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歪なラブコール

 青春とは人生における春だという。春というのは四季の一番初めであり、冬を過ぎたらまたやってくるものだ。円環構造――つまり巡り巡って訪れるものだというのに、人の生では青春は最初の一度きりで、二度目の春は訪れない。これは一体どういうことか。春は職務を怠慢しているのではないか。

 この世は総じて矛盾だらけで、不条理で、不完全だ。創世の神だか何かは知らないが、この世を作った奴はきっと適当な性格だったんだろう。だから人に限らず、この世に完璧なものなんて一つもないし、不完全であることが当たり前として受け入れられている。

 言わば、不完全なことこそが普通なのだ。

 何かができれば何かができない。身近な人間で例えれば、例題などいくらでも挙がるだろう。

 ○○くんはサッカーは得意だけれど野球はできない。

 ××さんは顔はいいけれど勉強が出来ない。

 みたいな。

 容姿が良くて、頭が良くて、運動が出来て、性格が良くて、人当たりが良くて、炊事掃除洗濯裁縫の家事全般がこなせて、その他にも良い点ばかりで悪い点が一つもない、なんて、そんな人間がいるわけがないのだ。この内、どれか一つでもあれば個性や長所と呼んでもらって、それだけで持てはやされるべきなのだ。

「そんな当たり前なことをわざわざ語らなきゃいけないのは、お前の所為なんだぞ紗弥」

 僕は自らの通う私立関大路せきおおじ高校、その二年四組教室で、クラスメイトである和歌月紗弥わかつきさやに言い放った。

「……うん?」

 全くわかっていないご様子。

 放課後の教室。僕と向かい合うその顔は小さく、人形のように端正で、困り顔を浮かべている今でさえ、どこか無機質感を抱かせる。陶器のように白いその肌に、流れるウェーブがかった長い髪がよく映えている。雰囲気的には清廉な白百合。派手さはないが美しく、人を引きつける魅力がある。

「その整った顔も、綺麗な髪も、外見だけを取っても、紗弥は羨望の的にされていてまったく不自然じゃない。僕の主観を抜きにしても、お前は美人なんだ」

「あ、ありがとう……」

 面と向かって美人だなどと言われた所為か、頬を染めながらお礼を言う紗弥。

 褒められたときの反応までが可愛らしい。美人というのは、得てして周囲に冷たい印象を与えてしまうものであるが、彼女は笑顔に親しみがあるためそれがない。そのため男女の区別なく友達も多い。さらに成績も学年トップクラスで、常に一桁の順位をキープしている。運動さえ出来るらしく、体育の時間でもみんなに頼られ、大活躍しているらしい。

「その上、なにをやらせても平均以上に出来過ぎるし。もう世の中簡単すぎてつまらないとか言っちゃってもお前だったら納得って感じなんだけど、そんな様子も全然見せないよな。むしろ毎日を楽しめてるように見えるし。なあ、どうしてそんなに謙虚になれるんだ?」

「どうしてって言われても……わたしはそんな、周りのみんなが想像しているほどなんでもできるわけじゃないよ? 十徳ナイフの方が色々使えて便利だと思うな。缶切りとか栓抜きとかドライバーとか、いざってときに持ち合わせてなさそうなものがオールインワンなんだよ? すごいよね、機能美とはかくあるべしだよね!」

 無駄に十徳ナイフへの愛が溢れるコメントだった。ちなみに、最近あまり十徳ナイフという言い方は聞かない。アーミーナイフとか、ツールナイフとか、なにやら格好いい横文字で呼ばれる。その上に、ものによっては十どころか三十を超える機能を有するナイフさえあるのだ。安易に十徳ナイフとは言いにくくなるのもわかろうという話である。

 まあもちろん、十だろうが三十だろうが、その程度の機能で紗弥の比較対象になれるわけがない。

 出来ることの数よりも、出来ないことの数の方が少ないような人間である。

「どうしてここで十徳ナイフを引き合いに出したのかは激しく疑問だが……そうじゃなくて――いや、じゃあ逆に訊くけど、お前は何が出来ないんだ?」

「わたし? わたしは運動苦手だし、料理や裁縫なんかも下手だよ。いつか誰かのお嫁さんになるのに不安なくらい」

 即答されたが、それは間違いなく謙遜だった。運動については先ほど述べた通り。情報に間違いはない。料理も毎日持参してくる弁当の中身を自作しているのを僕は知っているし(しかも超美味そう。絶対冷凍食品使ってない)、裁縫もボタンの縫い付けくらいは授業の合間の休み時間に普通にこなしている。このレベルで下手だなどと言われてしまっては、他の人間が可哀想だ。

 何でも出来る代わりにそれぞれが中途半端な器用貧乏とは違い、何でも出来るくせにそれら全てがレベルだから手に負えないのだ。

「お前を嫁にもらって幸せになれない男なんているわけないだろ。僕がもらいたいわ」

「えっ……?」

 僕の本音半分で吐きだした軽口に、紗弥は驚き頬を染め、なにやらもじもじし始めた。

 可愛い反応するなよ。惚れちまうだろうが。

 閑話休題とばかりに僕は咳払いを一つして、

「仕切り直すけど、僕は紗弥のことを去年からずっと見てきた。その上で、ここまで完全無欠な人間は初めて見たって断言する」

 僕に倣って居住まいを正す紗弥に、本題を告げる。

「容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、家事全般大得意。この上人格にさえ穴がない。なんだそれ。普通そんだけ色々出来たら性格歪むだろ。なんで当たり前にいい子やってんだよお前」

 だんだんときつくなる僕の口調に、紗弥は当惑していた。まあ当然だ。褒められているのか貶されているのか、判断がつかないのだろうから。

 正解は両方なんだけどさ。

「なあ紗弥。僕はさ、完璧とか完全って奴が嫌いなんだ。そんな奴が隣の席に座ってるとか、ストレス以外の何物でもないんだよ――だから、お前の欠点教えてくれない?」

「…………」

 紗弥は絶句していた。いつもは優しげな光を灯す瞳に、不安の色を滲ませて。

「正直……告白されるんじゃないかと思ってドキドキしてたんだけど、もっと衝撃的なこと言われてドキドキしてます……。わたし、嫌われてたんだ……」

 ショックを隠せないといった様子の紗弥に、僕は平然と言う。

「嫌ってないぞ、むしろ好感持ってる。嫁に欲しいってさっき言ったじゃん」

「…………?」

 じゃあなんなの、わけがわからない、意地悪してからかっているならだけならもうやめてほしいと、紗弥の視線が訴えてくる。

 確かに今まで普通にクラスメイトやってた男子からこんなこと言われたら誰だって怯えるよな。わかるわかる。

 でも、そんな顔をしても無駄だ。僕に取り消す気はない。

 弱点と呼べるものを晒すまで、いつまでだってストーキングする覚悟だ。

 視線を押し返されて、僕に引く気がないことをある程度読み取ったらしい紗弥はほんの一瞬、泣き出しそうに表情を歪めたけれど、すぐに首を振ってそれを堪え、僕に問う。

「……確認、なんだけど」

「言ってみろ」

 なぜか高慢な態度をとる僕にツッコミも入れず、紗弥は言う。

「あなたは、清水潤きよみずじゅんくん……だよね? そっくりさんとか双子じゃないよね?」

「清水潤本人で間違いないよ」

「じゃあ、わたしと潤くんはクラスメイトで、友達だよ……ね?」

「ああ、間違いないな」

 然り。事実だ。

「それなりに、仲もいいはずだよね?」

「ああ、僕の自惚れや勘違いじゃなければ」

 それも然り。一年生のときからクラス替えを経ても同じクラスになれた僕らは、二年生になってからの約一ヶ月間――つまりゴールデンウィーク直前の現在まで――は、席が隣という所為もあって、ほぼ毎日言葉を交わしている。逆に言えばそれだけだが、紗弥の方がそれを『仲のいい友達とするおしゃべり』と認識してくれていたというだけで、むしろ僕の方が嬉しくなった。

 けれど彼女の僕への好感度は、僕のそれと反比例して減少していくようだった。

「……今までわたしとお話ししてくれたのも、友達になってくれたのも、全部わたしの欠点を見つけるため?」

「……まあ、極端に言えば」

「今日っていうゴールデンウィーク前日の放課後に、こうしてわたしを呼び出したのも、全部そのため?」

「あんまりにもボロを出さないもんだから、直接聞いた方が早いかなーと思って」

「……そう、なんだ」

 正直に質問に答えた僕に、紗弥は何かを納得したらしく、彼女にしては珍しい盛大なため息をついた。

「はぁーあ、とんだ取り越し苦労……」

 後に続いた呟きはうまく聞き取ることが出来ず、聞き返すものの、

「教えなーい」

 と突っぱねられた。

「それは宣戦布告ってことでいいのか?」

「なにそれ、よくわかんない」

紗弥はすくっと椅子から立ち上がり、

「帰るよ」

 それだけ言って、僕に背を向け扉へ向かった。

「また来週な」

 特に動揺する様も見せず、僕は何事もなかったように平凡な挨拶をした。

 すると、紗弥は僕に向かって下まぶたを引き下げ舌を出し、

「べーっだ」

 あっかんべーをしてきた。

 そして閉じられる教室の扉。室内に残るのは当然僕一人。

「……紗弥のあっかんべーを見たのは、多分僕が人類最初だな」

 嫌われたかなー。

 苦笑混じりにそう独りごちて、僕は何がしたかったのかと自問し、一応の答えを出すと同時に携帯を使って電話をかける。

「あー僕だけど、明日暇? そっかそっか、じゃあ明日お前んち行くからね。よろしく」

 用件終了。

 さあ、明日はゴールデンウィーク初日。存分に満喫するぞと気合いを入れて、僕は帰宅するのだった。


第二章 興味と好意、猫をも殺す好奇心


 既に語ったとおり、僕は完璧な人間というものが嫌いだ。どのくらい嫌いかと問われれば、現実の世界のみならず、漫画などの創作の中でさえ許せないレベルで嫌いだ。

そう。嫌いと言うより、許せない。

完璧な人間なんているわけがないし、人が一人では生きていけない以上、たった一人で何もかもをこなせる人間なんていうものは認められない。

 容姿が整っていて、頭が良くて、運動が出来て、生活能力があって、融通が利いて、自分という個性を理解していてそれを活かせて、他人に対して気配りの出来るそんな人間。どれか一つでもあれば人から羨望される要素だというのに、それを全て持っているなどふざけている。

