真紅のアリシア パイロット版
はじまりは絹を裂くような悲鳴だった。
「来ないで!」
彼女は駆けた。淡い蝋燭の灯りに照らされた廊下を。身にまとった豪奢なドレスを乱しながら。必死に!
心臓が早鐘を打ち、息が切れる。はやくも走るのに疲れ果て。足が棒になってくる。
(ダメだ! ダメだダメだダメだ)
イケない。こんなことではイケない。走れ。走らなければ”死”だ。走れ走れ走れ!
自分で自分に言い聞かせ、ふだん使わない筋肉をフルに稼働させた。こわばる筋肉に鞭打ち、あらん限りの力でひた走った。
「きゃっ!?」
キッカケはあまりにも突然で――彼女は慣性のままに雪花石膏の床へとおでこをぶつけた。
宝石をあしらったエメラルドブルーのロングスカートが災いした。すそを踏んでしまい、足がもつれてしまったのだ。
立たなきゃ。立たなきゃ。焦ればあせるほどにスカートは彼女のすらりとした足をからめ取る。
「どうしよう」
「捕まえたよ。僕の可愛いお姫様」
言葉だけは甘やかな印象だが。彼女の背筋はまたたく間に凍りついた。
「大丈夫かい」
そんな彼女をおだやかに気遣う。優男風の青年。かれは少女の背中から青白い片手を伸ばし、彼女のふるえる頬に艶めかしく指を添えた。
少女の顔が絶望にゆがんだ。
「―――……悪魔っ……!」
つぎの瞬間。彼女のひきつれた叫びが悪魔の洋館にこだました。
「西山先生。質問!」
胸をときめかせながらその先の展開をみようとした雅浩は。そんな一言で現実に引き戻される。
これからがいいところなのに。呆れながら、後ろの席へとふり返ってみる。
「静かにしろ、秋川。はじまってまだ五分もたってないんだぞ」
「んなことゆうたって。めっちゃB級やもん。この映画」
中央の席に腰かけた男子。かれの言葉でクラスメイトがどっと沸いた。
――秋川。坊主頭に刈り上げたあたまを持つ、関西弁のお祭り男。だれに対しても物怖じしない人気者だ。
秋川は先生にむかい、
「先生。先生。質問! こうゆうときにみる映画って『スタンド・バイ・ミー』とかが定番やないんですか」
「おれはな。秋川。この映画が好きなんだよ」
「うわあ。自分の好みで選びよったで。この英語教師」
いつものように西山先生と秋川のかけあい漫才がはじまった。なまじ先生もノリが良いだけに本当の漫才みたいだ。
「おれもあいつみたいな明るさと器用さがほしいな」
そして、これも恒例のやっかみである。ある意味、自分は秋川の両極端にいる人物だった。
愛想がなくて、クラスメイトにも打ち解けられなくて、おまけに極度の女顔だから彼女も作れない。
青春ってなんだろ。明るい人生ってなんだろ。
”萩原 雅浩”十七歳――青春真っ盛りというには、あまりにも潤いのない昼下がりの午後だった。
「じゃあ今日はここまで。委員長、号令」
「起立、気をつけ、礼」
「「ありがとうございました」」
結局、英語の授業は、ほとんどかけあい漫才で終わった。
西山先生の授業が六時間目だったから、学校に用事のない生徒はサッサと帰り支度をはじめる。自分もそのひとりだった。
学生鞄に教科書その他をしまいこんで、早々と我が家に帰ろうとする。
「ねえ、真由美。今日は一緒に帰らない」
「いいけど。どうしたの」
自他ともに認める地獄耳が思いがけず、ある女子の声をひろった。
「知らないの。”幽霊”が出たんだよ。旧校舎に」
幽霊という単語に、ぴくりと反応。そのまま耳をそばだてる。
「幽霊ってそんなバカな」
「ううん。バカじゃないよ。二階の音楽室でね。グランド・ピアノが独りでに鳴りだしたんだって」
「そんな怪談話。だれから聞いたの」
「友達からのまた聞き。その子のお父さんは解体工事の現場監督さんでね。”こんなに怪現象が続いちゃ商売あがったりだ”って愚痴ってたのを話してくれたの」
怪現象が続いたら……?
