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リバーシブルヒロインズ

第四章 表と裏で絵柄は違うが価値は同じ


 自分を特別な存在であると考えることは、別に珍しいことじゃない。むしろ、自己形成の過程では絶対に必要な事だと僕は思う。誰だってヒーローのように格好良くなりたいと憧れ、ヒロインのように可憐でありたいと願い、自分をそのヒーローたちに投影させる。そんな経験を一度はしてきたことだろう。僕だってそうだ。

 けれど、現実は厳しい。空も飛べなければ手から炎を出せるわけでもない。まして、仮にそんな超能力が備わっていたとして、活用できる場面が実際にあるわけでもない。

 最初はつまらないと思った。こんな何もない世界では夢も希望も抱けない。魔法使いになりたいと打ち明けて、じゃあ三十路になるまで清く生きろよなんて言われる世の中はクソ食らえだった。

 ただ、いつしか知ることになるのだ。やるせないこんな世界でさえ、僕ら人の手には余ることを。魔法など使わなくても、スイッチ一つで炎は出せるし、機械に乗れば空も飛べる。そこには特別な才能は必要ない。ただ、動く手と足があればいい。

文明の利器に頼れば、の話である。

この世界には、ただそれがあるだけで十全に事をこなせる程度のものしかない。しかし、道具を作ったのは人間の成果でも、道具の挙げた成果は道具がすごいのであって、人間の成果ではない。つまり、人間を単独で見れば、その力は小さく、実は大したことはない。

 だから、世界のことを知れば知るほど、自分の手の中に世界は収まりきらなくなって、世界のたった切れ端でさえないくらい小さな範囲のことしかわからなくなって、その小さな小さな、自分の認識の中の世界でさえも持て余していく。

 そういう現実を知ってしまうことが嫌だった。それを認めてしまうと、自分が思うような特別は、自分の想像以上に遠すぎる存在であると言うことがわかってしまうから。

「潤、おかえり」

 物思いにふけっていた僕だったが、自室に戻ってきたと同時に目に入ってきた光景によって強制的に現実まで引き戻された。

 昨日と軽くデジャブ。

「お前は僕の部屋で何をしている」

「潤を慰めるために半裸待機していました」

 描写するまでもなく、僕のベッドの上でまたあられもない姿を晒している我が愚妹は自分の状態を宣誓した。当たり前だが、紗弥や愛が着ているのと同じ学校の制服。その胸元をはだけさせ、スカートから伸びた生足を見せつけるような態勢だった。下着が見えないことだけが救い。

 うっふーん、と雨は妙に様になったウインクをした。

 もはやツッコミ不能である。

「さあ潤、口でする? 胸でする? それともあ・そ――」

「それ以上しゃべるな!」

 絶句しかけていた僕だったが、雨の看過しかねる言動に思わず扉を閉めてベッドで横たわる雨の口を手で塞いだ。

 弾みではあるものの、力ずくで押さえつけてしまったことへの罪悪感を一瞬だけ覚えかけたが、雨から一切の抵抗がなかったことが気持ち悪くてすぐに放した。

「しまった……潤は適度に抵抗されないと興奮しない人だったのか……!」

「言ってろ。暇なのはわかったからさっさと出て行け。お前と違って僕は忙しい」

「妹の胸に触っておいて……この鬼畜」

「触ってねえよ! 肩掴んだ拍子に触れるとかどんな巨乳だ!」

「わたしは着やせするタイプなの!」

「着やせしてたら手に当たらないじゃん!」

 どうしてこの妹はこう、成績はいいのにアホなのだろう。兄として心配だった。

「ほら、気が済んだら出てった出てった。夕食が出来るまでは自分の部屋で大人しくしてなさい」

「ノリが悪い……」

「お前のテンションがおかしいだけだ」

「どうせ、そのやることってのもまた和歌月さん絡みなんでしょ?」

「うぐっ……」

 むう、またもや言い当てられてしまった。女の勘とは恐ろしい。

 まあ実際は、昨日した話の流れから推測したんだろうけど。

 雨は無念がるようにゆっくりと制服を着ていく。チラチラとこちらを窺ってくるのがとても鬱陶しい。

「それで――」

「靴下までちゃんと履け」

「…………」

 雨は素直に従った。

「……それで? 今日の収穫はあったの? あったんだろうねその様子じゃ」

「あったけど、ビッチな妹には教えない」

「そんな抵抗に意味がないことくらい、いい加減わかってると思うけど」

「今日はいつものようにはいかないぜ?」

「いつも以上に詳らかに事細かく説明させてあげるわ」

 三分後。

「で、昼休みに空き教室へ二人で入ったんだけど……」

 僕は雨に詳らかに事細かく、朝登校してからの一日の流れを、話の本筋に関係ない将軌との会話まで含めて説明していた。どうしてこうなったかは考えたくない。

「ふんふん、それでそれで?」

 一度話し始めてしまったら、意外に聞き上手な雨の相槌に導かれるままに全部話してしまうのだった。

 結局、愛にタコさんウインナーを取られたところまで全部吐き出させられた。

「明日からはわたしが潤のお弁当作る!」

「どこに焦点当てて聞いてたんだよ……」

 聞き終えての第一声がこれである。他に言うべきところというか、ツッコミどころが色々とあるだろうに。この辺はさすがと言わざるを得ない。褒めてないが。

「ていうかお前の作った弁当なんていらんわ。狙ったかのようになに作らせても焦がす奴がバカ言ってんじゃねえよ」

「ふっ、甘いよ潤! あれはただのドジッ娘アピールだから実はちゃんと作れるんだよ!」

「食べ物で遊ぶんじゃねえ! 評価マイナスだ!」

「……っていう茶番はともかくとして」

 雨は自分からボケ始めるくせに、流れをぶつ切りしてちゃっちゃと本題に入りたがる。こいつが本当に頭がいいのかどうかは実の兄である僕にもわからないが、会話の流れが速くて付いていくのが少し大変だ。

 雨は少し唸って、思考をまとめるように視線を中空に彷徨わせると、神妙に僕へ問う。

「二重人格って、和歌月さんが言ったの? 本当に?」

 僕は頷く。

『あたしたちは二重人格なんだ。二人で一つの体を共有している』と、確かにそう言っていた。

「和歌月さんって言っても、紗弥じゃなくてもう一人の方――未弥が言ったんだけどな」

「ふぅん……潤が紗弥さんからお弁当を渡されるときはまだいつもの紗弥さんだったんだよね? で、受けとった瞬間そのもう一人の人格が出てきた、と」

「そうだ」

「漫画みたいな話。正直半分も信じられない」

 にべもない。だが、雨の率直な意見は昼休みに僕が未弥に言い当てられたことに限りなく近い。

「ていうか――紛らわしいなぁ……紗弥さんはまだ、お詫びと言い訳してないままだったよね。そのために空き教室で二人っきりになったはずなのに」

 言い回しに悪意を感じまくったがスルーする。

「いや、お詫びはもらっただろ。そのための弁当だって本人も言ってたし」

「それでも、お弁当渡してこれでチャラね、なんて男前な考え方は紗弥さんらしくないと思うな」

 ……言われてみれば、確かに。

「なにより、言い訳っていうのが気になる。紗弥さんは未弥さんっていう人格の存在をもちろん知ってて、隠そうとしてたってことなのかな?」

「どうだろうな、単に未弥に代わってどういうつもりでの発言だったのかを教えてくれるつもりだったってだけかも知れない」

「それなら平和だね。紗弥さんがお詫びと言い訳をする前に未弥さんと入れ替わっちゃっただけだとしたら、単純な話だね」

 面白くはないけど、と付け足して、雨は一息ついた。

 兄の相談にこんなに親身になって付き合ってくれているのだ。良い妹だと思う。過剰な愛情表現さえなければ満点なのに。

「まあ、聞いてくれてありがとうな。お前に話して、僕の中でも少しは状況が整理できた気がするよ」

「わたしは実際にその場に居合わせたわけでもないし、安楽椅子探偵を気取るわけでもないから正確なことは言えないけど……潤がとっても茨の道を行こうとしてるのはわかったよ。普通に一人と付き合う気持ちで、二人を相手にしなきゃいけないんだもんね」

「そういうことに……なるな」

 雨は腕を組んで思案顔を作る。しばらくして、パッと顔を上げて僕に向き直ったと思えば、

「潤には荷が重いんじゃない?」

 なんて、冷静に分析した結果みたいに言ってきた。そして、ハッと気がついたように急に顔を上げると、またアホなことを言い出した。

「待って、よく考えたら紗弥さんと未弥さんっていう二人と二股しなきゃいけない状態に潤を置くってこと? そんなのやだ! 二重人格とか重いんだけど!」

「実妹からの恋愛感情ほどじゃねえなあ!」

「わたしの愛には誰も敵わないってことね!」

「お前のは反則技なだけだ!」

 そんなこんなで、雨とのシリアスな会話がいつまでも続くわけもなく。

 この調子で遊んでいたら、あっという間に夕食の時間になってしまったので、話は中途半端なままで終わってしまった。


 雨による甘い誘惑を耐えしのぎ、心身疲れ果てた僕が就寝出来たのは、午前一時を回ってからだった。雨は施錠した僕の部屋のドア、その外側に張り付きながら明日こそはと誓いを立てていたが、そうはいかない。っていうか怖いからやめて欲しい。

 翌日からはゴールデンウィークの終盤に突入した二連休だったのだが、特に出かけもせずに家で過ごした。まあつまり、雨との攻防戦に二日を費やしたと言うことだ。

 ゴールデンウィーク明けの今朝も雨は絡んできた。以前の有言実行とばかりに弁当箱を二つ並べて、これ見よがしに僕へ出来る女アピールをしてきたので、朝食のおかずにして二つとも完食してやった。だというのに、

「食べてくれてありがとう! わたしのこともその勢いでがっついていいんだよ!」

 と、全く堪えた様子がなかった。むしろ礼を言われるとか、一体どうすれば奴の僕への好感度は下がるのか。

 すぐに飽きてくれることを祈るしかない。

 ちなみに、それなりの品目をそれなりの味で作れていたので、本当は料理が出来るという雨の言葉はハッタリではないことが証明されてしまった。評価マイナス。

 ところで、雨と僕は同じ学校に通ってはいるが、朝の登校時間はできる限りズラすようにしている。意外に思われるかも知れないが、この決まりを申し出たのは雨からだった。というのも、

「わたしはどっちでもいいんだけど、本当にどっちでもいい二択なんだけど……家の内外関係なく甲斐甲斐しい妹に世話を焼かれ続けるのと、外では一切構わない代わりに家では家族というアドバンテージを最大限に活用して甘えられるの、どっちがいい?」

 と、脅迫されたのだ。どちらも断るという選択肢は無論存在せず、作ることさえ不可能だった。粘りの末、僕自身が抵抗する分には自由だというところにまで持っていけただけでも、勲章をもらえるくらいの成果だった。それならば、と世間の目を気にする必要のない後者を選択した結果がこれである。一応、約束――というより契約に近いかもしれないが――は守ってくれているらしく、家の外では本当に挨拶程度しかしていない。たまに用事を頼んだり頼まれたりするくらいで、過度なスキンシップは一切ない。だから学校の人間には、仲のいい兄妹として認識されている節がある。

 ちなみにこの設定云々を言い出した理由は、いわゆる妹ものの定番パターンの二つを実践したいからなんだそうだ。一長一短で、両方を兼ねそろえることは叶わないからこその二択らしい。僕に妹という存在の良さを実感して欲しいとも言っていた。あいつは本当に頭が悪いと思う。

 結果、学校と家でキャラの違う妹を僕は持つ羽目になった……って。

今気付いたけど、なんかこれ、紗弥の二重人格に似てるな。僕と雨が二重人格というものに理解を示しながらも納得できなかった理由はこれか。なまじ身近に二重人格もどきがいるものだから、本物が現れてしまって混乱しているのか。

どうしよう、雨が僕に害しか与えていない。今の内に屠った方がいいだろうか。

 僕の家に帰ってからの苦労を全校生徒たちに知らしめてやりたいが、誰も得をしないので、この事実は僕の心の中だけにしまっておくことになる。

 ともあれ、今家を出たのでしばらくは安心。下校後の、帰ってからが戦いだ。

 十五分以上先に家を出た雨に、絶対に追いつかないようにゆっくりと通学路を歩く。今日の天気は晴れ。非常に春らしい陽気で、雨の降る気配などもまるでない。新学期が始まってから、もう一ヶ月が経とうしている。特に大事な授業もないこんな日は、どこか静かな場所で惰眠をむさぼりたいと思うのが人の情。基本的にサボったりすることのない僕の出席状況と性格から自己分析して、一日くらい欠席したところで進学にも就職にもそこまで影響があるわけでもない……と思いつつも学校をサボってまですることも、やりたいこともない。

 結局、僕は寄り道さえせずに学校への最短距離を歩いていた。特に路地に入ることもない平凡な道だが、この道を通れば学校まで十分もかからない。

「……あれ」

 もう五分も歩けば学校に着くというところで、見知った制服姿の女子を見つけた。

 けれど、その人をこの道で見るのは初めてで、僕は上手く反応することが出来なかった。

「おはよう、潤くん」

「あ、ああ。おはよう……紗弥?」

「うん」

 紗弥は僕の言葉に安心したようににっこりと笑った。

 未弥と間違えられなかったから? だとしたら、正直あまり自信がなかったから助かった。

 内心でホッとしていると、紗弥は僕の方へ駆け寄ってきた。

 学校とは反対側の、僕の方へ。

「わざわざ来てくれなくても、今からそっちに行ったのに」

「ごめんね。それよりも早く、話したいことがあったから……」

「未弥からは、もうこれ以上踏み込んでくるなって釘刺されてるんだが」

「そうみたいだね。でも、私からも話したいことがあるから」

「……そのために遠回りして、こっちまで来たのか?」

「うん。学校に行くには遠回りだけど、潤くんに会いに行くにはこの道が一番早いでしょ? というか、学校近くはさすがにあんまり良くないと思って」

「……え」

 どういう意味か、と聞く前に、紗弥は僕に傘の取っ手を差し出す。

「ねえ潤くん」

 紗弥は苦笑いしながら僕を見つめ、ぎこちなく小首を傾げると、

「今日、一緒にサボらない?」

 優等生の発言とは思えない誘いをかけてきた。

 正直、何を言っているのかわからなかった。

 自分は言語能力を失ったのかと一瞬本気で思った。

「あれ、潤くん? 聞こえてる? おーい」

 けれど、それはどうやら違うらしい。僕の聴覚と脳は平常運転してくれているらしい。

 でも、紗弥がサボタージュけしかけてくるなんて……。

 実は未弥なんじゃないかと疑ってみたが、仕草……というか、雰囲気が完全に紗弥だ。

 多分、間違いない。これでも一年以上、同じ教室にいたんだから。そういうのはなんとなくわかっている……つもり。

「紗弥はいつから男を誘って学校をサボるようになったんだ……」

「必要があればいつでも。私は目的のために手段を選ばない方だから」

「すっげー意外だ……」

「でも、私の勝手に潤くんを付き合わせるのは本当に申し訳ないから、付いてきてくれたらご飯ご馳走するよ。何でも好きなの好きなだけ」

 かなり魅力的な条件だった。

「あと、今日休むことで授業に追いつけないか不安なら、テスト勉強も手伝う。日程も潤くんが決めてくれていいよ」

 めちゃくちゃ魅力的な条件だった。

「もっと条件欲しかったら言って?」

「待て紗弥。今の時点で逆に疑心暗鬼になるほど破格の好条件だ。これ以上とか言うな」

 それに、本人は気付いていないようだが……学校サボって二人でご飯を食べに行くなんて、まさにデートじゃないか。超ご褒美じゃん。

 迷う余地がないほどに僕に都合のいい展開だ。話が上手すぎる。っていうか先の宣戦布告で僕のこと警戒してたんじゃなかったのかこいつ。

 紗弥の方を窺うと、まったく濁りのない瞳で僕を見ている。何を企んでいるのか全く読めない。

 紗弥の立場になって考えてみる。こうまでして僕に話したい内容とはやはり、未弥とのことだろう。

 僕は聴く側だからまだその重要性に気付いていないだけなのかも知れない。

 話す側の紗弥からすれば、これだけの条件を出すに値する内容を打ち明けるという覚悟の現れなのか。

 そうだとして、その覚悟を受けとめる力を、僕が持っているのか。

 ――問われるまでもなかった。

「いいよ。今日はサボっちゃおう」

 迷いなく、憂いもなく、僕はそう返事をした。裏があったところで、それはそれで望むところだ。

 僕の返事を聞いて、紗弥は相好を崩した。

「ありがとう、ホントに嬉しいよ」

 満面の笑みを見せる紗弥に、僕はずっと気になっていたことを聞いた。

「ところでさ、その傘はなんのつもり?」

「握手だよ!」

 即答だった。しかもめちゃくちゃご機嫌だった。

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかり。

 おそるおそる差し出された取っ手を握ると、

「約束成立!」

 なんて言われた。約束をそのまま契約と言い換えて不都合なさそうだ。

「……まあ、なんにしても学校には行かないんだから、お互い制服姿はまずくないか? っていうか紗弥は始めから学校に行く気がなかったんだから、私服でくればよかったのに」

「だって、潤くんに断られたらそのまま学校に行こうと思ってたから……」

「この条件で僕が断れるとでも思ったのか……」

「そ、そんなのわからないじゃない……わたし、不安だったよ」

 上目遣いでこんな発言をしてくるのはずるいと思う。魔性の女とは、紗弥のような女のことを言うのだ。きっと。

「……とりあえず、一旦着替えに戻るか」

 このままでいたら補導してくれと言っているようなものだ。僕が冷静になる必要もあるし、少し時間が欲しい。

「お互い、一度家に戻ってからどこかで落ち合おう。まだ店が開いてる時間じゃないし、集合はどうする?」

「うーん、お店のことを考えると……一時間後に、ここでいいかな。ここからまた移動しよう?」

「了解」

 ということになり、紗弥とは一度別れて帰宅する。

 僕の両親は共働きのため、既に家には誰も居ない。自主欠席を咎められることはない。

 私服……と言っても、僕はあまりおしゃれに関心のある人間ではないため、こういうときに上手く着飾ることができない。服に関心があるといざってときに恥をかかないなぁと強く感じた。しかし、まあ今更服がないと嘆いたところで仕方がない。