 だというのに、だ。

 いるわけがないそんな人間を、僕はこの世に生を受けてからの十六年の間に二人も見つけてしまっている。

 何でも完璧にこなせる人間を挙げろとお題を出されて、身近な人間の名を出せる人はこの世にどれだけいるだろう。身近になればなるほど、完璧に見えた人の粗はよく見えるようになり、結果としてその人を完璧と形容することは出来なくなる。これは普通のことだ。この普通のことができなくなるのは、憧れや恋愛感情のような、特別な好意的感情をその人に対して自分が抱いてしまう場合に限る。

 あばたもえくぼ。自分の内からの好意という色眼鏡を通すと、欠点さえも好ましく見えてしまう状態のこと。

 まったく自慢にならないが、僕はこの状態にいまだなったことがない。

「……まとめると」

 僕の話を黙って聞いていた保育園からの親友、春山将軌はるやままさきはどうでもよさそうに言う。

「……思春期真っ只中の癖に初恋すらまだのお前がホモだって話?」

「お前最後しか聞いてなかっただろ」

 親友は薄情だった。いつもこんな感じの反応をする奴ではあるが、今は僕なりに真面目な話をしている最中なのだから、もう少しそれ相応の態度を取ってもらいたかった。

「将軌、お前は人の話を聞けるようになった方が良いぞ。真面目な話」

「女の話は真面目に聞いてあげられるから問題ない」

 将軌は嫌みったらしいことこの上ないドヤ顔で嘯く。なんで上から目線なんだろう。

 まあ、実際こいつには彼女がいて、リアルが充実しているリア充とかいう人種だから、彼女どころか初恋さえまだな僕に対して優位に立っているという自負があるのだろう。

 大して羨ましいとも思わないが。

 僕が冷めた目で将軌を眺めていると、いい加減視線に耐えられなくなったようで、

「……ごほん、じゃあ要望に応えて真面目な話するけど」

 咳払いをして、将軌は本当に割と真剣な口調で僕に尋ねた。

「お前が完璧な奴を嫌うのって、単に嫉妬なんじゃねえの? 自分はこんなにできないことがあるのに、どうしてお前は何でも出来るんだっていうさ。そうじゃないって言うんなら、高嶺の花に振り向いてほしいって言う恋愛感情に発展するきっかけ的な何か。つまり好きとまではいかないけど気になってますって状態。実際、お前が完璧だって定義する奴、二人とも女子だし」

「んー……どっちも否定しきれないのが痛いところだけど、同姓で完璧な人間を見つけられないのは、きっと粗が見つけやすいってだけの話なんだよな。異性のことはもう全く、未知でわからないから完璧に見えてしまう部分がある。逆に男なら、自分も男なわけだから欠点を探しやすい。もちろん、完全に見切れるなんてことは言わないけど。紗弥に関しては本当にまだだからな。これから暴き出してやるぜ」

「それだけ執着するって……もうお前、和歌月のこと好きなんじゃねえの?」

「マジか」

 それは知らなかった。

「まだ自覚ないのかもしれんが、あんまり焦れったくても見ててめんどくさい。好きなんだろー、付き合っちゃえよー」

「なんだその中学生みたいなノリ……」

「好きだから理解したいのに、相手が完璧超人なもんだから……自分が理解できる欠点を見つけて親しみを覚えたいとか、そういうことなんじゃねえの?」

「んー……それはあるかもだけど」

 よくわからん。わからんだけに否定できない。

 しかし現実問題としてだ。僕も健全な男子高校生の一人なわけで、当然彼氏彼女とか、恋人同士のお付き合いとか、そういったものには普通に関心がある。よくわからないが、僕が紗弥に抱いているこの感情が恋だというのなら、

「じゃあ将軌。仮にだけど、僕が紗弥に恋しているとして、どうすればいいと思う?」

「知らんわ」

 これ以上なく素晴らしいテンポでばっさり斬り伏せられた。

 自分から話を振っておいてこの対応はひどいと思う。

「……さすがに素っ気なさ過ぎないか?」

「いや、マジで知らんし。告りたきゃ勝手に告れ、そしてフラれろ。笑ってやるから」

「ひどすぎる! たいしてイケメンでもないくせに友達多くて彼女持ちのリア充からなら何か参考になる意見でももらえると思ってわざわざ家まで来てやったのに!」

「潤……妬んでるのか貶してるのかよくわからないが、それは逆ギレだからな? 俺は突然押しかけられてるだけだぞ?」

「突然とか押しかけるとか言うなよ。昨日の内にちゃんと連絡入れただろ? 『明日お邪魔するよ』って」

「だからってこんなに朝早く来るとは思わないわ! なんでリアル朝飯前なんだよ! 普通早くても九時頃かなって誰でも思うわ!」

「朝じゃないと今日に活かせないだろうが!」

「ゴールデンウィーク明けてからじゃダメなのかっ!?」

 ぎゃあぎゃあ、わあわあと。騒ぎまくっておいて今更なんだが、現在時刻は午前五時の少し前で、ようやく空が白んできた頃。

 近所迷惑甚だしい。……まあ、将軌の家の周りは全て田んぼや畑だから近所なんてないんだけどね。ご両親はそこでの作業があって、既に起きて働いていらっしゃってるし。お疲れ様です。

 とりあえず将軌は大声を出したことでしっかりと目を覚ましたらしく、ため息を一つ落とした後トイレへと向かい、戻ってくるときにはアイスコーヒーを手にしていた。当然一杯だけだった。

そして将軌はベッドに腰をかけるや否や、氷の音を響かせながらそれをぐいっと一気に飲み干した。

「ふう……それで? 大事な話ってのはなんなんだよ」

 将軌もようやく落ち着いたのか、今度こそ僕にきちんと向き直ってくれた。

「だからさー、どうすれば良いと思う?」

「それはもうええっちゅーねん」

 何をかって訊いてんだよ、と改めて訊いてくれた将軌に、僕は心の内を全て話した。僕から見て紗弥が如何に素晴らしく、魅力的なのかということを。そしてそんな彼女に、完璧を嫌う僕は昨日ついに、弱点を晒してくれと要求したことを。

 僕が一通り話し終えると、将軌は唖然とした顔で僕を見つめていた。

「和歌月紗弥って……マジで?」

「大マジだが」

「仲良かったのにもったいねえ! 嫌われるとか思ったりしなかったのか? バカなのか? いやバカだよ!」

「そんな反語の使い方があるのか……」

 将軌の日本語力はともかく、ひどい言われようだった。……まあ、バカなことをしたという自覚はある。

 将軌はあーあと頭を抱え、ひとしきり僕を罵ると、

「……しかしなぁ、よりにもよって和歌月ってのはまた……お前も難儀な奴だよな」

 続けてしみじみと、僕を見るその目を半眼にしてそう言った。

「潤だって、自分で見て知ってるだろ? 学年どころか校内で一、二を争うあの美貌で、性格も文句のつけようがない。さらに頭も良くて運動もできる、漫画のキャラ並みに完璧なあの子に惚れてるなんて野郎は大勢いる。リアルな話、男子生徒の三分の一は確実に和歌月のファンだろうよ。当然、感情を抑えきれず、もしくは抑える気もなく、告白に踏み切った野郎も多い」

 知っている。仮にも僕は紗弥の友達なのだ。

 我らが私立関大路高校の生徒数は約八百人弱。男女比は大体半々くらいだ。つまり、紗弥一人で百人単位の支持を獲得していることになる。

 告白されることも本当に多く、その数も百に届いたとか届かないとか。本人は申し訳なさを感じていながらも、その数多く受けてきた告白のどれにも応えていない。

「見ず知らずに近い他人から、潤みたいに結構親しかった男友達まで、色んな男たちに迫られたことだろうよ。だが、訊けば和歌月は、一度も彼氏を作ったことがないっていうじゃねえか。ここまでで立つ仮説は……男を作らない理由があるんじゃないか、ってこと」

「それは――」

 ――僕も、考えていたことだ。

 どんな理由なのかは、皆目見当もつかないが。

「潤、おまえさ、直接本人に訊けないのか?」

「訊けるけど……はぐらかされるな、きっと」

 紗弥はその手の話題を苦手にしているから。

 相手が敵意でなく好意を寄せてくれているだけに、それを断るのはつらいことなのだろう。

 僕には経験がないのでわからないが。……だからこそ、僕は敵意に近いものを紗弥にぶつけてしまった……のか? 自分のことなのにうまく説明できん。

 簡単に感情の裏返しとは思いたくないなぁ……小学生男子が好きな子にちょっかいをかけてるみたいで。

もしそうなら、あまりに幼稚極まりない理由だ。

「訊ける、って即答できるところはお前の長所だと思うぞ。俺には真似できない」

 言って、将軌はこれ以上ないしたり顔で無駄に顔を近づけてきて、

「だから、俺には実行できないこの作戦をくれてやる」

 そう囁いた。非常にうざい。バイなのかと疑いたくなる。

「おい……もう少しくらい乗ってこいよ。そこまで冷めた反応されるとこっちもつらい」

「だったら急に胡散臭くなるなよ……」

 普通に言えばよかったのに。

「これは本当に使える手だと思うぞ。ただ和歌月を相手に、他の誰も使えないってだけでな。お前以外」

「……なんだそれ」

 そこまで過大評価されては身構えてしまう。将軌は僕のことを何かと買いかぶる傾向にあるので、その都度期待に応えるのが大変なのだ。

 ところで、将軌の示した案というのは、

「人気の一、二を争ってる、もう片方と仲良くするんだよ」

「……愛か」

 花ヶ咲愛はながさきまな

 恐らく校内の全生徒が知っているであろう有名人の名前である。紗弥を知らないというモグリの生徒でも愛は知っているケースがあるほどの有名ぶりだ。親がいわゆる資産家というやつで、僕ごとき一般庶民には理解できない額の金を動かす仕事をしているらしい。

 容姿ならば紗弥も引けを取らないのだが、花ヶ咲愛には紗弥にはない華やかさがある。率直に言って派手なのだ。

 紗弥が白百合ならば彼女は薔薇……いや、牡丹か。今年から生徒会副会長を務めている才媛でもある。まったくタイプが違う二人なだけに、人気はわかりやすく二分されている。

「花ヶ咲愛は、和歌月とは一番の親友同士らしいじゃないか。将を射るならまず馬からってな。外堀から埋めていって、和歌月の好みとか何が嫌いとか、そういう情報集めていけばいいじゃん。お前、花ヶ咲とは中学から一緒なんだろ?」

