あらたな龍の誕生
草原を、風のように走る黒毛の馬があった。
体躯は大きく立派で、地を蹴る脚は力強く、そのたびに隆起する筋肉は躍動感に満ちている。
誰もがそのゆく黒い風に見惚れ、振り返る。そんな名馬だ。
平均よりかなり大柄なその雄馬に乗るのは、しかし非常に小柄な存在だった。
馬の動きに合わせて揺れる短い髪は、暮れゆく夕日のように苛烈な真紅で、正面を強く見据えるのは琥珀色の瞳。一房だけ伸ばした顔の横の髪に着けられた髪飾りがシャラリシャラリと軽やかな音を立てながら、風と共に駆けていく。
身につけているのは麻で作った乗馬服で、ややくすんだ白茶色に、あわせの襟元や、袖元、裾に赤で五つの四角と四つの四角が交互に刺繍が指されているほかはあまり飾り気はない。
背も低く、今年十八になるにはあまりに小柄で体型も子供のようなその少女は、けれど生き生きと馬を駆りながら草原を横切り、山脈の裾に向かって走る。
やがて平原が切れ森に入っても、少女がスピードを落とすことはほとんどなく、するすると森を分け入って行くと目の前に大きな洞窟が現れる。その洞窟の前で手綱を引き、馬を留めると、少女は軽やかに馬から飛び降りた。
「ありがとう! 夕影! 待ってて!」
そう言って少女が馬に手を振ると、夕影と呼ばれた馬は分かっている、と言うように一ついななくと、大きく尾を振る。それを見届けてから少女は洞窟の中に駆け込んだ。
「生まれそうって本当!? じいや!?」
洞窟の中にはいくつもの魔石を使ったランプが備え付けられており、それなりに明るいが道が整備されているわけではない。
それでも危なげなくその最奥に駆けつけた少女は、桶を持った老人にしがみつきながら叫んだ。
「お、おお。姫様、いらっしゃったんですね。ずいぶん早いお着きで」
突然しがみつかれ、老人は少しよろけるが、そのまま持ちこたえる。老人と言っても、全て白く色の抜けた髪と髭に反し、その手足は太く、未だ筋肉が隆起しており、力強い。ここで一人、龍の世話をできる人材だから当然と言えた。
「挨拶はいいから! 鋼璃の卵にヒビが入ったって……」
「その通りですよ。今、中から殻を割ろうと頑張ってます。姫様も声をかけてあげてください」
「わかった!」
「鋼璃を驚かせないように気をつけてくださいね!」
「それもわかってるよ!」
老人に言われ、即座に駆け出そうとする少女の背に、老人が注意を投げかける。
それに、子供のように頬を膨らませながら少女は手を振り返すと、洞窟のさらに奥へと進んだ。
少し進むと突然洞窟は広くなり、大きな空洞が現れる。
それは見上げても先が闇に溶けて見えないほどの大きな洞だった。だが、その大きな洞は、今は同じく大きな何かに埋め尽くされていた。
灰と青を混ぜたような鈍色の鱗に覆われた身体、薄い膜の張った二枚の羽根。脚は三本の鋭い爪を持ち、口は開ければ少女どころか夕影すら丸呑みにできるほどの巨大な空洞に、たくさんの鋭い牙が映えている。
龍——そう呼ばれる者が、そこにいた。
「鋼璃。朱凜だよ」
驚かせないようにそうっと、少女がその龍の名と自身の名を告げると、鋼璃と呼ばれた龍は長い首を起こした。
くるる、と鳴いて、鋼璃が少女に顔を寄せる。少女はそれを両手で抱きしめるようにして手を伸ばし、頬ずりをすると、鋼璃はまた嬉しそうにくるるるる、と鳴いた。
それから鋼璃は、わずかに身じろぎをして、お腹に抱えていた卵を押し出すようにする。鋼璃の身体に似た薄い灰青の卵がわずかに揺れていた。
「わあ。もうすぐだ」
卵の変化を見つめ、朱凜は声を上げた。
鋼璃が卵を温め始めてからもう三ヶ月が経つ。ここ数日いろいろな用事があってこられれず、またあと数日で国を出なければならない朱凜にとって、鋼璃の卵の行く末は懸念事項だった。だから、卵にヒビが入ってもうすぐ生まれそうだと聞いたとき、全ての仕事も投げ出して馬を飛ばして来たのだ。