 無難に、奇抜にならない程度のもので十分だろう。

 さて。早くも着替えが終わってしまったが、待ち合わせの時間までまだ三十分以上ある。もう家を出ても良かったが、迷った末に僕は自室のパソコンを立ち上げ、『二重人格』と検索した。

 解離性同一性障害、DID、多重人格、…………、――――。

 ウェブページに表示された文字を一通り見渡した僕は、大きく息を吐くとすぐにパソコンの電源を落とした。

「さっぱりわからん……変な先入観は逆に邪魔になるな」

 独り言。重い話になることを覚悟して、少し早めに合流場所へ向かう。

 するとそこには、既に私服に着替えた紗弥の姿があった。

 ドレープ性のある、黒く上品なロングスカートに薄手のシャツを合わせた、どこぞのお嬢様のような格好。通学路がひどく場違いに感じる。

 紗弥はハンドバッグの中を何度ものぞき込んでは手首に締めた腕時計で時刻を確認するという動作を繰り返していた。

「…………」

 待ち合わせの予定時刻まではまだかなり余裕がある。が、すぐにでも紗弥の前に飛び出したい衝動と、もう少しそわそわと可愛らしく僕を待っている紗弥を観察したいという欲求に心が揺れる。

 あの紗弥を待たせているのは僕なんだという優越感じみたものも感じられたが……無邪気に僕を待つ健気な紗弥を見ている内に、良心の呵責に苛まれた。

 三十秒と持たず、紗弥の前に出て行くことになった。

「あ、潤くん。早かったね」

「あっああ、紗弥こそ、早いな」

 声が上擦っちゃった。しかし紗弥はそんな僕を見咎めたりはしない。

「うん。わたしから誘ったのに、遅れられないじゃない」

 律儀な子だった。そんなこと一つで今更紗弥の評価が下がることなんてありえないのに。

 紗弥の服装に見合うようにと移動した先は、この界隈では一番おしゃれな喫茶店。平日は午前九時から夕方の六時までが営業のため、僕のような帰宅部でもない限り、平日には基本入れない。昼間に行けるとすれば休日だけで、僕は二度ほど来たことがあるが、平日に入るのはこれが初めてだった。

 紗弥もここには何度か来たことがあるそうで、店名を出すと、

「あそこかー、愛ちゃんとよく行くよ。良い雰囲気だよね」

 と、にこにこしていた。目立つツーショットだなぁと感想を漏らすと小首を傾げられた。くそう。本当に自覚ないのかこの子は。

 二人席に座り、手早く慣れた感じで紅茶を注文した紗弥を見て、なんとか同じものを頼むことに成功。不自然さは出していないはずだが、どうにも気負けしてる感が否めない。僕が気にしすぎてるだけなんだが……。

 学校をサボって可愛い女の子とお茶を飲みに来てるなんてシチュエーション、いきなり難易度が高すぎないだろうか。

 入店してすぐは僕だけが浮き足立ってしまい、ヘタなところを紗弥に見られないように必死になっていたが、届けられた紅茶を一口啜る頃になるとさすがに落ち着いた。

 紗弥も一口飲み下すと、

「うん、平日に来たのは初めてだけど、いつ来てもここの紅茶は美味しい!」

 とご満悦だ。ここにしてよかった。そう思うに十分な笑顔だった。

 ……なんだこの僕が紗弥に惚れてるみたいな感じ。

 きっとサボった背徳感と店の雰囲気で勘違いしているだけだな、うん。

 とはいえ、いつまでもデート気分でいるわけにはいかない。僕らは目的があってここに来ているのだ。

「っと、ごめんごめん。本題に入らなきゃね」

 空気が読めるとはこういうことか。紗弥は僕の視線一つで意図を察してくれた。

 紗弥のいいタイミングで話が出来るような環境を作ってあげられたら良かったけれど、僕には難しかったようだ。紗弥が聡すぎるのも悪いが。

「まあわかってると思うけど、本題はわたしと未弥のこと。くどいけどね、結局何も教えられてなかったから」

 申し訳なさそうにして、紗弥は本題に入った。

「わたしと未弥が二重人格だって言うのは昨日未弥から聞いたと思うけど、潤くんは二重人格についてどのくらい知ってる?」

「あー、一応僕も予備知識があった方が良いかと思ってさ、二重人格について少し調べてみたけど……途中でやめたよ。変な先入観がつきそうだったから」

「うん。賢明だと思うよ。わたしの話を鵜呑みにしろとは言わないけど、まったく信用されないのはつらいから」

「でも、それでも一応調べてみた感想を言わせてもらえば、僕から言えることはきっと……何もない。僕個人が二人の存在を認知する以外に、僕は何も出来ない」

「それでいいの。これは一から十までわたしたち二人の問題だから。実際わたしはお弁当をわたしのままで渡せていたら、一緒にお昼を食べれていたら、未弥のことは話さないつもりだったし……」

「……そうか」

 それは、どっちが良かったんだろう。

「潤くんも気にしてたみたいだから正直に話すと、わたしがある程度大抵のことをできるって認識をされてるのは未弥のおかげ。未弥はどんくさいわたしの逆で、運動も料理もなんでもできるから、潤くんの言う万能の殆どを担ってたのは未弥のほう」

「それは、紗弥に足りない部分は未弥が、未弥に足りない部分は紗弥が補ってたってことか?」

「うん、だいたいはそんな感じかな」

未弥に足りない物なんて殆どないんだけど。と紗弥は呟いた。そして続けて、

「一応日中はわたし、日が落ちたら未弥が主導権を持ってるけど、一昨日みたいに突発的に入れ替わることもあるよ。学校の勉強も、一応わたしがやってるけど、たまに気まぐれで未弥がテスト受けちゃうこともあるし。うん、そんな感じで色々」

 そう解説してくれた。

つまり、確固として決められた枠組みはなく、勉強面で言えばどちらがやっても今の『和歌月紗弥』の評判を落とす結果を出すことはない、学年トップクラスの成績を維持することが可能だと。

 凄まじいなこの二人一役。

「入れ替わりは任意なのか?」

「だいたいで決められた時間帯以外の交代は、裏に回っている方が主張したときが主かな。そんなこと、ほとんどないけどね」

「理由は、さっき言ってたみたいに気まぐれが多いのか?」

「……うーん」

 その内容は、本来誰にも話すべきことではないのだろう。踏み込ませていい場所でもないはず。紗弥が僕にこうして説明してくれているのは、ひとえに踏み込ませていいラインと、駄目なラインを明確にするためだ。

 曖昧さを許さない、という意思表示。

 紗弥は腕を組んで唸っている。線を引くのに適当な言葉を探しているのか、それとも別の理由か。

「……うん。潤くんはだいたいの予想をつけてるみたいだから正直に言う。でも、試してみようなんて思わないでね?」

「もちろん」

「ありがと。……例外はあるけど、一番わかりやすいのは『異性に触られる』こと。だからゴールデンウィークのときとお弁当のとき、唐突に入れ替わったんだ」

 紗弥が打ち明けてくれた入れ替わりの仕組みは、僕が考えていた仕組みの内の一つだった。考えていた内でも、まさかなと思っていた案だったのだが……まさかの正解。

 だから未弥はあのとき「二度と触るな」と言ったのだ。

 マジかよ、と呟きたかった。

「さっきの傘での握手は、それでか」

「正解。未弥は人との会話が苦手だから、未弥に説明を任せたらきっと途中で逃げ出しちゃうと思う」

 紗弥は未弥の話をするとき、本当に思いを込めて話す。もう一人の自分とも言うべき未弥をどれだけ想っているのかを強く感じる。

 将軌が自分の彼女の惚気話をするときに、少し似ている。

 愛しそうに、慈しむように、仕方ないんだからとマイナス面を受け入れるのだ。

 僕は、そんな紗弥にコメントすることが出来なかった。

「そういえば気になってたんだけど、潤くんはどうしてあの日、校舎にいたの? 補習はないって言ってたのに」

 この質問には、詰まらずに答えられるのに。

「図書室から借りてた本の返却日だったのをその日まで忘れててさ、休日だったけど仕方なく行ったんだよ。紗弥には縁がないかも知れないけど、ここの司書の先生は延滞を絶対許さない」

「そ、そうなんだ……返す度に『はい、確かに』ってやけに重々しく受け取るのはそういうことだったんだ……」

 得心行ったらしい紗弥は、何度もうんうんと可愛らしく頷いていた。……なんでこんな一つ一つの仕草に反応してるんだ。どうした僕。

「紗弥はその日、呼び出されてわざわざ行かなくてもいい学校に行ったのか」

「そ、そうだけど……、その言い方未弥にそっくりだね……」

 もしかして紗弥から何か聞いてる? と紗弥。

「いや、そんなことはないけど。……裏にいるときの記憶はないのか?」

「ないわけじゃないよ。でも、自分の意志通りにはもちろん動かないし、わたし個人としての思考もうまくまとまらないし。んー……ちょっと違うけど、簡単に言うと夢を見てる感覚かな」

「なるほど」

 それはわかりやすい。

「二人での会話ってのはどうやってしてるんだ?」

「寝るときって意識がなくなるでしょ? その意識がなくなる前に、二人の意識が重なるところがあるの。意識だけだからイメージになるけどね。熟睡に入るまでの数分間に、今日はどうだったとか、これからこうしようとか、逆にとりとめのない話とか、色々してるかな。意識のあるときに裏側のどちらかが強い自己主張しちゃうと、頭痛が起きて、最悪入れ替わっちゃうから。鏡とかも、あんまり見ないようにしてる」

 もっとも、未弥のときに異性に触れたところで紗弥に戻ることはないらしい。不意の事態を任せられるのはほとんど未弥で、しかも交代から一時間もしない内に激しい睡魔に襲われるという。

 その強制睡眠後に主導権を握る人格は決まっていない。紗弥に変わるときもあるし、未弥のままだったりするらしい。しかもその睡眠時間は不規則なため、そのまま夜が明けてしまったということも過去に数回あったらしい。

 異性との接触を避けるには十分な理由だ。

「ってことは、弁当を渡してくれたときのあれは……まさかわざとか」

「うん、半分は確信犯。触られちゃったら仕方がないよねって感じだった。保健室で眠れるし、午後の授業も大丈夫そうだったから。触られなかったらそのままごまかすつもりだったけど……つまりどっちでもよかったんだ、わたしは」

「……どういうことだ?」

 どっちでもいいってそんな。今日の晩飯決めるようなテンションで言う話なのか?

「あくまでわたし個人の意見なんだけど、わたしは今のわたしたちの状態が普通だなんてもちろん思ってないし、このままでいいとも思ってない。今は安定してるけど、いつか今回みたいなことをキッカケにしてボロが出るかも知れない。だったら――統合した方がいいのかも……とも思ってる」

「……それは」

 僕がほんの少しインターネットで調べて出てきた、多重人格の治療法。いくつかの人格を一つに、文字通り統合させること。

 そんな考えは、きっと今まで持っていなかったはずだ。僕がボロを出させたから、僕に見つかってしまったから、紗弥はこんなことを考えなくてはならなくなった。

 紗弥と未弥の安定を崩したのが僕だという事実は、揺るがない。

 その事実は、重く大きな罪悪感となって僕を圧し潰す。

「潤くんがどうこうっていうんじゃないよ。いつかああやって迫られたら未弥に頼るしかなくなるってことは、わたしも未弥も気付いてた。任せた結果、わたしたちの異常を誰かに見咎められることもわかってて、目を背け続けたわたしたちが全部悪い。自己責任なの。わたしたちは致命的なまでに、力業ちからわざに弱すぎるのに、対策も何も立てなかったわたしたち自身の落ち度」

 そう言った紗弥の顔は自嘲を含んでいるようで、まるで自分が最初からいなければ――などと考えているように見えて。

「――紗弥」

 両肩を掴んでこちらを向かせようとして――止めた。

 触れた瞬間に、相手は今まで話している紗弥は紗弥でなくなってしまう。

 その上、代償のように強制睡眠さえ強いてしまうことになる。それは僕の望むところではない。

 僕は無様に宙に浮かせた両手をポケットに突っ込んだ。きまりが悪くて目を合わせづらいが、それでも言う。

「どちらがどうとか、今は考えなくていいだろ。二人が今のままでいたいんなら、できる限りそのままでいたらいい」

「……それは、今のままのわたしたちの方が潤くんの思い描く理想の完璧に近いから?」

「違う」

 無感情を装ったような声で紡がれた紗弥の疑問には即答で返した。

 おかしいだろう、どうして今このタイミングで他人の顔色窺ってる?

「今はお前らの都合をお前らのために話してる最中だろうが。僕個人の願望は関係ない」

「そう……だけど……」

 …………。

 ……あー、なんだ、空気悪いな。僕の所為だけど。

 紗弥にこんなしょげた顔させたいわけじゃなかったのに、どうしてか説教臭くなってしまった。

 お互いに気まずくなって紅茶に口をつけてみるものの、少し冷めてしまっていた。気まずさはなくならない。

 ……うーむ。

「とりあえず、僕が言いたいのはさ、今は純粋に友人として紗弥の相談を受けてるつもりだってこと。緊急事態だし、この間の件は棚に上げるつもりだ。宣戦布告とか、あんな戯れ言は気にしなくていい」

「……え、そうなの?」

 紗弥は素っ頓狂な声を上げた。

「え、なにその反応。そこまで意外?」

「だ、だって潤くんはわたしの欠点を見つけるためにわたしと友達になって、そのために仲良くしてくれてたん……でしょ?」

「僕はどれだけ嫌な奴なんだよ……そんな認識で見てる僕によく秘密を打ち明けられたな」

 弱みにつけ込んでゆすられるとか思わなかったんだろうか。……いや、しないよ? 僕はしないけどね?

「……わたしだって潤くんのこと、ちゃんと見てたんだから」

 秘密を明かせる人間かどうかくらい、わかる。

 紗弥はそう言ってくれたのだが、今度は逆に僕が反応に困ってしまった。

「わたしに近付いた動機がなんであったとしても、わたしは潤くんならこの秘密を守ってくれるって信じたから、こうして一緒にお茶を飲んでるんだよ?」

「オーケイわかったわかったわかりましたからそれ以上僕を照れさせるの禁止!」

 少なくとも外へは情報を漏らさないであろうという予想からの発言なんだろうが、言い方って物を考えて欲しい。

 直接的な言葉がどれだけ男子高校生のピュアハートを強く撃ち抜く行為なのか、このお嬢様はご存じないのだ。

 未弥ほどじゃないにせよ、直接的にものを言うのはこの二人共通だった。

 外見だけじゃなくて中身も似てるんじゃないか?

 ……まあ、役割は違っても同じ人間として同じ経験をして育ってきたんだ。似てくるのは当然か。

「僕が紗弥と友達になれたのは去年からクラスが同じで、席が隣になった偶然のおかげだっただろ。僕は別に、積極的に完璧っぽい人を見つけて粗探しをしてるわけじゃない。見くびるな!」

 最後のは完全に逆ギレである。

 ヘタレた結果、宣戦布告を取りやめた風にも見える。あるいはツンデレ。

「つまり! 僕は偶然知り合った可愛い女の子が外面だけじゃなくて内面も性能も素晴らしかったから嫉妬してたんだ! それでどうにか親しみが持てるように、人間らしいダメな部分を見つけたいだけだったんだよ!」

 言った。勢いに任せて考えてなかったことまでぶちまけた。

 そうか、僕はそんなことを考えていたのかと自分で感心した。将軌の慧眼ぶりもなかなか大したものだった。……まああの日将軌にああ言われたからこういう言葉が僕の中から出てきたのかも知れないので、今のが僕の本当の本心かどうかは、まだ謎。

 そして、僕の奇行に対する紗弥の反応は、

「う……うん。そうだったんだ……」

 生返事をしながら店内の様子をしきりに気にしていた。おしゃれな喫茶店で声を荒げてしまった僕に、周囲の客が迷惑していないか確認してくれているらしい。

 優しいなぁ、さすが気配りの出来る女の子は違うなぁ。

 っていうか僕に常識がないだけだった。

 ということで、ふてぶてしく二杯目の紅茶を注文して、話しを続ける。

 話題は哀れな振られ男、工藤に移った。

 将軌がせっかく教えてくれたのに、先日切り出せなかった話題である。

「紗弥。お前はあの日告白してきた男と仲は良かったのか?」

「工藤くん? 話しかけられたときに少し話す程度だったから、そんなに仲が良かったわけじゃないよ。クラスも違うし」

「そうだと思った」

 予想通り。工藤も好意を向けられていると一方的に勘違いした哀れな加害者の一人だった。

 しかし、この女子が男子へ向けて使う「仲良くない」発言はなんと重く鋭利なのか。自分が言われているわけでもないのに胸に深く刺さったぞ。

「工藤くんがどうかしたの?」

 さて、果たして工藤が未弥に逆恨みしていて、病院から抜け出していて、しかも現在行方が知れないと正直に教えた方がいいのだろうか。下手に責任を感じさせるのも、無駄に怖がらせてしまうのも避けたい。まさか本当に襲いに来るなんてことはないだろうし……いや、万一のことを考えるなら一応伝えておいて危機意識を持ってもらった方がいいのか?

