サザンカの女王
母
朝、吐く息の白さに少しだけ驚く。季節の訪れを祝福するかのように、サザンカは一斉にピンク色の花を咲かせた。サザンカの森でわたしが見つけたもの。真っ白なおくるみにくるまれて、すやすやと眠る赤ん坊。
なんて愛らしいのだろう。
きっと神様だ。そう思った。生まれてからずっと、たったひとりでサザンカの森を守り続けてきたわたしに、神様が贈り物を下さったのだ。
赤ん坊のほんのりとした紅いほっぺは、まあるく、ふくふくとしていた。バンザイの恰好で、おくるみから見えている小さなにぎりこぶしもやっぱりまんまるで、まだ見ぬ世界を必死につかもうとしていた。そっと赤ん坊のこぶしに触れ、細い指を一本ずつひらいてやると、サザンカの花が咲いたみたいだった。その美しさに見とれていると、赤ん坊は一瞬のうちにわたしの人さし指をつかまえ、閉じ込めてしまった。想像していたよりも、ずっと強い力だった。
どこにも行かないで。わたしを愛して。
わたしには、赤ん坊がそう言っているように聞こえた。
カメリア。そう名付け、赤ん坊を大切に育てた。サザンカの葉をしぼった汁を飲ませ、花びらを縫い合わせ服を作ってやった。泣けばすぐに飛んでいって抱きしめ、子守唄を歌った。よちよち歩きのカメリアが転んでも痛くないよう地面を花で埋め尽くした。
赤ん坊を育てることは容易ではなかった。朝から晩までカメリアの世話に追われ、一日はあっという間に過ぎた。仕事は、カメリアが昼寝をしているあいだにした。サザンカの森を歩き、一本一本見て回るのだ。もしも葉に白い斑点を見つけたら消毒する。一枚一枚丁寧に薬を塗っていくのは、とても骨の折れる仕事だった。他の木に病気が伝染しないよう枝を切ったりもする仕事も。
そうやって、もう何十年もこの森を守ってきた。
わたしは、サザンカの女王だ。
けれど、カメリアのこととなると、わたしはてんで初心者だ。サザンカの病気は治せても、子どもの病気の治し方を知らないわたしは、カメリアが熱を出すとたちまち不安でいっぱいになった。熱にうかされ、夜通し泣き続けるカメリアをわたしは抱きしめ、ひたすら祈り続けるしかなかった。
どうかこの子を助けてください。
この子さえ元気になれば、わたしはどうなったってかまいません。
カメリアはすくすくと大きくなった。冬が北からやってきて、春が南からやってくることも覚え、わたしと一緒に仕事もするようになった。サザンカを観察し、健康状態をはかることもできるようになった。サザンカの花びらを縫い合わせ、髪飾りやスカーフを作るのも得意だ。
一方、髪に白いものが目立つようになったわたしは、今までのように朝から晩まで立ち働くことがしんどく感じるようになっていた。いつだってカメリアと同じつもりで走ったり、はしゃいだりして暮らしてきたけれど、人生の終わりは着実に近づいているのかもしれない。
サザンカの女王をカメリアに譲る日がじきに来るだろう。
わたしのカメリア。愛おしい娘。
「マーマ」
はじめてカメリアが呼んでくれた日のことを、今でも覚えている。カメリアを慈しみ、森のサザンカを育てた。毎年十一月になると、サザンカは数えきれないほどの花を咲かせ、森を祝福の色に染めた。
ピンク色のサザンカの花言葉。それは、永遠の愛。
娘
この森の向こうに何があるのだろう。
そう考えるようになったのは、フリードのせいだ。夏にサザンカの森にやってきたフリードは、新聞記者だと言った。ポケットのたくさんついたハンティングベストを着ていて、わたしが見たことのないものをなんでもポケットから出すことができた。わたしが文字を見たことも書いたこともないと言うと、フリードは左胸のポケットからメモを出し、白紙のページに文字を書いて見せた。フリードがAだと教えてくれた文字は、サザンカの木のかたちをしていた。
フリードについて森を歩くうちに、サザンカの森の果てに、太陽の光が差し込む場所を見つけた。ふもとの町が見えるこの場所が、わたしのお気に入りだ。
遠くに見えるカラフルな屋根。そこで暮らす人々。サザンカの森とは違うところ、違う生活。
「君の本当の居場所」