「愛は馬っていうより別部隊の将って感じだが……まあ、うん。射止めるまでもなく愛は友達だけどな」

「まあ難しいのは百も承知だけどよー……え、それって単に出身中学が同じってだけの意味じゃなくて?」

「だから友達だって。お前と同じ、名前を呼び捨てで呼び合う仲だよ」

 そう言うと、将軌は口をあんぐりと開けた。

「……は? 自分で言っておいてなんだけど、花ヶ咲が男子と仲良くしてるとこなんて見たことないんだが……」

「え、別に僕は普通に話すけど。向こうも普通だし」

 むしろ将軌が何にそこまで驚いているのかが不思議。

 彼女持ちのくせに、こいつには女性免疫がないのだろうか。

「……潤って、もしかしてめちゃくちゃコミュニケーションスキル高いんじゃね? なんで友達いねーの?」

「いないんじゃない、少ないだけだ。ほら、友情は量よりも質だろ? 将軌は僕の貴重な友達だしな」

「キモ」

 うん、今のは僕もキモいと思った。なんていうか、ノリだけで言った。反省してる。

 とまあ、そんな戯れ言もでてくる程度には僕らの話も落ち着いて、その後は二人でゲームなどで時間を潰した。将軌は家業を手伝わなければならないので、時計の針が九時を示すと、僕はお暇することにした。

 僕の帰り際、将軌は言う。

「ま、何はともあれ仮定の話だ。お前が和歌月に惚れてるなんてのも俺の勝手な憶測だしな」

「ああ、だから僕も話半分で聞いてた」

 それじゃ、と言って帰ろうとする僕に、将軌は空気を読まずに続けた。

「そういえばさ、和歌月って人と話すとき結構な距離取るじゃん?」

「は?」

 そうだったか? そんな印象は受けなかったけど。

「昨日もお前が笑顔で距離取られてたの見たし」

「あれはそういうノリだっただけだ!」

 昨日の昼休み。クラスの数人で固まって生物室に移動する際、同じ学校に通う一つ年下の僕の妹と偶然廊下で対面し、紗弥に紹介する流れになった。これでもかと言うくらい品行方正さをアピールしていった妹を見て、「立派な妹さんだね」なんて紗弥が言ってくれたもんだから、調子に乗って僕も「ああ、自慢の妹だよ」なんて返事をしてしまった。それで「やだー潤くんってシスコンだったのー? キモーい」って笑顔で軽くなじられながら置いて行かれるオチがついたってだけの話。諧謔にも富んでいるのだから、本当に紗弥の有能さがわかるエピソードである。

「でもなぁ……和歌月が誰かに触ってるのとか、見たことないんだけど」

「……んん?」

 確かにそんな露骨にボディータッチをするようなキャラじゃないが。

 どうなのだろう。僕だって紗弥とは入学以来同じクラスだとは言うものの、彼女の目撃範囲は学校内に限られるし、教室の中くらいでしかきちんと紗弥のことを見ていないし、確証はない。

 でもあれだけの社交性を持っているのだから、多少はそういったコミュニケーションもとっているだろう。

「ちなみに聞くが、潤はボディータッチされたことあるか? したことは?」

「……ないけど、そんな珍しいことでもないだろ」

 あれ、意外に僕と紗弥の関係って浅い? 紗弥は友達って言ってくれてたはずなんだけど……いや、そもそも今そこは問題じゃない。ボディータッチだけがスキンシップじゃない。そんなのなくても友達は友達である。はず。

「さすがに女子同士でじゃれたりするくらいはしてると思うぞ。男相手にってのは、僕も記憶にないけど。ていうか、それがどうしたんだ」

「別に。ただ、もしかしたら和歌月って貞操観念めちゃくちゃ高いのかなーとか、思っただけ。やっぱり触らせないのは男相手だけみたいだしな」

「わからないな……何が言いたいんだ」

「いや、今どき貴重な子だなーって。ホントに付き合えたら自慢してくれていいぞ。焼き肉でもなんでも奢ってやる――あれ、焼き肉は大丈夫なんだっけか」

「おう、奢ってもらおうじゃねえか。食い放題はいらないけどな」

 という、謎の売り言葉に買い言葉をもって僕の相談は終了し、春山家を後にした。

 どうやらまるで期待されていないようだが、これはこれで燃えるというものだ。

 今のところ、僕は仲良くなれればそれで満足なのだけど。


 花ヶ咲愛は僕の知る、もう一人の完璧超人である。幸いなことに、彼女とは中学からの同級生で、一悶着あった仲だが既に友達だ。長い直毛を所々結い上げたり、三つ編みを作った女の子らしい髪型に、さっぱりとした男前な性格を体現したような精悍な顔つき。そして威圧的なまでの大きな瞳が印象的。背も高く、足の長いモデル体型で、もう芸能界入っちまえよ絶対向いてるぜと何度進言したかわからない。

 そんな僕と紗弥の共通の友達である花ヶ咲愛を呼び出したのは、将軌の家に早朝訪問した翌日。何かと忙しくしている愛にしては珍しく予定が空いていると言うので、食事を奢るから相談に乗って欲しいと持ちかけたところ、二つ返事でオーケーが出た。

 そして当日。

「遅いぞ」

 花ヶ咲愛は苛立っていた。

 理由は僕が待ち合わせに遅刻したからなんだけどね!

 和歌月紗弥には友達が多く、基本的には誰にでも分け隔てなく優しいが、一人だけその例に漏れる人がいる。

 それが彼女、花ヶ咲愛。僕らと同い年の愛は、紗弥の唯一の親友であるが故に、他の有象無象よりも目に見えて仲がいい。それはもう、それぞれのファンが悶絶するくらいに。二人はそっちの気があるのかと疑惑が湧いたほどだ(現在その疑惑が晴れたかというとまだ微妙)。

 ちなみに、僕に紗弥の細かい情報を流してくれるのは愛だ。だから普通に学校に通っているだけでは知り得ない、掃除や裁縫なんかまで得意だということを僕は把握できている。まあそれは、私の友達はこんなにすごいんだぞという自慢というかアピールじみたもので、決して僕から依頼したスパイ行動ではないのだが。

「ごめん、悪かった、申し訳ない、この通り! ぐはっ!?」

 僕が頭を下げながら財布を差し出すと、ほぼ時間差なく思い切りデコピンをされた。超痛い。女子の指の力じゃない。

「浅ましい真似をするな。ギャグのつもりなんだろうが、品位を落とすぞ」

「愛じゃあるまいし、僕のあってないような品位なんて気にする必要――いえ、なんでもありません! サー!」

 再度指で溜めを作った愛を見た瞬間に敬礼。口答えは許されていない。

 僕の態度に呆れたのか諦めたのか、愛は大きくため息をついた。

「まったく……相談があるというからわざわざ来てやったというのに、レディーを待たせるとは不届きな奴だ」

「あ、うん。それは本当に悪かった」

 今度は誠意を込めて謝ると、愛は気をよくしたようで、あっさりと許してくれた。このあたりはさすがの人格者である。

 時刻は午前十一時。僕が何気なく提案したファミレスでの食事に、愛はあっさりと同意してくれたので、少し早いかとも思ったが二人で昼食をとることにした。

 二人そろってハンバーグなどを注文し、数分後。

「それで、相談とはなんなんだ?」

 ナイフとフォークで、届いたハンバーグを上品に切り分ける愛は、その真似をする僕に言った。

 最初は天気の話題が無難か、それとも「このハンバーグは価格の割に肉汁がたっぷりでなかなか食べ応えがあるね!」なんて庶民トークから入ろうか、などと話を切り出すタイミングを計っていた僕としては情けない限りだが、こうなっては仕方がない。相談を始めよう。

「まあ……言いにくいんだが、簡潔に言うと紗弥と一悶着あった」

 一応、衝撃的であるはずの台詞だったのに、愛は、

「やっぱりそれか」

 と淡白な感想を返した。

「……やっぱりってなんだ」

「紗弥からその日のうちに聞いている。……はぁ、まったくお前はどれだけ私にため息をつかせれば気が済むんだ。肺の空気がなくなりそうだぞ」

「ご苦労をかけます……」

 そりゃ、相談したくもなるわな。

「なんだ宣戦布告って。戦争でもするのか? 言っておくが潤、それぞれの呼びかけで兵を集めたら百倍の差がつくぞ」

「そうですね……」

 リアルに百倍以上の差がつきそう。愛も将軌も紗弥に付きそうだし……あれ、僕に味方いる?

「何を考えてるんだ?」

「戦力差の分析?」

「そうじゃなくって……」

 愛は真剣だった。僕から申し出た相談日だったのに、気がつけば僕が問い詰められている形になっていた。

 僕が答えに窮していようと、逃がしてはくれない。

「潤、私は確信している。お前は答えるべき言葉を持っている、しかしそれは私に向けて言いにくいことで、うまく表現できるようにと頭の中を探っているんだろう?」

 おっしゃるとおりです。

「なめるなよ、見くびるな。私にそんな配慮は無用だ。むしろストレートに言ってくれないのなら誤解するぞ、曲解しておかしな自己解釈をするぞ。それでもいいのか?」

「それは……困るなぁ……」

 切実に困る。誤った解釈を紗弥に流されたりした日にはもう大問題だ。仲直りどころじゃなくなる。

 はいはい、わかってますよ。わざわざそんな理屈で僕から逃げ道を奪い取らなくても逃げはしませんって。

 もう正直に、正々堂々話すしかないってことくらい、僕にだってわかっているんだ。

「僕が、紗弥に宣戦布告した理由だったな」

「ああ」

「端的に言って、興味」

 僕はよどみなく言った。

「へえ」

 愛は頷くと目を細め、足を組み直した。対話の態勢を作ってくれたようだ。

「それは紗弥をどういった対象として見た興味だ?」

「わからない」

「恋愛対象としてじゃないのか」

「わからない。ただ興味深い人間だって認識してる」

「そう思った理由は?」

「現状確認できる完璧な人間だから」

「なるほどな」

 ……今ので納得したらしい。

「つまりはまた万能性のテストか。『紗弥が出来ないことを見つけたい』んだろう?」

「……ご明察」

 なんかもう丸裸だった。恥ずかしいというか、自分を哀れみたい。

 本当、僕が認めた最初の完璧超人なだけある。

「なんてことはない。単にまた、お前の病気が再発したと言うだけの話だ」

 完全に読み通りだった、と愛は言う。

 確かに愛なら、紗弥からの相談を受けたときに大方の予想を立てられていても不思議じゃない。

 なんせ、前回は愛が当事者だったんだから。

「病気って言われるのはちょっと気に入らないが……まさか紗弥に話したのか?」

「……そうだな、不謹慎だった。謝るよ。それと、そんな不義理な真似はしないさ。一応弁えているつもりだよ、私は」

 ああ、僕も信用している。ただの確認だ。

 以心伝心。愛は僕が言葉にするまでもなく、僕からの意志を受け取り頷いた。

「それで? 私のときと今回で何か違うところはないのか?」

「……違うところ?」

「たとえば……私のときは完全に事務的に、私の万能性の果てを見定めたかっただけだっただろう? 今回もまったく同じなのか? 物に対して抱く以上の興味は持てないのか?」

