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電話と謎の叫び。

「え? まだ説得終わってないのかい?」

「説得も何も、熱で倒れてる人間にそんな話できるわけないじゃないですか」

 内科医の言葉に東堂がのんびりと答える。食べているのがカップラーメンとコンビニのおにぎりでもそれなりに絵になる辺り、造作の良さと白衣というアイテムの威力はすさまじい。

 今、東堂は職員達の休憩室で院長である内科医と夕飯の最中だった。とはいえ、既に日付が変わって久しい。今日は最近の例にもれず患者が多かった上、東堂が悠の看病にも時間を取られたせいで普段よりも数時間遅くなっている。

 忙しさに紛れていた空腹はこうして落ち着いてみるとかなりのもので、二人ともしゃべりながらも食べる手は止まらない。普段なら衛生面も考えて軽くシャワーを浴びて着替えた後夕飯にするのだが、今日はそんな余裕もなかった。そもそも二人にしゃべる余裕が出てきたのは、食べ物を半分ほど胃に収め終わってからなのだ。

「話できないほど熱が高かった?」

「解熱剤が効き始めたら下がりましたけど、強いの出したからほとんど眠りっぱなしみたいですね。さっき、ゼリー飲料と果物持って行った時も眠ってましたし。多少水が減ってるんで、起きてる時間もあるにはあるんでしょうけど」

 数時間前にも報告したはずの内容を繰り返し、東堂がちらりと内科医を見やる。聞いてなかったのか、という意味のこもった視線だったが、相手には何ら痛痒を与えなかったようだ。

「今日は忙しかったからねぇ。誰かさんはしょっちゅう抜けるし」

「彼女の様子を見ないわけにはいかないでしょうが。これ以上のストレスを与えないためにも、部屋から出ないよう監視の意味もありますが」

 しれっと返された反撃を今度は東堂がさらりと流す。お互いこの程度の嫌味は、言うのも言われるのも慣れっこだ。けれど、悠の精神的な負担を思いやったのも本当だった。いくら彼女が他人の趣味に鷹揚な——悪く言えば他人に無関心な——タイプだとしても、相手は人間サイズの空気中を泳ぎ回る出目金や、ワンボックスカーサイズのは虫類、挙げ句は歌って踊る一メートル級の蛍光ピンクの茸である。しかもそれらは一部の例外はあれど日本語をしゃべってやたらとフレンドリーに話しかけてくるから始末が悪い。

 正直言って自分の精神状態を疑わずに順応する為には、相当の胆力と気力体力、そして何よりもあきらめが必要だ。何も高熱を出して寝込んでいる人間にそんな刺激を与えなくてもいいだろう、と思う程度の人間性は持ち合わせている。

 もっとも、内科医もその辺りの事情はわかっていて、東堂がそういう気遣いをできるからこそ、今ここにいない悠の世話を丸投げして平然としていたのだが。

「じゃあ明日の夜か、来週かねぇ?」

「……本気ですか?」

「もちろん。人員強化は急務だからね」

 口に放り込んだチルド弁当を野菜ジュースで流し込む内科医がわざとらしくうなずく。

「とりあえず、最終的な決定権は彼女にあるんだから、君は安心して勧誘してくれればいいんだよ」

「俺より院長の方が適任だと思いますが」

 露骨に見せないとはいえ、悠に避けられている自覚のある東堂は、今度ばかりは本当に相手に譲りたげな色を見せたが、一見人のよさそうな内科医はそこで助け船を出すような性格ではない。

「そうかい? せっかく握った弱味を使わないなんて東堂君は紳士だねぇ」

 からかっているのか、本当に感心しているのかわかりにくい内科医の言葉に東堂が首をかしげる。

 彼女の弱味なんか握ったっけか? むしろ、週末のクリニックで怪しげな事をしてる、って弱味を握られたのはこっちの気がするけどな。

 事実だがいくぶん微妙な事を考えつつ、言われた弱味が何なのか思い当たらないために先をうながす視線を送ると、年長の内科医がにやりと笑う。完全に悪役のそれである笑いに、内心で眉をひそめた東堂を見て、それは楽しそうに言葉が投げかけられた。

