……いろんな意味でぐったり。
悠が目を覚ました時、最初に目に入ったのは馴染みの薄い天井だった。そして、なにやら顔と首の皮膚がべたつくような感覚に眉を寄せる。深く考えずに顔をこすると、何やら透明なものが手についた。
「……何これ?」
指をこすり合わせると、ねばついて糸を引く。そして何やら生臭い。
「目、覚めた?」
状況がわからず眉をひそめたところで、のんびりとした声がかかる。反射的に顔を向けると、ベッドに腰かけてノートパソコンに向かっている東堂の姿があり、白衣姿の男を視界にとらえた事で記憶がつながった。
つながるにはつながったのだが、おおよそ現実とは思えない記憶――忘れ物を取りに職場に戻ったら人間サイズの出目金に体当たりされた、などという光景は頭を打ったせいでの妄想だと思いたい。
……でも、ベッドに寝かせてもらってる、って事は運んでくれたんだよね。なんか、空飛ぶ出目金とかありえないもの見た気がするけど、きっと頭打ったせい……、だよね?
出目金に関しては現実であって欲しくないので――生臭い粘液が現実だと主張しているが――この際ひとまず目をつぶってしまおう、と頭の外に追い出す事に決め、悠は目の前の男に軽く頭を下げる。
「……ええと、ありがとうございます」
「うん?」
「ここまで運んでくれたんですよね?」
「あぁ、その事? いいよ、気にしないで。ドアを施錠し忘れたこっちの落ち度だし」
いくつか操作をしてからノートパソコンを閉じた東堂の返事に、ひしひしと嫌な予感を覚えながら悠があいまいに笑う。きっと、背筋の寒気は気のせいに違いない、などと考えている悠をよそに、立ち上がった東堂は悠のベッドに近づいてくる。
そして、ひょいと伸ばした手を悠の額に当てた。そんな事をされるとは夢にも思わなかった上、予想外にひやりとした感触に驚ろかされる。
「ちょっ?! えっ?!」
「やっぱり熱あるね。しかもけっこう高そう。寒気とかしない?」
突然の事に慌てる悠をよそに、東堂がのんびりとつぶやく。
「あの粘液は皮膚と鱗の保護と同時に、外敵を防ぐための毒素があるから。こっちの人間には効かない事がほとんどなんだけど、嶋村さんは耐性が低かったのかもしれないね」
一応タオルではふき取ったんだけど、と付け加えた男がすぐに手をひいた。
「動ける? 辛いかもしれないけど、シャワー浴びてきちんと洗い落とした方がいいよ」
彼の特徴でもあるのんびりとした雰囲気で問われたものの、あまりにも現実感のない前の言葉に気を取られて返事が出てこない。
「……毒?」
「うん。まぁ、どんなに酷くてもインフルエンザ程度のはずだから安心していいよ」
「いやいやいやっ、それ、下手したら死にますからっ?!」
「大丈夫、下手しないから」
のんびりと微笑みかけられ、返事に詰まった悠が沈黙を返すと、東堂が小さく笑う。
「俺ので悪いけど予備のパジャマ貸すから、服は洗濯させてね。――あぁ、ちょっと変わった洗剤使うから、こっちで洗わせてもらっていかな?」
独特ののんびりした口調におされたのと、言われた内容もおおよそまっとうだったため、あまり考えないままうなずいてしまった悠がゆっくりと両足を床に下ろす。そして、立ち上がりかけたところでめまいを感じて、ベッドに戻ってしまう。きつく目をつぶり、眉間にしわを寄せる様子からその不調が読み取れた。
「ありゃ、立てそうにない?」
「……みたいです」
「まぁ、ずいぶん熱が高いみたいだし、当然かもしれないね」
やはりのんびりとつぶやいた東堂だったが、何を思いついたのか、ほんのわずか笑みの質が変わる。しかしそれはほんの一瞬の事で、めまいのせいで目をつぶっている悠が気づくはずもなかった。
「ちょっとごめんね」
言うなりかがんだ東堂はそのままするりと悠の体を抱き上げる。意識のない間に一度運んだ体の上、移動できない患者を抱き上げて運ぶ事など慣れたものだ。ふらつく事もない。しかし、意識のない時と違ったのは悠が自力で体を支えようとしている事だけではなかった。
「ちょっ?! えっ?! なになになにっ?!」
慌てた悠が叫ぶ様子に内心で笑いをかみ殺しながら、常ののんびりした態度で歩き出す。
「歩けないなら連れて行くしかないよね? その粘液が原因の熱なら、早く洗い落とさないと熱はまだ上がるし、下がるの遅くなるし、いい事ないよ?」
「そういう問題じゃなくてですね?!」
「大丈夫大丈夫、このくらいの生臭さ、慣れっこだから」