「なんだよ、淡い青春物語を期待してたのか? 残念ながら今のところそれはない」

「はん、『今のところ』ねえ――私のときは『それだけはない』だったと思うんだが?」

「…………」

 覚えてねえよそんな昔のこと。

「なあ潤、本当に私の時とまるっきり同じなのか?」

 ……くどい。愛にしては異常なほどにしつこすぎる。

 愛と言えば竹を割ったように素直でさっぱりとした男前な性格をしているのが特徴だ。それは文句のつけようのない美点であるし、愛の人気の一要素でもある。

 その愛がここまで食いつくというのは、何か理由があるとしか考えられない。

 ああめんどくさい。頭の良い人間は一言に意味をいくつも含ませて話をするから、それをいちいち読み取って会話するのがひどく疲れる。楽しいけれど辛いのだ。二律背反。愛のことは人として大好きだけどね。

「……僕が紗弥に恋してますって状態のほうが都合がいいのか?」

 僕がおそるおそる推測を飛ばすと、愛はこともなげに肯定した。

「ああ。二人とも私の親友だからな。くっついてくれれば面白い」

「そ、そうか」

 ……反応に困った。

 それだけが理由ってことはさすがにないだろうが、これ以上は僕も踏み込めない。

 また、愛は僕をけしかけるようなことを言いつつも、

「まあただ……紗弥はいくつかの意味で普通じゃないからな……お前が支えにならないと判断した際には悪いが止めさせてもらう」

 こんな風に釘も同時に刺していくのだ。わけわからん。

「その場合、救済措置は一切取れない。恋という感情を含んだ瞳で紗弥を見ること自体を罪とする。罪人は彼女に土下座して謝った後、速やかに姿を消せ」

「罰が重すぎるわ!」

 異端審問並みの厳しさだった。

 愛の女子高生としての異質さも手伝って、ここが本当に現代日本なのか一瞬不安になる。

 自由は一体どこにあるのか。

「自由を主張したいなら、それに見合った力を示せ。なに、漫画じゃないんだ、別に鬼や悪魔と戦う力を手にしろって言うんじゃない。普通の人間に、普通に備わっているものでいい」

「……勿体ぶるなよな。なんなんだよそれは」

「簡単、精神力と行動力だよ」

 愛はその鋭い眼光で僕を射貫くと、そのまま顔を寄せてきた。威圧感が半端じゃない。

「潤に、それらが人並み以上に備わっているんなら、頑張ってみれば良い」

「……はいはい。そもそも紗弥が僕にそんな感情持ってないでしょうが。机上の空論だ」

 僕はこんなそもそも論で返すのが精一杯。

 愛はそんな僕を見て、嗜虐的な笑みを浮かべた。悔しい、でも感じない。僕はマゾじゃない。

「ちなみに、紗弥が今現在潤に抱いている感情は困惑だな。本気でお前との接し方を悩んでいるから、潤から話しかけてやった方がいいぞ」

「了解。肝に銘じておくよ」

 話も終わり、店も混んできたので今日は別れることにした。その別れ際、

「勝手な願望だが、私はお前が紗弥にとっての薬になると信じて送り出すことにするよ。健闘を祈る」

 と励まされたので、思うとおりに頑張ってみることにする。

「……それとお前も、動き回るのはいいが、体のことがあるんだから気をつけろよ。無理だけはしないようにな」

「……おう」

 最後の一言がなければ完璧だったのに。

 将軌といい愛といい、ちょっと心配してくれすぎだぜ。


 ゴールデンウィークと言っても、普通に学校は開校している。授業はなくとも補修があったり、精力的な部活動に青春をかけている高校生たちには登校する権利があるのだ。

 だから僕が学校に来ていても、何も不思議はない。……まあ、帰宅部で成績も悪くはない僕が登校する理由など本当はないのだが、間抜けなことに授業の資料にと図書室で借りた本の返却日が今日だったことを忘れていたのだ。

 この学校は、規則にはすこぶる厳しい。休日であろうとなんだろうと、返却日を一日でも過ぎてしまうと実家に電話がかかり、返却を要求してくる。応じなければ司書の先生のブラックリストに名前を載せられ、二度と本の貸し出しの許可が下りないという。

 正直そこまで困るということもないが、こんな小さなことでも制約が付くというのは有事の際に面倒くさいので、しぶしぶ散歩がてら、わざわざ制服を着て登校しているというわけだ。

 学校の閉まる夕方までに返せばいいので、昼過ぎに行けばいいかと油断して目覚ましをセットせずに夜更かしした結果、起床時刻は午後二時半を少し過ぎたくらい。さすがに寝過ぎてむくんだ顔のまま外に出るのも嫌だったのでシャワーを浴びて身なりを軽く整えて、家を出たのは結局三時十八分。徒歩十五分の学校までの道のりを考えば、学校が閉まってしまう心配はない。何も問題はなかったと、司書の先生に頭を下げる脳内シミュレーションを繰り返す内に学校へと到着する。

 生徒玄関よりも図書室に近い職員用玄関(本当は生徒が利用してはいけない)から校舎に入り、スリッパを拝借する。言い訳は「内履きは連休の度に洗うことにしているんです。臭いと虐められるんです」とか、こんな感じで適当にごまかそう。ちなみに僕の内履きは生徒玄関の下駄箱の中に眠っているが臭くない。消臭スプレーは便利なものだ。

 図書室のある棟は、補修を受ける生徒が集まる教室棟とは違うからか、廊下では誰一人としてすれ違わなかった。生徒どころか先生もいない――と、何とも言えない孤独感に苛まれているところで、廊下の最奥に男女の姿を見つけた。

 男の方は知らないが、女子の方は紗弥だった。遠目でも僕が紗弥を見間違うことなどあり得ない。

 ほぼ条件反射的に息を殺す。そして廊下の陰に身を隠す。見るのはもちろん初めてだが、このシチュエーションは、この学校で既に何度も行われているはずのそれだ。

 紗弥が告白されている現場に出くわしてしまった。

「わ、和歌月!」

 元々そうなのか、緊張しているからなのかは定かではないが、その声は男にしては高く、滑舌もあまり良くない。和歌月と向き合う形で立っている男は知らない顔ではあるものの、ネクタイの色から同級の二年生だとわかった。髪は染めてはいないながら、ワックスでガチガチにセットして、制服を着崩し、中の色付きのシャツ(校則違反)が見えるようになっている。いわゆる、ちょっと自己主張したがりなグループの一人か。

 規則が厳しい学校だからこそ、反発したい気持ちが増幅されるというのはわからなくはない。それが他人に迷惑をかけるものでないのなら僕個人としてはどうでもいいし。うん、僕って淡白。

 二人はどういう関係なのだろう。ただ、紗弥のことを和歌月と名字で呼んでいることから、それほど親しい仲ではないように思える。

 紗弥は自分のことを名字で呼ばれるのを、実は嫌がっているからな。それを知らないということは、あいつも将軌のように、紗弥とあまり話したことがないのだろう。

 僕の位置からでは、若干俯き加減になっている紗弥の表情を窺うことはできない。

「へへ、来てくれて嬉しいぜ。来てくれたってことは、期待してもいーんだよな? な?」

 アウト。いいわけねえだろふざけんな。

 僕もよせばいいのに、廊下の角に隠れながら覗いているからイライラしてしまった。

 そうしている内に、男は黙りこくったままの紗弥を置き去りに好き勝手しゃべり続けていた。

 ……まったく紗弥のことを見ていない。紗弥の瞳に映った自分の姿しか、この男は見ていない。

 ここまでくると、もはや哀れだ。オチが読める。

「ごめんなさい!」

 申し訳なさそうに、けれどはっきりとした口調で紗弥はそう言った。

 哀れな振られ男は、これまでよく息が続くものだと感心さえ覚えるような自己陶酔演説をようやく止め、呆けた顔で固まっていた。

 断れることを想定していなかったのだろうか。だとすれば、どれだけおめでたい思考回路をしているのだろう。皮肉なしに羨ましい。偏屈な僕の回路の百分の一とでいいから交換してくれ。

「気持ちは嬉しいけど、私、誰かと付き合うとかそう言うの、まだ考えたくないの」

 明瞭に、他の解釈を許さないように紗弥は言う。

「あなたの想いには応えられません。ごめんなさい」

 そして、もう一度頭を下げた。

 僕は無意識に、安堵のため息を吐いていた。……いや、だって自分の親しい友達が迫られてるんだよ? 万に一つも可能性がないにしても、変な男と付き合うのかってなればやっぱり不安だし、嫌じゃないか。

 僕と付き合ってるわけじゃないんだけどさ。

 そういう仲じゃ、全然、これっぽっちも、ないんだけどさ。

まあ、なんにせよこれで一件落着。これだけ完膚無きまでに振られたのだから、男は潔く立ち去るほかない状況だ。僕なら一瞬たりともこの場に居たくないと思う。

 しかし、彼は僕とは悉く違う思考回路を持っていたようで。

「和歌月ィ!」

 男は頭を下げ続けていた紗弥の肩を掴み、持ち上げて無理矢理視線を合わせると壁際に追い込み、鈍器のような言葉を紗弥に次々と叩きつけた。

「調子に乗ってんじゃねえぞこの野郎、ちょっと顔がいいからってなあオイ! バカにしやがって、その他大勢に向けるのと同じ台詞吐きやがって!」

 男はそのまま、動きの止まった紗弥を押し倒さんばかりの勢いで詰め寄っていった。

 おいおい……と振られ男の奇行を呆れている場合ではなくなってしまった。紗弥は恐怖からか、一言も発せずただ固まっている。

 荒事は苦手だとかできないとか、そういうことを考えてる暇なんてなかった。

 頭が沸騰しそうだった。その汚い手で紗弥に触れるなと、その濁った目に紗弥を写すなと、その不快な声で紗弥の鼓膜を揺らすなと、あの下種の存在価値を否定する材料をコンマ一秒で揃え僕が陰から飛び出したとき。

 紗弥が、男を突き飛ばしていた。

彼の両手による拘束を振り払う動作は見えなかった。しかし、確かに紗弥は両腕で男を突き飛ばしていた。

「調子になんて乗ってないし、バカにもしてないし、なによりあたしは野郎じゃないし」

「……へ?」

 今どっから声出した?