「まだあるの、怪現象」
真由美も一緒のことを考えていたのか。興味津々といった様子で疑問を口にした。
「うん。理科室の人体模型が急に動きだしたり。浮遊する人魂をみたり。作業員が原因不明の高熱で倒れたり。ほかにも色々あるみたい。だからひとりで帰るのが怖いの」
彼女は瞳をうるませながら、すがるようなまなざしで真由美をみつめた。
「OK。わかった。他ならぬアンタの頼み。断るわけないでしょう」
「ホント。やった! こんな風に真由美と帰れるなんて。もうちょっと怪現象に続いてもらいたいかも」
「はいはい。大げさな反応しないの。――ところでさ」
話が丸く収まったのか。昨日放送していたバラエティの話題にシフトするふたり。
「旧校舎の幽霊騒ぎ、ねえ」
いっぽう、声色に半信半疑といった響きを含みながら、そうひとりごちた雅浩。
――取り壊しが決まった旧校舎。工事作業員に降りかかる不幸。立て続けに起こる怪現象。なんともそれらしいキーワードが羅列されている。
元来、オカルトものには抵抗がないタイプ。今日の映画だってそう。いままで数ある幽霊スポットも旅してきた。
行ってみたい。そんな欲求があたまをもたげそうになる。
「ダメだ。立ち入り禁止、立ち入り禁止」
自分で自分に言い聞かせながら、雅浩は夕暮れの教室をあとにした。
完全に夜のとばりが下りた頃。
今日の夕食は春巻きや麻婆豆腐といった中華料理だった。ごはんをおいしく頂いた後はお風呂。湯気の立ち上る浴槽で一日の疲れをリフレッシュ。
「ふう」
たっぷり入浴を楽しんだ雅浩。バスタオルで黒褐色の髪から水気をふきとりながら、鼻歌まじりに階段を上っていく。
今日の八時半、ケーブルテレビで雅浩の好きな海外ドラマをやるのだ。
ホレイショ。あれからどうしたのかな。
最終回から一年。あの続きを楽しみに生きてきたようなものだ。
「ただいま~」
ワクワク気分が抑えきれず。ついつい誰もいない自分の部屋で”ただいま”なんて言ってしまう。
「よう、おかえり」
――なぜか返事があった。
「おまえさん。外人が好きなんだな。いい趣味してるよ」
想像してほしい。青毛の小動物が、部屋の真ん中でエロ本片手にくつろいでいる光景を。
人間。ホントのパニック状態に陥ると。かえって冷静な思考回路になっていく。
そのエロ本。ジャポ○カ学習帳のウラに隠していたはずなんだけどなあ。
自分でもとてつもなく詰まらない考えだと自覚しながら、雅浩はスタスタと小動物に歩み寄った。
「うほお。見事に無修正だなあ。そうそう。ゴミ箱にティッシュの山があったぞ。おいおい。自家発電するなら部屋にカギぐらいつけろよ。不用心な」
「涅槃で待ってろ。このクソ野郎っ!!」
ちょうどサッカーボールを蹴るように思い切りのいいインフロント・キック――蹴っ飛ばされた青毛の小動物は、悲鳴をあげる間もなく自室のかべにめり込んで、
「きゅう」
「あっ、やべっ」
……
「で。おまえは世にも珍しいカーバンクルだと」
「そうだよ。つか痛いよ、アホ。本気でおれを蹴るなっての」
「悪ぃ悪ぃ。でも、手当てはしただろ」
「あたりまえだ!」
小動物相手に大人げなかったと反省した雅浩は、包帯を巻いて応急手当てをほどこした。下手クソな巻き方なのでミイラ男のような有様ではあったが。
「それじゃ、仕切り直し。おまえはいわゆるカーバンクル――未確認動物・UMAの一種だと」
インターネットで某オンライン百科事典をチラ見しながら、目の前の小動物に話しかけてみる。
「その通り」
「日本語を喋れるのはどうしてだ」
「覚えた」
覚えたって。おいおい。
ということは、だ。こんなナリでも知能は高いということか。ますます訳がわからない。なんなんだ、この生き物。
「ええっと。カーバンクルは富や幸運をもたらす――んだよな。その額にある宝石を手に入れたら、って、このウィキには書いてあるけど」