「まあ……なんだ、あいつが今入院してるのは知ってる?」

 紗弥はきょとんとして目をぱちくりさせた。知らなかったらしい。

「え、入院って……どうして?」

「あー、工藤のやつその日の帰りに車に轢かれたらしくて――」

「轢かれたっ!?」

「軽トラだけど」

「あっ、えっ、け、軽トラ……か……」

 うんうん、わかるわかる。そういう微妙な反応になっちゃうよね。

「そ、それでも! 大丈夫なの? 工藤くん」

「大丈夫、軽傷らしいよ。入院も検査入院だったらしいんだけど、抜け出しちゃったから問題になってるだけで」

「え」

「あ」

 言っちゃった。これ以上なくスルッと言っちゃった。てへっ。

「ぬ、抜け出した……?」

「あ……うん」

 心の中でかわいこぶってもまったく無駄だった。紗弥は事態を深刻に受け止めていた。

「ど、どうして抜け出したりなんかしてるの?」

「さ、さあ……?」

 …………。

 まずい、どうしよう、紗弥が不審がってしまった。

 僕は考えがまとまらないままに口を動かした。

「紗弥、とりあえず登下校は僕と一緒にしようか」

「なんでこのタイミングでそんな誘い!? わたしもしかして狙われてるの!?」

 墓穴を掘ってしまった。っていうか察し良すぎるだろ、ヒントなんて話の流れくらいなもんだったぞ。

「潤くん、知ってること全部話して。正直に」

 いつも女神のように優しい微笑みをたたえている紗弥の珍しい顔を見ることができたという感動も一瞬。普段怒らない人が少しでも怒ると迫力がすごい。

 正直に、と念を押されているあたり、僕は信用されてないのかもしれない。

 頷くしかなかった僕は、かくかくしかじかと将軌から聞いた情報を流した。

「……どうしよう。もしもわたしのときに襲われちゃったら対処できない」

 補足というか、断っておくと、僕はなにもバカ正直に「病院を抜け出したのは恥をかかせた紗弥(っていうか未弥)に逆恨みの復讐するためだよ」なんて言ったわけじゃあ勿論ない。確認が取れている事実だけを伝えた結果、紗弥が自分で思い至った結論である。

 自意識過剰と言えなくもないが、そういう結論が出るだけの経験を紗弥はしてきているのだろう。

 愛から聞いた話では、振られた腹いせに靴を隠されたりしていたらしいし。

 普通にイジメだ。

「なあ紗弥、まるで未弥なら対処できるみたいな言い方だけど、そんなことないだろ。そういう問題じゃないだろ。お前が言うように襲われるような事態になったら、どっちが表に出てても危険だ」

 運動神経が良いだの、天才型で欠点がないだの、そんなことは関係ない。

 本体的には紗弥と同じく、か弱い女の子なんだから。

「……それじゃあ、どうすればいいっていうの?」

「さっき言っただろ。僕が付き人役をやる。さすがに男が横を歩いてたら、簡単には手を出してはこないだろ」

 ボディーガードとか護衛とか言えたら格好良かったけれど、さすがにその辺は弁えている。役者じゃないにも程があった。

「逆に『オレを振ったくせに誰だそいつはー!』って襲いかかってくるんじゃない?」

「その可能性は考えたくないけど……もしそうなったら正当防衛だな」

 紗弥はくすっと笑った。

「正当防衛って……。潤くん、口実さえ作れれば喧嘩できるの?」

「あっ、バカにしてるな? これでも女子に負けるような体はしてないぜ」

 病弱で体力がないことは内緒。悟らせるわけにもいかない。

「……そっか」

 紗弥は胸元を手で押さえると、目をつぶって深呼吸を始めた。何をそんなに緊張しているのかと勘ぐっていると、「潤くん」と紗弥に呼ばれた。

「わたしはその案、賛成します」

「よしっ!」

「でも、条件を一つ。下校時はわたしではなく未弥になること」

「ああ。……うん? どういうことだ?」

「だから、その案を通したかったら未弥も説得してね」

 そう言うと同時。

 紗弥は急に身を乗り出すと、テーブルの上に何気なく置かれていた僕の手を掴んだ。

「っ……! おい!」

 時、既に遅し。

 僕を見上げるその目は鋭く攻撃的で、その目が既に未弥のものであることを、これ以上なく雄弁に物語っていた。

「……えっと」

 何を言っていいのかわからず戸惑っていると、紗弥――もとい未弥は僕を睨み付けたまま、空いた方の手で自分の頭をくしゃくしゃにした。

 ボサボサになった前髪の隙間から見える目が、より不気味になった。

「おい」

「はいっ!」

 よくわからないが不機嫌そうな未弥には従順な態度を取っておこう。これ以上機嫌を損ねられたらどうしていいかわからない。今の時点で十分どうしてこうなったか、まるでわかっていないのに。

「まずは手を放せ」

「はい」

 放した。

「どうしてあたしが出てこなきゃいけない展開になったのか説明しろ」

「妄想じみた想像になりますが、おそらく僕が登下校のお供を申し出たので、未弥にも許可をもらえと言うことだと思われます」

「なぜそんな話になった」

「先日未弥に振られた工藤というバカな男が、逆恨みで一人になったところを襲ってくる可能性が微弱ながら存在するからです」

「ありえん、あってもいらん。以上だ」

「サーッ! ……ってそうはいかない」

「あ?」

 凄まれた。こんなドスの効いた声がどうして紗弥と同じ声帯から出るんだ。目と声帯は別人のを取り替えてるんじゃないのか。

「どうして。必要ないだろう」

「あるよ。もしお前が襲われたら大変じゃないか」

「お前って誰だよ。あたしか、未弥か」

「両方お前じゃねえか!」

「間違えた。あたしか、紗弥か」

 未弥は真面目な顔をしているけれど、僕はそれにどちらという答えは持っていない。

「どっちでも、どっちもだよ。知ってる女の子が襲われたなんて話は、一生の内で一度だって聞きたくない」

「はん、いい男だねえ清水。確かに知り合いが傷つけられたなんて話は胸くそ悪いなぁ。でも、それがどうしてお前があたしたちを護衛するなんて話に飛躍する? 対策なら他にもたくさん取れるだろうし、その中にはもっといい手もあるだろう」

 確かに。わざわざ僕が直接紗弥たちを守ることはない。女子同士でも、集団で帰る方がよっぽど襲いにくいだろう。

「けど、未弥の存在を知ってる男は、僕だけなんだろ?」

「男の清水よりも女の愛の方が強そうだがな」

「………………」

 言い返せなかった。

 酷く情けない気分だったが、愛を引き合いに出されては仕方がないと納得する自分を見つけてしまい、更に情けなくなった。

「もし襲われる可能性があるとして、お前に愛を横に置く以上のメリットがあるなら考えてやる。残念ながらあたしには探す気さえ起きないが」

「ああ、僕も今言い返すために頑張って考えてるんだが、思い浮かばない」

「情けない奴だな……」

 もっともだが、ここで引き下がって本当に情けない奴になるわけにはいかない。

 なんとか未弥を納得させるだけの材料を揃えたいが……どうすれば。

「あ、清水をそばに置くことによって襲われることはなくなるかも知れない。愛を置くことによって、女二人ならばと油断して襲ってきた犯人を捕まえ、天誅を下すことができる。ほらほら、愛をそばに置くメリットがだんだん増えていくぞ」

「それをメリットに数えるかどうかは意見が分かれる!」

「どこで意見が割れるかなど知るか。今はあたしが法だ」

「なんて圧政だ! 紗弥の心情も少しは酌んでやれ!」

「あ?」

 また凄まれた。いい加減怖い。

「自惚れるなよ。さすがにあたしの存在を知ってるって程度で、紗弥とあたしの関係にまで口出しされる覚えはない」

「……悪い、謝る」

「そんなやつだとは思わなかった。どうでもいいやつから嫌いなやつに格上げだ。良かったな」

 このまま未弥の機嫌を損ねるのはまずい。最悪に最悪を足したら日本語で表現できなくなる。

「……挽回のチャンスをください」

「聞こえんな」

「挽回のチャンスにお供をさせてください!」

 下げた頭を傘の取っ手で殴られた。ここ、店内なのに……。

「どうしてそうなる。なんだお前、そんなにあたしたちが心配か」

「当然。もちろん。当たり前」

「紗弥のことが好きなのか?」

「……え?」

 これは予想外の展開。

 まさか未弥から突っ込まれるとは思わなかった。

「どうなんだ」

「……め、明言はしかねる……」

「ちっ、ヘタレめ」

 おっしゃるとおりだが本心だった。この気持ちを恋だというのなら、未弥にだって同じ思いを抱いている。

「おおかた、振られるのが怖いんだろう? あたしが誰とも付き合う気がないって断ったのを、お前はその目で見てたんだからな」

「確かに勝ちの見えない勝負をする趣味はないが……そうじゃない。危なっかしいんだよお前ら。純粋に心配なんだ」

「ふーん……」

 未弥の反応は芳しくない。

 どうしたものか……。

「心配……ね」

 ぽつり、と未弥が呟いた。

「え、なんだって?」

 聞き返すが、未弥からの反応はない。

 ついに僕は存在自体を認知されなくなってしまったのか。

「許可する」

「……はい?」

「お前の要求呑んでやるって言ったんだよ。本当にいざって時になったら盾にしてやるから。覚悟しろよ」

「……え、何この流れ」

「じゃあ用は済んだな。帰る。会計は任せた」

 未弥は財布から千円札を一枚抜きだしテーブルに置くと、止める間もなくさっさと店内から出て行ってしまった。

 そんなこんなで、僕の希望は釈然としない内に叶ったのだった。


第五章 完璧であればあるほど脆いのが道理


 態度こそ素っ気ないものの、未弥も一度はきちんと自分の意志で同意してくれているのだ。僕の下心皆無の好意が伝わった結果なのだと信じたい。違うんだろうけど。

 ところで一緒に登下校と行っても、特別な寄り道をするわけじゃない(むしろ積極的に寄り道をしないようにしている)ため、面白いことは何もない。紗弥曰く徒歩二十分の距離で、なかなか運動する時間が取れない日々の中で、ちょうど良いウォーキングの時間になっているらしい。

 しかし未弥にとっては、

「だるい。歩くなら歩くで一時間は歩いていたいのに……中途半端な距離を歩いたって暇なだけだ」

 とのこと。だから今までは紗弥に歩かせていたとも。

「暇ならほら、ここに話し相手がいるじゃないか」

 立候補するように挙手するが、未弥は横目で滑稽な僕を一瞬だけ視界に入れると、一笑に付した。ニタって感じの、マゾなら大喜びしそうなくらい嗜虐的な笑みだった。愛よりも酷い。繰り返すようだが僕はノーマルなのでゾクゾクしない。

 僕としてはせっかく未弥と接触できているのだから、色々な話をしてみたい。未弥にその気はまるでないようだけど、なんとか会話のキャッチボールに持ち込みたい。

「未弥、ちょっといいかな」

「よくない。喋るな」

 バッサリだった。投げ返しちゃくれない。

「未弥に聞きたいことがあるんだ」

「あたしが答えたいことはない」

「…………」

 取り付く島もないとはこのことか。僕はあくまで付き人であって、口をきける立場にないのか。

 最後の手段。

「紗弥のことで、だ」

「………………………………なんだ」

 たっぷり沈黙した後、ようやく未弥は聞く態勢を取ってくれた。この球も投げ返してもらえなかったらお手上げだっただけに、こっちとしてもようやく胸をなで下ろせる。

「学校での評価だと、紗弥は愛並みに勉強も運動もなんでもできるって認識になってるんだが、実際の運動面は未弥の手柄で、紗弥はそうできるわけじゃないんだっけ?」

「まあ。そりゃ、人間なんだから苦手なものや出来ないことの一つや二つはあって当然だろ。なんでもできてなんでも得意なんてやつ、いるわけがない」

「それは……僕と全く同じ意見だが。それなら未弥は?」

「あん?」

「未弥のできないこと――っていうか、苦手なことって何?」

「教えると思うか? 自分の弱点晒すわけないだろう」

「ってことは、あるんだ?」

「さっき言った。何でも出来る人間なんていない」

 今更になるが、僕が掲げる完璧超人の定義は簡単だ。

 顔が良い、頭が良い、運動が出来る、そして人に迷惑をかけないという最低ラインに引っかからない程度に性格が良ければいいだけ。簡単に言ってしまえばその四つが高水準であれば、僕の敵対対象である完璧超人に該当しうる。とはいえ顔の造形なんて整ってさえいればあとは好みの問題になるし、頭が良いというのも、単純に成績が良ければいいというものではない。運動に至っては走るのは速いが球技はからっきしなんて人はざらにいる。細かいことを言い出すとキリがないのでそこは僕が勝手に決めた基準ということで納得してほしい。

 言葉にすれば単純明快。つまり、才色兼備が僕の敵。たまにいるんだ……容姿が良くて、ほとんど努力もなしに人並み異常のことが出来る奴っていうのは。

 頑張って人並みになろうとしてる僕を、バカにしているとしか思えない奴らが。

 そういえば、と僕は疑問に思ったことを聞いてみる。今なら答えてくれるだろうから。

「あれ、紗弥が未弥に代わった後はしばらく強制睡眠になるんだろ? じゃあ体育の時間ごとに入れ替わってたら次の授業に出られないじゃないか」

「別に毎回あたしが代わってやってるわけじゃない。紗弥がまったくの運動音痴ってわけじゃあないし、たまにあたしの気まぐれでいい動きを見せてしまえば周りは勝手に勘違いしてくれる。そうか、今日は本気を出さない日なんだなって」

「それはそれで本気でやってる紗弥が可哀想な気もするけどな」

「それはお互い様だろう」

「……確かに」

 頑張らなくても手柄がもらえる紗弥と、どんなに頑張っても自分の手柄を認知してもらえない未弥、か。

 どっちがつらいんだろうな。

 って、これじゃあ会話が終わってしまう。

「それで、未弥は何が嫌いなんだ?」

「全然さりげなくないぞ」

 ダメだったらしい。もうこうなったらやけだった。

「当ててやる。未弥、僕のこと嫌いだろ」

「よくわかったな。はは、褒めてやるよ」

「棒読み過ぎる! なんだよ、しかも本当にそうなのかよ。じゃあなんで僕の提案了承したんだよ」

 未弥が言葉を詰まらせる。答えることはできるが、僕に言っていいものかと疑っているのだろう。あのジト目は間違いない。

 やがて、目を逸らさない僕に根負けした未弥は諦めたようにため息をついて言った。

「……紗弥がどうしてもって言うから」

 その口調は、どこか拗ねるようだった。

「あたしは、積極的に人との関わりを持ちたくない。人と話したり、共同で何かを為すのが嫌でたまらない。だから、本当はこうしてお前なんかと話しているのも苦痛だ」

「きっつ……」

 面と向かって「お前と話すのは苦痛だ」と言える人間が、この日本にいったい何人いるだろうか。人は一人では生きていけないとさっき言ったのも未弥のはず。なのにこの態度はまるで、針を逆立てて他者を寄せ付けないヤマアラシの威嚇だ。

 この距離は遠すぎる。未弥は僕が隠し持っていると勘違いしている針を、過大評価しすぎている。僕の針は短いから、もっと近くに来てくれても大丈夫だと言ってあげたいのに。

「あたしには紗弥だけいればいいんだよ。普段紗弥の目線で世界を覗いて、たまにわがまま言ったときにだけ、この世界に触れることが出来ればそれだけでいい。他は総じて邪魔な雑音だ」

 未弥はさらに、僕を近づけないように針を伸ばす。

「あたしには優先順位は存在しない。紗弥以外は、あたしを唯一知っている愛でさえ、言ってしまえばどうでもいい。紗弥が必要だと言うから友人として付き合っているだけで、あたし自身こだわっているわけじゃない」

 よって、お前も同じだと。おかしな期待をしても無駄だと言外に告げられる。

 僕の一歩先を行き、歩みを止めず、こちらを振り返りもしない未弥の声は淡白で、なんの感情もこもっていない。

 だから、僕や未弥に興味がないと言う言葉にも、とても説得力があった。

 けれど。

「それは、未弥が紗弥と体を共同で使っているから?」

「紗弥に対して不満はない。あたしに代わって、学校なんて退屈な箱庭でのコミュニケーションを喜々として毎日やってくれてるんだからな。最近はあたしのしたいことには反対もしないし、要求はしても強制はしてこない。こんな好待遇で不満なんてあるわけがない」

「強制されてないのにこの状況ができたってことは、未弥もそれを望んだからじゃないのか?」

「紗弥が望んだからあたしが叶えてやっただけだ。自惚れてんじゃねえよ」

 未弥の口調が荒くなった。

「あたしは面倒なんだよ。自分から全て切り離して全て忘れたんだ。今更紗弥以外はあたしに必要ないのに……肝心の紗弥がそう思ってくれていない」

 そのときの未弥の顔が、どうしてか幼い日の自分に重なった。

「紗弥はあたしに友達を作らせたがってる。まず愛がそうだ、さすがに紗弥に初めてあたしを紹介させただけあってあいつは普通じゃなかったし、中々話せるやつだ。だが、特別扱いするには遠い。あたしとしては、紗弥と愛の二人もいれば多すぎるくらいなんだが……紗弥はお前を、三人目にしたいらしい」

「未弥は」

 それは単純な疑問。どうして、と。どうしてそんなに頑なに拒むのかと、何をそんなに諦めているのかと僕は問う。

「未弥はどうしてそんなに、人を嫌うんだ?」

 饒舌になってくれている今なら、答えてくれると思ったんだ。

 僕が聞いてあげることで、未弥が少しでも楽になれたらと思って出た言葉で、野暮な好奇心などでは断じてなかった。しかし、

「教えない」

 未弥は、再び僕から距離を取った。薄く笑うその顔は、僕をまるで信用していないことを雄弁に物語っていた。

「あたしの過去の不安を聞き出してどうするつもりだった? 同情でもしてくれるのか? それともカウンセラーの真似事でもして、あたしの心の傷を掘り返して満足したかったか? ――ふざけるなよ」

