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パースという、例のアレのように真っ黒な謎の青年が「家庭教師」として、突然リリーのもとにやってきた、翌日。
いつものように、気持ちよくすやすやと眠っていたはず、だった朝。
「?!」
夢のお花畑に鳴り響く、頭が割れるような鐘の音。
あまりの煩さに、がばりと布団をはねのけて飛び起き、
「頭いたーーーーい!!!」
爽やかな朝日の中、リリーは絶叫して、最悪の目覚めを迎えた。
のどかな城の外では、放し飼いの鶏たちがコケコッコーと爽やかに啼いている。
・ ・ ・
朝からぐったりだ。
リリーはテーブルに突っ伏して、呆けていた。やっと頭痛が収まった。いや、頭痛というのは少し違う。痛いというよりは、煩い。謎の鐘の音が、轟音のごとく鳴り響いて頭を揺らすのだ。
柔らかな朝日が出窓から差し込み、リリーの赤茶の髪を、はちみつ色に照らす。
こぽこぽと、紅茶の注がれる音とともに、彼女の好きな爽やかなアールグレイの芳香が漂った。
リリーと仲の良いナンシーという侍女が、てきぱきと朝の支度をしている。
朝だというのに、その顔は紅潮して、ナンシーは、感動に酔っているらしかった。
「姫様が、まさかわたしたちが部屋に伺う前に、起きていらっしゃるなんて・・・!」
「・・・起きたんじゃなくて、起こされたの」
謎の鐘の音に。
ぼそっと付け加えた言葉は、ナンシーに届かない。
ナンシーはリリーより二つ年上で姉のような存在だが、明るくおしゃべり好きで、同じくらいおしゃべりが好きなリリーとよく気が合った。しかしナンシーは時々リリーを放って自分の世界に入ってしまうところがある。
彼女はうっとりと、それでいて力強く、手を握りしめた。
「今日からは、今までの姫様と違って、新しい姫様になるのですね!わたしたちも、もう居眠り姫付きとか陰口叩かれて肩身の狭い思いすることもないんですね!」
「ぐっ」
「居眠り姫」と陰口を叩かれていたのは知っていたが、まさか侍女にまで迷惑をかけていたなんて。
申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、とりあえずリリーは顔を覆ってしまった。
「頑張ってくださいね、姫様!あ、今日はこれから早速、パース様と授業のご予定です」
(頑張って、なんて言われてもね)
リリーは、紅茶を口元に運びながら、頭の中であの真っ黒な家庭教師を思い描いてみた。
今までやってきた家庭教師とは、明らかに毛色の違うあの男。どう見ても家庭教師には見えない。一体彼から何を教わればいいのか。ローランドは優秀だと評していたけれど、その見かけからして得体が知れない。
それにーーー。
リリーは眉根を寄せた。何か忘れている気がする。彼にまつわることで、何か。
なんだっけ、と首をかしげる。
彼には以前会ったことがあるようなーーー?
アールグレイの香りが漂う部屋に、爽やかな朝の光が差し込む。
(あーとりあえず今日も気持ちよく昼寝したいなー)と、リリーは遠い目をした。
・ ・ ・
本名を訊いてみたが、「パースだ」の一言。
「で、苗字は?」と聞けば「俺の苗字が必要な理由を、紙に四百字以内で書き綴れ。ただし、公式の書類のつもりで文体を整えろ」と課題を仰られた。
(鬼教師?)