ふもとの町のことをフリードはそう呼ぶ。わたしにはよくわからない。けれど、町の話をフリードから聞くのは楽しい。フリードもふもとの町で育った。
中央に見える赤い屋根の細長い建物が学校だとフリードが教えてくれた。読み書きや計算を教えてくれるところ。七歳になると、子供はみんな学校へ通うそうだ。
フリードは、ふもとの学校を卒業してから、汽車で何時間もかけて大都市にある大学に進み、卒業して新聞記者になった。はじめて担当した記事をフリードが持ってきてくれた。
ひしめくように文字が並んだ新聞をわたしはろくに読むことができなかった。
「教えてあげるよ」
フリードが言った。それから週に一度、フリードの手ほどきを受けた。アルファベットが読めるようになると、フリードはわたしに辞書をプレゼントしてくれた。どんな言葉だって、ここに載っているからと。
会うたびに、フリードはわたしに手紙をくれた。何が書いてあるか知りたくて、わたしは辞書を引いた。
「あ、い、し、て、る」
手紙にそう書いてあった時、わたしはうれしくて飛びあがりそうになった。大人しくしていることなんて到底できなくて、息が切らし、フリードに会いに行った。森の果ての、太陽の光が差し込む場所。フリードの姿を見つけたとたん、わたしは彼の胸に飛び込んだ。
「愛しているわ。とても」
わたしは言った。言ってしまってから、顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「結婚しよう」
フリードが言った。
「ふたりで、あの町で暮らすんだ」
なんて素敵な提案だろう。フリードと結婚して、ふもとの町で暮らす。サザンカの森を離れるのはさびしいけれど、ママに会いたくなったらいつだって帰ってくればいい。
結婚の報告をするため、わたしはフリードをママのところへ連れて行った。
ママは、いつも通りサザンカを見てまわっていた。
「ほら、あそこにいる」
わたしが指さしても、フリードはきょろきょろしてばかりいた。
「サザンカの葉に薬を塗っている、あの人がママ」
何度教えてもフリードにはママが見えなかった。しまいには首をふって、「もういいよ」とあきらめて帰ってしまった。
フリードと結婚して森を出て行くと告げると、ママはパニックになった。
「この森を出て行ってどうするの?」
「子供の頃からずっと、あなたはサザンカの女王になるって言ってたじゃない」
くちびるをかみしめたママの瞳はうるんでいて、今にも大粒の涙がこぼれてきそうだった。けれど、ママが悲しそうな顔をすればするほど、わたしの中に燃えるような激しい怒りがこみあげてくるのだった。
「育ててもらったことは感謝してる」
「でも、わたしの人生だよ」
その年に咲いたサザンカの花は白色だった。白いサザンカを生まれてはじめて見た。きっと好きな人と結婚するわたしを祝福してくれているのだ。そう思った。フリードと交わした約束を胸に、わたしは木々の隙間を縫うように走り、サザンカの森を抜け出した。
母
いつかこんな日がくるんじゃないかと思っていた。カメリアがわたしを置いて森を出て行ってしまう。そんなことばかり想像し、途方もない不安に襲われたことが今まで何度あったろう。そのたびに、あの子は神様からの贈り物だ、神様がわたしから贈り物をとりあげてしまうことなんてあるはずないと自分に言い聞かせてきた。
サザンカの森にやってきた男に、カメリアはすっかり夢中になっていた。若くて美しいカメリアが、見たことのない世界に憧れるのも無理もなかった。けれど、まさかあの男と結婚するとは思わなかった。
サザンカの森が好きだったカメリア。いつかママみたいなサザンカの女王になりたいと口癖のように言っていた。カメリアの幸せだけを願って生きてきた。それなのに、あの子はもういない。手の届くところにいないのに、どうしてあの子を守ってやることができるだろう。
息が白い。ぽっかり穴があいたわたしの心を冷たい風がぬけていく。
白いサザンカの花言葉。
その花言葉を、カメリアは知らない。
あなたはわたしの愛を退ける。
町
