10分読み切りドキュメント 新宿 立ち食いそば屋③ 「丼を持ち続ける店員」
この掌編は、上記のCMとは関係ありません。
下ネタ、卑猥な表現は一切使用しておりませんので、安心してお読みください。
自分には何もないと悲観しがちな時、一服の清涼剤的なチェアフル・コメディー。
登場する人物、場所、店名等は、作者の創作でございます。
⚫︎ 立ち食いそば屋を巡っていると、二十年前と較べ、個人店は数を減らし、チェーン店の出店が相次いでいる。
当然、チェーン店は均一の味と店構えなので安心して店に入れるが、目新しさがない。
昔ながらの立ち食いそば、老舗の食堂を見つけた時の期待と不安は、まさにギャンブルだ。
店の暖簾の前に立ち、入るか否かで勝負が始まる。
いざ入店後、注文し最初の一口を味わった瞬間、ここで勝敗が決する。
「おえーっ、まじ〰いっ!」
私を含め、大多数の人はこうした負け試合を避けるため、食べ慣れた店やチェーン店に行くか、パソコンで検索し、評判の良い店に流れるのではないだろうか。
これでは、既存の情報に振り回されていることには変わりないと私は反省し、テレビ、ネットの情報を一切見ずに、
また、知ってしまった店は除外して、初めての店との勝負を賭けている。
詰まるところ、私なりの方針では足で探すしかない。
そして、なるべく資金力の少ない個人店を狙って、勝負に挑む。
資金力の乏しい店は、味で勝負するか、あるいは、知恵を絞るかの方法をとっている。
前置きが長くなり、読者の方々に御迷惑をおかけしてはいけませんので、
さっそく一例を紹介いたします。
つい先日の12月4日は、夜8時頃から急な雨が降った。
天気予報でも、夜から雨と表示されていたのにも関わらず、私は傘を忘れた。
新宿と四谷の中程の地区、荒木町の奥まった住宅地と呑み屋街の境の軒下ぞいに歩いていると、
そば、うどんと書かれた暖簾が、薄明かりに照らされていた。
12月にしては温かい夜だったが、雨宿りを兼ねて、小走りで立ち食いそば屋に駆け込んだ。
がらりと引き戸を開け、わずかに息が上がった私を見た、細く青白い若い店員が「はっ」と息を飲んだまま脅えている。
口をあんぐりと開け、丼を持ったままカタカタと震え、私を見て突っ立っている。
「おいっ、どうした?」
厨房の影から、50代の店主がさっと顔を覗かせ、私と目が合った。
口ひげを生やし、目が大きい。圧倒的な眼光の鋭さに、今度は私が口をあんぐりと開けた。
店主は「いらっしゃいませ、どうぞお好きな席に」と手を差し出した。
ファーストコンタクトの、若い店員の驚きで、コの字型のカウンターテーブルは客で溢れ返り、一席しか空いていないことにも気付かなかった。
なんだ、ここしか空いてねえじゃん・・・。
両隣の男性客に頭を下げて、席に座る。
若い店員が「ごごっ、ご注文が決まりましたら言って下さい」となんだか私に異常なまでに脅えている。
余りにも私を見て脅えているので、無性に鏡を見たくなった。
雨が降ってイライラしていたのは確かだが、ネコが驚いたような顔になるほど怖くないはずだ。
でも、気になる・・・
なんとも言えないままメニューを見ようと顔を上げると、若い店員と目が合った。
「はっ!」と声を漏らしてさっと目を逸らす。
なんだよ、俺の顔になにかついているのか?