「で〜す〜か〜ら〜っ!」
「ほらほら、廊下でそんな大声出したら表まで聞こえちゃうよ?」
悠が何を言いたくて怒鳴っているのか百も承知で、わざとずれた返事を返しながら廊下を歩く。普段、自分の前ではとりすました態度の事がほとんどの相手が、慌てて素をさらしているのがおかしくてたまらない。その上、こっちの見た目は普段の態度を崩していないのだから、悠はさぞ慌てているのだろうと思うと、一層おかしい。
結局、さほど遠くないとはいえ、一人用の浴室に着くまでわめき続けだった悠は、脱衣所ではなく風呂場の中の椅子に降ろされた事に疑問を抱くよりも、世にいうお姫様だっこの状態から解放された安心感の方が強かったのか、ひたいをおさえてため息をついただけで何も言わない。
あれだけ叫べばめまいが酷くなるのは当然だろうな、と思いつつ、相手がぼんやりしているのをいい事に手際よく服のボタンを外していく。普段相手にしている患者の服に比べたら、こちらの服は脱がせやすくていい。
「……って、何してるんですかっ?!」
「お風呂の準備。心配する必要はないよ、仕事中に患者さん相手にそんな気起こす程さかってないから」
「そういう問題じゃないです……」
「なら何? ふらついて立てないような人、風呂場に放置するなんて危なすぎてできないし。入浴の介助も看護師の仕事なんだから病人はおとなしくいう事きかないと」
我に返った悠が慌てて東堂の手を振り払おうとするのをいなして、手際よく服を脱がせていく。
藤堂としては内心、おかしくてたまらないのだが、鏡ごしにちらりと確認した限り、まったく表情に出ていない。今回ばかりは普段厄介だと思っている自分の特徴に感謝してもいい気分だった。
そのまま髪から足先まで一通り洗うのに手を貸し、さすがに下着の予備はなかったので再利用してもらったが、予備のパジャマを着せて病室に移動する。あきらめたのか、シャワーで気力体力が尽きたのか、おとなしくなった悠をベッドに座らせると、髪を乾かしてやってから横にならせた。
「疲れたでしょ。何か飲み物取ってくるけど、オレンジジュースと冷たいお茶とお水、どれがいい?」
「……お水で、お願いします」
「了解。水分取れないと点滴するようになっちゃうから、辛くても寝ないで待っててね」
湯上がりだからか熱が上がってきたのか、うるんだ目とのぼせたように朱の上がった頬というオプションのついた悠にいくらか動揺させられつつも、普段のペースで切り返す。返事はしゃべるのが辛くなってきたのか小さなうなずきだけだったが、特に変だとも思わず部屋を出て行く。
一方、東堂が姿を消した後の部屋では、悠が両手で顔をおおって何やらうなっていた。
「いくら看病とはいえ……っ。同僚に裸見られるとかどんな嫌がらせ……っ?!」
頬が赤い半分かそれ以上の原因は熱などではないと、彼女自身が一番よく知っている。しかも、全身を洗う手伝いまでしてもらったのだから、それはもうしっかりと観察されたに等しい。
まだしも救いだったのは、患者相手にそんな気を起こしたりしない、と言った言葉通り東堂が普段の態度をまったく崩さなかった事くらいだろうか。
「……いや、それはそれでなんか複雑、というか……」
ぼそりとつぶやく悠の脳裏に、前に顔を合わせてからそろそろ半年がたとうとする恋人もどきの顔がちらつく。
あいつにだって見せた事ないのに、なんでよりによって東堂さん……。院長先生ならまだましだったのに……。
ぼんやりとそんな事を考えてため息をついた頃、病室のドアが開き、東堂が戻ってきた。
そのまま近づいてきた藤堂はサイドテーブルに持っていた物を置いた。
そうしてから悠の顔のすぐ脇に手をつき、顔を見下ろす。普段彼の顔を彩っている笑みが消えるだけで雰囲気がまったく違う。のんびりとした雰囲気をまとう警戒感を抱かせない男のはずが、突然得体の知れない相手に見えてくる。
もともと顔立ちが整っているので、表情が消えると冷淡な雰囲気になる上に妙な威圧感があるのだ。そしてそんな態度の相手はとても人当たりのいい看護師には見えない。
見下ろしてくる意味ありげな視線に耐えかねて、悠がぎこちなくまばたきをする。声を出そうとして、熱のせいか声がうまく出せない事に焦ると余計に言葉が出ない。
「……あ、の?」
「水枕持った来たから交換させてね」
なんとか絞り出した悠の声が合図になったのか、唐突に表情がやわらぎ、雰囲気も軟化した。ベッドについた手をそのまま悠の頭の下にもぐりこませ、頭の下から枕を引き抜く。