「女性にとって、裸を見られた、って言うのはものすごい弱味だと思うんだけどね?」

「っぶっ?!」

 これはさすがに内心が表に出せない東堂の呪いすらも貫通したらしく、丁度口に入れたラーメンをふき出すはめにおちいった上、そのまま気管にでも入ったのか派手にむせかえる。そしてその様子に笑い出す内科医。

 散々むせかえってようやっと落ち着きを取り戻した東堂は、咳き込みすぎで浮かんだ涙をぬぐいながら内科医を睨む。

「……本当、あんたを穏和な紳士だなんて思ってるうちの連中に、その性格の悪さを見せてやりたいよ」

 盛大なため息をついた東堂の苦った言葉に、内科医は平然と笑う。

「おやおや、僕がそういう風に思われているからこそ、君達は仕事にあぶれないで済むんだよ?」

「患者に見せる必要はないけど、うちのスタッフには教えたいよ」

 再度ため息をついた東堂の口調はすっかり仕事中のそれから普段のそれに戻っている。院内で東堂が内科医に丁寧な口調で話すのはプライベートとの区別をつけるためだ。仕事を離れれば、年長の内科医はいい友人なのだから。

「それはともかく、本当に彼女を勧誘するつもりかよ?」

「だから本気だって言ってるだろう? だいたい、うちのスタッフはこっちの業務にもある程度適正がありそうな人間にしぼって雇ってる。その意味では嶋村さんは充分な適正があると思うよ」

「精神的な適正と体質的な適正は違うだろ」

 すっかり悠を新たなスタッフとして雇う気満々の内科医に、東堂が苦った声で釘を刺す。

 悠の発熱における何割かは濡れた体でアスファルト上に小一時間放置されたせいと仮定し、さらに一〜二割が出目金と不本意ながら東堂自身による精神的なショックだとして割り引く。そうしたところで、彼女が本来こちらの人間なら誰でも持っているはずの耐性にかけるのは確かなのだ。

 あの出目金の毒はさほど強くない。物理的には不可能だが、成分的には出目金を丸呑みにしてもこちらの人間なら胃もたれする程度。それも市販の胃薬で十分対応可能な程度にしかならない。一匹分の毒素を一口分の水にといて口に含んでもミントのきつい洗口液程度の刺激にしかならない。そのはずなのに、悠は救急搬送が必要になりかねない所まで熱が上がった。

 悠の体を洗った石けんにはあの手の毒素を洗い流す薬効があるものを選んだし、リネン類に粘液が残っている可能性を考えて使っていなかった病室に移動した。解毒剤と解熱剤を与えて、室内には中和作用のある薬草から作った芳香剤を軽くまいておいたというのに、だ。

「彼女、そういう意味では徹底的にむいてないと思うけどな」

「……うぅん」

 東堂の説明に、さすがの内科医もうなってしまう。この世界に存在するものは他の世界の毒素の強い。生物にせよ無機物にせよ、異世界のものに影響を受けにくく、悪影響のある成分があれば分解してしまうからだ。診療業務はその前提の上に成り立っているのだ。

 そもそもの話に戻るが、内科医と東堂が休みのはずの時間に診察を行っているのは、いわゆる異世界の住人達に限定される。それも固定のどこかの世界、というわけでもなく、様々な世界の多種多様な存在が訪れる。おそらくここを訪れる患者達のほとんどは、何の力も持たない、さらに言えば人間でしかない内科医や東堂など、赤子の手をひねるがごとく殺せる力を持っている。それでも世界の配置の妙と、とある契約からみなおとなしく治療を受けて帰って行くのだ。