「女々しい。振られた男がいつまでも騒いでんじゃねえよ、失せろ」

 一瞬、この声がどこから発せられたものなのかわからなかった。全方位見渡して、誰もいないことをたっぷりと三秒ほどかけて確認した結果、この状況下でその台詞を僕以外に吐ける人間が一人しか見つからなかった。

 当事者の、和歌月紗弥だ。

「な、な、な……っ!」

 突然豹変した紗弥に責められるというファンタジーな状況についていけず、振られ男の高い声がまた上擦っている。顔を真っ赤にしながら喉が音を出し続けているが、一切聞き取れない。言語になっていない。

 紗弥はそれを無視して、振られ男の言葉に被せるように明瞭な発音で言う。

「不名誉な噂を流されたくなかったらさっさと消えろ。出るとこ出ればこっちが勝つんだ……嫌なら二度とあたしに近づくな」

 そうして。追い打ちを食らった男は何度も振り返りながら、最後まで日本語に限りなく近い異言語を真っ赤な顔で叫んで走り去った。

 僕はそれを、呆然と見送っていた。まったくと言っていいほど思考が追いつかない。

 どういうことだ? まさか紗弥はああいった手合いには今の手法で告白を断っていたのか? だとしたらもっと紗弥にまつわる悪い噂が流れていてもいいはず。というか今のは和歌月紗弥としてどうなのか――って、やばい!

「……清水?」

 バカみたいに飛び出しまま突っ立ってしまっていた僕は紗弥に見つかってしまった。瞬時的に苦笑いを浮かべた僕は、どう言い訳をしたものかと思考を巡らせようと試みたが、大きな違和感のせいで急停止した。

 清水、と呼ばれた。紗弥は僕のことを潤くんと呼ぶ。二年生に進級した際、僕を追いかけてこの学校に入学した妹との差別化のために、ちゃんと約束してそうなったはずだ。

 妹ともこれから友達になりたいからと、紗弥からそう言ったのだ。

 僕は本能的に一歩下がりながら紗弥を見て、更にもう一歩後ずさった。

 今の紗弥は尋常じゃない。いつもの少し垂れて見えた目尻はつり上がっているし、何より声が低くて口調さえ違う。

 今まで猫被ってたってレベルじゃなく。

 まるで別人であるかのように違いすぎる。

「まずいなー……これは全部見られたかなー……言い訳できそうにないなぁ……」

 気だるげに呟いて、紗弥は乱暴に髪を掻きむしった。見たことのない仕草だった。綺麗なウェーブヘアーが台無しになっている。

 およそ同じ声帯を使っているとは思えないほどに変質した声で、紗弥は自分のことを『あたし』と呼んだ。

「で? お前は悪趣味にも人の告白シーンを覗いてたのか。いつまでそこにいるんだよ。図々しい奴だな」

 紗弥は元々、少し癖のある髪質なのだ。それを掻きむしった所為で、もはや髪型自体が変わったようになっている。たおやかさを演出していた緩いウェーブは既になく、ボサボサと表現できるほどに荒れてしまっていた。

 僕に向ける言葉も厳しい。お前、なんて、紗弥から言われる日が来るとは想像さえ出来なかった。

「……誰だ」

 声という聴覚からの情報に加えて、視覚的にも紗弥の特徴が消えていく。

 その状況に、無意識に、

「お前……紗弥か?」

 僕はなにをバカなことをと言われても反論できないことを尋ねていた。

「はは」

 彼女は髪を掻きむしっていた手を止め、口元を歪めて笑い顔を作ると、

「そうだよ」

 それだけ言って、男が行った方と反対方向へと紗弥は、悠然と歩き去って行った。


第三章 ベクトル違いの一方通行


 それからずっと、紗弥のことを考えている。

 司書の先生に小言を言われるのを承知で本を返却した際、逆に何かあったのかと心配されてしまった。それでも、期限を守らなければ本気で怒るぞと言われたが、裏を返せばそれだけで済んだ。一瞬「じゃあ毎回この顔で来ましょうか?」なんてうざい軽口が浮かんだが、そんなことを言う度胸もあるわけがない。結局会釈だけしてすぐに帰宅した。

 頭に浮かぶのは、どうしても紗弥のこと。

 誇張なく、あんな紗弥を見たのは初めてだった。自分の見たことのない一面を許容できなくてショックだとかそういう話ではなく、純粋に驚いた。そっくりさんだと言われたら信じるくらいに変わりすぎていた。

 どうしてああなった、または、元がああなのか。

 これから僕が動くために、それはどうしても見定めておかなければならないポイントだった。

 どちらならばどうというわけでは、無論ない。

 むしろ、これから紗弥と向き合っていくために、必要だと思うから知りたいのだ。

 帰宅すると、ちょうど日が暮れるくらいの時刻。我が家の夕食は父親の帰りを待って、家族全員が食卓に集まらないと出てこないため、今からでは少し時間がある。

 少し頭を休めるのにちょうどいいか。

 なんて、軽い休憩を取るつもりで僕が自室の扉を開くと。

 ベッドの上で妹が寝転がっていた。

 …………。

「あ、おかえりー」

 扉に掛けてあるネームプレートを確認するまでもない。ここは僕の部屋だ。仮にも十六年間住み続けている自分の家の自分の部屋を間違えるわけがない。

 妹の名前であるあめではなく、しっかりと潤と書かれている!

「雨」

 義は我にあり。

 僕は極めて冷静に妹の名を呼んだ。

「僕のベッドで何をしてる」

「んー……ベッド・メイキング?」

「他でもないお前のせいでシーツが乱れてるんだけどな」

「じゃあ、メイク・ラブの準備」

「僕の部屋ですることじゃないだろ!」

「なによ、私の部屋には来てくれないくせに!」

「逆ギレするな! 妹が兄を部屋に呼ぶんじゃない!」

 清水雨。一つ違いの、僕の妹だ。ちなみにあまり似ていない。生まれつき髪の色素が薄く、光に当たると明るい茶色に見える髪と、母親似の大きな丸々とした瞳がそう感じさせるのかも知れない。体は女の子らしく華奢。肩幅も狭く細身なので、可愛らしさがどうしても勝ってしまって、こうしてベッドの上で寝転がっていても、お色気的要素は皆無だった。

 それ以前に妹だから本当になんとも思わないのだけど。

 しかし、兄としては一応注意しておかねばなるまい。

「年頃の娘が人前でそんなだらけきった格好してるんじゃねーよ。恥を知れ恥を」

「えー。こんな格好見せるの、潤だけなのにー」

 気の抜けた、間延びした声で言いつつ、我が愚妹は部屋着にしてはおしゃれなショートパンツから流れる生足を、僕に見せつけるように滑らかに動かした。実に艶めかし……くない。実の妹の痴態に思うことなどあるわけがない。

「潤、潤、据え膳だよーほらほら。男の恥だよー」

「あーもう鬱陶しい!」

 恥はお前だと言わんばかりにぺいっ、と僕は雨をベッドの上から放り投げた。体重の軽い小柄な雨は、無様にフローリングの床に突っ伏す形になる。いい気味だった。

「あ、扱いが雑すぎる……。でも、それは心の距離が近い証拠。潤、愛してる」

「うるせえ無駄にポジティブな反応すんな。とりあえず今日はお前のために思考回路を割きたくない」

「え、なになに、なにか悩みでもあるの?」

 こいつ……めげないにもほどがある。ていうかうざい。実の兄を呼び捨てにするな。威厳がないみたいだろうが。

 僕は雨に背を向ける形で学習机とセットの椅子に腰掛け、無視を決め込む態勢を作った。しかし、そんなことはまるで意に介さない雨は、しなだれかかってくるようにして僕の背中にひっついてきた。

「重い」

「軽いもん。それに柔らかいもん」

 埒が明かない。僕がどうやってこいつを追い出そうかと結局思考を割いてしまう中、雨はしつこく僕に迫る。

「ね、人に話すことで自分の頭の中を整理する方法もあるよ。話してみてよ」

「お前にはまだ早い。いつまでも兄離れできなくて挙げ句にそれを恋愛感情と結びつけるような視野の狭い女にわかることなんかじゃねーの」

「あー、もしかして恋愛絡み? もー、潤ちゃんってば色気づいちゃって! 可愛いんだからっ!」

 どうして急にお姉さんぶるのか……。いい、無視しよう。

「それなら、どーせ和歌月さんのことでしょう」

 ぐっ……。

 当てられてしまった。恋愛感情じゃないけど。

「……チガウヨ?」

 僕は認めなかった。

「…………」

 たとえどれだけ疑われててもな!

 確定はされてない! されてないんだ!

 妹からのジト目なんて全然怖くないね!

「サヤナンテ、ゼンゼンカンケイナイヨ?」

「そっか、和歌月さんか」

「チガウヨ!」

「いや、そこまでわかりやすいのもどうかと思うよ……で、やっぱり和歌月さんか」

「…………」

「和歌月さんでしょ?」

「うん……」

 ばれていた……無意味な抵抗だった……。

 情けないことに、その後僕は今日あった紗弥との出来事を妹相手に報告させられた。雨にはどうやっても口で勝てないのだ。僕なりに抵抗してみたものの、気が付けば一から十まですべて吐いてしまっていた。

「なるほど、まったくわからん。っていうか信じられない」

 だというのに、聞き終えた雨の反応は芳しくなかった。これほど事細かに説明してやったというのに、何が伝わらなかったのだろうか。

 これだからおつむの弱い奴は困る。

「なんだ、一学年トップクラスの成績が聞いて呆れるな。出来るのはお勉強だけか」

「当事者の潤自身がわかってないことが私にわかるわけないでしょ。潤がもうちょっとでもまとめてから話してくれたら、わかったかも知れないけど」

「それは申し訳ないなぁ!」

「これだからおつむの弱いバカは……」

「無理矢理聞き出しといてこの言い草! 兄に向かってバカとか言ったぞこいつ!」

 とは言え、このままじゃただの言い損だ。参考になるかならないかはともかくとして、こいつなりの意見ってものを聞かせてもらわなければ。

「……で、どう思うよ?」

「どうと言われても……」

 雨は腕を組んで数十秒、眉にしわを寄せて考えた後こう言った。

「実は和歌月さんには双子の姉がいて……」

「入れ替わってたって?」

「ご明察!」

「ご明察じゃねえよそんな話聞いたことねえよお前も人のこと言えねえなこのタコ!」

「ホント私相手だと容赦ないよね……ウェルカムだけど!」

「もういいよ! 別にお前に正解をもらおうとは最初から思ってねえから!」

 役に立たない妹だった。

 僕は今度こそ力ずくで雨を部屋から追い出しにかかった。抵抗こそされたものの、そこは男と女の力の差がある。雨にはいやんばかんこのエロ兄貴ぃというアホな声をあげる以上のことは許さず、そのまま扉の外へ投げ捨てると普段使っていない内鍵を閉めた。僕の外出中に勝手に入られたりしているし、普段から閉めるようにした方がいいのかも知れない。こんな妹を持ちながら、今までが不用心すぎたと言わざるを得なかった。