手際よく交換作業をすませた藤堂は、次にストローをさしたペットボトルを横になったままの悠にさし出した。
「はい、お水。喉かわいたでしょ?」
今さっきのは幻覚でした、と言われても信じてしまいそうなくらい、すっかり普段通りののんびりとした空気を取り戻した東堂の言葉に悠はおとなしくストローをくわえる。確かに喉は渇いているし、熱がある自覚もあった。
体が求めるまま飲み始めたものの、満足するより早く水を取り上げられた悠が不満を込めて相手を見やると、少しばかり苦笑めいた色を浮かべた東堂が体温計を目の前でふる。
「熱、計らせて。あと、薬飲んで欲しいんだ。目一杯飲んじゃってからだときついと思って」
「……くす、り?」
「うん。計ってみないと正確なところはわからないけど、確実に九度超えてそうだから。あと、例の出目金君の粘液に混じってる毒素を中和するための薬」
悠がどんな反応をするか見てみたかったのもあり、わざわざ出目金にアクセントを置いて説明した東堂に対する反応はいくらか鈍く、悠は一拍おいてからうなずいただけだった。
現時点では出目金よりも、目の前の男にあられもない姿が見られた事の方がはるかに重大事なのと、自己防衛のために地雷である言葉を聞き流していただけなのだが、それとわからない東堂は少しばかり肩すかしを食らった気分にさせられた。
とはいえ、職業意識と内心が表に出ない体質のおかげでぼろが出る事もなく、体温計を悠の脇下に差し入れる作業に入る。
他方、そんな事とは知らない悠は目立った反応を見せず、おとなしくされるに任せ、口を開いていくつかの錠剤を飲み下す。その後、五百ミリのペットボトルに残っていた水のほとんどを飲みきってから一息ついた頃、体温計が鳴る。
「やっぱりちょっと高いね。今日はもうこのままここに泊まって」
「……え?」
「さすがに熱が九度オーバーの人を放り出すだなんて、医療関係者としてできないから。丁度ここは病院で薬もベッドもあるし、ご飯は手が空いたら用意するよ。しんどかったり何か欲しい物があれば遠慮なくナースコール押してね。俺も院長先生も表にいるから」
「……ごめんなさい」
言葉の裏に忙しさを感じ取った悠が小さな声で謝る。彼女にとってはかなりな羞恥プレイでしかない事態の連続だが、忙しいのなら予定になかった看護にこれだけ時間と取られるなど迷惑極まりないはずだ。そう判断できる程度の理性はまだ熱にさらわれていなかった。
ベッドの中で小さくなる悠に謝られた東堂は、予想外の反応に我知らず口元をほころばせる。
確かに悠が突然引き返してきたのには驚かされたが、その後ここで起こった事態はすべて彼女には責任のない事だ。発熱にしても、東堂がすぐに彼女を院内に運び入れて粘液をぬぐい取ったり処置をしておけばここまで酷くはならなかっただろう。そこまでの事情は悠にとってわからない事にしても、本来勤務時間外に自分達が勝手にやっている事で忙しいのだし、そもそもきちんと施錠を確認していなかったり、出目金を取り逃がして職員通路に出してしまったのは自分達の落ち度だ。彼女が謝らないといけない筋合いはない。
そのはずなのに悠が申し訳なさそうにするのは、事態の責任がどうこういう以前に、自分のために予定していなかった労力を使わせている事をすまないと考えているからだ、と気がついたらなんだか妙にほっこりした気分になった。
「本当に気にしないでいいから。今回のアクシデントは嶋村さんに落ち度はなかったし、帰せないっていうのもこっちの都合でもあるから。ともかく今は休んで。何か欲しい物とかある?」
自然とやわらかくなった表情で尋ねると、小さく、大丈夫です、と返事があった。
「じゃあ、念のため水もう一本持ってきておくよ。あと、平気だと思ってもトイレ行きたくなったとか、動きたくなったら呼んでね。起き上がると調子悪くなる事あるから一人では動かないで。いい?」
「ん、……ありがと」
声に含まれる気遣いに安心したのか、笑顔につられたのか、悠もうっすらと笑みを見せる。熱のせいか言葉遣いが崩れたが、東堂は指摘せず、毛布を肩まで引き上げてやってから病室を出た。
そして、閉めたばかりのドアに背中を預けると目を伏せてため息を一つ。
「……あの表情は反則」
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