 未弥は僕の思考を先回りしていた。それも、ひどく悪意的に。

「違う、僕はただ――」

「残念だが、時間切れだ」

 ここまで一度も歩くのを止めなかった未弥の足が、初めて止まった。

 時間切れ――それは、目的地である和歌月家への到着を意味していた。

 和歌月家は、ごく普通の一軒家だった。

「あたしからお前に求めるものは何もない。謝罪や弁解は必要ないし、誠意も見せなくていい。あたしにわかり合う気はないが、それでもいいなら好きに後を付けてくればいい。紗弥が言うから許可してやるよ」

 そう言って未弥は、別れの挨拶もしないまま、自分の家に帰っていった。


 陰鬱な気分のまま自室まで帰ってきて、この後に待っているであろうさらに疲れる展開を予想したら、自然にため息が零れた。

 さっさとアレを追い出してベッドに倒れ込みたい。

 どうせ鍵は開けられていると高をくくっていたので、僕はそのままドアノブをひねった。

 しかし、予想に反して開かなかった。

「……もしかして」

 もしかしてもしかすると、今日は中にいないのか? いや、内側から鍵を閉めているだけということもあり得る。

 面倒臭さを感じつつ、部屋鍵を取り出し開けてみるも、やはり中には誰もいない。警戒する僕を嘲笑うかのようにもぬけの殻だった。

「バカみたいだな」

 ほんの少し、わずかに、ごく微少ではあるものの、確実にがっかりしている自分がいた。嫌よ嫌よも好きの内、とは少し違うが、日頃あれだけどついたり、拒絶したりしているものの、嫌いなわけではない。誤解を恐れずに言えば、妹として普通に好きだ。家族としてなら愛していると言ってもいい。よく気が付くし、くるくると変わる表情は見ていて飽きない。

 なにより、歪んだ形ではあるもの、僕のことをあれだけ慕って積極的にスキンシップを取ってくれるのだ。たまに鬱陶しく感じることはあっても、気分が悪くなるなんてことはない。

 言うとすぐに調子に乗るから態度には出さないが、嬉しいと思うことも多々ある。

 何かあったのか、それとも何もなかったからか、今日は部屋に雨がいなかった。

 労せずベッドにダイブするという目的が果たせることに一抹の物足りなさを感じていると、後ろから足音が聞こえてきた。

 気付かないふりをして、後ろ手でドアを閉めようとするも阻まれ、次の瞬間には僕の腰に誰かが抱きついてきた。

 誰かというか雨だった。見なくてもわかる。

「おかえり、潤」

 ただ、いつもより声が柔らかい。昨日までのただハイテンションなだけのノリとは違い、僕の腰に回された腕もすぐに取れてしまいそうなくらい優しく巻き付けられているだけだ。

 やはりなにかあったのだろうか。

「雨?」

「なあに?」

 後ろから柔らかく抱き締められると反応に困る。逆に強く抱き締められればその分強く抵抗することもできるのに、こんな風に弱々しさを演出してくるのは、ずるい。

 だから皮肉を込めてこう言った。

「今日はいつもと攻め方が違うんだな」

「んーん、今日はそういうんじゃなくって……」

 雨は僕の背中にこつんと頭をくっつけて、甘えた調子で返事をしてきたので、僕としてはなおさら困る結果になった。

「何かあったのか?」

「私自身には何もないけど……潤が」

「僕が?」

「潤が、本格的に和歌月さんと付き合っちゃいそうだから、切なくてジェラシーでたまらないのです」

「…………」

 そうかなぁ……?

 でも一緒に登下校してるわけだし、端から見ればそうも見えるのかもしれない。

 実際はただ、身を寄り合わせてるだけなんだけど。

「最近、潤もなんか丸くなっちゃったし。前はもっとひねくれてたって言うか可愛かったのに……今は普通に男らしい感じになっちゃって」

「……それは褒めてるのか?」

「どんな潤でも私は好きだけど、みんなに好かれそうな潤は競争率高くなるから個人的にはあんまりなって欲しくないかな」

「……お前は妹だろうが」

「今まで家に帰れば構ってくれたお兄ちゃんが取られちゃうーって思うのは、妹として持ってても自然な感情だと思うけど?」

「それは……」

 確かにそうかも知れないが。

「寂しいよー、潤が取られちゃうよー、嫌だよー」

 背中に押しつけられた頭をぐりぐりされた。妹相手に異性を意識することはないが……仕方がない、少し優しくしてやろうか。

 僕の腹部辺りに回されている雨の手を取り、それを握ったまま僕は雨の正面に向き直った。

 そこには背伸びをして上を向き、目を瞑って、唇を突き出した雨の間抜け顔が待っていた。

 チョップをかました。

「痛い……思春期の女の子の大事な顔になんてことを……」

「やかましい。珍しくしおらしくしてると思った早々に馬脚を現しやがって」

「だって……あんなに優しく手なんて握られたの初めてだったから……」

 知ったことではない。こいつには反省も成長もないらしかった。一瞬でも心が揺れた僕はやっぱり甘ちゃんなのかも知れない。

 雨はおでこを片手で押さえながら部屋のドアを閉めて、施錠した。

「だからなぜお前はいつも鍵を閉める」

「途中で邪魔されたくないからに決まってるでしょ」

「なんの邪魔だよ」

「大事な話」

 また唐突に、雨の声のトーンが変わる。

「今日、紗弥さんと一緒に登校してきたでしょ? 帰りも送ってきたの?」

「まあ、そうだよ」

 ここで嘘をついても何もならない。素直に答えた。

「この送り狼ーって罵りたいところだけど、話が進まないから我慢するね」

「賢明だな」

「それで、どっちだったの?」

「どっちも。朝は紗弥で、帰りが未弥」

「……おおぅ。潤が順調に二股をかけてる……」

 確かに今の言い方では人聞きが悪すぎた。まあ、実際その通りなのかも知れないが。

「二股って言うには、片方の好感度が足りなすぎる気がするけどな。紗弥はまあ普通に友達だからともかくとして、未弥の方にはもう、隣を歩かれるのも不愉快だみたいなこと言われたよ」

「きっつ……」

 この辺りはさすが兄妹。雨の反応は僕のそれとまったく同じだった。

「未弥曰く、僕というか人間自体を嫌いらしいんだが……それにしても、な? きついよな?」

「浅い知識で申し訳ないんだけど……二重人格って、幼少期のトラウマから生まれるケースが多いんだって。辛い経験とか、嫌なことをもう一つの人格に押しつけて、自分の心の平穏を保とうとする――みたいな。過去に人間不信になるようなことがあったのかもね、紗弥さん。……まあ、そんな単純なだけの話じゃあもちろんないだろうけど」

「……それ、もしかして自力で調べてくれたのか?」

「勘違いしないでよね、紗弥さんのためなんかじゃないんだからね。あくまで私は潤のためだけを思って潤の力になるためだけに調べたんだからね」

「デレデレすぎる……」

「でも、鵜呑みにはしないでね。これはあくまで例。原因なんて一人一人違うはずだから、ケースとかパターンで捉えて行動したらきっと失敗する」

「わかったよ、ありがとな」

 頭を撫でてやると、雨はくすぐったそうに目を細めた。

 幸せそうな顔しちゃってまぁ……。

 なんだか僕がその気もないのに雨をたぶらかしているような、よくわからない罪悪感に似たものに襲われたので手を離す。

「ま、未弥ともこれから仲良くなれるよう頑張ってみるよ。お前には悪いけどさ」

「そ」

 意外にも、雨は素っ気ない反応を返した。

「あんなに食いついてきてたのに、どうした。飽きたのか?」

「んーん。別に、今更一号を狙う必要はないかなって。一緒にいる年月で私に勝てるライバルはいないし、潤が私を愛してさえくれればいいの」

「なんて嫌な達観だ……」

「だから、無理だけはしないでね。体を壊すような真似だけはやめて?」

「心配しすぎだ。なんともないよ」

 雨は頷いてくれた。そこから上げた顔にはもう憂いはなく、いつもどおりの快活な雨がいた。

「ま、どっちの和歌月さんにしても、疲れたら私のところに来ていいからね? ていうか来てね? 蝶々夫人ばりに待ち続けてるから」

「僕には現地妻作るような度胸も甲斐性もねえよ」

 それ以前にそんな不誠実な真似はしねえよ。

 こうして疲れ果てた今夜も更けていき、夢さえ見ない眠りに就く。


 朝の登校は紗弥と一緒だ。僕は紗弥に時間を合わせると提案したのだが、「せっかくだから潤くんの行く時間に合わせたい」と言ってくれたので、僕は今まで通り、雨の後に家を出ている。

 待ち合わせは、以前学校をサボった日に待ち合わせたあの場所だ。

「おはよう、潤くん」

 朝外に出て、一番始めに見るのがこの笑顔。これだけで一日どころか一週間は頑張れちゃうんじゃないかと思えるくらいのヒーリング効果をもたらしてくれる紗弥に、僕もおはようとあいさつを返す。

「毎朝、ちょっと早くないか? いつも待たせちゃって悪いから、もう少し遅く出てくれてもいいのに」

「ありがとう。でもね……待ってるのって不安だけど、楽しいから」

 紗弥はそう言って、僕の顔をのぞき込んでくる。

「だって、潤くんは必ずこの場所に来てくれるんでしょ?」

「もちろん」

 当たり前と言えば当たり前すぎること。

 こんなことの確認が、紗弥との会話では必ず入ってくる。

 紗弥は少し心配性の気があって、不安なのかなんなのか、「今日は二限にテストがあったよね、勉強した?」とか、「今日は五限で視聴覚室に行くんだよね、何を見るのかな」とか、やたらと予定を確認したがる傾向にあった。

 未来のことを不安に思うことは、人としてはわりかしまともな思考だと思うが、紗弥の場合はそれが少し過剰に思える。

 そんな紗弥に、これからいつ工藤が襲ってくるかわからない、なんて。

 言わない方が良かったのかもしれない。

 未弥とは違い、紗弥はほとんどその話題には触れない。だから僕からその話題を振ることは少ない。

 従って、僕らの話題は自然、未弥のことが中心となる。

「未弥ってずっと無愛想で、適当に髪をいじったりしてるでしょ? もしかしたら潤くんに粗暴な印象を持たれてるんじゃないかなって心配してるんだけど、どう?」

「ああ、雑な性格なのかなって思ったよ。ちょうど紗弥とは正反対な感じでさ」

「やっぱり。でも、正反対は言いすぎかな。わたしと未弥はそんなに違わない。未弥よりもわたしのできることが少ないくらいで、他はほとんど変わらないって言っていいと思うよ」

「口調とか癖とか、個人の雰囲気を作るものはだいたい違うんだけどな」

「それはまあ、一応別人ですから」

 未弥のことを話すときの紗弥は楽しそうだ。他のなにをするときよりも、ずっと。

 体を共有して使っている感覚というものは、僕には想像もつかないものだけど、やっぱり普通の人付き合いとは全く違うものなのだろうか。

 僕の想像では、世間で言う『お隣さん』のイメージが限界。そう簡単に引っ越すこともできないし、せっかく隣にいるのだから仲良くしたい。喧嘩なんてしてしまっては、毎日が憂鬱になってしまう、みたいな。

 紗弥の様子を見る限り、こんな消極的な理由じゃないと思うけど。

「でもね、実は驚いてるの。未弥が潤くんとの下校をするって決めたこと」

「……え? ごめん、ちょっとぼんやりしてた」

 そんな僕に紗弥は少し拗ねたふりをして、

「もー。だからね、人間嫌いの未弥が潤くんと一緒の下校なんて、許可するはずないって思ってたって言ったの」

「ああ……人間嫌いってのは本人からも聞いたけど。酷いな、成功すると思わなかったのにあんな状況作ったのか?」

「成功する確率は一パーセントくらいかなって思ってたよ」

「やっぱり酷えよ!」

「でも、潤くん以外の人なら、誰がやってもゼロだった。潤くんじゃなかったら、計算自体が成り立たなかったんだよ」

 だからごめんね、利用しちゃって。と謝られた。

「いや、紗弥が謝ることじゃない。登下校を一緒にしたいって言い出したのは僕だし、タイミングはともかくとして、未弥にも了解を得るのは当然の筋だ」

「……うん、ありがとう。……でも」

「ん?」

「未弥が人間嫌いを克服しちゃったら、わたしはもういらないかも」

 それは僕に向けられた言葉ではなかった。横を歩く紗弥は進行方向をぼんやりと見つめていて、それっきり次の言葉を紡ごうとしない。

 紗弥がいらない? そんな簡単に、自分をいらないなんて言えるものなのか?

 片方が残っていればいいと、そういう思考になってしまうものなのか?

 わからない。価値観が合わない。

 僕がなにを言うべきかと、紗弥の方に顔を向けながら頭を悩ませていると、紗弥越しに見える道路の反対側に、見つけてしまった。

 工藤がいたのだ。

 近距離と言うほどではない、しかし視認できる距離に、確かに工藤がいた。

 服装はジーンズにシャツというラフすぎる格好。もはやワックスで頭を固める気力もないのか、髪はボサボサのままで、まるでセットされた形跡がない。

 なにより、特筆すべきはその目である。

 何かを探すように、足下、道路標識、建物、空の景色を全て確認しているかのような注意深さで顔を動かし続けていた。

 見たことはないが、俗に言う薬物中毒とはこういう人のことを言うのかと、勝手に納得した。

 目を合わせてはダメだと、誰もが直感できると思う。少なくとも僕はそうだった。

「? どうしたの、潤くん」

 僕の緊張が伝わってしまったのか、紗弥が首を傾げる。

 まずい。幸いなことに工藤はまだこちらを見つけていない。見つけた途端に襲いかかってくるなんてことはまさかないだろうが、それでも見つからないに越したことはない。

「やばい、宿題やってくるの忘れてた」

「なんの宿題?」

「化学」

「一限じゃない! 急がないと!」

「ごめん!」

 僕の咄嗟の言い訳をなんの疑いもなく信じてくれた紗弥は、僕と一緒に学校まで軽く急ぎ足をしてくれた。

 うん、これくらいなら僕でも追いつける。

 結果として、最後まで工藤に見つかることはなかったが、一緒に登下校している本来の意味を再確認させられた。

改めて気を引き締めていこうと心に誓った。


 数日、長くても一週間くらいの短期間で済むと思われた紗弥と未弥との登下校は、遂に二週間目に突入した。

 楽しくおしゃべりをしたり、一言も発せない緊張感の中で黙々と歩幅を合わせることに専念するだけの道を楽しむ努力をしたり、思ったよりもずっと有意義な時間だった。しかし、本来の目的を思い出してみれば、収穫はゼロ。

 一応護衛というか、ボディーガードの真似事で周囲に気を配って歩いてきたが、不穏な影を感じたことはただの一度もない。

 周囲を気にしながら歩くというのは、想像よりもずっと精神的に疲れる。早寝の習慣がついたのは雨の所為も大いにあるが、登下校での疲労感が何倍にも膨れ上がっているからというのも理由の一つだ。

 成果の出ない地道な行動は正直、だれる。

 自覚症状が出る程度にはストレスも感じていた。

 だから、僕は昼休みにいつも通り将軌と机を並べて弁当を食べる際に、

「何も起こらないじゃねーか」

 と八つ当たりした。

「……平和の何が悪いんだ?」

 まあ、こう返されるのは予想通りだし、将軌の言い分が正しい。

 僕も別に、本気で工藤が紗弥か未弥に襲いかかったところを助けて「わーい僕ヒーロー」なんて展開を望んでるわけじゃあない。

 ただ、このまま何も起こらず、僕の言葉が完全にデマだと思われるのも困る。

「そもそもの、将軌が言っていた噂の信憑性はどのくらいだったんだ? あの時はその辺確認してなかったよな」

「そこはお前の落ち度だが、信憑性は……どうだろうな。俺は工藤の元仲間が言ってるのを聞いただけだから、そう高いもんじゃないな。頭に血が上ってたんだとしても、もういい加減冷めたんじゃないか? 本当に襲う気ならもう行動に移ってていいだろ」

 確かに、もう十日以上が経過している。

 沸騰した頭が冷めるには十分な期間だ。

「で、問題なのはいつまで二人での仲良し登下校を続けるかだよな」

「そうなんだよな」

 なんて話をしたからだろうか。

「あのさ。今更なんだけど、工藤は本当にあたしを狙っているのか?」

 その日の帰り道、ついに未弥から言われてしまった。いつか聞かれるとわかっていたものの、将軌と話をしてからもいまだに言い訳を思いつけていない問い。

 苦笑いを浮かべる僕にうんざりしたように未弥はため息をつく。

「あー、別に叱る気はないよ。まったくの嘘偽りでした、ただただ清水潤は和歌月紗弥と登下校デートを楽しみたかっただけですって言っても許してやる。あたしはただ、いちいち襲われる可能性を考えて、これからも毎日警戒しながら歩かなきゃいけないのかを確かめたいだけなんだ」

 疲れるんだよ、と未弥はもう一度ため息をついた。

 家から学校までの短い距離とはいえ、気を張らなければならないのは僕だけではない。紗弥、未弥にも同様に負担を強いているのだ。僕でも疲れてしまい、早寝が習慣付いてしまっているとなれば、実際に狙われている当事者の紗弥や未弥の精神的負担はどれほどか。

 少なくとも、僕の比じゃないだろう。

 僕がいること自体、ストレスと言われていることだし。……だがまあ、実はなんだかんだと言われながらではあるが、あの日以上にきつい言葉を浴びせられたことは一応ない。

 少しは心を開いてくれて、少しは僕にも慣れてくれた成果だと思いたい。

 だからこそ迷う。脅威が過ぎ去った証拠も保証もどこにもない。だが同様に、そもそも脅威などあったのかと言われて、強く肯定することもできない。

 ならば、未弥にはもう警戒することはないと伝えてやったほうがいいのだろうか。

 未弥には、紗弥との交代のリズムを崩させている。これも大きい負担と言えるだろう。

 しかし、万が一、億が一を考えるならば――

「潤」

 思考は未弥の一声で強制停止させられた。

「変な気遣いはいらないから、正直に、ありのままの事実と、潤が感じてることを素直に教えてくれ」

「……了解」

 正直に白状するしかなさそうだった。

「僕が最後に見た工藤の印象で言えば、何かやらかすとしか思えない狂いっぷりだった。それと、工藤の今までの素行の悪さと、病院を抜け出したっていう事実から、『和歌月紗弥』が八つ当たりの標的にされるだろうと判断したから、今こうしてる」