目の前で腕組みをして見下ろしている、黒い男を見上げた。
相も変わらず今日も真っ黒だ。身体を纏う黒衣は、とても城に出入りするものとは思えない重苦しいローブ。妙に身長があるので、魔法使いとか魔王とか、そういう類の迫力がある。
前髪は相変わらず鬱陶しく、分厚く彼の顔を遮っている。その奥では、闇色の瞳が、こちらも魔王のようにリリーを睨んでいるのだろう。
朝食を摂り終えた後、すぐさま連れていかれた図書室で、午前の授業が始まった。
昨日の宣言通り、律儀に図書室でリリーを待ち構えていた男は、「遅い。お前勉強も作法もろくでもないくせに遅刻するとは何様のつもりだ」と開口一番横柄に言い放った。
リリーと一緒にやってきたナンシーなどは、無作法な彼の物言いに卒倒しかけた。
「こちらはウィリミアナ王国の末姫リリー様でいらっしゃいますよ?!お言葉を改めてくださいませ!」
「そういうことは、一人前に姫君らしく振舞えるようになってから言え。教養も作法もない姫君を、世間では税金の無駄遣いと言うんだ」
「なんですってー?!」
ナンシーが、彼に掴み掛らんばかりに激昂したので、リリーは割と冷静になれた。
「いいの、ナンシー。平気だから。これから授業だから、ね」と怒り狂うナンシーを、なんとか図書室から追い出した。
テーブルにもたれて腕組みをしてそれを見送っていたパースは、
「面倒だから、敬語も挨拶も以下略。俺のことはパースと呼べ。俺はお前のことを姫君扱いなどするつもりもないから、そのつもりで」
そう言って、うずたかく積まれた分厚い辞書を、彼女の前に押し出した。
「では、授業を」
(公式の書類のつもりで、って言われてもねえ・・・)
書き始めから思いつかないリリーは、真っ白な紙を前にして唸った。
今まで何度か「公式の書類」というものを見る機会はあったと思う。ただし、見るたびに難解な書き出しが、否応なしに彼女を夢の世界へ連れていき、結果現在頭の中にはその欠片も残っていない。
(あの時もその時も、居眠りなんかしないでちゃんと読んでおけばよかった・・・私のバカ!)
と言いつつも、もうすでに眠気が近くまで忍び寄っている。
まずい、これはいつもの居眠りコースだ。授業が始まって早々居眠りなんかしたら、この嫌味な男に何を言われるかわからない。
苦肉の策として、リリーはパースに話しかけることにしてみた。
「はい、先生」
「・・・」
「質問をしてもいいですか」
「・・・・・・」
なぜかパースはこめかみに手を当てて呻いた。
「・・・先生なんて言われると鳥肌が立つ。頼むからやめてくれ」
「そうは言われましても」
「柄じゃない。あと敬語もやめてくれ。本来俺は、お前に謁見できる身分ですらないんだ」
どういう意味だろう。
家庭教師という立場なのだから、謁見などという括りではないはずなのに。それに、兄のローランドとも面識があるようだったから、完全に一般人というわけでもないはずだ。
(この人、どういう人なんだろう)
とても王族に何かを教えるような風貌ではない、突然やってきた得体のしれない「家庭教師」。
(お兄様に聞いたら、何かわかるのかしら)
なんとなく、リリーはこの男の経歴を知りたくなった。それは、ただの興味本位だったけれど。
リリーは羽ペンを揺らしながら、彼の職業を妄想する。
家庭教師、というよりは風貌からして闇の職業っぽい。例えば、そう怪しい薬師とか、怪しい占い師とか、怪しい魔術師とか・・・。
と、そこまで考えて、
(ね、眠い・・・)
猛烈な眠気に襲われた。
難しいことを考えすぎたかもしれない。もう脳みそが小難しいことは限界です、と訴えているのかも。
折しも、リリーの背中に柔らかな日差しが届いて、ゆるりとぬくもってきた。
これはもうだめだ。子守歌の幻聴まで聞こえてきた。
瞼を押し上げようとするのに、身体がいうことをきかない。まるで誰かに身体を操られているよう。こうなったらリリーにはどうにもならない。
(おやすみなさいー・・・)
ぽてん、と書き始めていた羊皮紙に頭を乗せた。
鼻先を、インクの湿ったにおいが掠めていく。
誰かが、リリーを呼び止めたような声がしたが、それすらも気にならないほどーーー。