「もー、ごめんってばー真面目な話するから入れてよー」

 扉の外からくぐもった声が聞こえる。どうやら雨が扉に張り付いているらしい。

「入れない、入れないからもう諦めろ」

「……ごめん、わかった。じゃあ一つだけ、一つだけだから、一回しか言わないからよーく聴いて」

「……なんだ」

 今日初めて真摯さをのぞかせた雨の言葉に、さすがに僕も聴く態勢をとる。ここでふざけるようなことがあれば、本当に普段から鍵を閉めることになる。

 まあ、それでも扉は開けないんだが。

 雨は言った。

「あの和歌月さんが潤にそんな態度とって、今まで通りでいられるわけないんだよ。さっきの話に脚色がないんだとしたら……どう考えても普通じゃない。愛さんが言ってた普段じゃないっていうのは、これのことを指してるのかもね」

「…………」

「きっと和歌月さんの方から何か言ってくる」

「……だろうな」

 僕にとってそれが都合のいいことなのかどうなのかは、まだわからないが。

「考えるのはそれを聴いてからでも、遅くないんじゃない?」

「……そうだな」

 そうかもしれない。

 そもそも考えるにしても資料が少なすぎる。現段階では、ここまでが限界か。

 そういえば、なぜ成績優秀者の紗弥がなぜ学校にいたのだろう。図書室で自習? いや、そこまで真面目すぎはしないだろう。自習をするとして、きちんと自宅でできる人間だ、紗弥は。

 次に会うのはゴールデンウィークの中日、明後日ということになるが、そのときにでも聞いてみよう。


結果から言うと、雨の言ったとおりになった。

今年のゴールデンウィークは三連休の後、二日間平日を挟んで四連休という非常に面倒くさい暦になっていて、それならもう間の平日もいっそ休みにしてくれよとは、僕が言うまでもなく大半の生徒の弁だ。だるい、行きたくない、めんどくさいとぼやきながらも僕が無事に登校を終え、教室に着くとそこには既に紗弥が居た。豹変したあの紗弥ではなく、僕のよく知る、人当たりの良い優しい紗弥だ。紗弥は毎日早い時間から学校に来る習慣があるので、そこはいつもと同じだと言える。だが今日は、いつもは「おはよう」で終わるはずだった挨拶の後、

「じゅ、潤くん。一昨日は、ごめんね」

と、硬い表情で謝ってきた。そして、

「お詫びと言い訳がしたいんだけど、今日の昼休みに時間もらえるかな?」

 と続けられた。願ってもない展開に、僕はそれを了解し、真面目に午前中の授業を受けて昼休みを待った。

 そして昼休み。

 一度僕の方に視線を向けた紗弥は、何も言わずに席を立つと教室を出た。付いてこいと言うことなのだろう。

「潤、少しいいか?」

 紗弥を追いかけようとする僕の背に、将軌が声をかける。間の悪い奴だった。

「なんだ、僕には今から行くところがあるから、ちょっと大事な相談をする程度の親友にかまけている時間はない」

「うおお……貶められてるのか対等に見られてるのかわかんなくてうまい反応ができねえ……!」

 バカめ。お前如きが紗弥と同列になれるものか。

「で、なんだよ将軌、用があるなら手短に頼む」

「……ああ、なんか変なテンションになっちまったけど、これはどうしても今言っておくべきだと思うから言うぜ」

 将軌は居住まいを正し、真顔になって言った。

「この間、和歌月がまた告白されたって話、知ってるか?」

「……ああ。知ってる」

 っていうか、現場見てるし。

「そうか。さすが、和歌月の話題には敏感だな」

「なんだよ、それだけか?」

「まさか。お前が知らないであろうここからが本題だ。その告白した男――工藤っていうんだが、そいつが今日学校を休んでる」

「……振られたショックで?」

 自尊心を粉々にされたショックで? 

 メンタル弱すぎだろ。確かに衝撃的だったけどさ。

「いいや、交通事故で入院中だ」

「……は?」

 なんだそれ。

「いいか、絶対に茶化すなよ。真面目な話だからな」

 将軌はわざわざそう前置きすると、事の詳細を話す。

「噂では一昨日の昼過ぎ、工藤は和歌月に交際を迫った。で、今まで告白してきた連中と同じように振られた。ここまではいいんだが、問題はその後だ。なんと工藤は逆ギレして和歌月を押し倒したらしい」

 押し倒しまではしてなかったが……まあ噂話だからな。多少の脚色がされていてもおかしくはないか。

 つーかどっから流れた。

「ふーん、それで?」

「和歌月は自力で撃退したらしいんだけどな。数分後に工藤は逃げるようにいきなり道路に飛び出して、軽トラに轢かれたんだと」

「軽トラて」

 また微妙な……。

「病院で受けた事情聴取には、和歌月が悪いとのたまっているそうだ」

「ひでー話だ……」

 あいつ、そこまで頭が悪かったのか……。

 轢かれたのは奴自身の不注意によるものなのだから、紗弥に責任などあるわけがない。

 事故に遭った人の話を聴いたときって、なんだかんだ言っても結局可哀想だとか、そういう同情的な気持ちになるものだけど、今回の話はそう言ったものがまるでなかった。

 因果応報、自業自得だ。

 あんまりこういう言葉は好きじゃないけど。

 と、将軌の話に区切りが付いたところで、僕はあることに気付いた。

「……その話、どうしても今しなきゃいけなかったか?」

 言うと、将軌は一瞬ぽかんとした顔で僕を見た。わからないのか? とでも言いたげな顔だった。うん、素直にむかつく。

「これから和歌月と話すんだろ? 昨日振った相手に逆恨みされてるって教えてやればいい。『でも大丈夫、お前は僕が守るからさ』とか言いやすい流れを作れるじゃないか」

「どこまでうざいアピールが好きなんだお前は」

 よく彼女できたなこいつ。

 僕の声真似も似てねえよ。

 そしてこれからの流れを勝手に決めるな。僕までその他大勢になる気はない。

「……これ以上何かあるわけじゃないなら、僕はもう行くけど」

「ああ、じゃあ最後に一つだけ」

 将軌は神妙な顔で言った。

「もし和歌月に振られても、実の妹に乗り換えるのだけは応援できないぜ」

 ぐーで殴った。


「もう、遅いよ」

 将軌を振り切って教室を出ると、先に廊下に出て待っていた紗弥がむくれていた。僕は誠心誠意謝りつつも、紗弥は怒った顔さえ絵になるなぁなんて呑気なことを考えていた。

 仕方ないんだからと言いながらも許してくれた紗弥は、空き教室へと僕を誘導した。

 どの授業でも使うことの殆どない空き教室。職員室からも遠く、先生に見咎められる可能性も少ない。

 そんな場所に連れ込まれて、後から入った紗弥が後ろ手で入り口の鍵を閉めたものだから、健全な男子高校生としては胸が高鳴ろうというもの。イケナイ妄想をしてしまってもやむを得ない状況だと自己弁護させてもらう。

 紗弥は紗弥で、何でもないような顔で鍵を閉めておきながら、少し緊張気味の僕の顔を見るなり少し赤くなって、えへへと照れ笑いをするものだから、もうたまらない。

「えっと……なんていうか、改まると照れちゃうね?」

「そ、そうだな。こんな改まって向かい合うと」

 告白みたいだ、と続けようとした僕の口は意識して止めた。わざわざ呼び出してくれたのに、昨日の件に関連する話を僕から切り出すのでは紗弥に立場がない。

「それで、さ。朝も言ったけど、一昨日のことを謝りたくて……」

「いや別に、気にしなくてもいいのに」

 大嘘だった。結局僕は、昨夜雨に話して夕食を食べた後もこのことを考えすぎて若干寝不足気味なのだった。その説明してもらえると言うのなら、その辛さも報われる。

「謝り、たくて……」

 けれど、紗弥の言葉は徐々に小さくなっていった。恥ずかしがるように俯いて、なかなか僕と視線が合わない。

 なんだろう、なにが来るのかと思うと僕まで緊張してきた。

 僕が黙ったままでいると、紗弥は上目遣いでちらっとこちらを伺い、

「お詫びにっていうのもなんだけど、お弁当作ってきました! 食べてください!」

 目を合わせないままに、紗弥はカバンごと僕に押しつけてきた。

 僕が反射でカバンを受け取ると、紗弥はパッと手を放して数歩離れた。

「変な態度取っちゃって、驚かせちゃったよね? でも、あれは仕方がなかったというか不可抗力というか、せざるを得ない状況だったっていうか……」

 しどろもどろ。

 普段から余裕に溢れ、あまり慌てた姿を人前で見せない紗弥が、自作のお弁当を食べてもらおうとこんなに必死に頭を下げている。

 その姿に、僕は女の子に何をさせているんだという意識が芽生えた。

 昨日の豹変ぶりについては、とりあえず棚に上げようと思えた。

 ようは、この口止め料を僕が食べてしまえばいいだけの話だ。

 そうと決まれば、後は遠慮せず食べさせてもらうだけなのだが……。

「ありがとう、いただくよ。……このカバン、開けていいのか?」

 なにせ、女子のカバンだ。男子が無神経に開けていいものじゃあないだろう。携帯電話並みにプライバシーの塊だろうし。

「うん、大丈夫」

 紗弥は言った。

「その中、潤くん用のお弁当と使った体操着しか入ってないから」

「……!」

 ちょっと待て、昼休みの前の時間体育だったぞ。しかも女子はバスケだったぞ。

 しっかり汗かいちゃってるんじゃ、ないですか……っ!

 しかも『潤くん用』って言葉が体操着にもかかってる(そんなわけはないが)気がしてなんかエロい!

 だが、だからこそ! 僕は紳士的にでなくてはならない! そんなに無防備ではいけないと教えてあげなくてはならない!