「ふーん……」

 未弥は目を細くして僕を見た。真意を見定めようとしたようだが、どうやら失敗したらしい。諦めたように首を軽く振ると、いつものように髪を掻き乱した。

「信じてもらえた?」

「少なくとも、清水はバカ正直に感情を態度に出す奴じゃないってことはわかったから、今はもういい。とりあえず今の言葉は信じとく」

 棘のある言い方ではあるが、口調は平時よりも緩やかだ。

 いつものように何も言わずに歩き始めてしまった未弥に安心感を抱きながら、僕は二歩後ろを付いていった。

 この日、僕らは初めて真っ直ぐ帰らずに寄り道をする。まあ、そんなに大げさなものではなく、途中でアイスクリームを一つずつ買って、公園のベンチに座って食べただけだが。

「アイス、好きなのか?」

「……まあ、普通以上には思ってる」

「っていうか甘党だったりする?」

「なんだ、子どもっぽいってバカにしてるのか?」

「いや、そうじゃないけど……苦手なものとかばっかり訊いてたから、好きなものを知るのは初めてだなって思ってさ」

「……ふん」

 また機嫌を損ねてしまったかと心配したが、杞憂だったようだ。甘党であることも否定はしなかったし、弱みを見せるのはダメでも、好みは隠さない方針らしい。

 しかし、弁当に入っていたタコさんウインナーと今回の件から、本当に子どもっぽいところはあるんだなと思ったのは絶対に内緒。

 バカにしてるつもりは微塵もないが、未弥は面白くないだろうから。

 未弥は久しぶりだというバニラアイスに珍しく喜んでいたが、僕はなんだか本当のデートのようだなんて余計なことを考えてしまった所為で妙に緊張してしまい、せっかく同じバニラを買ったのにおいしさを共感できなかった。

 未弥があまりにもおいしそうに食べるので、僕の分のアイスも差し出すと遠慮なく頬張ってくれた。素直なお礼も聞けたので僕も満足だった。

 お礼とか言えるんだ、なんて思ったのも絶対に内緒。

「清水、次からは違う味を選べ」

 喜色満面の未弥に、機嫌良く声をかけられた。

「なんですかそれは、僕とは同じ味のアイスを食べるのも嫌ってことですか」

「何をいきなり卑屈になってるんだお前……。いいか、あたしはここのアイスを全種類食べ尽くすことに決めた」

「いつ」

「今」

「相変わらずの女王様っぷりで……」

「そこでだ。一日一種類では効率が悪い。かといって二つ買っても食べきれないとたった今学んだ」

「だから、僕が未弥と違う味を買って、未弥が残した分を食べればいいと?」

「賢いじゃないか」

 あの店はアイスの種類が豊富なのが売りで、全二十八種ものバリエーションが存在する。

 一日二種類ずつでも十四日。平日だけ数えると二週間と半分の期間、ほぼ毎日アイスを食べる計算になる。

「せっかくの提案だが、断る」

 僕の即答に未弥は固まった。まさか断られるとは思わなかったんだろう、楽しそうに笑っていた顔がきょとんとしている。いつもの不機嫌そうな悪人顔とのギャップが激しくて、見慣れない顔がかわいく見える。恐るべきアイスマジック。

「……ちゃんと残すぞ?」

「かわいらしい勘違いだけど、問題はそこじゃない」

「そんなにあたしとの間接キスが嫌か。……傷つくな。清水は潔癖症だったか」

「そこはむしろ一人の男としてご褒美だが」

「……なら、どうして」

「ほら、僕はそこまで甘党なわけじゃないからさ。そんなに毎日食べられないよ」

「…………」

 疑われてる。未弥はその態度を隠そうともしない。

 未弥からのこの申し出は、工藤という脅威が確認できない今でも、この先二週間半は一緒に下校してもいいという意思表示でもあった。あくまで僕の解釈だけれど。

 でももし本当にそうだとしたら、あの未弥が、僕に歩み寄ってくれていると言うこと。

ならば余計に僕の拒絶は予想外だったろうし、面白くないだろう。

 どうする、僕の体のことをここで話すべきか。

 別に言うほど大したことじゃあないけど、できれば言いたくないなぁ……。

 こうして遠慮なしで僕と話してくれる未弥をなくしたくない。

 自分の二重人格のことがあるから、病気に関しては人一倍敏感かもしれないし。

 けれど、僕は紗弥と未弥の秘密を偶然ながら知ってしまっている。ならば僕も、たとえそれが秘密と言えるような大層なものでないとしても、話すのが筋だと思わなくはない。

 ……実際は、単に僕が打ち明けたいだけなのかも知れないが。

 現在僕の病状を詳しく知っているのは、僕と僕の家族と将軌、そして愛だけだ。他の人はまあ、僕が体育を全て見学をしていることなんかを不思議がってはいるが、無神経に踏み込んでいいところではないと判断してくれているんだろう。実に助かっている。

 しかし……未弥に対しては――

「清水? 何か体のいい言い訳を考えているようだが、嘘をつけばわかるぞ。無駄な抵抗はやめて正直に話せ」

 これである。ハッタリであるかどうかは判断できないけれど、少なくとも僕個人として、未弥に嘘はできる限りつきたくない。

 ……話すか。些か以上に間抜けなシチュエーションだが、どうせ大した話でもないし。愛のように、ただただそういう事実があるのだと認識して受け入れてもらえると信じよう。

「実は僕、軽度の心不全だからあんまり水分や塩分を取っちゃダメなんだよね」

 未弥の目が面白いくらいに見開かれて、未弥どころか僕らの周囲の空気が凍った。

「……心、不全だって……?」

 う……少しまずい感触だ。

 しかしここまで来たら後には引けない。今更嘘だったなどと言えるはずもない。

「軽度だけどね、軽度。軽い運動ならしても構わないって言われてる程度で、アイスだって毎日じゃなければ、考えなしに食べたりしなければ大丈夫だから」

 こんな感じに、僕は自分の身体のことを簡単に説明した。だってほら、「NYHA II度」とか言ってもどうせわからないだろ? 僕だって詳しく説明できないし。

「……生まれつき、なのか?」

「まあ、うん。自覚が出たのはもちろん物心ついた後だったけど……」

 と、簡単にかくかくしかじかと説明した。今までの僕の生涯で、自分の病気の説明をする機会は何度かあったが、その中では今回が一番簡潔に、ライトに表現できた気がする。

 これならば、そう重く受け止められることはないだろうと、そう期待した。

 しかし、意外なことに、というより残念なことに、未弥は僕の期待に応えてはくれなかった。

 未弥は、今まで一緒に過ごしていたからこそ、嘘だと疑われても仕方のないこの話を茶化すことなく真剣に聴いてくれて、聴き終えた今は、僕の言ったことを整理するように沈黙している。俯く表情には陰りが見える。

……重く受け止められたらしかった。

ミッション失敗。

「……ようやく、お前があたしたちにこだわってた理由がわかった気がする」

「いや……だからな? そんなに危険性の高い方じゃないんだって」

「しかし、不整脈なんかでの突然死の可能性は常人の何倍もあるんだろう?」

「…………」

 こいつ……なんでこんな医療関係の知識にまで明るいんだよ。

 未弥は静かに、呟くように言った。

「色んな制限を生まれつき課せられているお前には、自ら制限を付けたあたしを恨む権利があるよ……そりゃ、許せないよな」

「……いや、未弥個人に対して恨むとか許せないとか、そういう感情はないけど」

「本当か? 嫉妬もなにも起こさないか? あたしはこの通り五体を自分の思考通り的確に不備なく動かせるぞ。思うままに思うことが出来るんだぞ? 羨ましいと思うだろう?」

「それは……」

 言い返せない。それどころか、どこか見抜かれたとさえ感じるところもある。

 未弥は僕の反応を視認すると、少し俯いて、

「……あたしはきっと、清水に一番嫌われるタイプだな」

 と零した。

「……は?」

 意味がわからなかった。わざわざ嫌いな子と毎日登下校を一緒したがるほどバカだと思われてるんだろうか。

 今度は僕がきょとんとしていると、未弥は長く、深い息を吐いた。

 なにか、覚悟を決めるように。だが、

「うん、だめだ」

 数秒の無言の後、未弥はあっさりとそう言った。

「……未弥?」

 状況についていけず、彼女の名前を呼ぶと、未弥は顔だけこちらに向けて言った。

「清水に打ち明けようか迷っていた話があったんだが、やめておく。聞かれたら、きっと紗弥まで嫌われてしまうだろうから」

 真顔でじっとこちらを見つめるその瞳から、未弥の心情は読み取れない。少し気圧された僕がしゃべれずにいる間に、未弥は立ち上がって歩き出してしまった。

「待っ……」

 思わず。

 立ち上がりながら、その未弥の細い手首を強く、掴んでしまった。

「っ……!」

 未弥の反応は俊敏だった。まさしく無駄のない動き。握力を緩めた僕の手を、掴まれていた方の手で瞬時に捻りあげるとほぼ同時に、逆の手では体重の乗った掌底が、的確に僕の下顎を狙って飛んできた。

 無論、やってしまった感でいっぱいになっている、固まっていた僕に避ける術はない。

 下から上へ突き上げるようにして繰り出された掌底はすんでのところで軌道を変え、僕の顎を掠めていく。たったそれだけのことで、僕は地面に尻餅をつく形で倒れ込んだ。

「っ! ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! ああ……こんなはずじゃ……!」

 なぜか、未弥は尋常じゃないほどに取り乱していた。顔はぐちゃぐちゃで、あれほど機械のように正確に動かしていた両手も、今はどうしていいのかわからないという風に中空を彷徨っている。

 できれば軽く「なんでもない」と言いたかった。直撃したわけでもないし、もちろん血も出ていない。痛みと表現するべき刺激も特に感じなかったから、すぐに立ち上がろうとしたのだが、なぜか腰が上がらない。

 ……なんでだ? と、不思議に思っていると、記憶の奥からボクシングの漫画で読んだ、『顎を打たれると脳が揺らされて、大したダメージがなくともダウンしてしまう』というシーンがあったのを思い出した。

 いや、まさかあんな掠っただけで? ともちろん疑問を持ったが、未弥の高すぎるスペックを思い出して納得した。漫画の知識が役に立った瞬間だった。

 漫画で見るような神業的芸当を現実でやってのけてしまう未弥の運動神経……。

 やっぱり、羨ましいかも。

 取り乱す未弥をなだめるためにと、落ち着かない未弥の手を掴んでしまいそうになったが、さっきの二の舞になりかねないので諦める。

 もどかしい。掴みたいものは掴めず、立ち上がりたいのにそれもできない。

「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 それにしても未弥がこんなに取り乱すとは思わなかった。……って、そうか。僕はたった今、未弥に僕の体のことを教えたばかりだった。だからこんなに、必要以上に心を痛めつけてくれているのか。

 ああ、くそ。

 こうなりたくなかったから、極力言わないようにしていたのに。

やっぱり未弥は、心優い女の子だった。きちんと他人を思いやれる素顔を持っている。

 いっそ、冷めてるくらいのほうが僕は付き合いやすかった。

 愛が優しくないとか冷めてるとか、そういうことではなくって。

 優しい人は気にしてくれすぎるから、苦手なのだ。

 僕はなんとか、大丈夫だからと未弥にアピールしながら立ち上がる。もう涙が零れそうなくらいに瞳を潤ませている未弥の膝が汚れていた。倒れた僕に視点を合わせるため、汚れることも厭わずに地面に膝をついてくれていたのだから当然だった。

 未弥はこの優しさをもっと前面に出せれば、人付き合いは苦手じゃなくなると思う。

 ……ああ、人間嫌いなんだっけ。

 目の前の未弥を見る限り、とてもそうは思えないけど。

 膝の汚れに気が付かない未弥の膝を払ってやりたかったけど、またさっきと同じようなことを考えてしまっていると思い直し、ただ指摘するだけに留めた。

 汚れを払った未弥を確認して、帰るか、と声をかけると無言で、しかし素直に頷いてくれた。

 帰路の際、未弥は一度も僕の前を歩かず、僕から話しかけるまでしゃべらず(それもああ、とかうん、とかの相槌くらい)、未弥の家に到着しての別れの言葉も「ごめんなさい」だった。

 さすがに、未弥に打ち明けたのは失敗だったなと思った。


 翌日。

 未弥との別れ方が悪かった所為で、朝の登校が若干憂鬱だった。

 まあでも、それは向こうにも言えることで。

 紗弥から注意を受けること、それともう一緒に登下校したくないという旨の言葉を伝えられることを予想して、予防線を張ってからいつもの場所へと向かった。

 とりあえず、見慣れた制服姿の少女を見つけて安心する。

 だが、やはりと言うべきか。様子がいつもと違う。思い詰めた表情で俯いていて、僕の接近に気付かない。

 結局僕が目の前に立って、おはようと声をかけるまで気付かれなかった。

 そのくせ、僕を認識した途端に紗弥は待ちかねたとばかりに急に立ち上がり、僕に迫り寄ってきた。

 もちろん触れられるまではいかないが、僕の方が若干後ずさってしまうほどの勢いだった。

「ど、ど、どうした?」

 綺麗な顔に迫られてどもる僕に構わず、紗弥は言う。

「未弥に何をしたの」

 語気は強く、顔は真剣そのもの。質問の意図もだいたい読める。

「教えて潤くん。お願いだから」

 この詰め寄ってきている相手が愛だったなら、恐らく僕は胸ぐらを掴まれていただろう。

 しかし、それができない紗弥の手は、自らの胸元を強く強く握りしめていた。

 その様は酷く、痛ましかった。

「……未弥は?」

「未弥からの反応が何もないの……。ただ、こんな書き置きだけがしてあって……」

 紗弥は制服のポケットから、乱暴に破り取られた一枚のメモ用紙を僕に見せた。

 そこには、

『あたしは降りた。全部紗弥に譲る』

 と書かれていた。

 正直意味がわからない。

「どういう意味なんだ?」

「この体の使用権のこと! 全部わたしに移すってことは、もう未弥は二度と表に出て来る気がないって言ってるの!」

「なっ……はぁ!?」

「こんなこと今まででも初めてなの! ねえ、未弥はどうしちゃったの? 昨日、一体何があったの?」

「ちょっと待て。待ってくれよ……」

 まさか。まさか。

 昨日、僕を殴ってしまった負い目で?

 そんなことを気にして、残りの長い人生分もの体を動かす自由を放棄したって言うのか?

「……ふざけろよ」

 確かめる必要がある。未弥に直接。

「紗弥悪い。触るぞ」

 紗弥は一瞬驚いたようだが、すぐに力強く頷いてくれた。

 僕は強くなりすぎないように注意を払いながら、紗弥の両肩に手を乗せた。制服越しではあるが、確かにしっかりと触れた。

 なのに。

「……嘘」

 呟いた声は、紗弥の口から。

 二人は入れ替わらなかったのだ。

「そんな……いい兆候だって、そう思ったからわたしは……」

 今までの決まり事を変えてしまうほどに未弥の意志は強いのか。

 そもそも、『強制』だと二人とも認識していたはずで、そこに我が侭は通らないはず。

 なぜ抗える。なぜ逆らえる。

「……紗弥、確認なんだけどさ……この間聞かせてもらった話に出てきた決まりは、二人が知った事実か? それとも二人で作ったルールか?」

 紗弥は答えず、僕の手を払いのけて振り返ると、そのまま走り去ってしまった。

 方角は和歌月家。

 紗弥を追いかけようと動かせた足は、たったの二歩だけ。

 僕は今、紗弥にかけてやれる言葉も、未弥を表へ引きずり出す方法も持っていない。

 不甲斐ない。やるせないとも思う。だけどここで立ち止まり、ただ成り行きを見守るわけにはもちろんいかない。

 紗弥と未弥のバランスをここまで崩したのは、間違いなく僕なんだから。


第六章 二人で一つ、一人で二つ


 僕に必要なのはまず、紗弥と未弥のことをよく知ることだ。未弥は何かを意図的に隠していると明言した。

 知られたら嫌われるからと。

 それはつまり、嫌われるには惜しいと思う程度には僕のことを認識してくれているということだと思う。この際自意識過剰でもいい。そう仮定させてもらう。

 つまり、他者を嫌い、興味を示さない未弥の意識に残っているのは紗弥と僕、そしてもっと前から未弥の存在を知っていた、愛だ。

 愛なら僕の知らない未弥に関することを確実に知っていると踏んだ僕は、午前中の授業の間ずっと、休んだ紗弥のためにノートを丁寧に取りながら昼休みに愛と話すシミュレーションを脳内で行っていた。説明する内容の順番、要点の確認、誤解のない表現を一つ一つ考えながら昼休みを待った。

