人魚の涙
今回は、海に願う、欲深い人間の話だ。自然の摂理を捻じ曲げた願いが、どんな代償を要求するのか。絶望的な絵が、目に浮かぶだろ?
僕の故郷は、海に呪われているような村だった。
痩せた土地に、潮風で錆びついた家々。漁に出ても、網にかかるのは、日に日に細っていく魚ばかり。若者たちは、皆、村を見捨てて、都会へと出て行ってしまう。
僕、リョウも、そんな若者の一人だった。だが、病気の母を一人、残していくことはできなかった。
「ごめんね、リョウ。私さえ、いなければ……」
そう言って、か細い声で謝る母を見るたびに、僕は、無力な自分と、この貧しい村を、どうしようもなく憎んだ。
あの日。僕は、大時化の中、無謀にも、一人、小舟で漁に出ていた。少しでも、金になる魚を、一匹でも多く、獲るために。
荒れ狂う波に、舟が転覆しかけた、その時だった。
破れた網に、何か、青白く、ぼんやりと光るものが、絡まっているのが見えた。
それは、赤ん坊の拳ほどの大きさの、滑らかな、真珠のような石だった。だが、ただの真珠ではない。その内側で、まるで、生きた心臓のように、淡い光が、明滅を繰り返している。
僕は、その石を持ち帰り、村で一番の年寄りである、タキ婆さんに見せた。
タキ婆さんは、それを見るなり、顔色を変え、震える声で言った。
「……それは、『人魚の涙』じゃ。大昔、人間に恋をして、叶わぬ想いに、その身を、海に投げて死んだ人魚が、最後に流した一粒の涙……。一つだけ、どんな願いでも、叶えてくれると言われておる。だが、気をつけなされ。海は、気まぐれじゃ。与える時には、必ず、何かを、奪っていく……」
僕は、その石を、強く、強く、握りしめた。
貧しさから抜け出せる。母の病気も、治せるかもしれない。
タキ婆さんの忠告など、もう、僕の耳には届かなかった。
その夜。僕は、浜辺に立ち、人魚の涙を、月明かりに翳した。
「頼む……! この村を、俺たちを、豊かにしてくれ! もう、金輪際、金に困らないようにしてくれ!」
僕の、魂からの叫び。
その願いに応えるように、人魚の涙は、ひときわ強く、青い光を放ち、そして、すうっと、その輝きを失った。
次の日の朝。
僕は、異様なほどの静けさで、目を覚ました。いつもなら、枕元まで聞こえてくるはずの、波の音が、全く、聞こえない。
慌てて、窓の外を見た僕は、信じられない光景に、息をのんだ。
海が、ない。
いや、ある。だが、遥か、何キロも、沖合へと、後退している。今まで、海の底だった場所が、広大な、湿った砂浜となって、目の前に、広がっていた。
そして、その、剥き出しになった海底に、村人たちの、歓声が響き渡る。
そこには、何百年もの間、海の底に眠っていた、無数の難破船が、その姿を晒していたのだ。朽ち果てた船体からは、金貨や、宝石や、見たこともない財宝が、キラキラと、朝日を浴びて輝いている。
「やったぞ!」「俺たちは、金持ちだ!」
村人たちは、狂ったように、その財宝を、かき集めていた。僕も、夢中で、金貨を、ポケットに詰め込んだ。
願いは、叶ったのだ。完璧な形で。
僕が、金貨の重みに、悦に入っていた、その時だった。
ごおおおお、と、地鳴りのような、低い音が、遥か彼方から聞こえてきた。
僕は、恐る恐る、水平線に、目をやった。
白い、一本の線。
最初は、ただの、白い線だった。だが、それは、みるみるうちに、巨大な、巨大な、「壁」へと、姿を変えていく。
タキ婆さんの言葉が、脳内で、蘇る。
『海は、与えるために、まず、全てを、奪っていく……』
ああ、そうか。
人魚の涙は、財宝を「創り出した」のではない。ただ、海の底にある財宝を、僕たちに見せるために、律儀に、海の水を、全て、沖合へと「どかして」くれただけなのだ。
そして、今、その水が。
僕たちの願いを叶えるために、どいていてくれた、全ての海水が。
一つの、巨大な、絶望となって、僕たちのもとへ、還ってくる。
財宝を抱きしめたまま、空を見上げ、呆然と立ち尽くす村人たち。
その、阿鼻叫喚を飲み込みながら、空を覆い尽くすほどの、巨大な津波が、静かに、迫っていた。
一番恐ろしいのは、幽霊でも、怪物でもなく、人間の「欲」そのものかもしれねえな。そして、それに応えちまう、自然の無慈悲さか。