ふもとにおりたった瞬間、大勢のどよめきと刺すような光とシャッター音に、目がつぶれてしまうんじゃないかと思った。
「今までどうやって暮らしてきたんですか」
「誰か生活をともにしていた人がいたのですか」
「その人に、監禁されていた。そうなんでしょう」
「その人に、危害をくわえられたりはしませんでしたか」
目をこらし、やっとのことでフリードを見つけ、手を伸ばした。フリードの背中にぴったりと身体をくっつけた。少しだけ安心したのもつかの間、フリードが群衆の前に大きく一歩踏み出したのでびっくりした。フリードの背中にしがみついたままわたしも前に出る格好になった。シャッター音がいっせいに鳴り響き、身体じゅうに痛みが走った。
「みなさん、静粛に。彼女のことはぼくから説明します」
「この女性がカメリアです。ぼくが思うに、彼女こそが十六年前に消えたコーリ夫妻の赤ん坊です。年格好もちょうど合致しますし、髪や肌の色も母親のコーリ婦人から受け継いだとしか思えないほどそっくりです。十六年前、いったい誰が彼女を誘拐し、サザンカの森に捨てたのか、それはまだわかっていません。けれど、今回このようなかたちで彼女を保護できたのは、十六年前の事件を解決するための大きな一歩です」
いったい何のことを言っているのだろう。コーリ夫妻、誘拐、捨てられた。そんなこと嘘に決まっている。わたしはサザンカの森で生まれて育った。わたしのママは、サザンカの女王だ。
「ぼくは、彼女を育てたという人物を聞き出しました。その人に会うため、ぼくは彼女についていきました。けれど、そんな人はいませんでした。姿をくらませたのか、あるいは魔物の仕業かもしれません。そうです。森には魔物が棲んでいるのです。十六年もの間、彼女を森に監禁していたのだから」
フリードは、どうして急にそんなおそろしいことを言い出すのだろう。身体をずらし、背中からそっとフリードの横顔を見上げた。鼻息の荒い、勝ち誇ったような顔をしていた。わたしの知らない顔だった。その顔を、わたしはきらいだ、と思った。
「ほら、君の本当のご両親だ」
フリードが言って、涙で顔を腫らしたコーリ夫妻に交互に抱きしめられた。おじさんとおばさんからは、何の匂いもしなかった。ママと同じ、凛として甘い、サザンカの花の香りがすればよかったのに。
その晩、わたしは、コーリ夫妻の家に泊まった。ベッドはふかふかで、花もようのシーツは清潔に整えられていた。おそろいの花模様の枕はきれいで、いつまでも見ていて飽きなかったけれど、どんなに顔をうずめても花の香りはしなかった。
戦い
犯人さがしがはじまった。コーリ夫妻から赤ん坊のわたしを誘拐した犯人をさがし出し、捕まえることに誰もが躍起になっていた。フリードの仕事も忙しくなり、結婚の約束は延び延びになった。
「犯人をつかまえて、君のお父さんとお母さんを安心させてあげたいんだ」
「君をきっと幸せにする。何もかも明らかにして、そうしたら式をあげよう」
警察、探偵、新聞記者。大勢の人がサザンカの森へ行き、昼夜問わず捜索を続けていた。けれど、わたしがサザンカの森へ行くことはかなわなかった。ちょっとの間だけ遊びに行って、ママの顔を見るだけのことがどうして許されないのかわたしにはわからなかった。
「あぶないから絶対に行っちゃだめだ」
「それこそ犯人の思うツボだ」
「君がまた行方不明になったりしたらみんなが悲しむ」
フリードはそう言って、何度もわたしを抱きしめた。今頃ママはどうしているだろう。サザンカの森を出るまでは、あんなにママから離れたくて、一刻も早く森を出てフリードと暮らすことしか考えていなかったのに、今になってママのことが心配で、会いたくてたまらなくなる。
そんな時だった。
わたしは偶然聞いてしまった。フリードが仲間の新聞記者と話しているのを。
サザンカの森を焼きはらう。
森ごと焼きはらって、犯人も、魔物もすべて焼き尽くしてしまうんだ。
どうしよう。
戦いがはじまる。
ママの命が危なかった。いてもたってもいられなくなって、わたしは部屋を飛び出していた。
女王
この頃、森が騒がしい。かつてないくらいいろんな人がやってくるようになった。きっとふもとの人間だ。必死で誰かをさがしているようだった。
