プロローグ:婚約破棄?
その時、朱凜の全身は怒りで熱くたぎっていた。
ちょっと前まで、恐ろしく高い天井と驚くべき広さの謁見の間の、天井画や彫刻の絢爛さに呆気にとられていた田舎者の姫の顔はそこにはなく、琥珀色だった瞳を怒りで金に輝かせながら、壇上のやんごとなき立場にあるだろう者達を、今にも噛みつかんばかりに見据えている。
「……もう一度、お伺いできますでしょうか?」
朱凜は、荒くなってしまいそうな声音を全力で押さえ込みながら、問うた。
「今、なんとおっしゃいましたでしょうか、陛下?」
「うむ……こうして輿入れしてきてもらった朱凜姫には非常に申し訳ないのだが、第一皇子、フェルナートとの婚礼を取りやめたいと思っておる」
そう告げたのは、御年四十四歳になるガーヴィルグ帝国の皇帝、ランヴェール三世だ。輝くようなブロンドの髪に鮮やかな緑色の瞳という、この帝国の王族ではよくある色合いに、男として脂ののったは堂々たる偉丈夫だが、さすがに自分が言っていることに非があるのは理解しているのだろう。顎の髭を撫でながら、その視線はどこか泳いでいる。
「何を……っ」
あまりに無責任な物言いに、思わず朱凜は声を上げそうになる。けれど、すぐ隣にいた外交官がそれを手で制し、視線で『お願いですから堪えてください』と訴えてくるので、朱凜は口を噤んだ。
代わりに壇上に立つ、皇族達をねめ上げる。
ランヴェール三世の左隣にはもう一つ玉座が有り、そこには女性が座っている。皇帝と同じ金色の髪に緑の瞳をした美しいその女性が、公爵家から嫁いだという皇后アデルだろう。宝石をちりばめた紺色のドレスにを纏い、貴重な南国の鳥の羽を使った扇で口元を隠しながらこちらを見下ろしてくるその眼差しには、隠す気もない侮蔑が現れていた。
第一皇子フェルナートはアデルが産んだ子だと聞いている。こんな田舎の小国から来た姫などを、自分の大事な息子の嫁になんてとんでもない、と思っているのだろうことが見て取れた。
アデルは扇で口元を隠しながら、隣に立つ金色の髪の青年に話しかけている。皇帝と皇后と同じ色彩を持つその青年が、おそらくフェルナート第一皇子——朱凜の婚約者だったはずの人だ。
と言っても生まれた国も違えば、朱凜の国——龍輝王国の人間は外交官以外はほとんど国を出ないので、会ったのはこれが初めてだった。思い入れらしい思い入れがあるわけではない。強いて言えば婚約してから年に数回取り交わした時節の手紙のやりとりの中で感じた人物像と、目の前の青年の姿が比較的近かったことの安心感くらいか。
凜とした顔立ちのランヴェール三世にも、きつい顔立ちのアデルにも似ていないフェルナートは、優しそうな眼差しと穏やかな物腰の青年だった。顔立ちも整っているしスタイルもいい。おそらく女性が放っておかないだろう。
龍輝王国のような小国ではなく、もっといい国、あるいは国内でも相応の地位の娘を、と思う親心も分かる。
——だが、それと国家間で結ばれた契約の履行はまた別の問題である。
「皇帝陛下に申し上げます。今回に婚礼を取りやめると言うことは、五百年前に締結された我が国との和平条約、及び、鉱石に関する優遇処置に関する条約の撤廃がお望みだと、そう捉えてよろしいでしょうか?」
朱凜の代わりに話し始めたのは外交官の旺公佑だ。今年還暦を迎える旺氏は普段は笑顔が優しい好々爺だが、いざ外交になるとカミソリのように鋭い論法を繰り広げる。そのため他国からはカミソリ外交官として恐れられている逸材だ。
その旺氏はおっとりとした、しかし妙に迫力のある声で続けた。
「それならば私達も急ぎ帰って支度をしなければなりません。我が国は山に囲まれた小国ですが、この大陸で唯一龍が住まい、守護する国でもあります。むろん、再び五百年前の再来となるならば、我が国を守護する龍達もその戦列に加わることをお忘れなきようお願い致します」