端の客が、やや大きめな声を上げた。
「天ぷらうどんっ」
若い店員は、客の注文を聞くと、びくりと肩を強張らせた。
「ててっ、天ぷらそばですね?」
「そばじゃないよ、うどんだよっ」
聞き間違えた若い店員は、重ねた丼を持ってカタカタと震えている。
「はっはい・・・」
見かねた店主が、客の前に近づき、「天ぷらうどんですね。手打ちなので7分ほどお時間頂きますけど宜しいですか」と確認した後、若い店員に「ビビってんじゃねえよっ」と小さな声で恫喝した。
この若い店員は、私限定に脅えていた訳じゃなく、いつでもこんな感じなんだと思うと、ほっとした。
ふと、天ぷらうどんを注文した客を見ると、スーツ姿でトレンチコートを羽織り、一見サラリーマン風ではあるが、目つきの鋭さが気にかかった。
その客の視線を辿ると、やけに厨房のうどんの玉や厨房の中を覗き込んでいる。
同業者の偵察かと、見ている私も興味が湧いてきた。
立ち食いで、手打ちうどんを出す店は、余り聞いたことがない。
それに、店内は満席。
とすれば、知る人ぞ知る名店なのかと期待は高まる・・・。
「おっ、おおっ、お客さん、ごっ、ご注文は・・・」
若い店員は、水も出さずに2つ重ねた丼を持ったままカタカタと震え、今度は伏し目がちに私の様子窺っている。
カタカタ、カタカタカタカタ。
ずっと丼を持ったまま、私の注文を待っている若い店員。
一旦、丼を置けよ・・・
なにを食べようか、壁のメニューに目を向けた。
天ぷらもいいな、とろろもあるのか・・・。
カタカタ、カタカタ。
その音の出所に、目を向けると、丼が手に張り付いているかのように若い店員は、突っ立ったまま驚いたように私を見ている。
うっとおしくなり、「いか天そば」と注文した。
「いかっ、いかっ、いか天そば入りました〰ぁっ」
若い店員は注文を間違えずに店主に告げた。
店主が顔を覗かせ、「手打ちなので7分ほどお時間頂きます」と私に頭を下げて引っ込んだ。
はいと私は返事をし、店内と窓から見える雨の様子に注意を払う。
まだ降っている。
どうやらさっきよりも雨脚が強くなったようだ。
こういう時は遅い方がありがたい。
店に誰かが近づいてきたようだ。暖簾の隙間から目が覗き、もう少し顔を出すと、ゆっくりとトレンチコートの男が入口に目を向け頷いた。
覗いていた客らしき人物は、合図を受けたように店を後にした。
私は店を覗いていた人物は誰なのかと、通りの方を注視していると、自転車を乗った制服の警官の後ろ姿がちらりと見えた。
店内に顔を戻し、何気なくトレンチコートの男に目をやると、眩しそうな眼差しで、若い店員を見つめていた。
相変わらず、丼を持った店員は、本当にカタカタと脅えている。
トレンチコートの客が、隣の男にひそひそと話しかけた。
どうやら刑事らしい、隣も・・・。
そういえば、店の客はほとんどサラリーマン風だが、厨房やら裏口の方向へ、自然を装ながらも確認しているようにも見える。
思い返すと、店主が震える店員を「ビビってんじゃねえ」と小声で叱っていた。
もしかしたら、ここにいる客、私を除いて全員が刑事なのか。
店主と店員が何かをやらかし、逮捕する現場に居合わせてしまったのか・・・。
だとしたら、そばなんか食っている場合じゃない、テイクアウトにしようかとも頭を過る。
外は雨だし、どこで食えというのか。
せめて、私が食べ終わってからにしてくれないか。
溜息が漏れると、私の左隣の客がちらりと私に目を向けた。
30代か40代かは分からないが、坊主頭の男と目があった。
こちらも眼光が鋭く、更に左隣の男に合図を送ると、一つ挟んだシチサン分けの客が私をちらりと見やる。瞬時に、戦闘力と犯罪者かを吟味したようで、また、そばを食べ続けた。
厨房は厨房で相変わらず、若い店員が丼を持ってカタカタと震えている。
勘弁してくれよ、丼を置け・・・。
「ちょっと、来い」
厨房の奥の店主が、客が見えないところへ若い店員を呼んでなにやら話をして「大丈夫だ」と、かすかに聞えてきた。
何がだよ、俺は巻き込まれたくない・・・。
「お待たせ致しました」
店主自らが、天ぷらうどんをトレンチコートの男へ運んで行く。
その後は、私だ。
「イカ天一丁っ」
店主が持って来るのかと思ったが、「あちらのお客さんにお出しして」と若い店員に言いつけた。
案の定、一旦、丼を台の上に置き、お盆に載せたイカ天そばを運ぶ手付きが震えている。
今度は、お盆と丼がカタカタと音を立てているじゃないか。しかも、つゆがぴしゃんと跳ねている。
なんとか、私の前に運ばれてきた。
「お、おおっ、お待ちどうさまです・・・・」
無事に任務を終えた若い店員は、肩を回していたが、私の方が肩が凝ってしまった。
そばも手打ちで美味いと思うが、再び、カタカタと音がし始める。
うるせえな・・・。
見れば、若い店員が、丼を4つも重ねて持って立っている。
動揺しているのが丸分かりだろう、アホなのか・・・。