「おおむね正しい。あっ、ちなみに宝石はルビーな」
「えっ、じゃあおれ、億万長者になれるってことか?」
「場合によったら」
弾かれたように雅浩はカーバンクルの眼前で正座する。
「なんだよ」
「いや。反射的に」
「まあいいけどさ」
気まずそうに姿勢を崩してやる。なんというか。自分って俗物だったんだなあって思う。
「さてと。じゃあ、今度はおれの頼みを聞いてくれ。まずはそうだな。おれを両手で持ち上げてみてくれ」
「こんな風にか」
とくに拒む理由はない。素直にカーバンクルを抱きかかえてみる。からだは本物の小動物のように軽い。青い体毛はフワフワでモコモコしてる。
「ほら。おれのルビーが反応してる」
「ホントだ。なんで」
自分が持ち上げた途端、カーバンクルの額についた宝石が、仄かに赤い光を放ちだした。
「この宝石はセレクト・ジュエル。おのれにもっとも相応しい主人を求める羅針盤」
心なしか顔つきに威厳のようなものが帯びてきたカーバンクル。
「頼みというのは」
ごくりと喉を鳴らした。
「おれといっしょに”正義の味方”をやってくれ」
「断わる」
雅浩は一も二もなくバッサリと斬り捨てた。あたりまえだ。考える余地など微塵もなかった。どこの世界にそれを了承する馬鹿がいるんだ。
カーバンクルは、まさか自分のお願いが一蹴されるとは思っていなかったのか。目を丸くして、
「おいおまえ。使命をまっとうした暁にはご褒美がもらえるんだぞ」
「たとえば」
「おれはカーバンクルだぞ。富や幸運、成功をもたらす」
「なるほど」
魅力的。それはあまりにも魅力的な交換条件。だが、ひとつ気がかりなことがある。
「リスクがあるだろ。古今東西、うまい話にはリスクが伴うってテレビでいってたぞ」
「いやあ。ちょちょいと悪者をやっつけてくれるだけでいいんだけどさ。ほら。ハイリスク・ハイリーターンってやつ」
「ますます嫌だよ。バカ!」
カーバンクルの青毛に包まれた肢体をひょいとつまみ上げる。
「あっ、こら。いいのか。おれを助けたら億万長者になれるかもしれないんだぞ。なあ、頼むよ。おまえが頼みの綱なんだ」
「億万長者もなにも。そのまえに伴うリスクを説明しろよ。正義の味方なんだろ。たとえば危険と隣り合わせとかだったらヤだぞ」
「仕方ない。もうひとつサービス。おまえの願いをひとつ叶えてやってもいいぞ。ほら、日記を読んだけど、おまえ女顔で悩んでるんだろ。おれがいっちょ男前に」
「勝手に読むな。それに余計なお世話じゃ、ボケっ!」
網戸を開けると、二階からカーバンクルを投げるポーズを取ってやる。
「ふふん。カーバンクルは空を飛べるから関係な――うおっ!?」
それならばとカーバンクルを天高く放ってやった。
「呪ってやる。呪ってやるぞ。おまえ」
飛べることを知ったから投げたんだが。こうやって実際に目の当たりにすると不気味だ。
「おれは桜ケ丘学園の旧校舎にいるぞ。戦うために。でも、おれが死んだら化けて出てやるからな。覚悟しろよ」
「来てほしいなら素直にそう頼めよ」
「ちくしょう。末代まで祟ってやるからな」
捨て台詞を残して。カーバンクルは桜ケ丘学園の方角へ飛び去った。
「カーバンクルの祟りって、怖いな」
よくよく考えると。星回りをつかさどるカーバンクルに”呪われる”というのは深刻な事態ではなかろうか。しかも末代まで。
「――母さん。おれちょっと出かけてくる!」
お気に入りのフライト・ジャケットを羽織ると、あたふたと玄関まで駆け下りるのだった。
愛用の自転車を正門近くの駐輪場にとめた雅浩。
そのまま目線を桜ケ丘学園に向け、
「怖っ」
なんて、思わずつぶやいてしまった。
夜の学校とはどうしてこれほどまでに不気味なのだろうか。木々がざわめき、静寂に包まれ、明かりがない。通っている学校の、異なる一面を垣間見たような気分だ。