「頑張れ! もう少しだ!」
励ましながら、拳を握る。どうしても、国を出る前に、新しく生まれてくる赤ん坊に、生まれてきてくれてありがとうと伝えたかった。
「頑張って! 外は楽しいことが一杯だよ! 空は青くて綺麗だし、草原も山も今は夏を前に鮮やかな緑をしてる。遠くには海って言うすごく大きい湖があるって聞いた。君ならすぐに飛べるようになって鋼璃と一緒に見られるはず。だから、ほら、もう少し!」
朱凜が声をかけると、不思議とふんわりとした光が朱凜の身体を包み、そしてそれが卵に向かって伸びる。すると卵も力を得たのか先ほどより激しく暴れ始めた。
パリパリ、パリリリ
やがて力強い蹴りと共に、脚がにょきっと卵から生える。
後は早かった。卵は二つに割れ、そして中から深い青の鱗を持った小さな子龍が姿を現した。
きゅう
子龍は力を使い果たしたのか、殻から這い出すと、ぺそり、とわらの寝床の上に寝そべった。それを、鋼璃が優しく舐めてやる。
「わあ! おめでとう!」
「おお。生まれましたな」
歓声を上げる朱凜の横に、いつの間にか老人がやってきて相好を崩す。龍の出産と誕生はいつも大変な作業で、この老人も何度も携わっているが、うまくいかないことも多く、最後の最後まで気が抜けなかった。だからか、その生まれた姿を見て、ほっと全身の緊張を解いたようだった。
「ふむ。この鱗の色はどうやら瑠璃のようですな。大きくなり、自らの巣を持てば、ラピスラズリの鉱床を生んでくれるじゃろうて」
「ラピスラズリって青の原料になる鉱石だよね? うちの国、大分長いことラピスラズリ取れてなかったから、父上喜ぶと思うよ」
「そうですな……」
朱凜の言葉に、老人は複雑な表情を浮かべた。だがすぐにそれを消して笑顔に変えると、朱凜の背をそっと押してやる。
「鋼璃が姫様に撫でてやって欲しそうです。行ってやってください」
「うん」
朱凜は頷くと、そっと子龍のそばに近寄った。
「お疲れ様。鋼璃、あと……」
鋼璃の鼻を撫でてやり、それから子龍に向かうと、朱凜は首をかしげた。
「えと、名前は……」
朱凜が言うと、鋼璃はくるる、と鳴いて、朱凜の肩を軽く鼻先で押した。まるでつけてくれと言うように。
「いいの? 私がつけても?」
朱凜の問いに、鋼璃は頷いた。龍は賢い生き物で、人の言うことをよく理解している。
だがそれでも、誰の言うことを聞くというのでもなく、ましてや名などという重要なものを、人ごときに許すことはまずあり得ない。
そのため、朱凜の背後でじいやは驚きに目を見張っていたが、不思議と龍に好かれることの多い朱凜はそれなら、と頷いて、そっと子龍を撫でてやりながら、考える。
美しい瑠璃色の身体が、動いて岩を叩く度にりぃんと鳴る。その音色が美しくて軽く目を閉じていた朱凜は、ぱっと顔を上げて笑った。
「じゃあ、瑠璃音! 瑠璃色の澄んだ音色って意味よ!」
きゅう
嬉しそうに、瑠璃音と名付けられた子龍が鳴いた。鋼璃も嬉しそうに喉を鳴らしている。
そして瑠璃音が両手を広げてだっこ、のポーズを取るので、少し困って鋼璃を見たあと、朱凜はそれを抱き上げた。
まだ赤ん坊とは言え龍の子供である。その身体はずっしりと重く、また、金属のように固かった。でも人肌ほどではないにせよほんのりと暖かく、頬を寄せると心地いい。
夏場はいい保冷剤代わりになりそうだ、なんて罰当たりなことを考えながらその瑠璃音の身体を抱きしめていると、不意に入り口の方で馬のいななく声が聞こえ、その場にいた全員(龍を含む)がそちらの方を見た。
夕影——ではなく、別の馬が到着したようだった。
それを察し、朱凜は肩を落としながら瑠璃音を下ろす。
「もう、行かなきゃ、だわ」
きゅう?