 しかし、そういったサイクルは診察する側が患者の持ち込む病原に対し、防御手段を確立しているのが大前提である。たとえば、治療法も感染対策も確立されていない未知の病気にかかった人間を受け入れられる病院が限られるように、安全に治療ができないのでは治療どころの話ではなくなってしまうからだ。

 東堂の指摘通り、悠が異世界の存在に対して大多数の人間が当たり前に持っている耐性にかけているのであれば、それは大きな問題だった。いわばまだ免疫を持っていない赤子をインフルエンザの蔓延している病室に放り込むようなものだ。

「まぁ、どのみち出目金(アリウス)君の件は説明しないわけにもいかないだろうし、説明だけはしてもらえるかな? その後、実際に勤めてもらうかは彼女の意向と体質を充分考慮した上で採用しよう」

「説明はかまわないけど……。体質的に大丈夫かどうかは、こっちで判断させてもらうからな」

 余程人手が欲しいのか、食い下がる内科医に東堂はため息をついて了承の返事を返す。

 だいぶ冷めてしまったカップラーメンをすすりながら、食べ終わったらもう一度様子を見に行かないとな、などと考えていたために、手つかずだったおにぎりを一つかすめ取られたのに気付くのが遅れ、半分ほど食べられてしまったのはここだけの話。


――――――――


 翌日の昼頃になってようやく熱が下がり、起き上がれるようになった悠はベッドの上で昼食をすませ、食後の薬を胃に流し込む。その後、少し食休みができるくらいの時間がたってから、再び東堂が現れる。

 今日は診察ないはずなのに白衣なんだ……?

 今朝から何度も顔を合わせているのに、今さらになってそんな事が気になった悠が小さく首をかしげていると、手に持っていた飲み物とお菓子をテーブルに置いた東堂が顔をのぞき込んでくる。

「体調はどんな? 食事するのに起きてて辛くなかった?」

「大丈夫、です。熱もだいぶ下がったみたいで楽になってきました」

「ならよかったよ。でも、念のため夕方までは横になってて。薬が切れても熱が上がらないかどうか、確認したいから」

 ただの熱にしては過保護な事だ、と思ったが、表には出さずに悠は一つうなずく。面倒を見てもらっている身分でそれを指摘するのは失礼な気がしたし、事実まだ電車に乗って家に帰れる程には回復していない自覚もあった。休ませてもらえるのはありがたい。

「……で、ちょっと話があるんだけど今大丈夫? あと二時間もするとまた忙しくなっちゃうからさ。あぁ、でも、先にトイレ行きたいとかあれはそういう時間はいくらでもあるよ」

 東堂の提案に悠は少し考える。確かに食事をして水分も取ったのでトイレに行きたくはあるのだが、それ以上に気になる事が一つあった。

「その、話の前に少し時間もらってもいいですか? 昨日の夜、知り合いから連絡が来る事になってたんでスマホ確認したいです」

「あぁ、そっか。荷物の中……にはスマホなかったよね? あの鞄もべたべたになっちゃったから悪いけど勝手に中身出させてもらったんだ。でも、財布とかパスケースとかいじってないから安心して。鞄本体を洗わせて欲しかっただけだから」

 異性の鞄を勝手にあさったやましさから、若干いいわけがましくなった説明をしつつ、東堂が首をかしげる。

「たぶん、ロッカールームに」

「あ、なるほど。それで引き返してきたんだね。……それはなんともまぁ、運が悪かったというか」

 悠の言葉に事情を悟った東堂がちらりと苦笑いの気配をのぞかせる。内心が表に出ないと言っても、見慣れてくれば多少の気配は感じ取れるものだ。避けてはいても、二人はもう六年同じ職場で働いている。それなりに相手の間合いも知れてくるというものだ。