 そして昼休み。

 僕は愛を呼び出し、未弥と二度目の邂逅を果たした、いつかの空き教室へと向かった。

「……ん? 紗弥はいないのか」

 愛は紗弥を交えての食事になると思っていたらしい。……まあ、僕もここに来るまでに事情を説明してなかったからしょうがない。

 だって、愛ときたら二つ返事で付いてきてくれるんだもの。なんにも聞いてくれないから、こっちも改まって説明しづらかったんだよ。

「紗弥なら、今日学校を休んでるよ」

「はは、それで私が代理か。いい度胸だと言いたいところだが、潤が異性と食事をする楽しさに目覚めたというならそれは喜ばしいことだからな」

 一緒に食べてやるよと言う愛の声は弾んでいて、楽しんでいるように感じる。

 僕がどうやって話を切り出そうかと考えながら弁当箱を広げていると、愛が静かに、懐かしむように言った。

「あれからもう二週間とちょっとか。今では登下校も一緒にしているようだし……その、なんだ、順調なようじゃないか。正直あまり面白くはないが」

「……え」

「ん?」

 ……あれ。情報が若干噛み合ってない。っていうかもしかして。

「愛、もしかして僕が紗弥や未弥と登下校するようになった背景知らないのか?」

「いや、そんな……それを聞くのはさすがに野暮というものだろう。二人の馴れ初めなら結婚式にでも聞くさ」

 知らないらしい。

 とすると、まずそこから話をしないといけないわけか。……長くなるなぁ。

 僕の様子を見て何かを察したらしい愛は、浅いため息を一つついた。

「……なんだ。順風満帆なわけじゃあなかったのか」

「ああ、少し長くなるから聞いてくれ」

 僕は紗弥と未弥の二人と登下校することになった経緯から、昼休みまでにまとめた昨日の紗弥との一件を話し、未弥について知っていることを教えて欲しいという旨を伝えた。愛は僕の病気のことも知っているので、その辺りの説明はいらなかったのだが、代わりに工藤の件が引っかかったらしく、首をかしげられた。

 ともあれ話し終わる頃には、四十分ある昼休みが半分ほど終わってしまっていた。

 お互い弁当は広げたまま手をつけていない。

「バカだなぁ」

 愛は率直に感想を漏らした。

「どうしてこうなっただの、なぜこうならなかっただの、そういう疑問は特にないよ。今の話を聞けば、お前らはなるべくしてそうなったんだと解ったから。――潤、歯を食いしばれ」

 愛はおもむろに僕へ近づくと、脳天に拳骨を落とした。

「いってえ!? なに、そんなに苛つかせちゃう話だった!?」

「未弥にされたのとどっちが痛かった?」

「どこで張り合ってるの!?」

「ギャグじゃない。大事な質問だ。私までお前の顎を打つわけにはいかないから頭を殴ることにしたんだよ。比較が難しいというのは重々承知の上で聞く。未弥は私よりも強くお前を殴ったか?」

 質問というよりは事実確認のようだった。茶化しているようでもないので、僕は戸惑いながらも脳にアクセスし、昨日の光景を鮮明に思い出した。

「……実際の打撃によるダメージはないに等しかったからなんともいえない。さっきも説明の中で言ったけど、掌底が顎を掠めていって、外してくれたのかな、威嚇だったのかな、って思ってたら立てなくなってた」

「それがそういう技であると?」

「ああ、ボクシングとかの試合でもごく稀にあるんだけど、女子はあんまり格闘技とかは見ないか」

「いいや、私も一通りの格闘技は嗜んでいるし漫画も好きだ。顎を打つと脳が揺れるという現象も知っている。そうじゃなくて、お前はそれを、未弥が故意にやったと思うのか?」

「……は?」

「未弥がそんな咄嗟に、ピンポイントで薄皮一枚を抉るように正確な掌底を、本当になんの手加減もなしに、お前に打ち込んだのだと本気で思ってるのか?」

「……だから、未弥は引っ込んだんじゃ?」

 愛は大きな、本当に大きなため息をついた。呆れたという様を隠そうともせずに。

「考えてもみろ。ボクシングの世界チャンプ戦でもそうそうお目にかかれないような、しかもラッキーパンチに分類されるべき一撃だぞ。顎を狙うにしても、掠めるなんて空振りの確率を上げるようなことをするくらいなら普通に当てるだろう。いくら未弥が高い思考力と知識量、そしてそれを活かせる運動能力を持っているにしても、毎日血を吐くような思いで練習を積み重ねてきた屈強な男たちの頂点とさえ渡り合えるような技術を有していると本当に思えるのか?」

「……思いません」

 じゃあつまり、僕は未弥のことを……。

「多分に買いかぶりすぎだ。勘違いも甚だしい。お前が何も言わず、ただ倒れたことから未弥が考えるのはこうだろうな。『急所とは言え、あんな少し掠めた程度で倒れてしまうほどに清水潤の体は弱っているのか』」

「……」

「病人にそんな負担を強いてしまったとなれば、罪悪感は相当なものだろう。お前はお前で、未弥なら知っていて当然、出来て不思議じゃないとでも思っていたんだろう。一人勝手に納得して、未弥を誤解させたまま放置した」

「なら未弥がいなくなったのは……僕の所為じゃないか」

バカは僕だった。言い訳の余地も、責任を転嫁する隙もない。

「私に言わせれば二人ともバカだよ。今回は紗弥が完全に被害者だ。バカな潤はバカな未弥と一緒に、紗弥に謝らないといけないぞ」

俯く僕の頭に、今度はコツンと緩く握りしめられた愛の拳が乗っかる。目線を上げてみると愛が優しく微笑んでいたので、僕も釣られて少し笑った。

 未弥に会ったら、まず謝ろう。そう決めた。

「あー……それとな?」

 なぜか言いにくそうに、愛は僕の頭に乗せた手を開いて言った。

「工藤なら、先週逮捕されてるぞ」

 ――――――。…………。……。

 フリーズした。

「……は?」

 再起動に成功したのは何秒が経った後だろうか、僕は愛の言った言葉の意味をまるで把握できていなかった。

「悪い、愛。もう一回言ってくれ」

「だからな、お前が警戒していた工藤だが、もう逮捕されているから、襲われる心配はないんだよ」

 今度はきちんと聞き取れた。なるほど、そうだったのか、それじゃあ僕らはとんだ取り越し苦労をしてたんだな。そうか、危機は去っていたのか。なんだなんだ、よかったよかった。って、

「はああああああああああ!? なんだそりゃあああああああああああああああ!」

 絶叫した。今僕らがいるここがどこかも忘れて叫んだ。人生で一番の大声記録を更新したのは間違いない。むしろこんな声量が自分にあったのかと、自分で感心するほどだった。

愛は既に、僕の頭に乗せていた手を自分の耳に押し当て、僕の鼓膜破壊攻撃から逃れていた。まあそういう反応になるよなぁという顔をしている愛が憎らしい。

「ちょっと待て、ちょっと待ってちょっと待って……え?」

「まあ、表向きはまだ入院と言うことになっているから知らないのも無理はない。銃刀法違反に引っかかる刃渡りのナイフを所持した上での殺人未遂になる予定だから、相当期間は出てこれないはず――」

「だから待てって! は? 殺人未遂? なんで愛はそんなことまで知ってるんだよ!」

「私が襲われた当事者だから」

 愛は淀みなく衝撃的な告白をした。

 いやいや、いやいやいやいや。

「…………マジで?」

「マジと書いて事実だが」

「え、あいつ未弥に逆恨みしてたんじゃないの? お前あいつに何したの?」

「どうして私が彼に何かしたことが前提で話が進められているのか激しく問いただしたいが……まあいい。私と工藤は同じクラスと言うだけの繋がりしかなかったんだが……偶然、挙動不審に歩いているところに声をかけたらこうなった」

「…………」

 さっぱりわからん。

「……ん、んんっ」

 想像の範疇を大いに飛び越えた超展開に脳の処理能力が追いつかない僕が絶句していると、愛は軽く喉を整えるように空咳をしてから語り出した。

「先週の火曜日のことだ。私がいつも通り生徒会の仕事を終えて夕方の五時過ぎに下校していると、どうにもキョドキョドしながらショルダーバックを重そうに、そして大事そうに抱え込んだ工藤を見つけてな。入院中だと聞いていたのになぜここに? もしや病院を抜け出してきたのかと推測した私は彼に声をかけた。確か『そこで何をしている』だったかな。はは、今思えば警察のようだった。工藤も最初はそう思ったようで、ビクッと漫画のように震え上がった。しかし、制服姿の女一人しかいないことを確認すると、なんだ驚かせるなと一瞬だけ安堵の表情を浮かべようとして、私が花ヶ咲愛だと認識した途端バツが悪そうな愛想笑いをして逃げようとしたんだ。だから私はちょっと待てと、工藤に追いすがった。すると奴は来るな寄るな近付くなと半狂乱で喚き散らし、重そうにしていたショルダーバッグを振り回してきた。私がある程度の間合いを取って止まると、工藤はそのバッグから刃物を取り出した。脅しのつもりだったのかは知らないが、刃渡りはちょうど法に引っかかるくらいの五~六センチほどのバタフライナイフだった。そのチョイスには心の中で軽く吹き出さざるをえなかったが、一応緊迫した場面だ。なんせ、いたいけで無力な女子高生が男子高校生に刃物を突きつけられているんだからな。……そうそう、バタフライナイフと言えば、遠心力を利用した素早い片手開閉操作が魅力だろう? 私はあれを生で見てみたかったんだが、工藤の奴が失敗してナイフを一度地面に落としてしまってな。結局両手を使って開いていたんだが、あれはむしろ和んだ。さて、話しを戻すと」

「情感たっぷりに詳しく丁寧に説明してくれてるところ悪いけど、もういいぞ」

 僕は歌うように語り続ける愛を止めた。

 なげーよ。

 現場をえらい鮮明に脳で映像化できるくらい詳細に話してくれやがって本当にありがとうございます。

 でも正直、僕も落ち着いてきたら少しうんざりしてくるくらいの長さだし、なによりオチが読めた。

「せっかくここまで話したんだから、オチまで言わせてくれよ。意地悪だな」

「その平然とした態度と超健康体の愛の様子を見ればわかる。どうせ楽々制圧できるくせに煽りに煽って、その上妙な演技で外野から正当防衛に見えるように振る舞って倒したか、そのまま警察の到着を待ったんだろ」

「……たまたま、仕事終わりらしきキャリアウーマン風の女性が通りがかってくれたんだ」

「その人が証人だと」

「ああ、うん……とても迅速な対応をしてくれてな……。警察への連絡をしてくれて、工藤の体を押さえつけている私に代わって工藤の体から凶器になりそうなものを探ってくれて、駆けつけた警察への説明も頼むまでもなく全て請け負ってくれた」

「いい人だったんだな」

「うん……真面目な人だった。お礼を言うと『ああいう女の敵には立ち向かわないとね。あなたもよくやったわ、けど、あんまり無茶なことしちゃダメよ?』ってウインクされた」

「なにそれ、超かわいいな。……で、なんでそんな急にテンションだだ下がってんですか愛さん」

「別に……オチを簡単に言い当てられて少し面白くないだけだが」

 子供が楽しみに取っておいたショートケーキのイチゴを最後の最後で食べられてしまったような拗ね方だった。醸し出すその雰囲気から、年相応に見られることの少ない愛にしては珍しい姿だと言える。うん、可愛くないこともない。

「あ、でも……それだと事情聴取とかされて大変だったんじゃないか? 大丈夫だったか?」

「問題ないどころか酷く過大評価されて困ったほどだ。勇敢な女子高生として今度勲章を贈られるらしい……。私は運が良かっただけです、私の真似をして変に抵抗した結果、被害に遭う女性が増える可能性があるので公にしないでくださいなにより恥ずかしいのです、とかなんとか適当なことを言って、なるべく穏便になるように努めていたらなぜかさらに評価が跳ね上がった。なぜだろう」

「必然だろ。お前の事情聴取にもし模範解答が用意されてあったとしても、そこまで完璧な受け答えじゃねえよきっと」

 さらっと意識せずに満点以上のことをしでかすからタチが悪い。『最近の若者は……』が口癖の中高年の方には愛を見てもらえば現代っ子もまだまだ捨てたものじゃないと思っていただけるはずだ。現代っ子の標準を愛だと思われるほど苦痛な世の中もないが……。

「一方工藤は混乱していたせいか、実は違う同級生を襲うつもりだったと自爆してしまったらしい。おかげで私はさらに感謝されてしまった」

「工藤が哀れすぎる……」

「あまりに持ち上げられるのが気持ち悪くて、一度思いきり床をにらみつけてしまったんだがちょうどそこに大きめの虫が現れてな、『不快な思いをさせてすみません!』と大人を謝らせてしまった。あれは申し訳なかった……」

「もう本当に世界はお前を中心に回ってるな!」

 出会って以来、世界が花ヶ咲愛に都合の悪いように回っていた記憶がない。

 名前通りに愛されすぎだろ。羨ましすぎるわ。

「それは違うぞ。世界が私に不都合を働こうとも、自力で良い状態にまで持っていっているだけだ」

「もっととんでもねえよ!」

 もはや運命さえも愛には敵わなかった。こいつが本気で政権とかに興味持ったら史上初の女性総理大臣とか平気でなりそう。最近安く使われるようになった言葉だが、本来の意味でのカリスマとは愛にこそ使われるべき言葉なのではと思った。

「まあ、私のことはいい」

 愛は居住まいを正して弁当箱を仕舞った。時計を見れば、そろそろ昼休み終了のチャイムが鳴り響く頃。

「後半は無駄話になったが、つまりはお前らを縛り付ける存在はいなくなったわけだ。これで一緒に登下校する口実もなくなった」

「……そう、だったな」

 式は崩れて解は変わる。解を揃えるには、今まで使っていた口実に代わるものを用意しなくてはいけない。

「私は何も言わない。紗弥と未弥、どちらかにかどちらにもか、話すも話さないもお前次第だ。好きに選ぶといい」

「……僕に任せていいのか?」

「好きにしろと言っただろ。ああ、丸投げしているつもりはないからな。私が間違っていると後で判断した場合には遠慮なく介入させてもらう」

 不敵な笑みを浮かべる愛を見て、僕も笑う。後ろに愛が控えているのだとわかるから、僕は僕の選択を思い切って実行できるのだ。

 失敗する気はさらさらないけど。

「さてと、じゃあ学校が終わったら早速、青春してくることにする」

「今すぐ行かなくていいのか?」

「紗弥に、今日の分のノート取ってやらないといけないからな」

「あっはっはっはっは!」

 なぜか大爆笑された。

至極真面目に答えたんだが、そんなに面白いことだっただろうか。

「……なんだよ」

「くくっ……いや、そうだな。ノートは大事だな。いいさ、放課後の方が向こうも油断しているだろうよ。最短距離を行くことが正解とは限らないからな」

「……どういう意味だ?」

「急がば回れで善は急げ、ってことだよ。私はお前と違って、春が一度しか来ないからと言って嘆きはしない。夏も秋も冬も、それぞれ楽しみ方はあるはずだ。春に出来ることは春の内にしておけばいいし、春に出来ないことは夏以降にやればいい」

「わかりにくくなってるじゃねえか!」

「無論、わざとだが。つまり、走れるときは走っておけってことだよ」

 今度は逆にすっきりさせすぎな気もするが……もういいや。

 ようするに、今は僕の思うとおりに行動していいってことだろう。

 相変わらず女子高生らしくない言葉を残して愛は、チャイムと同時にこの空き教室から出て行った。

 僕はゆっくりと余裕を持って、やることを済ませてから教室に戻ったので、五分ちょっと遅刻したが、なんの問題もなかった。


 放課後になった。掃除当番である将軌に声をかけることもなく、僕は教室を抜け出て生徒玄関へとたどり着いた。

 うん、やっぱり帰宅部の醍醐味はホームルームが終わると同時に帰れることだよね。部活動に所属していたら絶対に知り得なかったこの開放感、プライスレス。帰宅部万歳!

 帰宅部だから、こうして自分のことに集中できるしね。

 誰よりも速く廊下を駆け抜けてきたつもりだったが、一年生は僕のクラスよりも早くホームルームが終わっていたらしく、学校では珍しいことに、雨とエンカウントした。

「あれ? 兄さんだ」

 気品のようなものを漂わせる微笑で僕との遭遇を喜ぶ雨。……本当、面の皮が厚いというか、キャラ作りが上手いというか。

 よくもまあここまで自分の雰囲気を操れるものだ。敬意を払って少しだけご褒美をやることにする。

「よう、相変わらず可愛いな雨」

「ふふっ、ありがと。いつもそれくらい優しく声をかけてくれたらいいのに」

「嫌だね。人に見つかったら誤解される」

「兄妹ですって言えばよくない?」

「仲が良すぎると、疑われちゃうだろ? 雨がイジメられたら大変だ」

「心配してくれるの?」

「当たり前だろ? ……兄妹なんだから」

「兄さん……大好きっ! 手繋いで帰ろ?」

「雨…………。ごめん、僕はもう疲れたよ」

 茶番終了。僕のギブアップ負けだった。背中が超ムズムズして耐えられなかった。どっちかって言うと、言われるよりも言う方が辛い。辛すぎる。もはや苦行だった。

 僕が両手を挙げて降参のジェスチャーをすると、雨は可愛らしく頬を膨らませて拗ねて見せた。……怒る仕草まで素のときと違うのかよ。徹底してるなぁ。

「もー……自分から始めておきながら先に音を上げるなんて酷い」

「悪かったよ」

 頭に手を乗せてやるとくすぐったそうに笑った。さすがにこの辺りは素のときと変わらない。

 家では明朗快活なエロい妹。学校では穏やかで優しい清純派妹。

 一粒で二度おいしいとはこのことか。なんて言ったら雨の思う壺。

 僕が人の気配を感じて雨の頭から手を放すと、雨は名残惜しそうに僕の手を少しの間だけ見つめた後、目を逸らしながら照れたように言った。

「せっかくここで一緒になったのも何かの縁だし……ホントに一緒に帰る? 少し寄り道もするから付き合って欲しくて……」

「あ、悪い。今日は用事があるからそれは無理だ。また今度な」

「えっ……そ、そう……なら仕方がないね」

 それまでほのかに赤らめていた顔が戻り、雨はしゅんと俯いてしまった。そのまま靴を履き替え、とりあえず校門まで向かっていく。もう既に落ち込んだ様子はない。僕が靴を履き替えるのを待つ雨の仕草は実に可愛らしく、男心をくすぐるどころか鷲掴みにするものだと本気で思う。

 ただ、まあ、あの本性を毎日見せつけられている僕からすれば、この雨を見て感じる可愛さはいわゆる二次元のキャラクターを見て可愛いと思うのと変わらない。

 雨はギャップ萌えを狙っているらしいが、僕の中では学校での雨と家での雨はある意味で別人なのだ。

 厚くなりすぎた仮面はそこから体を作り、本人と別れて一人歩きを始めてしまう。

まさにキャラクター。

一つの性格であり一つの人格なのだ。

 ……ん?