丁寧な言い方だが、要は『小国って侮ってるけど、うちの国と喧嘩する気なら龍と戦う覚悟があるんだよな?』という脅し文句である。
婚約の不履行から一気に和平条約撤廃にまで踏み込む彼の鋭さこそが、旺氏がカミソリ外交官たるゆえんだった。
「いやいやいや。我々は和平条約に反するつもりもなければ、鉱石に関する優遇処置の撤廃を望んでるわけでもない。ただ、第一皇子との婚礼を考え直したいというだけだ」
「条約の履行条件を守る気がないのに優遇処置だけは継続してもらいたいというのは、いささか都合が良すぎではありませんか?」
「それは承知しておるが、しかし……」
「もうはっきり申し上げたらいいではありませんか、陛下」
ランヴェール三世と旺氏とのやりとりに、突然アデルが割り込んでくる。それまで開いていた扇をぱちりと閉じ、それで朱凜を指してくる。
「このような子供ではフェルナートには相応しくないのだと」
はっきりとした皇后の宣言に、謁見の間にいた貴族達や官僚達が騒ぎ出す。朱凜の後ろに控えていた国から連れてきた護衛達もだった。
ランヴェール三世はアデルの専横に目元を覆っていた。これでは言い訳のしようがない、と頭痛を堪えているようにも見えた。
しかしアデルはそんな夫の様子など構わず続ける。
「わたくしのフェルナートは将来立太子し、王位に就くことが約束された身。十八にもなってこんな子供と変わらない姿のみすぼらしい娘など、もってのほか。もっといい娘をわたくしが探してきます!」
アデルが立ち上がり、そう宣言すると、謁見の間のざわめきはさらに大きくなった。
ガーヴィルグ帝国内の貴族達は、国家間の条約だと諦めていたのが自分の娘にもチャンスが巡ってくるかもしれないという期待で。
龍輝王国から来た者達は、朱凜に対する落胆と今後どうなるのかという戸惑いで。
そのざわめきを聞きながら、朱凜は琥珀色に戻った瞳を落とした。
(どうしていつも、こうなるの……)
十八になるのに背も伸びず、凹凸もほとんどない身体、姫としての手習いごとなどはことごとく駄目で、よくできた兄弟、妹と比べられ、”みそっかす姫”と祖国で呼ばれていた朱凜にとって、この婚礼は唯一自国のために自分が役に立てるチャンスだった。
だから、苦手な勉強も、この国に関すること——歴史や言語、政治や経済の知識、そして帝国内の人間関係など——は頑張り、教師からもお墨付きをもらうくらいにはなったのだ。
それなのに、結局ガーヴィルグ帝国でも、朱凜は”みそっかす”でしかなく、第一皇子に相応しくないという烙印を押されてしまった。
朱凜は固く目を閉じた。怒りの熱が去った代わりに、襲ってきた虚無感で身体が一気に重くなる。
しかもそれに追い打ちをかけるように、旺氏が声を上げた。
「ほうほうほう。とすると、御国では我が国の姫の容姿のみが気に入らない、と言うことでしょうか? ならば、二の姫の彩葉姫ではいかがでしょうか?」
そう告げて、旺氏は後ろを振り返った。控えていた騎士の中に一人だけ、ヴェールを被った女性がいる。旺氏と視線を交わしたその女性は、すっと歩み出て朱凜の隣に跪く。そして皇帝の許可を得て立ち上がり、ヴェールを上げた彼女に、視線が集まった。
「龍輝王国の二の姫、彩葉、と申します」
たおやかな声で名乗り、顔を上げた彩葉に、一同から感嘆の溜息が漏れる。
彩葉は朱凜と二つ年が違う十六歳だが、大人びた容貌と、すでに纏い始めた色香で、朱凜よりも年上に見える美しい姫だった。
容姿に関しては、これで文句ないだろう。
そう視線で問いかける旺氏に、アデルが言葉を詰まらせる。容姿が相応しくないといいながら、容姿の整った姫を連れてきてもなお納得しないというのなら、それはただの小国への差別意識に他ならないのだろう。