 紗弥の様子を窺うと、彼女は不安げに僕を見つめていた。受けとってもらえないかもとでも思っているのだろうか。

女子の手料理を拒絶する男子なんているはずがないのに。

そんなことは中身を見る前からの確定事項なのに。

「……無理にとは言わないよ?」

「食べる、食べます、いただきます! ちょっと感動して固まってただけだから!」

 僕がそう言うと、紗弥は笑みを浮かべてくれた。嬉しそうなその顔を見ていると、世の中の殆どのことを許せてしまえそうなくらい優しい気持ちになれた。

 ……うん。注意するのは、もう少し後になってからでもいいよね。

「紗弥、すまないが、弁当箱を取り出してもらえないだろうか」

「え? いいけど……なんでちょっといい声なの?」

「自分の中での下らない葛藤とのバランスを取ったらこうなったのだよ」

「そ、そうなの? 潤くん面白いね」

 そう言って紗弥は、カバンを僕に持たせたまま、カバンのチャックを開けて、弁当箱を取り出した。一瞬ドキッとしたが、かぐわしい女の子のかほりなどは一切しなかった。しなかったのだ。

 しなかったったらしなかったのだ。

 僕は変態ではない。純潔だ。潔白だ。ノーマルだ。

 言えば言うほど逆の印象を与えてしまってる気がするよ日本語ってふっしぎー。

「はい、今度こそどうぞ」

 心の中での自己弁護に必死な僕に気付かない紗弥は、既にカバンから弁当箱を取り出していた。

 しかし……昨日襲われかけたばかりだというのに。

本当、無防備極まりない。

 僕が特別信頼されているとか、そういうことじゃないのだろう。

 この子は危機感とか、緊張とか、そういったものとは無縁に生きてきたんだろう。

 恵まれているなと、嫉妬がないわけじゃない。けど、それを植えつけようとは思えなかった。

「ああ、ありが――」

 僕はそんな純粋無垢の彼女に応えるように、きちんとお礼を言いながら、いかにも無害だという風に弁当箱を受け取ろうとした。

 変に緊張してない風を装ったのが、良くなかったらしい。

 受けとる際、僕の指先が紗弥の手に触れたのだ。

 瞬間、紗弥の体に緊張が走ったのがわかった。

「あっ」

 紗弥が漏らしたその声は、まるで予期せぬ失敗をしてしまったときのように裏返り。意図せず触れ合った二人の手先を見つめる瞳も、これ以上ないくらいに見開かれていた。

 ラブコメ中盤にありがちな嬉し恥ずかしハプニングにしては過剰すぎる紗弥の反応を計りかね、僕が状況把握できない内に、紗弥の見開かれていた瞳がすっと細められたかと思うと、

「……また、やってくれたな。清水」

 昨日と同じ低い声が紗弥の口から発せられて、ようやく僕は何かを『やってしまった』のだと理解した。

 とはいえ、まだ何がどうなっているのかは全くわからない。この紗弥の急変の原因はどうやら僕にあるらしいと言うことしかわかっていない。

 僕はどう動いたらいいのか、そして何を話せばいいのかと考えていると、それを見かねた紗弥は嘆息して、

「正味な話、こうなるんじゃないかって予感はしてたよあたしは。きっと紗弥も」

 だからこそ保険として教室のドア鍵を閉めたんだろうしと、彼女は他人事のように言う。

「えっと――」

「待った」

 僕が考えのまとまらないまま、それでも何か話さなくてはと口を動かそうとすると紗弥に止められた。

「何を言うつもりか知らないが、先にあたしの言葉を聞いてくれないか。元々、ここへ呼び出したのはこっちなんだ」

「あ、ああ。もちろん構わない」

「じゃあ、単刀直入に言わせてもらう――くそ、言いたいなら自分で言えよ」

 後半は自分自身に、否、自分の中に言い聞かせるようにボソッと呟いて。

 紗弥は釣り上がった目で僕を改めて見据えると、

「あたしたちは二重人格なんだ。二人で一つの体を共有している」

 そう言った。

「………………」

 その、ずっと前から用意されていたかのように明瞭に吐き出されたその言葉に、僕は凍結フリーズした。耳から入った情報は頭の中で確実に理解されているのに、数式を使って答えを導き出したときのようなスッキリ感がまるでない。

 頭のどこかで、紗弥の言葉を否定したがっているのかのように。

 そんな僕を、観察という言葉がぴったり当てはまるほどに冷めた目で紗弥は見ていた。

「……まあ、驚くよな。っていうか信じられないよな。わかる、わかるよ、これが本性で、今までの学校生活では猫を被ってた、仮面優等生だったって思ってるんだろ?」

 その反応はそういうことだろう、と。紗弥は言外に語っていた。

「そ、その、紗弥……うまく言えないんだけど――」

「残念ながら、あたしは紗弥じゃない。紗弥はお前を『潤くん』なんて、思わせぶりに呼ぶ方だ」

 紗弥――じゃないらしい彼女は、僕が何かを言おうとする度に大きな事実を突きつけて、僕を絶句させる。常に会話の主導権を握って、僕を喋らせない。

「じゃあ、紗弥じゃないキミの名前は?」

未弥みや。年は同じ。立ち位置的には一応、紗弥の姉と言うことになってる」

「……そこまでは聞いてないぞ」

「でも、いずれは聞いたはず。二重人格だと打ち明けられた人間が聞かれることはだいたい決まってるから。ほら、後は何を聞きたい? 何でも答えるよ」

「じゃあスリーサイズを上から教えてください」

「はちじゅうきゅう、ごじゅうご、はちじゅうはち」

「う、嘘だね! お前そこまでナイスバディーじゃないもんね!」

「実は着やせするタイプなんだ。だいたい、清水がそんなに女性の体についてそこまで精通しているとは思えないんだが。お前にあたしの言葉を否定できるだけの異性の知識があるのか?」

「ぐう……」

悔しいが図星だ。というか、まさかこんなに簡単に切り返されるとは思わなかった。明らかに空気を読まない質問をしたのに眉一つ動かさず、リアクションを取ることもなく、ギャグにギャグを返してきた。どれだけ頭の回転速いんだこいつ……。

 でもさすがにサイズはサバを読みすぎだ。いくら僕でもそれくらいはわかる。

「で、おっぱいのカップ数がどのような基準を以て決められているかも知らなそうな清水が、敢えてそんな頭の悪いセクハラ染みた質問をしてくれたのはきっと、今さっき言ったこの件があたしにとって――あたしたちにとって話しにくい内容であると読み取ってくれたからなんだと思うんだけど」

「やめて! 人の出したメタメッセージを口に出して言わないで!」

誰にも見せたことのない日記を音読されている気分だった。超恥ずかしい。

「なんだよ、人間思ったことをそのまま表現することはできないし、その表現の百パーセントを相手に理解させることなんて普通出来ないんだから、もっと喜んでくれていいのに」

「気付いても言わないでくれたら嬉しかった!」

「それは困った……あたしは自己表現が下手だから、言葉にしないで相手に意志を伝えるのは難しい」

 紗弥――じゃなく、未弥は視線を足下に落とすと、急に寂しげな表情を作るものだから、僕もそれ以上言えなくなった。

そんな僕を見た未弥は決まり悪そうに咳払いをすると、

「……話を戻す。とりあえず、気を遣ってくれてることには礼を言う。突飛な話だってことはあたし自身自覚してるし、無理に信じろとも言えない。あたしがいくら声を枯らして主張しても、中二病をこじらせた痛い女子高生だと思われて仕方ないことだ」

 外目からはわかりにくいから、と未弥は続ける。

「人間に裏表があるのは当たり前だし、二面性どころか多面性があって、会う人によってしゃべり口調や態度が変わるのも当たり前。役者みたいに、自分じゃない誰かを演じているだけだとしても外からじゃあわからない。否定はできても、問答無用に納得させられる証拠を示すことは出来ない。そうだろ? たった今目の前で『入れ替わる瞬間』を見たはずの清水ですら半信半疑……いや、半分も信じてくれてないかな、三分の一くらいは信じてくれてるかな。まあそんなところだろう」

「……そんなことは、ない。紗弥の時と未弥とじゃ、声も仕草も違う」

 言葉一つ一つのイントネーション……アクセントか? 紗弥のときとは明らかに違う。日本語の発音なんて今までほとんど意識してこなかったし、紗弥の声の特徴を覚えて説明出来るわけじゃないけど、今未弥が話す日本語とは違うと断言できる。

 どちらかが方言というわけでもないというのに。

「そう言ってくれるのはありがたいんだがな、声だって所詮同じ声帯を使って出しているわけだし、仕草だって意識してやってる可能性があるだろう? さっきの役者の話じゃないが、家まで張り込めば紗弥の時にあたしのような仕草をしてる時があるかも知れないぞ」

「……そんなスキル持ってるなら、もう役者か声優にでもなっちまえよ。その技術と容姿ならどっちの業界からも引っ張りだこだろうよ」

「その評価は嬉しいけどね。現実、あたしたちは演じているわけではないし、日常生活ですらもうっかりあたしが出てこないように気をつけるので精一杯。パッと出てきて、信じてもらえないと不都合だからね。いちいち説明も面倒だ。今回の清水にだって、これだけ言葉を尽くしてもまだ届かない。信じさせてあげられない」

「そんなこと……」

 ない。と断言できたはずだった。しかし口が動かなかったのは、僕の脳の処理能力が低すぎるからなのだろう。

昨日見たとおりだ。雨の話ではないが、もしも今日紗弥に双子の姉がいるのだと紹介されていたら、僕はそれを信じただろう。今目の前にいて、自分の髪の毛をいじってくしゃくしゃにしている彼女を紗弥の姉であると信じていただろう。

だから、その姉のような人格が紗弥の体に入っていて、二人で一つの体を共有しているという話は、とてもわかりやすい。

 理解できているはずなのだ。ただ、現実味があまり感じられないというだけで――。

「優しいな、建前だけで言ってるわけではなさそうだ。清水なりにあたしたちにどう接していいか考えてくれてるのは、すごく伝わってくる。けど――」

 未弥は僕から離れると、ドアの鍵を開けた。

目だけは逸らさず、僕に言う。

「信じなくていい」

ひどく冷淡なその声で、

「その代わり、あたしの存在は誰にも話さず、紗弥とは今まで通り友達でいてやってくれ」

勝手とも取れる、有無を言わさない口調で、

「そして、もう二度と紗弥に触れるな」

 そう言い放つと同時にドアを開けて、未弥は去って行った。

 残された僕は、立ち尽くしたままに未弥の出て行ったドアが反動で閉まっていくのをただ見つめていた。

 言い逃げされた。僕の頭の中を全く整理させない内に、言いたいことだけ言っていなくなってしまった。

 ドアが閉まる反動でもう一度小さく開き、また閉まりきる直前で――なぜか止まった。

「…………」

 まあ、僕が未弥の去った後のドアを見つめ続けていなければ見つけられなかったんだろうが。

 ドアと壁の間の狭い隙間から、縦に並んだ目が二つあった。

「わざと見つかるように隠れる真似をするな不審人物」

「おいおい、もう少し言葉を選んでくれよ。私が傷ついたらどうしてくれる」

 そう言って、顔を覗かせたのは愛だった。

「悪いな、盗み見るつもりはあってもこうして顔を出すつもりはなかったんだが」

「それは本当に悪いなあ!」

 本音も建前もあったものではなかった。言い訳する気がないのもまた、評価の分かれるところだ。

愛はドアから顔全体を出すと、いつも通り不遜な態度を取る。

「まあ、見られてしまってはこうして出て来るほかないからな。正直に堂々と凝視させてもらう。じー……」

「いや、もう見るべきものも見て楽しいものも何もねえよ。舞台に上がってきたんなら、お前が僕と話すしかないんだよ」

「そこまで求められては仕方ないな」

 愛がようやく教室内に入ってくる。今更だが、覗いていたことに関する負い目のようなものは一切感じていないらしく、先程まで未弥の立っていた位置まで来ると、きょろきょろと辺りを見渡して、