客を装う刑事と思しき男たちは、携帯を見るふりをしたり、暑いと汗を拭くふりをしたりして監視をしている様子で、全く丼の音のことなど気にも留めていないらしい。
若い店員にも他に仕事があるだろうと思うが、店主は文句も言わず指示もしない。
イカ天も美味かったが、どうもうるさく、しかも、客らの発するピリピリとした雰囲気がゆっくりと味わうことを損ねたので、ささっと食べて「お会計」と店員に声をかけた。
私の声に、厨房の奥から店主が現れ、レジ前に立った。
「680円です」
財布から小銭を取り出し、店主に渡すと、左腕の袖口からわずかに刺青らしきものが見えた。
はっとして顔を上げると、店主も気付いたらしく、腕を後ろに組んだ。
「領収書は必要ですか?」
立ち食いそばで領収なんて、余り聞かないので断る。
「ありがとうございました」と店主は頭を下げた。
とても美味かったが、明日にはもうないのだろうと小走りで駅に向かった。
翌日の夕方、なんだか気になって、立ち食いそば屋に行ってみた。
昨日は、雨の降りしきる中に飛び込んだので、店名も分からなかった。
まだ、日没前の夕日の中に見える店名。
『 粉、一筋 』
看板の横には、「合法の製法。うどん、そば」とあり、のぼり旗も出ていた。
「○○もびっくり!純度に自信あり、テイクアウト承ります」
なんだこりゃ・・・。
まるで、覚せい剤を暗示しているような店じゃないか。
店の中は電気が付いているし、昨日の若い店員もしっかり丼を持って立って震えていた。
捕まらなかったのか。
暖簾の脇から店内を観察すると、やはり、目つきの鋭い刑事らしき客ばかりが詰めている。
店を離れて様子を見ていると、裏手にも人影が見えた。
更に遠くに目をやると、「暴力団追放」の文字が建物に掲げられているのが見えた。
わずか10m先には、四谷東警察署。
なにも、警察を刺激するような商売の仕方をしなくても・・・。
私は夕日の中でそう呟いた瞬間、「あっ!」と声を上げた。
そうか、これは固定客を狙った奇策だったんだっ。
こんな怪しい看板を立てれば、嫌でも、警察関係者、麻薬取締捜査員、都の環境課等が調査にやってくる。一度、この店の美味さを知れば、内偵と称し経費で落せる可能性が高い。
それを証拠に、店主は私に領収書を聞いてきたじゃないかっ。
丼を持った店員に、店主が文句の一つも言わずにいたのは、あれこそが仕事だったんだ。
わざと脅えた様子を演出するために、常時、どんぶりを持たせてカタカタとさせていた。
店主のあの刺青もすぐに見える箇所だった・・・。
店から刑事風の客が出て来た。その男の表情を見つめる。
一見、険しい顔が、下を向いた瞬間に笑みをこぼして去っていった。
やはり、美味かったんだ。
そりゃそうだ、手打ちであの値段なんだから。
経営が厳しい個人店の創意工夫が何よりも嬉しかった。
負けるなっ、個人店っ!
資金がなければ、知恵がある。
私はどれほど勇気づけられただろうか。
満足して、また後日この店の味を堪能しようと歩き出す。
警察署と、目と鼻の先に一件のスナックを発見。
その名も、「限りなく黒に近いグレー」という店だった。
私は立止って目を細めた。
ここもか・・・。
腕を組んで見入っていると、立ち食いそば屋の店主が私の横を駆け抜けて、スナックのドアを開けた。
「おいっ、美津子っ、ネギあるかっ?」
「あるよ」
赤ん坊を背負った女性がネギを持ってドアから姿を見せた。
そば屋の店主は、赤ん坊にべろべろバーとやると、「無理すんなよ」とネギを受取り、店に戻ろうとこちらに目を向けた。
私に気付いた店主が近づいてきた。
「昨日は、いらっしゃって頂いてありがとうございます」
「えっ、覚えて頂いていたんですか?」
店主は恥ずかしいところを見られたと、照れながら「一度来てくれたお客さんは忘れませんよ」と襟を直すと、ちらりと袖口から刺青が見えた。
聞くのはヤボだと分かっていたが、私の読みが当たっているかを確かめたかった。
「あの〰っ、つかぬ事をお伺いしますけど、その刺青、シールですか?」
「バレました?」
店主の笑顔は朗らかで、店の中とは大違いだった。
私はそれ以上は聞かず、「また、近々参ります。応援してます」と立去った。
背後から店主が、「うちのは、混じりっけのない粉ですから、おもいっきり啜って下さい。待ってます〜っ!」と元気一杯に手を振っていた。
警察署の前を通ると、立番の警官が職務質問したそうな顔で、私をじろじろと見ていた。
(終)
貴重なお時間を割いて御拝読頂き、誠にありがとうございます。
ブログにて、天保の大飢饉の災害により発生した、甲州騒動にまつわる「理不尽」と「不条理」の中で生きる小説を全文掲載致しましたので、宜しければお読み下さい。
尚、満足頂けましたら、木戸銭としてキンドルにて販売でしている同作品をお買い上げ頂けましたら幸いに存じます。
「紺野総二 死に場所」で検索してみて下さい。
「小池豊教授の発見」もお読み頂けましたら幸いに存じます。