 もっとも、悠以外の同僚達はいまだにそういった気配すら悟れないのだが。

「どうする? 俺が取って来ちゃってよければ持ってくるよ。それともトイレついでに少し歩く? しんどかったらトイレ入ってる間に取ってくるから」

 建物の二階にあるこの病室から、女性職員用のロッカールームまで行くとなると一度階下に降りなければならない。結局昨晩の夕飯は抜き、朝はゼリー飲料を半分程度、昼食は果物とお粥を少し程度しか食べられなかった悠には、まだかなり遠いといわざるを得ないだろう。

 それにこの医院では帰宅時はロッカーに施錠しないのが通例で、貴重品を置いて帰るのは禁止である。今回のように忘れていくのはしかたがないが、その習慣に則って悠のロッカーも施錠していないと判断しての提案だ。ロッカーには各自の名前が貼ってあるし、女性職員のロッカールームに侵入する、という若干のやましさに目をつぶれば特に問題もない。

「トイレも行きたいし、挑戦してみます」

「了解。トイレの前まで着いて、少しでもしんどかったら言ってね。……俺も下で動けなくなられるよりその方が楽だから」

 最後だけ冗談めかした東堂の言葉に悠が笑う。確かに一階に下りた後で動けなくなったら、エレベーターがない以上東堂に背負ってもらうくらいしか戻ってくる手段がない。そうなるよりは取ってきてもらう方が楽だろう。


 結局、階下まで降りるのはあきらめて、スマホを取ってきてもらった悠は病室で一人になると、早速着信を確認する。本来なら充電切れを心配するところなのだが、東堂の持っていた充電器が使えたので貸してもらっていた。

「……珍しい」

 画面を見てついつぶやいたのは、着信が三件メールが二件、届いていたと言う知らせがあったからだ。普段は電話に出られなくても悠の方からすぐにかけ直すなり、メールをいれたりとリアクションを返すので、まったく無反応なのを心配したのだろうか。

 メールを確認すると、一通目は電話をかけてもいいかという確認、二通目は連絡して欲しいという内容。三通目は……。

「恋人できた? って、どういう意味……?」

 文面を見てつい遠い目になったのはしかたがないだろう。悪く解釈すれば、むこうは悠の事など歯牙にもかけていなかった、という事だ。

 ……そりゃ、そういう関係じゃなかったけどもっ。好きとか付き合ってとか、お互い一度も言ってないけどっ! でも、これはないよねっ?!

 ぶちり、と何かが切れる音が聞こえたのは、幻聴かもしれなかったが、悠は苛立ちまぎれに素っ気ない返事を打つとスマホを放り出した。

 どうせ相手はメールすら週末のどこか一晩でしか送受信できないのだ。昨晩連絡があったなら次は来週末。冷静になってからまずいと思ったら弁解のメールでも送ればすむ。好き好んで週末の夜にしか連絡の取れない、どこともわからない——地名は聞いたが、悠の知識ではそれがどの辺りなのかすらわからなかった——場所にいる相手から、会えない間の浮気を疑われたのか、悠の気持ちにまったく気づいていないのか、どちらにしても怒っていいはずだ。

 少なくとも悠はそのつもりがまったくない相手のために、八年以上も毎週末の夜、必ず家にいるような酔狂さは持ち合わせていない。普通、そこまでしているのになんの気もないなどと思わないだろう。

 むこうとて、毎週末必ず少ない通話ができる時間のほとんどを悠のために割いていたのだ。まったくその気がなかったとしたら、週末の短時間しか携帯の電波が届くところにいない、と言っていた事自体が嘘だとしか思えない。

 認めるのが癪なのは、あまりに薄いつながりがさびしいから。否定されて腹がたつのは、側にいたいから。それだけの話なのだ。

「ば〜かっ」

 ここにいない相手に毒づいた時、突然スマホのバイブが着信を告げる。

 なんてタイミング、と思いながら反射で手に取ると、表示されていたのはたった今メールを送った相手だった。つい、ぽかんと画面を眺めていると、バイブが一旦途切れ、また動き出す。