「もう二度と紗弥に触れるな!」

 と、似せる気のまるで感じられない未弥の真似を披露した。将軌に続き、似てない物真似を見せられるのは二度目だった。流行っているのだろうか。

 僕はそれに構うことなく、未弥からもらった紗弥の手作りらしい弁当を食べるべく適当なイスに腰掛けた。机がほこりっぽくなっていないか一応確認してから包みを開く。中から現れた弁当箱は見るからに無骨な、まさに男子高校生が持ってくるに相応しいといった感じのものだった。大きさも申し分ない。育ち盛りではあるが運動系の部活動に所属しているわけでもない僕にはちょうどいい。

「潤、女の子から手作りのお弁当をもらえて天にも昇る気持ちなのはわかるし、大きな問題を見ないフリして目の前の小さな幸せに縋りつくのも悪いとは言わないが、私の相手もしてくれないか。寂しくて死んでしまう」

「心配しなくても聞きたいことは山ほどあるんだ、もう少し待ってろ」

弁当箱を開けると、そこには冷凍食品や昨夜のおかずの残りものっぽいものが何一つ入っていない手の込んだ料理が並べられていた。まずご飯。弁当箱の半分のスペースを占領しているそれは、ごま塩が適量ふりかけられていて、シンプルながらそれ単体だけで食べられるようになっている。ごま塩はごま塩なのだが、明らかに市販のふりかけじゃない。恐らく塩もごまも、いい品を使っている。でなければ冷めた弁当の米がここまで美味しく感じるはずがない。おかずは、まったくぐちゃっとした感じのない野菜炒めをメインに、定番である卵焼き、プチトマト、茶目っ気たっぷりのタコさんウインナー。そしてたくわんという構成。変に凝った感じがないのが食べやすそうでとてもいい。

「美味そう!」

「補正もそこまでいくともはや幻術だな……」

「お前が何を言おうとこれは僕がもらった弁当だ。やらないからな」

「どれどれ……ほー、さすが未弥の特製弁当。本当にうまそうだな」

「聞けよ……て、え?」

 僕が早速まずは野菜炒めからいただこうかと箸を伸ばすと、愛はそんなことを言った。

「愛は紗弥が二重人格だって知ってたのか。やっぱり」

「ああ。むしろ、今紗弥の近くにいる人間でそれを知ってるのは私と潤だけだろう。私も、未弥の姿を見るのは久しぶりだ」

「そうなのか?」

「日中、というか学校で未弥が出て来ることは殆どない。よほどの緊急時でもない限りはな。本人に聞いた話では、振られた腹いせに靴を隠されたりなどして、紗弥が精神的な苦痛を訴えたときなんかにも未弥が出てきていたそうだが。……まあ、中学での話だ。高校生にまでなって、振られた腹いせに嫌がらせをするようなカスはいないだろう」

 愛はずいっと僕に体を寄せてきて、弁当箱の中身をじっと見つめる。視線は卵焼きに注がれていた。

「……いくら紗弥のエピソードを聞かせてくれたところで、やらないぞ」

 感謝はするが。

「まあまあそう堅いことを言うもんじゃない。確かに未弥の作る卵焼きは絶品だし、殆ど食べる機会もないが、私にあーんできる機会もそうそうあるものじゃあないぞ」

「ていうかさっきから、なんで未弥が作ったものだって決めつけてるんだよ。これは紗弥が作ったものじゃないのか?」

「は? ああ、潤は知らないのか。紗弥は料理が一切できないんだよ。あのいかにもな料理できますよオーラはまやかしで、料理がうまかったり手先が器用だったりするのは未弥の方」

「そうなの!?」

 衝撃の事実! ともすればがさつな印象さえ受けていた未弥がそんなに出来る子だったなんて……ということはこのタコさんウインナーも未弥の趣味なのか。

人は見かけによらないものだと僕は感心した。

……いや、紗弥と外見同じなんだけど。

「じゃあ紗弥が自作してるんだってお前が教えてくれた、毎日持参してくるあの完成度の異様に高い弁当の中身も?」

「ああ、『未弥の』自作だ。見たところ形が崩れているものもないし、これも全て未弥が作った料理だと考えてほぼ間違いないな。まあ、さすがに紗弥でもご飯くらいは炊けるようになったかもしれんが」

 愛はどこからか取り出した爪楊枝で狙っていた卵焼きを突き刺すと、僕が止める間もなく口へと運び、昔を懐古するように中空を見上げた。……取られてしまったものに文句は言うまい。

「……二人も、一年生からの付き合いなんだっけ?」

 去年も愛は、僕らとは違うクラスだったのだが。

「そうだな。高校に入学したての頃、全クラス合同でのレクリエーションがあっただろう? そこで一緒に料理をする機会があった。その際、自分の包丁で指を切ってしまった紗弥の傷口を私が舐めてあげたことから始まった関係だ」

 いつの時代の少女漫画だ、とか。

 意地でもツッコまない。

「……それで紗弥が料理できないって知ってるわけか」

「ああ。あんなに何でも出来そうな子が包丁一つまともに使えないなんて可愛すぎるだろう? 応急処置と言うよりも、感情が溢れて抱き締めてしまうかのように私は指をくわえこんだのを覚えているよ。そのときの、顔を真っ赤にした紗弥の顔ったらなかったなぁ……あの場で押し倒さなかったのは奇跡と呼んで差し支えない」

「僕もその場に立ち会いたかった!」

「実際、近距離でその光景を見ていた何人かは鼻血を吹いて倒れていた」

「ああ素晴らしき百合世界!」

 聞いた話によると、愛は僕と出会うもっと前――小学生の時からある種の達観した雰囲気を持っていたらしい。超然とした愛とたおやかな紗弥との絡みは、多感な女子高校生には強すぎる刺激だっただろう。……実際それきっかけで性癖目覚めた奴も何人かいるんじゃないか?

 そんなことしてるからお前らがデキてるんじゃないかって疑惑が晴れねえんだよ。

「――って、脱線しすぎだ。お前と紗弥の馴れ初めは色々と耳に毒だからいい加減やめてくれ」

「なんだ、ここからが激しくなるところなのに」

「激しくなるの!?」

 第二次性徴期から抜け出し切って間もないはずのくせに生意気な……!

「まあでも確かに脱線しすぎたな。これ以上潤を興奮させてもなんだし、この辺で話を変えようか」

 愛は余裕のある態度でふぅ、と小さく息をすると、閑話休題の合図とした。

「さて、これからの話になるが……潤、お前はどうしたい?」

「……主語を抜いて話すなよ」

「わかりきったことを聞くな。紗弥と未弥のことだ」

「…………」

 言いにくいことをはっきりと言うなぁ……。

 こういうところが、愛の場合は人に好かれるポイントなんだろうけど。

「紗弥と未弥は二人で足りないところを補い合って生きているから、およそ欠点と呼べるものがない。だがむしろ紗弥だけに限れば、探すまでもなく欠点や弱点は出て来るよ。今言ったとおり、料理を初めとした手先の器用さを求められるものや運動は苦手にしているし、ムカデみたいなカサカサした虫も苦手だな」

「……じゃあ」

 僕の宣戦布告の前に言っていた自虐は、ただの謙遜じゃなかったのか。

 それを僕は……知らなかったとはいえ、まるで信じようとしなかった。

「まあそう落ち込むな。持たぬ者が持つ者を見るとき、そこにはどうしても邪推が入り込む。人間らしくて素敵なことだと思わないか?」

「もっと女子高生らしいこと言ってくれよ……。それでお前、いつから覗いてた」

「潤がこの教室におびきだされた辺りからだが」

「素直に最初からって言え!」

「ちなみに紗弥と未弥にはばれていたらしく、入るときと出て行ったときに思いきり目を合わせられた」

「それで紗弥は鍵締めてたのかよ……。お前の図太さは割と本気で見習いたいぜ」

「いくら話を逸らしたところで無駄だぞ。潤」

 愛は厳しい口調で言った。

 そんなつもりはなかったが……無意識だったかも。

「未弥はお前のそういうところを指して優しさと言ったが、私の印象は違うなぁ。確かにお前のことは優しい奴だと評価してるが、それは臆病さから来ているように思えてならない。他人を傷つけることで自分が傷つきたくないだけ。別にそれを責めるつもりはないが、紗弥や未弥と付き合うに当たって、それは弱さだ」

「本当、言いにくいことをはっきり言う奴だよお前は」

「で、どうなんだ。生半可な気持ちで頷きでもしようものなら……」

「わかってる、わかってるよ。……紗弥と未弥の問題については、迂闊なことは言えないけど、僕の気持ちは変わってない。ただ、難しい問題だからしっかりきちんと考えていきたいって考えてただけだ」

「……そうか。そうだな、今ここで即答できるのは男らしく見えるかも知れないが、短絡とも取れる。まあ何日か考えてみるといいさ」

 愛はふう、とどこか安心したようにそう言った。

「……ありがとう」

「礼を言われる覚えはないな。私は勝手に動いているだけだ。このタコさんウインナーも勝手にもらう」

 言いながら、爪楊枝で三匹のタコを器用に取り上げた愛は、

「臆病者代表の潤なら心配ないと思うが、くれぐれも軽はずみな行動だけは慎むように」

 僕のことを指差して、そう厳重に言い付けると、優雅にウインクを決めていなくなった。

 僕はウインナーのなくなった弁当を心ゆくまで堪能して、空になった弁当箱は洗って返そうと自分のカバンにしまい込んで教室に戻ったのだが、先に戻っているはずの未弥の姿はなかった。将軌に確認してみるが、まだ帰ってきていないという。

僕はおいしかった、と一言感想を言いたかったのだが、未弥は結局、昼休みどころか午後の授業になっても教室に戻ることはなかった。


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