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がんがん、と頭を打ち付ける、何か。
これはあれだ、飲みなれないお酒を無理やり飲まされた、舞踏会後の憂鬱な朝に似ている、と。
むっくり身体を起こしたリリーは、ぼんやりと思った。
違うのは胸に漂う鉛のような吐き気がないことと、起こした身体が意外と軽快だったことだ。
そして、頭が妙にひんやりと爽やかだったこと。
(爽やか・・・さわやか・・・っていうか、)
「ぶべっくしょ!」
豪快なくしゃみは、いつも侍女たちを卒倒させる。
鼻水をすすった彼女は、茶褐色の濡れた髪を一房掴んで、それから膝の上に広がった赤や黄色の見事な薔薇に気づく。
(なんで髪が濡れて…薔薇?)
「ようやくお目覚めのようで」
むせかえる薔薇のにおいの中、聞きなれない、冷たい声にぎょっとして顔を上げる。
彼女の前には、なぜか空っぽの花瓶を手にした、見知らぬ青年が立っていた。
(----黒)
彼の印象は、頭の先から、つま先まで覆う黒。
黒檀の髪に、瞳の闇色、そしてすっきりとした長身に纏う黒衣。
顔は、分厚く長い前髪に覆われて、よく見えなかったが、彼は頭上からじっと彼女を捉えているようだ。
(・・・この人、誰?)
背中に髪のしずくが一筋流れ、その冷たさのせいか、少しずつ脳みそに血が通ってきた。
そうだ、確か、ここはリリーの部屋だったはずだ。
いつものように窓際に置かれたソファに座ったまでは覚えているので、おおかた「いつもの」居眠りをしていたのだろう。
それで、気が付いたら見知らぬ男がリリーを見下ろしている。
「???」
混乱する頭を押さえていると、目の前の青年は表情変えずに、
「まだ眠いなら、もう一杯ひっかけるが」
「おかわり」と花瓶を後ろに差し出すと、いつの間にかリリー付きの侍女が慌てふためいてそれを受け取った。
「おまえ、もしかして水ぶっかけられて喜ぶ趣味でもあるのか」
「ご、ございませんが」
「それはよかった。そんな趣味まで直せと言われたらかなわない」
リリーは、後ろで居心地悪そうにたたずむ侍女に目配せをして、それから意を決して口を開いた。
「あの、こちらの方はどなた?」
努めて冷静に、姫君のらしく慎ましやかに。
呪文のように唱えながら、一番仲のいい侍女に問いかけると、視線を下に向けて、侍女が重く口を開く。
「こちらは、パース様と仰います。その・・・本日から、姫様の家庭教師に」
「・・・家庭教師?」
ぽかんとして、青年を見上げると、「聞いていなかったのか」と呆れられた。
「お前の兄のローランドに、そこかしこで居眠りする妹姫をたたき起こして、まっとうな姫君らしい教養と品性を身につけさせてほしいと、無理難題を押し付けられたんだ」
とても迷惑だ、と口元を歪める。
一層威圧されて、彼女はたじろいだが、聞き捨てならないセリフに声を上げた。
「ローランドお兄様に?!か、家庭教師を、あなたが」
驚いたのは、リリーを甘やかすばかりの兄の名前が出たからだ。
「お兄様がそんなこと」
こんな、得体のしれない男に、まさか妹の家庭教師を任せようとするなんて。
けれど、彼は何食わぬ顔で答える。
「残念ながら、一言一句そのままだ。お前も身に覚えがあるだろう。城中、いや城以外でも、暇さえあれば眠りこける職務放棄のお姫様」
そう言って恭しく彼女の膝に散らばった薔薇を一輪つまんだ。
身を屈めた男の前髪は、その時少しだけ揺れて、その奥で暗闇色の瞳がリリーを見据えた。
端正な顔立ちだと思った。
前髪に隠れて見えなかったが、その奥に覗く切れ長の瞳や、よく見れば形の良い鼻や唇は、こうして近くで見れば彼女が今まで見てきた異性の誰よりも整っているかもしれない。兄を除いて、だが。
黒一辺倒の印象しかなかった彼だが、近くで見つめられれば自分でも驚くほど心臓が跳ねた。
が、彼はほんの一ミリも物語の王子様のようには笑ってくれない。
威圧的で、酷薄な笑みを唇にはいて、言い放った。
「俺が家庭教師になったからには、何が何でもたたき起こす。それこそ、城中の花瓶が空っぽになってもな」
ぽたぽたと、リリーの髪から花瓶のしずくが垂れる。
まだ夢の中なら早く覚めてと、リリーは願わずにいられなかった。