プロローグ
『くしゅん』
その声を聴いた宮殿内にいる誰もが身構えた。
まるで、何らかの獣がなわばりの誇示のために発する雄叫びのようであった。
『いっく』
『いくし』
それが、この国の最高権力者であるプリメーラ=メフィラス公爵の独り娘であるサンサーラ=メフィラスがくしゃみをした声なのだというのは、宮殿に住む貴族や従者たちには皆、もはや知っての事実なのであった。
『へっ、ぷ』
『はぐん』
サンサーラがくしゃみの声を轟かせると、宮殿中に網の目のように張り巡らされた回廊に、爆風とも言える衝撃波が駆け巡った。
回廊を立って歩く者はあまりに大きな衝撃に転倒し、廊下の石面を転げた。
給仕用のカートに載せられた食事用の皿やカップも風圧に吹き飛ばされて、床面に散らばった。
あちこちの壁面に設置された、蝋燭を立てる為の燭台も烈しく揺れ、蝋燭に灯された火も、呆気なく消え去ってしまうのであった。
『ひ、っく、しょん!』
遺伝なのかもしれなかった。
確かに、サンサーラの母親であるマッサーン公爵婦人のくしゃみも凄まじい威力を持っていたという記録もあるにはあった。
しかし、マッサーンのくしゃみがもしこれ程までの破壊力を有していたというのなら、宮殿内であっても、もう少し騒ぎになっていた筈なのだから、それが事実であったとしても、おそらくはサンサーラのそれには及ばない威力だったのではないかと思われていた。
いずれにせよ、マッサーン公爵婦人は、マッサーラがまだ幼いうちに早くにして病気によってなくなってしまったのだから、真相は定かではないのである。
『いっく』
『ほいっぷ』
『あぐし!』
兎に角も、宮殿内の誰もが、そのくしゃみの音を聴くたびに、吹き飛ばされないように身構えるのであった。