第二話
太陽が照らす庭穂大学の敷地内を、下を向いた猫背の少女――河出フユキが後ろめたそうに歩く。
ゴールデンウィークも終わり、授業が再開された庭穂大学では今日も授業が執り行われる。フユキも大学生であり、この庭穂大学の人文科学部に所属している。
「(それにしても、人が多い……)」
人間が恐ろしい……いっそ嫌いの部類にさえ入っているフユキにとって、人溜まりというのは恐怖の対象でしかない。もちろん、どの人もフユキのことなどどうでもよく、何もしていないのにわざわざ他人に注目などしない。そんなことはわかっている。それでも、もし顔を合わせれば何か言われるのでは、遠くで自分の悪口を言うのでは――そんな被害妄想が頭を占めてならない。
「早く講義に行こう……」
誰にも聞こえない小さな呟きを漏らし、地面をずっと見つめながら早足で講義室へ向かった。
――授業中。
フユキは一番左後ろの席にてノートを取っていた。受験の成績が非常に良く、特待生としてやってきたフユキにとって勉強は必ずしなければいけないものだ。親から援助されているとはいえ一人暮らしができるのも、特待生制度により授業料を全額免除されているため。人間が怖いフユキにとって、バイトはできる限りやりたくない。そのためにも特待生の座は死守しなければならなかった。
「(もうこの際、友達はできなくていいから大学を無事に卒業したい……ぼっち上等!)」
……なんて強がってみたりする。中学からのぼっち人生にはもはや慣れたものだ――自然と悲しい笑みが浮かんだ。
幸い勉強は得意な方……もとい勉強に限っては要領がいいタイプで、授業を聞きつつも自分の世界に浸る。しかし、ここで彼女の意識を引き戻す出来事が起きる。
「すいません、〇.五のシャー芯ありませんか。丁度切らしちゃって」
「へっ⁉」
話しかけてきたのは隣に座る、黒髪を左耳にかけた緑目の男。大学生活が始まって以来、先生以外にフユキに話しかけてくる者などおらず、大学での同年代の生徒との初めてのまともな会話に盛大にどもる。
「アッ、あります、どぞ」
声が裏返りつつも筆箱を漁り、緊張で手先を震わせながらどうにかシャー芯を取り出し渡した。
「ありがとうございます」
「イエ、お気になさらず……」
男はシャー芯を自分のシャーペンに入れ、勉強に戻る。一方のフユキはというと、心臓が何度もパンチされたようにバクバクと動いていた。
「(っあー、何これ何これやばい。頑張ったよワタシ偉い)」
そうこうしているうちに授業は終わり、学生たちは次の講義へ移っていく。フユキもようやく鼓動が収まってきた頃で、文房具を筆箱に仕舞う。だが。
「あの」
「はい! まだ何か!」
再び話しかけてきた男にびっくりして背筋を伸ばし答えれば、彼は少し困った顔をした。が、特に気にせずに話を続ける。
「この科目を取ってるってことは同じ学部ですよね? 次の講義、もし同じなら一緒に行きませんか」
「は、はひ……はい」
……噛んだ。しょうもない返事で噛んだ。恥ずかしい、簡単な返事さえもまともにできないなんて。穴があったら一生そこで過ごしたい、引きこもりたい。
だが優しいことに目の前の男はスルーしてくれるようで、自分の荷物をまとめている。
「僕は井治ミサクです。お姉さんは?」
「河出フユキです……よろしくお願いします」
かくして、フユキの大学でのぼっち生活は幕を閉じたのであった。
翌日。晴天の下、今日もフユキは一人で登校していた。
昨日は人に話しかけられるという思わぬトラブルがあったが、今日は平穏に過ごせるだろうか――顔を上げないまま、リュックの持ち手を握り締める。
「ねぇねぇ、昨日のさ――」
「ほら、手を繋ごうよ――」
人の声がする。大丈夫、人はただそこにいるだけ。こちらに危害は加えない、はず。でも。
「(うるさい……怖いよ。アキ兄、助けて)」
その場にいない年の離れた従兄弟へ助けを求めるも、そんな願いが叶うはずもない。飛び交う人の声はあちらこちらから聞こえてくる、今すぐにでも逃げたい気持ちでいっぱいだ。だが自分で望んで勉強しに来ている以上、休む訳にもいかない。周囲の声に終始怯えながら、今日も講義室へと向かった。
一限目は世界史。暗記が得意なフユキにはやりやすい科目だ。何せ自分で答えを考えなくても、出てくる事柄を覚えれば苦労しないのだから。今日も講義室の一番左後ろに座り、ノートやら教科書やらを取り出す。そして昨日の彼――ミサクが、何の意図があるかは知らないが今日も隣に座った。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
こんな時、“今日も授業が同じなんて奇遇ですね”とでも返せばいいのだろうか。生憎とそんな気軽に話しかけられるような間柄ではなく、理由も無い。そもそもそんな明るい性格ではない。しかしミサク側には話しかける理由があったらしくフユキに声をかけてきた。
「あの、昨日はありがとうございました」
「いえ、お気になさらず……」
返答の仕方もワンパターンしか無い。これがコミュ障か……自分で思ってまた悲しくなる。これで会話は終わるか……というよりも終わってほしいと思いきや、ミサクは筆箱からシャー芯のケースを取り出し、内一本をフユキへと差し出した。
「シャー芯買ったので返します」
「アッ、わざわざありがとうございマス」
……意外と義理堅い人だった。いや、人として当たり前の行動なのだろうが、わざわざ返しに来てくれるあたりしっかりしている人なのだろう。……少しだけ安心した。
以降は互いに無言になり、授業も私語をすることなく真面目に受け、終わり際に軽く挨拶をしてから各々の取っている授業へ向かった。
夜、ミサクが大学から獏句の事務所に帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりー」
モスケは仕事でいないようで、コクアがソファに座り夜ご飯を食べながら出迎える。
「にしてもアンタ、わざわざ学校なんてよく行くよなー。それも洗脳なんてしてまで。そんなに行きたいかよ?」
「洗脳と言っても、学籍の登録に関わるところしかやってない」
「十分だろ」
今日の夜ご飯はグラタンだ。ミサクはモスケが予め作っておいたものをレンジで温め、机に持っていく。獏句の料理担当はモスケで、いつもおいしい食事を作ってくれている。コクアとミサクは食器の洗い物担当だ。
「いただきます。……ん、うまい」
「モスケの奴、本当器用だよなー! ミサクだってお菓子作り得意だし、何なんだようちの野郎共は」
「コクアもやればいい。意外と楽しいぜ」
やなこった! と冗談交じりに言うコクアに、ミサクはふっと笑う。
そういえば、大学で出会った彼女……フユキは何が好きなのだろう。何故かはわからないが向こうは怯え半分で、どう接するのが正解かまだ掴めていない。ただ、ミサクとしてはせっかくなのだから仲良くしたい気持ちがあった。……自分なんぞが友達になりたいなど、おこがましい願いだろうか。
「なあ、コクア。ちょっと相談なんだけど――」