 我に返って通話ボタンを押して耳にあてる。

「悠?」

 聞こえてくるのはよほど電波が悪いのか、ノイズ混じりの聞きなれた声。ためらいがちに名前を呼ばれて、唐突に涙がにじむ。

 昨日からの出来事にどれだけ神経を尖らせていたのか、めったに会えない相手の声を聞いた瞬間、戻ってきた日常の気配に張りつめていたものが切れた。

 まずいと思うのに、こみ上げてきたものはおさえようもなく、後から後からあふれてほおを伝う。慌てて目元とほおをぬぐうが、一度こぼれ始めた涙はおさまる気配もない。

「……っふ、……う」

「……って、ちょ、待てっ?! 何なんで泣いてるんだよ?! なんだよ何事だっ?! 何があった?! 俺が変なメール送ったせいかっ?!」

 それでも気づかれたくなくて押し殺した嗚咽を、無駄に優秀なスマホが相手に伝え、電話口で男が慌てた声を上げた。

 そのあまりの狼狽えように泣き止もうとする悠の理性よりも、泣いて吐き出したいという感情が優っているか、嗚咽はなかなかやみそうもない。

 スマホを遠ざければ多少はましだとわかっているのに、相手の声を聞き逃したくなくてスマホを耳に当てたままにしてしまう。

「悪かったって。泣かせたかったんじゃなくて……。頼むから泣き止んでくれよ。悠に泣かれるの、本気で堪えるんだ。側にいられないのに泣かせるとか、俺、どんだけ最低なんだよ……」

 ノイズ混じりの困り切った声に、視線を斜め下に逃がして頭をかく仕草が目に浮かぶ。ばつが悪い時、この相手はいつもその仕草をする。

 心配してくれる声が嬉しいのに、同じ強さで想う。会いたい、側にいて欲しい。けれどそれを口に出しても相手を困らせるだけだ。口にしたらこの相手は困ったように眉を下げて笑みのような表情を作る。——そして言うのだ。ごめんな、と。

 何がきっかけだったのかはもう覚えていないけれど、いつだったか酷く落ち込んだ時、もっと側にいたい、一緒にいたいよ、と泣きながら訴えた事があった。年数回と会える機会が少ない悠が、普段の落ち込みを持ち込んだ事は初めてで、あの時の彼女がどれだけ目の前の相手の手を必要としているか、わかっていただろうにそれでもあの男は、ごめんな、とつぶやいただけだった。そして去り際、いつもなら、またな、と言うところが、じゃあな、だった。

 それからというもの、それ以前はむこうが時間の取れた時に電話をかけてきたのが、今電話かけてもいいか? というメールが来るようになった。

 何を言われたわけでもない。けれど確実に、今の仕事を辞めるにも、現在の職場に伴うにも、悠では決断させるにたる動機にはなり得ない、と思い知らされた。だから悠はその一件以降、一度たりともそのたぐいの言葉を口にしていない。もちろん、好きだの何だの、その手の言葉も言わないし、どうせその時季に会うわけでもない、という言い訳でイベント絡みのプレゼントも贈っていない。

 日本に戻れば会いたい、週末に声を聞きたい、だけどそれ以上にはなり得ない。それが男にとっての自分の存在なのだろうとあきらめた。当たり障りなく、楽しい会話ができればいい。そうとでも思わないととても付き合いを続けられなかったし、そうまでしてでも細い糸が切れるのが嫌な程、相手が大切だった。

「な、悠? 泣くのは勘弁しろって。悪かったよ。悠が電話にもメールにもノーリアクションとか初めてだったから、もしかしてこれはとうとう愛想尽かされたか、って思ってさ」

 電話口で必死になぐさめようとしているのか、言い訳なのか、どちらとも取れる言葉を口にした男は内心で盛大なため息をついていた。

 悠に泣かれるのは本当に堪えるのだ。今の仕事を始めて、最初の数年は悠以外とも連絡を取っていた。けれど、新しい生活にもまれるうち、ほとんどの相手とは連絡が取れなくなっている。連絡先が変わってしまった相手もいるけれど、メールや電話にリアクションがなくなった相手の方が多い。