ドキドキする。なんかイケないことをしているような。いや、実際に閉まりきった学校へ忍びこむのは建造物侵入にあたるのだろうが。
「すみませ~ん」
小声で断わりながら、おそるおそる正門を乗り越えてみる。防犯装置みたいなものはないから大丈夫なはずだ。
無事に正門を超えた雅浩。ここまでくれば立派な建造物侵入だろう。できれば警備員にみつかることなく用事を済ませたい。
グラウンドの隅っこを電光石火の早足で疾走する。砂ぼこりをあげながら。なるべく死角になるポイントを探して。
「よし」
目的地に着いた雅浩は、瞬時にものかげへと身を潜めた。
「あれが旧校舎か」
旧校舎とは新校舎の斜め奥にかまえる、いまは使われてない木造校舎だ。来週には取り壊されるそうで、ブルーシートがさびれた外観を覆い隠している。
実は旧校舎をみるのは初めてだ。
自分たちが入学したときには、すでに老朽化がもとで立ち入りが禁じられていた。当然なかに入ったこともない。
四方に目を配る。ひとの気配はない。十分に安全を確認した雅浩は、足音を忍ばせて旧校舎に進んでみた。
「開いてる」
施錠されていたらどうしようかなんて悩んでいたが。カギはかけられていなかった。不用心な。
「お邪魔しま~す」
再度、小声で詫びを入れながらの侵入。意外だが、ほこりが舞い散る以外はわりと小奇麗だった。
先生によると来週には解体工事に取りかかるようだ。入り口付近の蜘蛛の巣が破られていたのもその所為だろう。作業員が入ったから。
「うへえ。気味悪いな」
学校の怪談チックではある。作業員で思い出したけど。この旧校舎には怖いうわさが流れていたっけ。
「点くわけないよなあ。電気」
一応、蛍光灯のスイッチを触ってみたが反応なし。これは想定内。ジャケットの裏ポケットからペンライトを取りだす。
「ったく。これじゃ肝試しの世界だよ」
一滴の光明をたよりに暗がりの先へと進んでみる。
「ふう。ここから階段か」
一通りみて回ったがあいつの気配はなかった。どうやら二階に行ってみる必要がありそうだ。忍び足で歩き進めると。階段の縁から二階の様子をうかがってみる。うっすら教室がみえたが、
「あの様子じゃ、おばけが出てもおかしくないわな」
独り言でもしなきゃやってられない雰囲気だ。そこら中に蜘蛛の巣が張り巡らされ、教室というより廃墟といった様相を呈している。
「うわあ」
間近でみるとそれはそれは凄惨なありさまだった。
机や椅子は放りっぱなし。ぐちゃぐちゃに散らかされている。外壁や窓ガラスの一部にも割れ目がちらほら。こんな調子では気が滅入りそうだ。
「おい。カーバンクル。来てやったぞ」
大声をだしたら新校舎にいる警備員に気づかれかねないのでひそひそ声で。それでも想像以上に響いたが。
「いないのか。――うわっ!?」
がたんとなにかが落下した。まるで自分の声に答えるかのように。
なんとも情けない悲鳴をあげ、木製の廊下にへたり込む雅浩。
「ああ、ビックリした。脅かすなよ」
尻もちをついた部分を撫でさすりながら起き上がった。
「あれか。ネズミか、ネコか」
まさか本当に心霊現象ということはないだろう。怪現象の多発地帯でこんなことを考えるのは楽観的かもしれないが。
『あなたが欲するものはなに』
地の底から響き渡るような奇怪な声。雅浩の希望的観測はここで砕け散った。
「帰りてえ」
泣き言も交えながら、これからの行動を思案する。
一、いまのはカーバンクルのいたずら。いますぐあいつを殴りに行きましょう。
二、あれは本物の怪現象。いますぐ逃げましょう。
三、鬼さんこちら。手の鳴るほうへ。
「鬼さんこちら。手の鳴るほうへ」
『あなたが欲するものはなに』
つれない相手らしい。いやいや。そんなボケに走ってる場合じゃない。
ここは一先ず戦略的撤退を。瞬間的に逃げる算段をつけた雅浩は、自身の直感を信じて回れ右をした。
『あなたが欲するものはなに』
目前に刃っ!
