それは朝のホームルーム前のこと
「おはようございます!」
「……おはよう」
普段は挨拶をしてくることのない、クラスメイト。女子で、名前は……。相沢さん。
挨拶どころか、会話もろくに交わしたことがない。それがなぜ急に今朝、笑顔で挨拶してきたのだろう。
三つ編みを左右に垂らし、笑顔で言ってきた。
「見つけました、私のミューズ!」
◇◇◇◇◇
普段はクラスの中でも地味なタイプだろう。それがなんでこんな迫ってくる。
「意味が分からない。ミューズって、女神じゃなかったか?」
「はい、そうです。文化祭での劇を観て、こんな身近にミューズがいたなんてって、どれだけ感激したことか!」
会話になっていない返しをする相沢さんは両手を組み、その場で片足を使いくるりと回転する。三つ編みも一緒に揺れる。
他のクラスメイトもなにが始まったと会話を中断し、僕たちに視線を向けてくる。
「……劇?」
「はい、うちのクラスの出し物ですよ。男女逆転で配役した、あれ! 女性は男性役を演じ、女性は男性役を演じ……。あの劇を観て、私は見つけたのです! あなたというミューズを!」
そして相沢さんは右手を自分の胸に当て、左手を僕に向かって差し出してくる。
……あまり話したことはないけれど、この人、こんな性格だったかな。いつも教室では大人しい印象だったのに。それこそ一人で舞台を演じているような動きで、正直驚きだ。
「あなたがお姫様を演じるためドレスを着て、その姿を見て、どんなに興奮したことか! 舞台を観ながら、スケッチブックを描く手が止まりませんでした!」
そしてスケッチブックを取り出すと、ページを開き、それを見せてくる。
確かにそこには、嫌々ドレスを着た僕が描かれている。
「おー、そっくり」
「さすが加奈」
他のクラスメイトもスケッチブックを覗き、その出来を褒めるが、僕はそれを取り上げるとわざと大きな音をたて、閉じる。
「人が嫌々やったものを見せてくるな……」
身長が低く、童顔。女装が似合いそうと面白がられ、多数決でお姫様役に選ばれてしまった僕にとって、黒歴史だ……。
嫌々だったし、演技だってやったことがなかったから、棒読み。それなのに、客席から「可愛い」と言われ、男としてどれだけの屈辱が……! それを相沢さん、あんたって人は……! 人の傷を抉るな!
「その睨んだ目つきも素敵です!」
スケッチブックを取り返すと目を輝かせながら、しゃかしゃかと鉛筆を動かし始める。
「なんなんだ、お前! なんでこんな状況で、鉛筆動かしてんだよ! ってか、なんだよ、ミューズって!」
「こうなった加奈は止まらないよ。ミューズは簡単に説明すると、画家にとって、特別な女神のような存在の人かな。その存在からインスピレーションを得て、モデルとして作品を生み出す対象とも言えるかも」
相沢さんと同じく、美術部だったと記憶している女子が、そう説明してくれる。
「大体は女性モデルを指すことが多いけど……。文化祭で井川くんの女装姿を見て、加奈の中ではミューズになったみたい」
「はあ? 練習の時や衣装合わせで、何度もあの恰好をさせられたのに、今さらなに言っているんだよ」
「あたしたち美術部員は、文化祭用の展示物の制作に取り組んでいたから、あまりクラスの出し物に関わっていなかったから。あたしは一応、背景とかで使う小道具に色を塗ったりして、協力はしたんだけど……。加奈はさらに特別。展示物に集中させろって言われ、クラスの出し物への協力を免除されていて、だから当日まで、井川くんの女装姿を知らなかったんだよね」
それなら、と一応は納得する。
相沢さんは我が校では有名人だ。その理由は美術の賞に絵を応募しては、よく受賞され、校長から表彰状を受け取っている。つまり絵画の部門で、彼女は天才という訳だ。
実際相沢さんの絵は、文化祭の目玉の一つとして扱われていた。
そんなに凄いならと、僕も友人たちと見に行ったが、感想としては、芸術って意味が分からないな、だった。
さっきのスケッチブックでは、きちんと僕だって分かる描き方をしていた。けれど文化祭で展示されていた作品は、ピカソっぽい感じで、タイトルを見てもよく分からなかった。だけど感嘆の声が多く、まあ、絵画に通じる人には分かる絵なのだろうと思った。
「いやー、上演中、可愛い、天使、まじ神とか言いながら、スケッチブック描きまくって、すごい勢いだったのよ」
あー、なんかそんな奇妙な言葉、聞こえてきた覚えがある。そうか、犯人は相沢さんだったのかー。
………………。
殺意が湧く!