 確かに新しい環境に馴染んで覚えなければいけない事ばかりに追い立てられている日常の中では、学生時代の友人——それも週一回しかメールも電話もつながらないような相手に時間をさく精神的な余裕がなかったのかも知れない。だから相手を責めるつもりはないが、むなしいのも確かなのだ。

 そんな風に一人、また一人、と糸が切れていく中、悠だけはいつでも返事をくれた。忙しい時は、忙しいからごめん、とだけでも連絡をくれる。それが彼にとってどれだけ嬉しかったか彼女は知らないだろう。いまだに連絡をしているのは両親と悠と幼なじみでもある悪友だけなのだから。

 けれど、悪友はともかく、悠と連絡を取り続けるのがいいのか悪いのか判断はつかない。側にいる事もできなくて、将来を約束する事だってできない。たぶん悠は自分が連絡をしている限り、そうそう他の相手のために時間をさいたりはしないとわかる。自分の方からはっきりさせるべきだとわかっているのに、楽しそうに笑う彼女の声を聞けなくなるのが嫌で、年数回の長期休暇の度、家族に会えなくともあきらめがつくのに、悠に会えないのは耐えられなかった。

 卑怯だとわかっているのに、あいまいにしたままでいるのを許してくれる悠の側は居心地がよくて離れられないのだ。

「なぁ、悠、何かあったのか? 俺でよければ聞くから。……頼むよ、泣きやんでくれって」

 押し殺された嗚咽以外、何も聞こえないスマホを耳に当てたまま繰り返す。

 こんな事があると思い知らされる。こんな風に泣いてる彼女を抱きしめてなぐさめる誰かがいつ現れてもおかしくない。滅多に弱音をはかない悠が泣く程つらい時、電話をかければ会いに来てくれる相手を選んで切り捨てられてもしかたがないのだ。

 けれど、好きだとか付き合おうとか、そんな言葉を口にしたら悠は自分を切り捨てられなくなるに違いない。だから、どれだけ口に出したくても絶対に言わない、連絡を取るのも悠が応じてくれる間だけ、と決めていた。——はずだったのだが、いざ悠からのリアクションがなかったら何度も連絡を入れていたし、無理をして二日続きで電波の入る場所まで来てしまった。そして返って来た、そういう事にしとけば? という素っ気ないメールに血の気が引いた。

 地雷をふんだ、と瞬時に悟ったし、すぐに弁解しなければ関係を切られかねない。焦ってかけた電話はつながらず、立て続いてかけた二度目でようやくつながったもののこの状態。何か引き金があったにせよ、彼の甘えが強いてきた負担が、悠を追い詰めていたのは疑いようもない。

「……なぁ、悠。悪い、俺、ちょっと酷い事言っていいか?」

 だから、せめてちゃんと事情を話すくらいの事はしたい。その上で悠が無理だというのなら潔くあきらめよう、と覚悟を決めた。

 嗚咽の合間、本当に小さな声が、何? といくらか怯え混じりに問い返してくる。

「あのな、俺」

 一度は決心をしたものの、緊張に負けて一旦言葉を切ると、一度深呼吸をはさむ。

「悠の事がす……」

「何嘘やだ出目金大きいときもっ?!」

 何が起こったのか、悠の叫びが耳を打ち、派手な音に続いて無情にも通話が切れる。

「……って、ちょっ?! 何事だよっ?!」

 一瞬の自失の後、我に返ってかけ直すも、答えるのは、電源が入っていないか電波の届かないところに、という無機質なアナウンスのみ。


 彼はこの後の一週間、自分の弱腰を心の底から呪う羽目になるのだが、それはまた別のお話。

お読みいただきありがとうございます♪

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