 そう言えば未弥はいつから紗弥の中に存在しているんだろう。

 二重人格って先天性と後天性のどっちが多いんだっけ。

 それにしても……人格か。

 少し聞いてみようかな。

「なあ雨、たまにでもいいんだけどさ、家と学校で、どっちが本当の自分のキャラか判らなくなることはないか?」

「え? んー……ない。ないね。これはあくまで外交向けの仮面で、神と崇めるキャラクターのトレースだから。本当の私は、兄さんだけに見せる家でのあの姿」

「あのビッチが本性か」

「一途なビッチだよ? 最高でしょ?」

「そうだな、実妹じゃなかったら攻略ヒロインだったかもな」

「くっ! やっぱりそこか!」

「おい、僕にしか見せないはずのキャラが出てるぞ」

「おっと……」

 周囲を確認して、近くに僕ら以外がいないことを確認すると、雨は胸元に手を置いて、ゆっくりと一度だけ大きく息を吐いた。また学校用のキャラに戻すのだろう。家に帰るまでがこっちの雨だ。

 必要を迫られてという理由と自分がやりたいからという理由では、どちらが強制力が高いかは言うまでもない。それによるストレスだって段違いだろう。

 では、依存性は?

 雨はどっちなのだろう。

「ちなみに聞くんだが、雨は僕が一つのキャラに絞ってくれって頼んだら絞ってくれる?」

「絞る、すぐ絞る、どっち? ねえどっち? 潤はどっちが好みだったの?」

 即答だった。つーか食いつきすぎ。そして完全に素が出てしまっている。

 早口でまくしたてる雨をどうどうと止めてから僕は、真面目な口調で言った。

「僕が、学校での雨を選んでもか?」

 一瞬。雨の反応が止まって無表情になった。純粋に僕の質問への答えを考えてくれているのか、それともそこから僕の真意を探ろうとしているのか。そこまではわからない。

 しかし――

「絞るよ」

 雨ははっきりと答えた。

「潤が……兄さんがこっちの私を選んでくれたのなら、私はこっちの私として一生を生きる。元の私はこっちの私に修正させていって、こっちが本当の私として振る舞えるように努力する」

 尽くす女。そう言えば聞こえはいいが……病的なまでの依存とも感じてしまう。

 自分の足で、立てなくなるのではと心配になる。

「どうしてそこまでできるんだよ? 家でのお前はどうなる、自分がこれまでの人生で築き上げてきたアイデンティティに未練がないわけないだろ?」

「私の場合は、兄さんに愛されたいだけだから」

「……」

 真っ直ぐに見つめられて、反応に困った。

どうしてここまで迷いのない目ができるのだろう。

「ねえ、兄さん覚えてる? 私の成績が良くなったのって。兄さんへの想いを自覚したのとだいたい同時期なんだよ。この想いの正体が知りたくて、色々な本をいちいち感情移入して読んだ結果なの。書いてある問題の意味がほぼ正確に理解できるようになったら自然とテストの問題が簡単に見えるようになった。数学は単に記号化してあるだけで、中身は一緒。人に読んでもらって理解されることを望んでるんだって思うことが出来たら、点数は九十を下回ることはなくなった。こんな風にね、兄さんの心はまだ射止められないけど、副産物は私に読書っていう素敵な趣味をくれたし、好成績っていう実利もくれた」

「……全部自分で勝ち取ったもんだろうが」

「私の認識では兄さんのおかげなの。だから私は兄さんを好きになって、こうなれて良かったって思ってる。確実に人生のプラスになってるって確信してる」

 耳を塞ぎたいくらいに褒め殺されている僕は、そろそろ逃げてもいいだろうか。僕の防空壕はどこにあるのか教えてほしい。

「みんな、そう上手くは生きられないよ。思い通りに動いたって、思い通りの結果をもらい続けるなんて絶対に無理。だから私たちは、本音だけを晒したまま生きられないの。そもそも万事において確固たる自分の意見なんて、普通は持ってないんだから。自分でこだわりの持てることなんて、この世のほんの一部分でしかない。だったらそれ以外のことは、人に合わせたり、人に都合のいいように振る舞っていればいい。それを周囲が優しさだとでも勘違いしてくれればなおよしだよね」

「……つまり?」

「私の行動が自分にとって損で、兄さんだけに得が残るように見えたとしても、実際はその行為で私も多くの得をしているから、兄さんが負い目を感じる必要はないってこと。だから私は、兄さんが紗弥さんのために動くのにも協力するし、兄さんのためならなんでもするの」

「…………」

「ほら、またこれからも紗弥さんか、未弥さんのために動くんでしょ? 今の内に私に話しておきたいことはないの?」

 葛藤。雨の言葉には納得できない箇所もいくつからあるが、これからの行動を言い当てられたことも手伝って、結局切羽詰まっていた僕はそのまま、雨の言葉に甘えることにした。

「……じゃあ一つ、紗弥のことで確認していいか?」

「何でも聞いて」

「お前から見て、紗弥が人間嫌いだって言ったら信じるか?」

 ぽかん、と雨は惚けてから、何を言っているんだという顔を作った。

「信じない。話したのはたった一度だけだけど、あんなに人との距離感を大切にする紗弥さんが人間嫌いなわけないじゃん」

「……そっか。ありがとう。もう十分だ」

 自分の認識と他人の認識の差異を確認。

 今度こそ僕は雨と別れ、和歌月家へと向かった。


 二週間以上に渡って歩き続けた学校から和歌月家の道のりを、今更間違うなんてことはあり得なかった。なんの問題もなく到着し、ごく普通にインターホンを鳴らしてみる。

 さて、頑なに拒まれているであろうこの手の扉を、一体いくつ開けば紗弥に――未弥にたどり着けるのだろうか。

 なんて思っていたら、

「あ」

「え」

 お互い、思わず間抜けな声が出るほどに簡単に扉が開き、中からは完全に油断しきっていたパジャマ姿の紗弥(未弥が引っ込んだままなら疑う余地はないはず)が顔を見せた。

 来訪者が僕だと気付いた紗弥は勢いよく扉を閉めようとしたが、安全設計の扉は強制ブレーキがかかり、閉まるスピードが緩まった。

 僕はその瞬間隙間に腕を挟ませ、体を入れて扉を開け放った。

「鍵くらい閉めようぜ。最低でもチェーンロックは必要だって今日わかっただろ? お邪魔します」

「っ!」

 これ以上はここで抵抗しても無駄だと悟ったのか、紗弥はあっさりと後ろを振り返るとそのまま家の奥の方へと全力疾走していった。きちんと靴を脱いで揃えてから追いかけようとすると、階段を駆け上がる足音と扉が閉まり、鍵が閉められる音が響いた。

 和歌月家に入れたことへの感動は、とりあえず保留。それよりもまずはあの子をなんとかしないといけない。

二階に上がると、部屋が三つ。一つは扉が開いていて、中はよく見えないが物置のよう。

 残りは二つだが、片方に『立入禁止』と書かれた標識のプレートが扉に貼り付けてあったので、間違いなくそこが紗弥の部屋だと確信した。

 ノックする。回数は四。返事はなし。

 悪いなぁと思いながらもドアノブを回すが、やはり鍵がかかっていて開かない。鍵穴を見ると、部屋鍵でよくある硬貨を差し込んでひねるだけで開く簡易なものではなく、僕の部屋と同じようにきちんとした鍵が必要なタイプだった。

 ……これは困った。

「不法侵入の件は水に流すから、帰って」

 扉越しに、ようやく紗弥の声が聞けた。思いの外はっきりと聞き取れるので、扉のすぐ反対側にいるのかもしれない。

「どうして逃げるんだよ」

「潤くんが追いかけてくるから」

「じゃあ今度は僕が逃げるから、紗弥が追いかけてくれ」

「……意味がわからない」

 僕にもわからない。適当なことを言い過ぎた感がある。

「まあ、とりあえず顔を見せてくれよ。元気なら元気で構わないし、元気じゃないなら看病くらいしてやるから」

「看病にかこつけて何されるかわからないからいい」

「信用ないなー」

「男は狼だもの。しかも、誰もいないから二人きりだし。本当に何をされるかわからない」

「…………」

 まあ、ごもっともな意見でした。

「じゃあとりあえず、先に謝っておく。無理矢理家の中にまで上がり込んでごめん。追い詰めるようなマネをしてごめん。それと……要求を呑んであげられなくてごめん」

 僕は紗弥の部屋の扉を背もたれにして、廊下の上にそのまま座り込んだ。

「え、え……? それってどういう……」

 困惑しているらしい紗弥の声は、座り込んだ僕の耳に近い位置から聞こえた。紗弥も反対側で座っているようだ。

「帰らない。紗弥がそこから出てこない限り僕もここをどかないことに今決めた」

「そ、そんなぁ!」

「はは、トイレに行きたかったらいつでも行ってきていいぞー。戻ってきたときに捕まえるから」

「へ、変態だ……」

 紗弥はドン引きだった。うん、僕も自分でどうかと思う発言だった今のは。

 でも、狙い的にはそういうことだ。

 人間には当たり前だが生理現象というものがあるのだ。そしてそれは、大抵の家の場合、個人の部屋では行えない。食事はキッチンで作られるものだし、トイレが備え付けの部屋なんて一般家庭では見たことがない。従って、部屋を出ずに一日を過ごすなんてことは普通出来ないはずなのだ。

「あ、甘いよ潤くん。兵糧攻めを狙ってるんだろうけど、わたしは自分の部屋に防災グッズや非常食を常備させてるから、二日や三日部屋から出ないなんて楽勝なんだよ」

「そうか、じゃあ二日でも三日でも待たせてもらうわ」

「えぇ!?」

 正直、防災グッズや非常食うんぬんって辺りはハッタリだと瞬時に思った。いや、思いたかっただけなのかも知れない。実際にそうだった場合、僕は詰んでしまうわけだし。まあどうでもいい。

 ということで、僕は学生鞄の中に常備してある暇つぶし用の本(雨から借りた)を、栞を挟んだページから読み進めた。

 本を開いてからほんの数十秒、僕が黙ったままでいると、

「……潤くん? いるの?」

 不安を隠そうともしない紗弥の声がかすかに聞こえた。

「ちゃんといるよ。どこにもいかない。紗弥が出て来るまで僕はトイレにも行かないし、間食もとらない」

「……どうしてそこまで」

 紗弥の声は小さくて、聞き取りづらい。僕に届けることが目的じゃない独り言みたいだ。

「潤くんは、どうしてそんなにわたしに……わたしたちに構ってくれるの?」

 扉に耳を押しつけて、ようやく聞こえたその問いに答えるのは難しい。一番簡単なのは「放っておけないから」だが、それはどうして? ともう一歩踏み込まれるとまるで答えられない。恋愛感情からなのではないかとも思うが、それならば紗弥と未弥のどちらに、どちらを想っているのかという問題が増える。どうしようもない。

 したいようにしているだけで、理由なんて作っていないのかも知れない。

 格好良く言えば、自分の正義に従って行動しているだけ。

「…………」

 さすがにこんな小っ恥ずかしいことを言えるはずもなく。

 僕はその小さな問いを、聞こえなかったことにした。

 邪推されるように恋愛感情だと答えるのはひどく安易な気がして、とても口に出そうとは思えなかった。

 それからしばらく、お互いに静かな時間が続いた。

 まさか僕がページをめくってる音なんて、廊下には響いても紗弥には聞こえるはずがないし、僕も紗弥が扉の向こう側で何をしているかは想像も付かない。

 ……それにしても、十分と少しが経とうとしているんだが、数枚めくった本の内容が全く入ってこない。せっかく雨おすすめの小説だったのに……また違う機会に読み返さなくてはいけないことになりそうだった。

「……思い出した話があるんだけど」

 と、唐突に紗弥の声が聞こえた。

「これは独り言だから、扉の向こうに誰がいても関係ないんだけど。潤くんにこの話を聞かせれば、わたしが彼の興味を引くような存在じゃないって、わかってもらえると思うんだ。」

 先ほどまでとは違い、珍しく素直じゃないその言葉は扉越しでも問題なく聞き取れる。

 彼女が独り言だと主張しているので、僕は無言で続きを待った。

「正直な話、わたしは自分がわからない」

 それは、とても疲れ切った口調で綴られた独白だった。

「子どもの頃、物心ついた頃かな。一番印象に残ってるのは大人の驚いた表情だった。なぜかは知らないけど、わたしが教えられたことを教えられた通りにしただけで大人たちはみんな同じ反応をした。何か間違えたのかと思って尋ねても、『そんなことはない、うまく出来てる。お前は凄いな』ってそればっかり。それしか言われなかったから、それが褒められているんだって知るのに少し時間がかかった」

 紗弥が息継ぎをする。僕はとっくに手に持っていた本を閉じていて、聴覚に全神経を集中させて聞き入っていた。

「保育園ではあまり意識しなかったんだけど、小学校に入ってからは疑問の連続だった。国語も算数も、なんで出来ない人がいるのか全く理解できなかった。あんなの一度教えられれば、書き損じ以外で満点を逃すなんてことがあり得るなんて信じられなかった。この考えは中学校に上がるまで変わらなかった。……気付いた頃には、周囲とは完全にずれてたよ。習い事もたくさんやった。正確にはやらされてた形だけど、ピアノ、英語、水泳はそれなりに長かったかな。ピアノは今でもたまに弾いてる。すぐにやめちゃったのはそろばん、習字、それと空手や柔道剣道なんかの格闘技全般。やめた理由は、始めたその日の内に、その場にいた門下生の誰よりも巧くなっちゃったから」

 そんな、本来誇るべきことも、紗弥はただ事実として淡々と述べる。

 異様だと、思わなくもなかった。

「わたしは言われるがままに何でもできる人形……というか、ロボットだった。プログラム通りに命令を実行するだけの存在。わたしに自分の意志なんてものはなくて、『やってみる?』と誰かに聞かれればそれをやって、『もういいよ』って誰かに言われればそれでやめる。だいたいの場合、その『もういいよ』はそれ以上はしなくてもいいっていう制止だったんだけどね」

 やり過ぎを咎められた方が多かったと、紗弥は語った。

「学校ではね、最初は頼られた。何でも知ってて何でもできる、なんて言われてて。先生までわたしを担ぐように扱ってきて……。でもすぐに、状況は真逆になった。わたしには誰も近づかなくなった。理由は……単純に怖がられたから。どうしてそんなに何でも出来るのかって疑問を持たれた瞬間に、情の薄かったわたしは完全に孤立した。……ちなみに、学校だけじゃなくて、家でも一人だった。両親はわたしに無駄な影響を与えないようにと、この家を与えて別のところへ引っ越した。自分たちの理解が及ばない成長をするわたしが怖かったんだなって、すぐに思い至った」 「………………」

 ……これが独り言という体裁を取ってくれていて、本当に良かったと思う。

 本当、僕には紗弥の気持ちを理解することは難しい。僕の周りには、常に人がいた。一人で何も出来ない僕は、いろんな人に助けてもらって生きてきた。

 しかし紗弥は、何でも一人で出来てしまったが故に孤立した。

 なんて皮肉。なんて悲劇。

 僕は紗弥に、同情することもできない。

「勝手な話かもしれないけど、わたしは一人になるのが嫌いだった。一人になると、なんで自分はこうして生きているのかとか、そういう無駄な思考をたくさんしてしまうから。どうしても一人が嫌だったわたしは……鏡を見るようになった」

「……っ」

 無意識に、僕は息を呑んだ。

 まさか、と。

「最初は自分の視界に、人間の姿を入れておきたかっただけだったんだと思う。でも――鏡映認知……鏡の中の自分を自分だと認識できるかどうかっていうのは、チンパンジーとか犬とか象の知能レベルで出来ることのはずなんだけど……鏡の中のわたしはわたしであってわたしじゃない。反射して、左右というか前後の奥行きが入れ替わった自分だから、これは現実のわたしそのものじゃない――そう思ったときから鏡の中のわたしは、わたしとは別人になった」

 紗弥の方から、自嘲するような渇いた笑い声が聞こえる。彼女は今この瞬間、記憶を掘り返すことで自らの心を抉っているのだ。

 止めるべきか……? でも、ここで止めたら……。

 僕が逡巡している内に、紗弥は続きを始めてしまう。

「その頃からわたしは、鏡の中の彼女と会話をするようになった。彼女は、わたしと違って情緒に溢れていて、人の心のわかる優しい子だった。彼女はわたしと正面から向き合ってくれて、あれはだめそれはだめと戒めてくれて、同時に良い行いをすれば素直に褒めてくれる唯一の存在だった。よく喜び、よく悲しむ彼女を見て、わたしはようやく情感を学ぶことが出来た……って言っても、まあそんな微弱な変化程度じゃ、周囲の反応は変わらなかったんだけど。ともかくわたしの精神状態は彼女の登場で安定軌道に入った」

 …………。

「わたしたちが今の状態になったのは、それから数週間後。わたしの両親は定期的にわたしの様子を見に来ることになっていた。わたしはそれが嫌なのだと彼女に相談した。すると、『じゃあ代わってあげる』と言ってくれた。彼女は言葉通り、わたしに代わって両親に会ってくれて、何の問題もなく、むしろ好印象を与えることに成功していた。彼女は人付き合いがとても巧かったんだ。彼女が紗弥をやった方がきっとわたしは巧く生きられると思った。だから、わたしが『紗弥』を譲ると言った」