雅浩は条件反射的にその場から飛びのいた。
「ちくしょう」
危なかった。刺さるか刺さらないかというギリギリの間合い。まさに間一髪だった。
頬から廊下にしたたり落ちる冷や汗。呼吸を荒げながら、雅浩は眼前を睨みつけたやった。
『あなたが欲するものはなに』
「おまえ、誰だ」
『あなたが欲するものはなに』
駄目だ。馬鹿のひとつ覚えみたいに喋っている。壊れたテープレコーダーのように要領を得ない。
そっちがその気なら。
雅浩はスローモーションのようにゆるやかな手つきで。持っていたペンライトを構えた。青の光に照らし出されたのは、
「―――……天使……?」
それはまさしく天使だった。それも日本人が一般に想像するような天使。翼や光輪がついている、あれ。
性別は、たぶん女。全身を黒い水晶のような物質でコーティングしてる。なにより目を惹いたのは背中から生える二対の黒翼。顔は能面のように無表情なマスクでおおわれている。
天使というより、堕天使。
『あなたが欲するものはなに』
能面のような表情はそのままに。天使は腕の手甲から伸びた鉤爪のような部位をこちらに突きつける。
階段へのルートはふさがれた。後ろは行き止まり。相手は凶器を構えている。万事休すかも。
「聞けよ。おまえは、誰だ」
『あなたが欲するものはなに』
時間稼ぎも通用しそうにない。じりじり後退するのが精いっぱい。ならばせめて、
「先に断っておくが。おれは琉球空手・錬士六段位だぞ」
『あなたが欲するものはなに』
渾身のブラフをかけるも空振り。効果なし。それどころか一歩一歩が大きくなってきて、
「あっ、うそ。いまのなし!」
慌てて訂正するも黒い天使は聞き入れなかった。
「うそだろ」
ついには壁際に追いつめられてしまった。今度こそ逃げ場はどこにもなかった。完全なる袋小路だ。大ピンチだ。
『あなたが欲するものはなに』
黒の天使は右手を大きく振りかぶると、そのまま雅浩の前頭部めがけて鉤爪を振り下ろした。
これまでか。そもそもあの野郎が呪ってやるって脅したからこんな目にあったんだ。
「あのチビ、末代まで呪ってやる!」
末期の言葉を吐きながら、ギュッと目をつむった。
「秘技・ファイヤーボール」
瞬間、赤い閃光がその場で爆ぜた。
「ふぎゃっ!?」
――ついでに吹っ飛ばされた。
「よう。人間。なんだかんだで来てくれたんだな。おまえいい奴じゃん」
テレビのコントのように髪の毛がチリチリになり、顔面すすだらけ、お気に入りのフライトジャケットは黒焦げになっていた。
自身の悲惨な現状をたしかめた雅浩は、立ち上がると、
「この野郎、おれまで殺す気かっ!?」
ふわふわ浮いているくそったれカーバンクルを引っつかむと、ぶんぶん揺り動かした。
「おいっ、やめろっ、おまえを助けるには、うぐ、ああするしかなかったんだよ!」
「学校のど真ん中でひとを丸焦げにするとはどういうことだ! 魔法か、魔法でも使ったのか!!」
「吐くぞ。おまえ。このままだと廊下で吐くぞ」
それは嫌なので地獄の揺りかごから解放してやる。
「げほっ、ごほっ、手加減ってやつを覚えろ。――しっかし見直したぜ。おまえさん。おれに手を貸してくれる気になったんだな」
「結果的にな。それより誰なんだよ。あそこに突っ立ている天使」
相変わらずおんなじフレーズを繰り返している。そういえば能面のようなマスクに傷が入ったみたいだ。傷からのぞく無機質な眼がまた恐怖を誘う。
「ううん。そうだな。説明すると長いんだが。まあ、一言でいえば敵対者だろうな」
「ザックリだな」
「ふふっ、奴さん。おれたちを仕留めたいらしいぞ」
黒い天使はたずさえた鉤爪を構えなおした。
「もうすこし痛めつけたほうがよさそうだ。――秘技・ファイヤーボール」
カーバンクルは空中でぐるぐると回りだすと、火の玉となって拳を突き出してきた天使をぶっ飛ばした。ていうか。浮遊する人魂ってこれのことだったのか。
