第十五話
……眠れない。実家から持ってきた十数年ものの扇風機をガン回ししながらベッドの上でタオルケットを抱き締めるフユキは、暗闇の中で室内をぼうっと見つめていた。
フユキは特待生でいる為に、毎日少しでも勉強の時間を作っている。趣味も勉強も両立する……大変ではあるが、おかげで夏休みは退屈していない。それに雨延の事務所にも足繁く社会見学に……もとい遊びに行っており、やることはたくさんだ。
ただ、やることが充実しているのはいいのだが、良質な睡眠が取れなければそれらを満足に行うことはできないだろう。
「……参ったなぁ」
ここ数日のフユキはあまりよく眠れていない。暑さのせいか、何だか寝付きが悪いのだ。寝落ちた後は夢を見る余裕と時間が無いのか、最近は夢を旅することはもちろん見ることすらもできていない。
このままベッドでうだうだと無意味な時間を過ごしていても得られるものは無い――思い切って起き上がる。
「(アキ兄が牛乳を置いていってくれてたはず……)」
冷蔵庫を開け、半分程まで減っている牛乳パックを取り出してコップに注ぐ。夏場に冷えた飲み物というのは大変魅力的で、ついこのまま飲みたくなる。……が、欲望を抑えてレンジへ。一分半程加熱すればホットミルクの出来上がりだ。
「やっぱこれでしょ」
小さい頃、眠れない日に親がいつも作ってくれたホットミルク。本当に効果があるかはともかくとして、飲むと気分が落ち着く。眠れない不安も、退屈も、全てを溶かし流してくれる。
「ごちそうさま。……歯を磨かなきゃ」
ズボラなフユキと言えど、面倒さよりも虫歯になるリスクの方が大きいので歯磨きは欠かさない。少量の歯磨き粉を付け口に含むと、ミントの爽やかな味が広がった。
「(この歯磨き粉、あまり辛くないから助かるんだよね)」
辛いものも食べられなくはないが、辛い歯磨き粉やマウスウォッシュは刺激が強いものが多いイメージがあり、あまり好んでいなかった。実家にいた頃、親が使うマウスウォッシュを試しに使わせてもらった際に二重の意味で痛い目を見たので、以来歯磨き粉選びには気をつけている。
そして歯磨きを終え、身も心もぬくぬくと温かい気分で再度ベッドへ。ホットミルクのおかげか時間が経ったおかげなのか、フユキは夢を見ることなくぐっすりと眠りに就いた。
翌日、午前十時。守鳴探偵事務所で事務椅子に座りながら数多の資料へ目線を投げる雨延。
ここは雨延が立ち上げた、怪異を専門とする探偵事務所だ。所員は彼女ただ一人。特に同僚を増やす気も無かったので、今のところ困っていることは大して無い。強いて言うなら人手が足りない時があるくらいだろうか。
それでも増員をしないのは、怪異事件を扱う以上危険が付いて回るので、できるだけ人を巻き込みたくないからだ。それと、単に霊感を持つ人は少ないので適性のある人が集まらないから、というのもある。
所長の雨延でさえ、思いを見る力はあれど霊的存在を直視することは叶わない。
「……難しいものだな」
誰に聞いてほしい訳でもなく、ただ独り言として呟く。その直後、事務所の扉が遠慮がちに小さくノックされた。そこから出てきたのは。
「おはようございます、探偵さん」
「フユキ殿。おはよう」
この日もフユキは勉強道具を持参して守鳴探偵事務所へやってきた。彼女曰く“付き合ってくれる人がいると頑張ろうと思える”とのことだ。
客がいないのをいいことに問題集を応接机に広げ、いざ勉強開始……しようと思ったのだが、その前に雨延に尋ねる。
「探偵さんって、探偵助手とかいないんですよね」
「うむ。いれば助かるだろうとは思うが、危険に相対する者は少ない方がよい」
それに仕事の適性もある故、みだりに募集することは無い――言い切る雨延に、フユキは少し残念だと話す。
「もし募集してたら、将来は探偵さんの助手になりたかったんですけどね」
半分冗談、半分本気だ。笑いながら話してみれば、向こうも眉尻を下げ微笑んで返した。
「ありがたい申し出だが、その件はこちらから辞退させていただこう。すまぬな」
「いえ、気にしないでください。ただのワタシの願望なので……!」
聞きたいことも聞けたことで満足したのか、フユキは今度こそ問題集に取り組み始めた。それを雨延は所長机からおもむろに眺める。
もし自身も学生であったなら、雨延とフユキは一学年違いとなる。だが雨延は大学には通っていない。そのため、勉強面でフユキに教えられることは何も無い。息をするように問題を解いていくフユキを、雨延は書類で顔を隠しながら羨望の目で見つめた。
「(……彼女は社会に出たら優秀な人材となるのだろうな)」
自分を慕ってくれる彼女は、将来どのような道を歩むのだろうか。いずれ訪れるはずの不確定な未来に、雨延はひっそりと笑った。
「終わったー……!」
問題集に向き合っていたのは一時間程だっただろうか。今日やるべき問題を全て解き、答え合わせも終わらせフユキは大きく伸びをした。ほとんどが正解で、間違いは記述問題が少し答えとずれていたくらいだ。もしテストであれば半分は点を貰っているだろう。
「お疲れ様」
雨延が缶コーヒーをフユキの近くに置く。
「ありがとうございます! ……探偵さん、このコーヒー本当に好きですよね?」
子ども向けの甘い缶コーヒー……フユキは雨延の下へ訪れる度に、彼女がこれを飲む姿を目にしていた。
「ブラックは飲めぬ故、某にとってはこれくらいが丁度いいのだ」
自身もまた一缶開けて一口飲む。その姿を見ていたフユキは思い出したように口を開いた。
「カフェインで思い出しましたけど、最近妙に寝付きが悪くて……探偵さんは眠れない時ってどうしてますか?」
雨延はフユキの問いにふむ、と手を顎に添えた。
「あまり考え込まず、気楽にストレッチをしている。それと日頃から眠りに就きやすい体を作ることが肝要だ。運動する、などな」
「うげ、運動……」
「ふっ。フユキ殿には少しばかりお辛いか」
そうしてまた一口飲もう……としたところで、雨延にも一つ思い出したことがあったようでフユキへ質問する。
「其方は最近は夢の世界に行っておるのか?」
「それが寝落ちた後はぐっすりなので、最近はあまり見に行けてないんですよねー……」
密かな楽しみなのに、と缶コーヒーをまた一口呷る。だが雨延には思うことがあるようで。
「これは推測だが……其方の夢を旅する性質は恐らく幽体離脱に近い。眠っている間に抵抗できぬ肉体と無防備な魂を奪われぬよう、努々油断なされるな」
「? はい、ご忠告ありがとうございます」
雨延も体験したという幽体離脱。それを自分も体験している……忠告を聞いたはずが、何だか嬉しくなる。不謹慎なのだろうが、つい小さく笑ってしまった。
だがこの忠告が後に現実になることを、この時のフユキはまだ知る由もなかった。