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ウィリミアナ王国末姫の家庭教師・パースは、目の前で気持ちよく居眠りを始めた、彼の教え子・リリーを呆然と見つめていた。
見事な寝入りっぷりだった。
うとうとし始めたリリーに、声をかけようとしたまさにその瞬間、リリーはインクも乾かない羊皮紙に倒れこんだ。
心臓発作でも起こしたんじゃないかと、一瞬驚いて脈を探った。
しかし気持ちよく寝息を立てているところを見ると、これが「居眠り姫」と異名をとるリリーの特技「三秒で居眠り」らしい。
「・・・おい」
揺さぶっても起きそうにない。
まるで、おとぎ話のように、・・・魔法にでもかけられたような。
パースは、暗闇色の前髪の奥で、眉を顰めて舌打ちした。
ーーーーーー早速、彼の出番のようだ。
・ ・ ・
夢のお花畑は、どこまでも虹色だ。
名もなき花ばかりが敷き詰められた、リリーの箱庭。触れる花々はどこまでも素朴で、主張しすぎないところがリリーの好みだ。
夢の中で、リリーはいつも花と戯れ、冠を作ったり、高く澄み切った空を眺めて寝転がったりしている。
今日は後者の方。抜けるような青空は、季節を感じさせない。ただ、どこまでも穏やかで澄んでいた。
リリーは、この非現実の夢の世界が、大好きだった。
「あー、やっぱり居眠り中の昼寝はいいなあ」
現実世界では居眠り、夢の中では昼寝。結局どこまでも昼寝ばっかりだが、この気持ちよさは格別だから仕方ない。
ローランドも、この気持ちよさを知れば、家庭教師だの勉強だの言わなくなるはずなのに。
(ローランドお兄様もナンシーも城中のみんな、芋虫みたいにお花畑に寝転がって、あははうふふしていれば幸せな人生送れるのになー)
リリーは城中がお花畑にごろごろ寝転がっている姿を想像してみてニヤニヤしたが、一人だけリリーの妄想の中で腕組みをして仁王立ちしている真っ黒な男がいる。
(あの人は・・・うーん・・・)
どうやっても、リリーの頭の中でごろごろ芋虫になってくれず、リリーは寝転がったまま腕組みをして眉根を寄せた。
そこで、はっとした。
「あれ、そういえば私、いま勉強中だったっけ?」
ぼそり、とつぶやくと。
「お前は、本当の阿呆だな・・・」
と、苛立ちを含んだ低い声が、リリーの世界に響いた。
「えっ」
がば、と起き上がると、茶褐色の髪についた花びらがはらはらと落ちた。
なんだろう、今の声は。
聞き覚えのあるような、ないような。
そんな声はどこから聞こえたのかわからず、辺りを見回してみるが、どこにもそんな人影はない。
気のせいにしては、不吉な予感が胸をよぎる。
すると、突然虹色のお花畑に、ぽとんと墨が落ちた。
「え・・・」
目を瞬かせて、よく見ると、その染みは徐々に大きくなり、そしてあっという間にリリーの周りのお花畑を飲み込んで、大きな落とし穴のように彼女の周りを囲んだ。
起きろ。
「-------っ?!」
声にならない声が聞こえて、突然リリーの頭の奥に、教会の鐘のような轟音が響き渡る。
ゴーン、ゴーンと、鐘が打ち付けられるたび、リリーの頭の奥も大きく揺れた。
そうだ、今朝も同じだった。
あの最悪の目覚めは、こんな鐘の音と一緒に訪れた。
「ぎゃーーーーー!!!」
とても教養と品位ある姫君のものではない、はしたないことこの上ない、叫び声をあげたその時。
リリーはお尻の下にぽっかりと開いた、黒い落とし穴の中にストンと落ちた。
・ ・ ・
さわり、と瞼を何かが優しくくすぐった。
気づけば目の前に、闇色の髪と夜のような双眸が。
リリーの額に男の前髪がかかり、鼻先がくっつきそうなほど近くにある。
それを(あれ、意外とかっこいいな)と、ぼうっと見つめ、それからリリーはかっと目を目開いた。
「ぎゃーーーーーーー!!!」
「うるさい!二度も叫ぶな!」
リリーはパースに抱き留められていた。
正確には、倒れかけの椅子ごと、だ。重厚な造りの豪奢な椅子で、見た目通り重いものだったが、パースはしかめっ面をしながら、片手でテーブルを掴み、床に倒れこむ寸前の椅子をもう片方の腕で支えている。
(・・・意外と力持ちなのかも?)
てっきり根暗な引きこもり系かと思っていたが、意外と体育会系だったりして。いや、それはないな、と一人で首を振っていると、
「・・・お前、いい加減にしろよ」
低い声を響かせて、パースが手を離した。
すぐに、がん、と軽い衝撃が頭に走って、リリーは悶絶する。
「勉強中に居眠りした上、起こしても起きないどころか、起きたら寝ぼけたままぼーっとして、挙句の果てに悲鳴上げて椅子ごとコケるって、・・・お前は本当の阿呆だな」
「・・・?」
聞き覚えのあるセリフだったが、どこで聞いたのか思い出せない。
それにしても、倒れかけたお姫様を助け起こすどころか、コケさせるとは。
ぷつん、と音がした気がした。
「・・・ちょっと、そこの真っ黒家庭教師!」
「・・・その呼び名は俺のことか」
「あんた以外にいないでしょう?!途中まで助けたんだったら、最後まで助けなさいよ!手離さないで、頭打って痛いじゃない!この鬼畜!」
リリーはキレた。
今までさんざん無礼千万なことを言われて、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「阿呆だのバカだのマヌケだの、好き放題言いすぎなのよ、この××××男!」
黒いアレの名前は自主規制した。
パースは、息を切らして怒鳴るリリーを驚いた様子で見ていたが、やがて、
「阿呆とは言ったが、バカとマヌケはお前の妄想だ。深層心理では自分がバカでマヌケなダメ姫だと理解しているようでよかった」
「なんですってーーー!」
(この毒舌男!)
罵倒してやりたいが、残念ながらボキャブラリーの量が違うからか、そこから先はすんなり喉から出てきてくれない。
すると、ふとパースは顎に手を当てて、床に座り込むリリーを真上から見据えた。
「なに?!」
「・・・お前、いつもあんな風に居眠りするのか」
「はあ?!え、ええ、まあ・・・」
パースが何かを探るようにリリーを見る。
前髪の奥から覗く漆黒の瞳が、あまり真剣にリリーを見つめるので、リリーは一瞬怒りを忘れてどきっとした。
「突然意識がなくなるのか?」
「意識っていうか・・・、猛烈に眠くなって、それで気が付いたら夢の中っていうか。って、そうじゃなくて私の話を」
リリーの言葉を聞かず「そうか」と呟いて、しばらく彼女を見据えていたパースだったが、やがてリリーの腕を引っ張って起こし上げ、重たい椅子もすっかり元に戻して、リリーを座らせた。
そして、目の前に置かれたのは本の山。
「え」
「そんなに俺の出した課題が楽で退屈なら、これもできるよな」
ぽんぽん、と辞書の背を叩き、
「昼までに終わらせろよ」
と新たな課題を、悪魔のような笑顔でリリーの前に押し出した。
「ちょっと、私の話聞いてるの、この××××男ーーー!!!」
リリーの絶叫は、この日城の地下にある厨房まで聞こえたとか。