急に元気がなくなった朱凜に、瑠璃音が不思議そうに首をかしげる。かしげながら、もっとだっこして欲しいと両手を挙げるが、朱凜は首を横に振った。
「婚礼の支度をぶっちしてきてるから……多分、彩葉が迎えに来たんだわ。出立は明日だもの。最後に、瑠璃音に逢えて良かった」
そう言って瑠璃音を撫でると、鋼璃も寂しそうに鼻をすり寄せてくる。離れがたいが、刻限である。
「じいやも、身体に気をつけて。あなたがいないと、国の龍を世話する人がいなくなってしまうわ」
「なんの。私はまだまだ現役ですからな。後継者をびしばし育てながらわし自身後三十年は働くつもりですわい」
「ふふ。じいやが元気なら力強いね」
「……姫様も、どうか、末永いご健勝をお祈りしております」
「うん……」
頷いて、朱凜は龍達から離れた。名残惜しそうに振り返りつつも、出口に向かって歩き出す。
寂しいが、出立前に無事に生まれるのを見届けられて良かった。
そう自身に言い聞かせながら、夕影の待つ馬場に向かおうとしたが、その朱凜の背中に、「あ!」と声がかかる。
引かれるように振り向くと、生まれて間もないはずなのに、まだ濡れた羽を必死に羽ばたかせながら飛んでくる瑠璃音の姿がある。
きゅうううううっっ
そして、離れたくないっと言ったように朱凜の胸の中に飛び込むと、ぎゅうととしがみついてくる。
「ええ!? 瑠璃音!?」
驚いて朱凜が顔を上げると、洞窟の際奥で鋼璃がいいんだというように頷いている。その鋼璃と胸元の瑠璃音を見比べていたが、朱凜はふにゃりと表情を緩めると、瑠璃音に問いかけた。
「君も一緒に、くる?」
きゅううう!!
朱凜の問いに、瑠璃音が元気いっぱいに答えた。
「そっか。ありがとう」
朱凜が微笑むと、瑠璃音も嬉しそうに鳴いた。それを見届けてから洞窟の一人と一匹に向かって手を振ると、朱凜は迎えが来ているだろう馬場に向かって歩き始めた。
一方洞窟に残された老人はというと、信じられない思いでその光景を見つめていた。
巣穴を出ていこうとする朱凜と一緒に行きたそうにしていた瑠璃音の背を押したのは鋼璃だ。龍が生まれてすぐの自分の子供を手放そうとするなんて聞いたことがないが、驚きはそれだけではない。
背を向けて歩いて行く朱凜に向かって、鋼璃は頭を深く垂れていたのである。
龍は誇り高く、誰にも従わない孤高の生き物である。従うとしたら自分より高位の龍にのみ。
ましてや、唯一この龍輝王国の住人にのみ近づくことを許し、多少の世話や、龍の魔力によって巣穴に生まれる鉱石を採取することを許しているが、人の下になど決して組みすることはない。この国の王ですら頭を垂れさせることはできないのである。
それなのに、鋼璃は朱凜に自分の産まれたばかりの子供を預けたばかりか、よろしく頼むというように頭を下げたのだ。
そんな光景を、老人の龍を世話してきた長い人生の中で、一度も見たこともなかった。
(姫様は、どこか不思議な力がおありになるとは思っていたが……)
洞窟を出、駆け去って行く二駆の馬を見送りながら老人は被っていた帽子を取り、空を見上げた。
(それが、ガーヴィルグ帝国で吉と出るか凶と出るか……)
老人はその未来に思いを馳せながら、深く自国の姫に頭を下げたのである。
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