「おまえ。めちゃくちゃ強いんだな」
「すまん。これで撃ち止め」
「はあ!?」
これで終わりって。
「この役立たず。おまえ、なにしに来たんだよ!」
「仕方ないだろ。おれはサポーターなんだよ。あくまでも」
「冷静にしてる場合か」
『あなたが欲するものはなに』
「ほら、言ってるそばから復活したぞ!」
黒い天使は多少のふらつきがあったものの態勢を立て直していた。
「人間。こうなったら取るべき手段はひとつだ。協力してくれるよな」
「どうすればいいんだよ。ああ、やっぱ説明しなくていい。なんでもいいから早くしよう」
「これからおれがすることを拒絶するな。それだけでいい」
こうなったらもう破れかぶれだ。この期に及んでリスクがどうとか食ってかかるつもりはない。
「覚悟を決めたな。いいツラだ」
カーバンクルは不敵な笑みをもらすと、
「この光を受け渡すのは七年ぶりだ。いいか。ひたすら身をまかせろ」
「わかった」
額にそなわった真球のルビーから、シャワーのようにまばゆい光が降り注ぐ。
「なんだかくすぐったいぞ。それにポカポカする」
「信用しろ。悪いようにはしない」
あたまの天辺からつま先までの細胞が活性化しているような。熱に浮かされたように思考がぼんやりしてくる。
『あなたが欲するものはなに』
黒の天使の足取りは重い。緩慢とした動き。しかし、雅浩との距離はもうわずか!
「いまここに契約を結ぼう。汝の慈しみの心に敬意を払って。汝の名はアリシア。真紅のアリシア」
『あなたが欲するものはなに』
カーバンクルの言霊と、天使の言霊が重なった。
「人間っ!」
果たして、振りかざされた鉤爪の先にいたのは、
「―――変わった……」
自分は、赤いグローブに包まれた片腕で、鋼の鉤爪を受け止めていた。
「これが。いまの私――あれ、私?」
「成功したようだな」
「ちょっと。どういうことよ、これ!」
口調もそうだが。視線を下に落とすとふたたび愕然とした。
赤と黒を基調とした配色のドレス。白のフリルが付いた赤いスカート。赤いグローブ。足全体をカバーする黒タイツを身につけ、黒いハイヒールを履いている。
あれだ。魔法少女ものの衣装に似た。ていうかそのものだ!?
「冗談でしょ」
月明かりのなか。汚れた窓ガラスに映りこんだ自分の姿をみて本日何度目かの驚きを口にした。
真紅に光る切れ長の瞳。腰まで伸びるようなプラチナブロンドのロングヘア。ほっそりとした輪郭。これじゃあ女顔どころの騒ぎじゃない。紛れもない女だ!
「ていうか胸もふくらんでるし。しかも、意外と大きいし」
「正義の味方だろ。一応」
「馬鹿、これじゃヒーローじゃなくてヒロインだよっ!」
「文句ならあとにしとけって。来たぞ」
振り下ろされた鉤爪をすんでのところで避ける。とりあえずあの小動物への文句はあとだ。立ちふさがる敵に集中しないと。
鉤爪の切っ先を追いながら攻撃をかわす。軽い。体が軽い。まるで羽根のように。
「はあっ!」
気合一閃。渾身のエルボーをボディに叩きこんでやった。天使は宙を舞うと、窓ガラスをたたき割って向かいの廃れた教室に突っ込んだ。
「やった」
「どうかな」
カーバンクルの読み通り。天使はパラパラと壊れた椅子の破片を落としながら立ち現れる。
『あなたが欲するものはなに』
天使は背中から生えた二対の黒翼を一度だけはためかせた。
「だからなに。って、ええ!」
どういう理屈か。一陣の風が局地的に巻き起こり、放置されていた机や椅子、諸々のものを吹き飛ばしてくる。
「ちょっと。そんなのあり!?」
アリシアは飛来してくる物体の軌道を読んで、真横に飛ぶ。轟音を立てて飛来してきた物体は動きをとめた。
『あなたが欲するものはなに』
机たちに気を取られたスキに天使が物凄いスピードで迫ってきた。防ぎようがなかった彼女は、天使のタックルをもろに受けてしまった。
「かはっ!?」