いくらさがしたって誰も見つけることなんかできない。
ここにいるのはわたしだけなのだから。
困るのは、彼らの手によってサザンカの葉がひきちぎられたり、枝が折られたりしていること。愛のない人たちなのだ。わたしは、サザンカの森じゅう歩いて、傷ついた木を一本一本治療してまわった。
来年も、そのまた次の年も、ちゃんと花が咲くように。
カメリアは元気にしているだろうか。愛のない人たちに、冷たくされていないだろうか。あの男は、どんな時もカメリアの味方でいてくれ、守ってくれるだろうか。ちぎれた葉に薬をぬり、両手でやさしく包み込むと、枯れかけたサザンカが息をふきかえすのがわかる。時間のかかる作業だが手をぬくことはできない。サザンカが好きだったカメリアのためにも、森を美しいまま残しておきたかった。
夜が明けきらない雪の降る朝のこと。
サイレンとともに、ふもとから大群が押し寄せてきた。人間たちが列をなし、松明を片手に雄叫びをあげ山を登ってくるのが見えた。
そのうちのひとりがサザンカめがけて松明を投げた。それが合図だった。人間たちは、次々と矢のように松明を森に投げた。サザンカに火がついた。火は、木から木へみるみるうちに燃え広がり、ごうごうと音をたてサザンカの森を呑み込んだ。
早く、火を消さなければ。わたしは、ドレスの裾を翻し、精一杯はたいた。けれど、はたけばはたくほど、風にあおられた火が森の奥まで広がっていく。サザンカの悲鳴が聞こえ、耳を塞ぎたくなる。なんとかしなきゃ。炎に染まっていく森を裸足のままさまよっていると、
「ママ!」
叫び声が聞こえた。ふりむくと、カメリアだった。どうしてここへ。こんなところに来ちゃだめだ。火傷をしてしまう。早く、逃げて。
「サーシャ、こっちに来るんだ」
男の声がした。サーシャ。カメリアのことをそう呼んだ男こそがフリードだった。
「ママ、ママ」
カメリアがわたしに手を伸ばす。小さな子供みたいだ。サザンカの葉が虫に喰われてしまったの。木にとまっていた小鳥が逃げてしまったの。子供だったカメリアはよく泣いた。けれど、もうカメリアは十分大人だ。わたしが抱きしめ、なぐさめてやらなくても、ひとりでちゃんと歩いて行ける。
カメリアが、からめてきた指をわたしはふりはらった。カメリアの両肩に手をあて、フリードのいる方へぐっと押しやる。
辺り一帯火の海だった。熱い。喉がヒリヒリする。どんなことがあってもわたしは負けない。この森を守る。わたしはサザンカの女王だ。
サザンカの火柱が頭から倒れてきたのはその時だった。
「ママ!」
最期に、カメリアの声が聞こえた。
娘
コーリ夫妻のことをお父さん、お母さんと呼ぶことは、案外簡単なことだった。サーシャという名前で呼ばれることも。けれど、コーリ夫人のことを、わたしは決してママと呼ばない。
わたしにとって、ママはサザンカの森のママでしかない。
来月、フリードと結婚する。十六年前にコーリ夫妻のもとから連れ去られたわたしを見つけたスクープで、フリードは町から報奨金をもらっていた。皮肉にも、それを資金にフリードは新居を建てた。
フリードと出会わなければ、サザンカの森は今でも美しく存在し続けていた。そう思うと胸が痛い。町の人たちはみなわたしを祝福してくれた。うっかりママの話をすると、長い森の生活でわたしの頭がおかしくなったのだと町の人たちは憐れみ、コーリ夫妻は悲しそうな顔をした。だから、ママのことは、胸に封じ込めた。そうすることが、優しいコーリ夫妻のためだった。コーリ夫妻がもっといやな人たちだったらよかったのに。
今、わたしのおなかの中には、新しい命が宿っている。
はだかになってしまった森の焼け跡にサザンカの苗を植えた。いつかわたしはこの子に話して聞かせるだろう。ずっと昔、ここにサザンカの森があったこと。わたしが森で育ったこと。サザンカの女王が、命がけで森を守ったことも。
森を再びサザンカの木でいっぱいにすること。生まれてくるこの子といっしょにサザンカの森を永遠に守り続ける。それが、わたしの夢だ。
わたしは、カメリア。サザンカの女王だ。