く音。

砂糖壺の蓋の乾いた開閉音。

木の椅子に腰かける、自分の服のこすれる音。


何もかもが、静かな交響曲のようだった。


カップをひとつ、自分のために選んで紅茶を注ぐ。

その香りに、ほんの少しだけ昨夜の花の名残が混じっている気がした。


──ああ、今日も灯ってる。


まだ誰も来ていないけれど、そう思った。


町のどこかから、誰かが掃除を終える音が聞こえた気がする。

どこかで扉が開く音も、遠くで水を流す音もする。


今日も、マルグ市は、灯りの花がしおれたあとの時間から、そっと歩きはじめている。


そして、きっと誰かが来る。

誰でもいい。ただ、誰かが、ここを訪れてくれる。


その時には、温かいお茶と、ひと匙ぶんの甘さを。


ミナは静かにうなずき、店の扉をほんの少しだけ開けた。


──今日も、匙屋は朝の一匙から始まる。

朝の町には、静かな光が差し込んで、

昨日の気配や、誰かの足跡が、まだ少しだけ残っている気がします。


そんな光の中で始まる、匙屋の静かな朝のお話でした。


またこの町のどこかで。

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