肺から空気が漏れた。はね飛ばされたアリシアは、そのまま校舎の白壁を突き破って空中に放り出されてしまう。
「人間っ」
「大丈夫」
カーバンクルの声に応えて。彼女は空中をくるりと一回転。体操選手のように軽やかな動きでグラウンドにふわりと降り立つ。
「あれ」
脚部に痛みを感じなかった。あんな高さから落ちたのに。
「なんか。わかってきた」
なにかを閃いたのか。彼女はぐっと足に力を溜めた。
「はあっ」
弾丸のように飛び出した彼女は、そのままの勢いで天使を引っつかみ、
「おりゃあ!」
かけ声をあげて天使を頭上に放り投げてしまった。
「――本当に投げれちゃった」
天使は旧校舎の屋上まで飛ばされていた。自分でもまさかあんな距離まで投げられるとは思わなかった。肉体の強化。それも段違いの。この分ではあの屋上にジャンプするのだって容易かもしれない。
「やっぱ、無理か」
ためしに飛んではみたけれど。三階までの跳躍力しかなかった。それでも十分だけど。
三階の縁からもう一度だけ飛ぶと、今度は屋上にまで届いた。
『あなたが欲するものはなに』
屋上に行きついた途端、天使はなにか黒いものを翼から放ってきた!
避け切れない。
中空で身をひねるが間に合わず。複数回にわたって攻撃を体に受けてしまう。急所は辛うじて守ったが、腕や足から鮮血が吹き出した。
コンクリート製の屋上に打ちつけられるアリシア。
「待ち伏せなんて卑怯じゃない」
どうにか体を起こしながら、天使を睨みすえる。無表情な仮面が余計に憎らしい。
「痛い」
複数の黒い羽根が足や腕に突き刺さってジクジク痛みを訴えている。特に右足は酷い。数十本単位の羽根が刺さってる。これは足が壊れたかも。二本足で立つのが苦しい。
『あなたが欲するものはなに』
絶好のチャンスとみたのか。天使はズズズイとアリシアに歩み寄ると、
今度こそアリシアは死んだと思った。
アリシアの右肩を研ぎ澄まされた爪が貫いたのだ。その痛みは経験してきたすべてを上回り、悲鳴すら喉から口にあふれることもない。
このままでは死ぬ。それは嫌だ。それだけは避けなければ。アリシアのなかにねむる生存本能が弾けた。
「だあっ。離れろ!」
天使の体に軸足を添えると、ありったけの執念を込めたダブルキックを放つ。バランスを崩した天使。そのがら空きの胸部に、
「おりゃあっ!」
左腕を軸にしてまっすぐに突きだされた蹴り。その右足はいつの間にか赤い燐光を帯びていた。
『ぐうっ』
はじめて違う言葉を発する天使。鎧状の皮膚がキックによって凹み、みるみる内に緋色へと染まっていく。
「はあっ、……、はあっ……」
さっきのキックはいままで以上にてごたえがあった。動静を見守るアリシア。
『うぐっ、……ああ、あなたが、……欲するものは、……うう、……なに……』
黒水晶の肉体はほとんど朽ちてしまい。体中が赤い燐光によって壊されていった。最後に残ったのは、
「どういうこと」
あとはいたいけな少女がひとり。気を失って横たわるのみだった。
「おおっ、無事に倒したみたいだな。人間」
天使の化け物からひとりの少女が脱皮してから数分後。カーバンクルが屋上に飛んできた。
それを視界に入れたところで、アリシアのなかの緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
「ああ。あんたには色々聞きたいけど。とりあえず座らせて」
アリシアは傷だらけの右足をかばいながら屋上に座り込んだ。アスファルトの床はひんやりとして気持ちいい。刺すような苦痛を和らげてくれた。
「さすがおれの見込んだ男。や、いまは女か」
「どうでもいいけどさ。彼女は何者」
そこでようやくカーバンクルは気づいたらしい。アスファルトに横たわる彼女に目を向けた。
「うんとさ。憑き物が落ちた人間、かね。説明しづらいんだけど」
「もっと具体的に」
「いやあ。まあ、ホントにザックリだけどさ。おれの仲間だよ。うん。同種族。そういう風に理解してくれ」