「な……に……?」

 僕は驚きを隠せず、思わず息を飲んだ。

 じゃあ今……扉の向こうで話しているのは……。

「でも、彼女はなかなか了承しなかった。彼女はお得意の倫理を振りかざしてわたしを説得しようとしたけれど、わたしの胸には響かなかった。わたしには自分が元の人格だという自覚はあっても、社会的に不適格なのを自覚していたから。自分は不要だと思っていた。けれど、けれど彼女は「自分は欠陥品だから」と言って頑なに断ってきた。わたしは納得できなかったので、家の外に出るときは彼女に『紗弥』をやらせるようにした。彼女を周囲に『紗弥』だと認識させていくために。つまり確信犯だった。このままうまくすれば、わたしは表に出ることなく、なし崩し的に彼女こそを『紗弥』に仕立て上げられると思った」

 実際、今学校や僕らが認識している『紗弥』の特徴は、彼女のそれと一致する。思惑通りに事は進んだかのように見える。

 けれど……。

「けれど、彼女には本当に致命的な弱点があった。彼女は人の心に入り込むのが巧い代わりに、人との接触行為というものに強過ぎる抵抗を持っていた。理由は……何かな、わからない。後付けの推測を言うのなら、人が当たり前に経験して育つ、人との接触という行為をしてこなかったわたしにとって、それは強すぎる刺激になってしまって、思考をショートさせるものにまでなってしまった。とか。正直、今でも触れられる度に電気を流されたみたいな激痛が走るよ。そのショックで、わたしはひきずり出されるんだ」

 わたし……『紗弥』の一人称であるそれも、彼女が紗弥を譲られたときに引き継いだのだろうか。

 完成度こそ違うけれど、これではまるで雨のキャラ作りだ。

「わたしが仕組んだこととは言え、『紗弥』は一生懸命に生きてくれた。学校も、家庭も、わたしが目を逸らしたものの全てと正面から向き合って、戦ってくれた。だから、そんな彼女がどうしても受け入れられない負担があるのなら、わたしが表に出て手伝う。そのことにはなんの抵抗もなかった。もうわたしの中では完全に彼女が『紗弥』で、わたしはサポート役の誰かだった。若干の不便があって、名前を譲って名無しになったわたしは『未弥』と名乗ることにした。『紗弥』にも、そう呼ばせた」

 つまり、わざわざ『あたし』という一人称を使っていたのも、『未弥』と名乗ったのも、すべて自分が裏方に回るための努力だったのだ。 

 どれだけ後ろ向きに前向きなことしてるんだよ。

突っ込みたかったが、話はまだ終わっていなかった。

「……はずなんだけど、今は清水……潤くんに触れられても代わらないし、そもそも自分が今どっちなのか自分で、わからなくなってる。潤くんと別れた後、部屋に戻るなり鏡を見つめて対話を試みたんだけど、どっちが呼び出されているのかわからなかった。実は自覚がなかっただけで、朝潤くんに触られたときに実は未弥になっていたのかもしれない。それ以前に、どちらがどちらかっていう自覚がない時点で、相当にまずいね……っていう、話。そもそも勝手に二重人格って思い込んでいただけで、本当にわたしはもう一人の自分を演じていただけなのかもしれない。もうそれすらもわからない」

 長い、長い昔語りを終えた紗弥は、疲れを表すように、扉越しでも聞こえるくらい大きなため息をついた。

 完璧すぎたからこそ孤立して、孤立したがために歪んだ。歪みに歪んで二つになった。

 鏡に映った彼女は、現在の未弥に比べればとても不完全で人間的。自己の経験から学んで、敢えて欠点を作ったのか。それとも自分のものとは別の、別人格として並列で稼働させられる思考回路を組んだことによる弊害なのかは想像もつかないが、現実にそうなっている。

 花ヶ咲愛をも凌ぐようなスペックで、和歌月紗弥は二人分の人格を有した。

 結果、後天的に生まれた一人は、接触を極端に拒絶する特異な体質という欠陥を内包してしまった。

 二人で一人だから完璧だったのではなく。

 一人では有り余っていたから、未熟ながらもう一人を生み出せた。ということ。

「……独り言でよかった。こんな話、しゃべるのも疲れるけど、聞く方なんてもっと疲れちゃうだろうからね――ああもう、口調も安定しないし、なんなんだわたしは……」

「…………」

 安易に、そんなことないとは言えなかった。

 声は不安定に紗弥のものと未弥のものが行ったり来たりしていて、とても意識して使い分けているようには思えない。

 並列で別々の中身を流していたところを、無理矢理一つにまとめてしまったような混濁具合だった。

 明らかに、彼女は精神に異常をきたしている。素人の出る幕じゃない。僕なんかが下手に刺激して、取り返しのつかないことになったらどうする? 彼女はどうなる?

 ……ああ、と思う。

 僕の取る選択は、絶対に間違っているんだろうと確信を持って言える。

 でも、ゴールデンウィーク前日のあの日、紗弥を呼び出して欠点を聞いたときと同じだ。僕は自分の思うとおりのことしか出来ない。

 だって、彼女はこんなにも完璧なのに、こんなにも脆い。

 誰も近付いてくれなかったから、自分の中に他人を見つけて、外にいる他人を人とも思っていなかった彼女が、成り行きとは言え僕に、外の存在である僕に、そのことを話してくれたのだ。弱みを見せてくれたのだ。

 これで、僕の目的は叶った。

これで、僕は和歌月紗弥と本当の意味で理解し合える。

 工藤のことがなくても、僕がなんとかしてやりたいと思えた。

 僕は、黙り込む彼女に声をかける。

「……悪い、全部聞こえてたよ」

「……そ。幻滅したでしょ。あなたがこだわってたものの正体が、ただのいじけた引きこもりだったんだから。期待に添えなくてごめんなさい。でもこれがわたしの本性だから、残念だけど諦めて。理解したならすぐに帰って。いい加減、邪魔だよ」

 ドンッ、と強く、扉から衝撃が伝わってきた。もちろん痛いわけではなかったが、はっきりとした拒絶を感じ取れる。

「なんていうか、そんなに強い言葉を吐かれるのは初めてだな」

「そう? わたしはあんまり言葉を選べる方じゃないから、これまでも結構きついこと言ってきたと思うけど」

「そうだな。未弥には随分遠慮なく、いろいろ言われた記憶があるな」

「……未弥?」

「ああ、お前のことだよ。『未弥』」

「――――」

「彼女に名前を譲って、被らないように一人称まで故意に変える徹底ぶりで彼女の存在を保とうとしたお前が未弥だろ? なに揺れてんだよ、自覚を持てよ。お前がしっかりしなきゃ、彼女は消えるぞ。それとも、もういらないから消えてもいいのか?」

「違う!」

 怒号。ただただまっすぐに感情を乗せたその声に、一枚の扉はもはや意味をなさない。

「あの子はわたしにとって初めての、唯一の理解者なんだ! それがわたしの中から生まれた、暗示の産物じみた存在なんだとしても! わたしが初めて大切だと感じた他者なんだ! いらないなんてこと……あるわけない!」

「じゃあどうして今になって全部押しつけたりなんてした!」

 僕も負けないように声を張り上げる。

 彼女の声はもう、未弥のもので安定していた。

 明らかに、僕に未弥と断定されたことに引きずられている。

「僕ごときに影響されてるんじゃねえよ! お前ら二人は足りないところを補い合って、どちらかに負担が掛かりすぎないようにバランスとって二人三脚してきたんだろうが!」

 片方は対人を恐れる片方のために。

 片方は接触を恐れる片方のために。

 互いに最後の一線を守り合ってきて、今の和歌月紗弥がある。

 さっきの独り言は、そういう話だったじゃねえか。

「それをどうして……今になって全部紗弥にやらせようとしてるんだよ」

「っ……!」

 あの未弥が言葉に詰まっている。僕を言い負かす材料なんていくらでもあるはずなのに……言わないのか、言えないのかはわからない。

 やがて、扉越しに鼻をすする音。それをかき消すように、向こう側から扉を弱々しく叩く音が低く響く。

「だって……だって、いくら無意識だって言っても……病人だってわかってた相手にまで手が出るなんて異常すぎるよ……。彼女の……紗弥のほうがずっとマシだ……。入れ替わっても、サポートさえできないんならこんな奴……わたしなんていらないって、今度こそ思ったんだもん……どんな考えだったにしても、あの誰よりも接触を嫌っていた彼女があなたを受け入れたんなら……あなたを足掛かりにして接触への恐怖が薄められたなら……わたしは必要なくなるって、本気で……本気で思ったから……わたしは……」

「……お前、本当にバカだな」

 鍵の掛かった扉にすがりついているであろう彼女を、抱きしめてやれたらなと思う。せめて手を重ねて、人肌の安心というものを教えてやりたかった。

「彼女が同じことを考えてたって、思わなかったのか?」

「……え?」

「彼女は、僕との下校を受け入れたお前を見て、お前と同じように自分が必要なくなるって考えてたんだよ」

「……!」

「だから、もうお前ら二人に優劣はないんだよ。僕もバカだけどお前らも両方バカだ。お互い憎からず思ってるなら、欠点克服したってそのまま共生すればいいじゃないか」

 今までもそうして生きてきたんだから、今更なんの問題があるんだ。

「で、でも……わたしは全然克服できてない。現に――」

「その件なら誤解だったんだよ。未弥の手は、ちゃんと僕に当たらないように加減されてた。僕が転んだのは偶然で、未弥に非はなかった。ボクシングで言えばスリップだ」

「証拠もないのにまたそうやって……わたしを甘やかそうと」

「事実だ。お前は無意識にやってしまったと言った。つまり僕の顎の皮を抉るように狙って打ち込んできたわけじゃない。ならそれは過失として扱われるべきだし、罪に数えるつもりはない。突然手を掴まれたからびっくりして強く振り払ったってのと変わらない」

「…………」

 納得は、あんまりしてくれてなさそうだな。

 でも、どうだろう。過失でも、人が死んだり大けがをしたというのならともかく、僕の場合はただ掠っただけだ。いくら相手である僕が病人だったとしても、それによって病状が悪化したわけでもない。結果として、何も起こっていないのだ。

 ならば、未弥のどこに罪があるというのか。

 紗弥も未弥も、人に怪我を負わせたことがないんだろう。

 だから程度がわからない。なんでもないことで過剰に大騒ぎしているだけだ。

「普通に学校生活送ってるんだから、僕だってそこまで弱くてなにも出来ないわけじゃないよ。だから……その、なんだ。消えるなんてやめとけよ」

口ごもりながら、僕はこんな身勝手なお願いをする。

「僕は紗弥も未弥も好きだから、どっちかがいなくなるのも嫌っていうか……」

「……………………」

 沈黙された。相手の反応が見えないからかなり怖い。

 ……やっぱり外したっぽい? やっちまったか?

「……なにそれ、本人を前にして二股発言?」

「それ絶対言われると思ったけど! ……そうじゃなくて、知ってる人がいなくなるのって気分悪いじゃん。それだよそれ」

「……ふーん」

 ……向こう側の反応がなくなってしまった。いかん、本当に外したかもしれない。どうしよう。

 僕が内心焦りまくっていると、やがて、

「……求めて……なら……」

 久しぶりの、よく聞き取れない音量の呟きがほんの微かに聞こえた。

 さすがに意味までは捉えられずに聞き返すも、

「なんでもない」

 そう言って、なぜか彼女は笑い出した。なぜだろう、全然わからない。

 しかしそれは、とても楽しそうで。

「ねえ、問題だしてもいい? 問題って言うか、確認みたいなものだけど」

「え? ああ、いいけど」

「あたしは紗弥でしょうか、それとも未弥でしょうか」

 ただいま絶賛流れが読めずに戸惑い中の僕でもわかる問題だった。

「……それ、問題にする意味あるのか?」

 簡単すぎるだろう。と僕は訊くが、彼女はこれでいいのだと言い、僕の答えを急かす。

 迷いなく、はっきりと僕が彼女の名前を発音すると、彼女は正解とだけ言って、固く閉ざされていた鍵を、ようやく開いた。


第七章 仲良くなれたその先は


 翌日の朝。本当に珍しいことに雨が寝坊をした。どんな理由があったのかと思い訊ねてみるも、「うるさいバカ」と不機嫌に言われてしまい、取り付く島がない。

 やっぱりあれか、昨夜僕が遅く帰ってきた所為で夕食の時間が遅れてしまったことをまだ怒っているのだろうか。

 そのくせ朝食を一緒に取った後は一緒に登校したいと言いだし、僕を含めた家族全員を驚かせた。

 そして現在、雨の入学式以来となる兄妹での登校中。

 雨は昨日僕と別れた後の顛末が訊きたがったので、簡単にまとめて話してやった。

 二人のバランスはとりあえず元に戻って、昼は紗弥、夕方以降は未弥が表に出てきて、紗弥の緊急時には未弥が臨時で表に出てきて問題の解決に尽力すること。

 そして、工藤が逮捕されたので、既に僕と一緒に登校する理由がなくなったと報告したこと。

「へーなるほどね。丸く収まったって言うか、結局、特に何も起きなかったって言うか」

「そうだな。外側に見える事件は、我が校の生徒から犯罪者が出てしまいましたってくらいだな。まあそれも、愛のおかげで僕らに実害は出なかったんだし。結果的には」

「愛さんにはお礼しなきゃね」

「もうしたさ。昨日の晩には電話もしたよ、報告も兼ねて」

 雨がビクンッと反応した。わなわなと震えて、鞄を地面に落としてしまっている。いったいどうしたというのか。

「ほ、ほ、ほほほ報告ってことはやっぱり昨日――!」

「ああ、紗弥と未弥、両方と仲良くなれたってな」

「あーっ! 聞こえな…………うん? 仲良く?」

「ああそうだよ。愛ともそうだけど、僕って嫌ってる割に、なんだかんだで完璧って認識した人と仲良くなれてるよな。やっぱり本当は嫌ってるんじゃなくって、好意の裏返しなのかな。将軌に言われたように、嫉妬みたいなさ。どう思う?」

「あー……うん。そうなんじゃない? それでいいと思うよわたしは、うん。良かったね仲良くなれて。仲良くなったってちょっと意味深だけど潤だから心配してないよ。純粋に良かったねって祝福できるよ私。私、強い子だもん」

「? ああ。よかった」

 雨の言葉に何か含みを感じながらも、二人で通学路を歩いて行くと、いつもの場所で紗弥が待っていた。

 特に疑問も抱かず、僕はあいさつをした。

「よ、おはよ」

「おはよう潤くん。雨ちゃんもおはよう。珍しいね、兄妹揃って登校なんて」

「そうなんだよ。珍しく雨が寝坊してさー」

 他愛のない会話を、なんでもなく話し合える。

 気の置けない仲、というのはこういう関係のことを言うのだろうかと、ふと思った。

 僕が紗弥と話している間、雨は喋らず、紗弥にあいさつもせず、ジッと僕らを見つめていた。睨むと言うほどではないにせよ、若干の敵意のようなものが垣間見える。

 なんてことを思っていた途端、

「紗弥さん!」

 雨は僕と紗弥の間に割って入ってきた。というより、僕を引き離して紗弥の腰に抱きついていた。

 あ、と思ったがもう遅い。雨は自分よりも背の高い紗弥の耳元に口を近づけて、何かを囁いた。

「もう一緒に登下校する理由はないと聞きましたが?」

「そうだけど……ここで待ってるのはわたしの自由でしょ?」

「兄さんにその気はないみたいですよ。残念でしたね、紗弥さん」

「…………」

 僕には雨が何を言ったのかわからないが、雨の言葉を聞いた紗弥は目を丸くしながら雨と見つめ合い、少しの沈黙の後、

 ニタ、と笑った。

「これからその気にさせるつもりだよ、あたしは。負けないからな? 妹」

 雨を真似るように、同じく耳元でなにかを囁くと、雨は囁かれたその耳を押さえて飛び退いた。

 顔を真っ赤にして、言葉を失ったように口をパクパクさせている。何を言われたんだろう。

 対して紗弥はにこにこと、親が子供にする意地悪な悪戯を成功させたときのように、楽しそうに笑っていた。

 なんていうか、力関係がはっきりと出た構図だった。

 雨はキッと僕を睨み付けると駆け寄ってきて、僕の腕にしがみついてきた。

「おいなにする、ここは外だぞ」

 余裕の表情を見せる紗弥を、雨は必死な顔でじっと見据えて、

「私、最近は毎晩潤の部屋にいるんだから!」

核弾頭を投下した。

「おまっ……! 公共の場で昼間からなに言ってんの!? 僕を社会的に殺す気か!?」

「社会的に死んだら私が養うからいいもん! 責任取るもん!」

「ねえよ! 妹に取ってもらう責任なんてねえよ! はーなーれーろー!」

 離されまいとしがみつく雨を引き剥がそうとするが、なかなかどうしてうまくいかない。

 そんなことをしていると、きゅっ、と雨とは反対側の僕の袖を引く手が一つ。

 振り返ると、紗弥の綺麗な微笑みが待っていた。

「ほら、遊んでると遅刻するよ、二人とも?」

 薄く頬を染めるその顔が、あまりにも楽しそうで、満ち足りているように見えたから、

「あ、ああ。そうだな。早く行こう」

 僕の方が、普通に照れてしまった。まだ容易に触れ合うことは出来ないが、そう簡単に未弥に出てきてもらうのも悪いし、なによりまだ未弥の人間嫌いが克服されたわけじゃあないし。

 未弥に会って話したければ、放課後以降まで待てば済む。彼女らに負担を強いることはない。

 まだ、そういう仲でもないし。

 僕らは三人寄り添い合って、外目からは仲良さそうに歩いて行く。

「ところで、雨は外でも素で行くことにしたのか?」

「紗弥さんの前でだけ。紗弥さんにはこっちじゃないと対抗できないから」

「まあ、こっちは二人がかりだからね。雨ちゃんには悪いけど」

「なんの話かは知らないが……お前ら仲良くしろよ? 僕と愛みたいにさ」

「「!?」」



終わり


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