どうやって覆そうか、とアデルが視線を彷徨わせ、何かを告げようと口を開いた、その時だった。
「——遅くなりました」
凜然とした声が、謁見の間に響く。
皇族が使用する入り口の扉を乱暴に開き、一人の男が入ってくる。
「謁見に関する時間の連絡が、どうしてか私のところにはきてなかったもので」
太く笑いながら入ってきたのは、黒い軍服を着た、背の高い男だった。後ろに撫でつけた髪は青みを帯びた鈍色で、金属のように硬質な色合いをしていた。顔は笑っているのに、鋭いナイフのように周囲を睥睨する瞳は、吸い込まれそうな漆黒である。
アースヴィルド第二皇子——側室である皇妃の一人が生んだ、フェルナート以外の唯一の皇子であり、継承権第二位を有しながらも騎士団を指揮する団長としても活躍する実力者だった。
そのアースヴィルドは鍛え上がられた肢体で大股に歩いてくると、朱凜達の前に立って壇上に向かって向き直る。
「国王陛下にはご機嫌麗しゅう。大体の話は来るときに聞きました。フェルナート兄上と朱凜姫との婚礼を取りやめるのだとか」
「う、うむ……」
「なぜ呼んでいないこの男がここにいるの! すぐに連れ出しなさい!」
国王と第二皇子との会話に割り込んで、アデルがヒステリックに叫ぶ。どうやら連絡は、届かなかったのではなく意図的に留められていたらしい。
アースヴィルドはそんなアデルのことなどまるっきり無視して続けた。
「ならば、私が朱凜姫を娶ってもよろしいでしょうか?」
「なんだと?」
「龍輝王国との契約にはそもそも第一皇子と第一姫という決まりはなかったはずです。ならば、朱凜姫を娶るのは、私でもいいはず——違いますか?」
「そ、それは……そうなのか?」
アースヴィルドの言葉に、契約の詳細を知らないらしい国王は思わず自信ががなくなったのか右隣に立つ宰相に小声で確認している。ただ、宰相も古い契約に関してそこまで詳しくなかったのか首をひねっている。
「大事なのは我が国の鉄鋼業の礎を支える、鉱石の輸入元である龍輝王国との国交を途絶えさせないことです。ならば、ここでひっくり返して戦になるよりは私の提案の方が建設的だと思いますよ。というわけで、いいですよね? はい、いいと見なしました」
後半、勝手に話を進めて納得を得たような体で言うと、アースヴィルドはくるりと振り返った。
そして、朱凜の前に跪く——あの時と同じように。
「生涯を賭して朱凜姫を愛し、守り続けることを誓います。どうか、私と生涯を歩んで頂けませんでしょうか?」
そう告げて、頭を垂れるアースヴィルドの後頭部を朱凜は呆然と見下ろしていた。
(何が、どうなって、こんなことになってるわけ……?)
国と国の正式な謁見のはずの場はもはや混沌と化し、そして何故か”みそっかす姫”の朱凜はプロポーズをされている。
意味が分からなかった。
そんな風に朱凛の頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱に見舞われてる中、男が顔を上げた。
鈍色の髪の間から、たわい光を宿した漆黒の眼差しがこちらを見上げている。
どこが虹彩なのかわからないくらいのぬばたまのような瞳の中に不意に光が走る。
(いや、違う、これはーー)
朱凛は息を呑んだ。
それは、”虹彩”だった。
金に光り、そして、人にはありえない、縦割れたーー
「ーーっ」
それを認めた途端、朱凛の視界はぐらりと揺れた。突然意識が遠くなる。
緊張と、疲れと、怒りと、戸惑いと——押し寄せてくる様々な感情に翻弄されながら、朱凛はそのまま意識を失ってしまったのだった。
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