「そう。じゃあ、あんたみたいなUMAってことか」
いまのところ、そんな認識で十分だとカーバンクル。
「そいつらは取り憑いた人間の欲望を引きだして。暴走させるわけよ。んで。最終的には怪物化。周りを巻きこんで気が済んだら自然消滅」
「迷惑だね」
「そいつらを悪い存在から良い存在に浄化するのがおれたちの使命。ここまでは理解OK?」
「ぼんやりとは」
小難しい話は苦手。おかげで学校の成績は右肩下がりだけど。
カーバンクルの説明に生返事しながら、アリシアはなんとなしに少女の顔をのぞいてみた。
「あっ」
ううん。バカじゃないよ。二階の音楽室でね。あのグランド・ピアノが独りでに鳴りだしたんだって。
こんな風に真由美と帰れるなんて。もうちょっと怪現象に続いてもらいたいかも。
「この子。うちのクラスの女の子だ。名前は知らないけど」
「ふうん。そうなんだ」
「だからピアノのことも知ってたんだ」
アリシアの脳内で、急速に点と線がつながっていく。
「ピアノのことって?」
「うちらの時代は旧校舎の立ち入りを禁ずるって決められてたんだ。場所によっては床が抜けたりするから。なのに”あの”グランド・ピアノはおかしいなって。まるでピアノを知ってるような口ぶりだった」
「言葉のあやかもしれないけどな。あるいはみる機会があったとか」
そういえばとカーバンクルは想起する。
「さっき彼女に取り憑いていたやつに事情を聞いてさ。彼女、旧校舎で怪現象とやらを起こしてたとか。どうしてそんなことしたんだろうな」
「さあ、あるいは――友達といっしょに帰りたかったのかもね」
「友達と。そりゃまたどうして」
「彼女の友達。最近、習い事で忙しかったからさ。ときどき寂しそうにしてたの。このまま怪現象が続いたらって本人もこぼしてたよ」
「ささやかな望みだねえ」
それが取り壊される旧校舎と結びつけられ、怪談話に発展したということなのかもしれない。想像の域を出ないけれど。
「そうそう。名前といえばさ。あんたの名前。そろそろ教えてくれない。それとさ。いつまでも人間って呼ばれちゃこそばゆいよ」
「いいけどさ。おまえもそろそろ名前を言えよ。第一おれだってカーバンクルなんて呼び名はご免だぜ。おれにはホーリーって立派な名前があるんだ」
「ホーリーか。私の名前は雅浩。ってか、いいかげんこの変身を解きたいんだけど」
「ああ、時間が経てば元通り。大丈夫だよ」
いや、時間が経てばって。
「具体的には」
「目安は三十分ぐらいかな」
「まあ、それぐらいなら」
ホッと胸をなでおろす。このまま美少女型生体兵器として一生を過ごすつもりはさらさらない。
「とりあえずさ。積もる話はあとに回して実家に帰ろ。眠りたいよ」
「そうだな。それがいい」
一人と一匹は、肩をそろえて歩きだした。
「あっ、そうそう。雅浩」
「まだなにかあるの。ホーリー」
「いや、そこを三歩ぐらい進むと不幸の気配が、って、もう遅かったか」
吹き抜けのガラスにあやまって足をかけてしまい、そのままガラスを踏み破って地面へと自由落下。
「場所によっては床が抜けたりするんだっけ」
なみだ目になりながら土の味をしっかりと確かめる用意をする。アリシアの肢体は木造の廊下をぶち破ってそのまま床下にダイブ。きちんと土との邂逅を果たした。
「よかったな。変身したままで。じゃないと死んでたぞ」
「た・す・け・ろ」
「いやはや。どこまでも締まらないのな。おまえってやつは」
ああ、このまま泥のように眠ってしまいたい。薄れゆく意識のなかでアリシアはそんなことをぼんやり考えるのだった。
<おしまい>
今日の、作者おすすめの一品。
「CSI:科学捜査班」
アメリカ・CBS制作のテレビドラマ。
最新科学を卓越した映像美によって表現したこの作品は、瞬く間に全米視聴率トップに。
24時間眠らない街「ラスベガス」を舞台に活躍する個性豊かなメンバーたちも見どころ。