最初に誰かが僕が登場するなり叫んだことで、あ、この劇はそういう声援を送って良いのかと勘違いされ、特に「可愛い」を連呼され苦痛だった……! あれは、こいつが元凶か!
「怒りに満ちた目も素敵! 殺意に近い感情ね!」
「お前に向けて、その感情をぶつけているんだよ!」
ところが相沢さんは無視をして、鼻息荒く、鉛筆の動きを止めない。
こいつ、まじで分かってやっているなんて、性格悪すぎるだろう!
「こうなった加奈は止まらないよ。なんていうのかな……。井川くんの感情を敏感に読み取っているけれど、それが誰に向けての感情なのか、考えていないからね」
「最悪だろ」
「こら、相沢、ストップ」
気がつけばチャイムが鳴っており、担任が教室に入ってくるなり、相沢さんの手からスケッチブックを取り上げた。
「進級する条件を忘れたか? うん? 珍しく写実的じゃないか。……モデルは井川か」
ちらりと描かれた絵を見ると、どこか担任が哀れむ目を向けてくる。
なんだ、その目は。どうしてそんな目で僕を見るんだ?
「先生、返して!」
「ホームルームが終われば返してやる」
僕より身長の低い相沢さんが、高身長の担任の伸ばした手が持つスケッチブックを取り返そうと、ぴょんぴょん跳ねるが、届かない。それどころか先生は、相沢さんを押しのけるよう顔に手を当て、ぐい。っと、自分の席の方へ顔を向けさせる。
渋々と口を尖らせ着席するものの、僕を見ると、にっこりと笑う。それになぜか寒気を覚え、僕は担任に目を向ける。
朝のホームルームが終わると、担任に呼ばれ廊下に出た。
「実は中学から事前に伝達があったんだよ。相沢、中学生の頃もミューズ発見と言って、一人の生徒に執着した頃があるって。さっきのスケッチブックからすると、お前、その対象になったかもしれないな」
なんてことだ! 前例があったのか!
「急に飽きるらしいから、それまでは、まあ頑張れよ」
「いや、どうにかして下さいよ! 突然ミューズとか呼ばれ、目の前でしゃかしゃかスケッチブック描かれ、今も視線を感じるような……」
担任が無言で、僕の背後を指さす。
振り向けば相沢さんが目を輝かせ、担任が返したスケッチブックを開き、しゃかしゃか鉛筆を動かしている。
すぐに顔を担任の方に戻す。
「視線を感じると思っていました」
「ちなみにお前を廊下に呼び出してから、ずっとああやって教室の中から見張るよう、見つめながら鉛筆を動かしていたぞ」
「分かっていたなら、相沢さんを止めて下さいよ!」
男性教師は、呻くとあさってを見ながら後頭部をかく。
「……中学からの事前伝達によると、止める方法は、ないそうだ。小学校の時もあったらしくて……」
「はあ? 相沢さん、一体いつから絵を……。というか、飽きると言いましたよね? いつ飽きるんですか?」
「本人次第だろ、俺が知る訳がない」
「いや、でも小学、中学の頃からずっと人に迷惑をかける生徒、放っておくんですか?」
「それがなあ、中学の時の対象者は、のりが良かったらしいぞ。こう? こんなポーズ? って、遊んでいたらしい。それが突然興味をなくされ、むしろ寂しがっていたそうだが……。お前はそういうタイプではないよな」
分かっているなら、止めてくれよ!
「しかし珍しいというか……。これまで対象は全員女子と聞いていたんだがな。男子は初じゃないか?」
そして授業の準備があると言い、担任は去った。
男子は初……。いや、僕が目をつけられたのは、女装したからで……。え? この童顔も理由なのか?
「くそ! 誰が多数決は民主主義なんて言い始めたんだ!」
「先生との身長差は黄金比ではないわね。井川くんに似合う、ときめくベストな身長の持ち主……」
ぶつぶつとした、相沢さんの声が聞こえてくる。
……こいつっ。まさか今、男性教師と僕を並べて、ロマンス的な妄想をしていたのか?
僕は女に間違われること、可愛いと言われるのが嫌いなのに! いや、男性同士のロマンスかもしれないが、僕の恋愛対象は異性だ! 断じておっさん教師じゃない! 例えベストな身長差だろうが、あの担任とそういう妄想をされるのは嫌だ!
朝から声にならない怒声をあげる。
これは僕、井川桔平がクラスメイト、天才、相沢加奈さんに追いかけられる日常の始まり、その一幕である。




