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11.九つの課題(後)

難産でした。そして、長くなりました。

ルビウスの周りに漂っていた闇がゆらりと揺れて部屋いっぱいに広がり、辺りが真っ暗な闇に包まれた。両腕で顔を覆うと突風と共に深い闇がリリアンヌを包み、瞬く間に脇を通り過ぎて行った。

閉じていた瞳を恐る恐る開けば、そこはしんと静まった広く暗い、けれど魅惑の美しさが詰まった世界だった。


リリアンヌが立つ場所は広い海原のような地平線の上で、闇夜のように深く暗い海が波一つ立たずに平面を保って一寸違わず、もうひとりのリリアンヌを足元に映し出している。


空は黒を交えた濃い青色をしていて、遠くなるほど淡い青色に色彩を変えている。星一つないその夜空には、赤い血色の消えそうなほど細く欠けた三日月が異様な雰囲気を醸し出しながらルビウスとリリアンヌ、二人の間に存在していた。


「ようこそ、闇の世界へ」


右手でとんがり帽子を押さえたルビウスが口を開いた。耳が痛くなるほどの静寂を保つ海の上、声が辺りに響くこともなく、闇夜にその声は吸い込まれていった。


悠然と佇むルビウスの背後より、随分と距離を置いた場所に海面から躍り出た大きな影が空に向かって伸び上がった。それは、繊細な線を描くように丁寧でなだらかに絵を作り上げていく。やがて、何もない大海原に浮かぶ、小さな島国のような黒い影絵が浮かび上がった。小高い丘のような島の頂上に、鋭く尖った屋根が黒く城のような姿を形どる。


今にも崩れ落ちそうな城ではあるが、積み重ねてきた年月は長いようで廃城と言うよりは古びた宮殿と言ったほうが正しいかもしれない。


明かり一つ灯らないその城は、遠くにあるようで大きいとも小さいとも言えない距離に佇んでいる。一向に生きている人の気配が窺えない。それはまるで、住人達が死人化したような静かさだった。


その不気味な城から吹いてきた野太い音を立てる向かい風が、リリアンヌを押し戻そうとするように吹き付け、外套をなびかせた。


黒い海が静かに波立つ。


「ここは闇の住人達が住まう、精神と魂だけの世界。僕たちは今、体と切り離された魂だけの状態。つまり、本体は仮死状態ってわけだよ」


まるでルビウスの言葉に賛同するような、下劣で不気味な笑い声がどこからか海原に響いてきた。

無数の視線があざ笑うかのような忍び笑い声と共にリリアンヌの耳に届いた。


体感温度はないだろうに、リリアンヌは思わず身震いをした。


「…課題は単純明解。限られた魔法を使って、僕を倒してごらん。手段は何だって構わない。全力でかかって来ればいい。勝負は君か僕、どちらかが致命傷を負うか。負けを認めた時」


とんがり帽子に隠れた顔を見つめて、両手を握りしめて拳を作った。手の平はじんわりと汗をかいているように思う。


けれど、リリアンヌにとってはそんなことはどうでも良かった。


彼を倒さなければ。


不可能に近い課題と思える五つ目の対戦。


覚悟を決めたようにルビウスをしっかりと見つめた。その鮮やかな赤の瞳には、強い意志が熱く燃えていた。


顔を上げたルビウスは、彼女の“瞳の色”を見つめると闇色に映る暗い黒の瞳を細めて言った。


「…先手は君からだ、リリアンヌ」


その言葉がリリアンヌの耳に届いた時には、彼女は既に行動を起こしていた。

目の前のルビウスに、金縛りの術を左で放つとすかさず煙幕を顔目掛けて放った。


耳をつんざくような音がリリアンヌから発せられ、辺りにいる闇の住人達が小言を口々に言っている声が聞こえた。しかし、二人はそんな事に構っている暇などない。


ルビウスは向かって来た音を左手で一振りして打ち払い、真っ白になった目の前の視界を風来の魔法で吹き飛ばした。


リリアンヌはその間に地面を蹴って駆け出し、ルビウスに向かうと造形の術で右手に氷柱を作り出して、刃先の長い剣のように振りかざした。


「その行動力の速さは誉めてあげても良いけれど。隙が多すぎるよ、リリアンヌ」


そう言ったルビウスは、氷柱を持つリリアンヌの手首に淡い黄色の小さな閃光を放った。


「いっ!」


痛みに顔を歪めて氷柱を手放したリリアンヌの顔めがけて、今度は催眠術をかけたが彼女は姿勢を下げて凄まじい速さで顔面へと向かってきた術をかわした。


その行動の流れで左腕で身体を支えて、右足で相手の足元を狙ったが彼は行動を読んでいたように背中を後ろに反らして左手を付き、軽やかに後転をして音を立てずに着地した。


「もう攻撃は終わりかい?」


そう言うルビウスに失神の魔法を放った。

赤みを帯びた黄色の光が届くより早く、魔法は薄い膜状の布に阻まれた。


水滴が蒸発するかのような音を立てて、リリアンヌの魔法は欠き消えた。


一方的な攻撃を防御でかわすルビウス。


「こっちばかり攻めてるのって不公平よ!そっちも攻撃して来たらいいじゃないっ!」


烈火の火玉を放ちながら距離を置いて叫んだリリアンヌに、軽やかに避けているルビウスが小さな笑い声を上げた。


「そうかい?対戦の経験もない君に僕が攻撃する事の方が不公平だと考えていたのだけれどね。君がそう言うならば遠慮なく」


にっこりとそう言うと、左手で空気を握りつぶすように拳を作り、辺りに漂っていた火の玉を消失の魔法でもみ消した。と同時に風来の魔法で突風を起こした。


ひゅんと風を起こす強風に防御壁を作ったリリアンヌだったが、防御に関してはあまり得意分野と言えない彼女の壁は突風に壊されてその役割が無意味なものとなった。


後ろに吹き飛ばされて、したくもない華麗な後転で海面をくるくると転げて行く。


あちらこちらから向かってきた強風は、そんなリリアンヌを宙に舞い上げた。


風の渦の中にいる最中では、耳障りな風の音で呪文や魔法が掻き消されて使い物にならない。


まるで洗濯機の中にいるようだ。


瞳を開けていれば、胃にある物を全て吐き出してしまいそうだから、ぎゅっと瞳をきつく閉じて彼の名を呼んだ。


「風蘭!」


名を呼べばいつも直ぐに来てくれるのに、何度声に出しても彼は現れなかった。


「ぎゃっ!」


強風が次第に弱まった頃を見計らって脱出を試みようと身動きをすれば、突如現れた縄に身柄を拘束されて思わず悲鳴を上げた。


太く丈夫な縄は、しっかりとリリアンヌの胴と腕を縛り上げている。しかし痛みはないのだから不思議だ。


波一つ立たない闇夜の水面に腰を落ち着けて、虚しい敗北感がふつふつと沸き起こっている。


静かに近づいてきたルビウスに見下ろされている様は、まるで下調べもろくにしなかった間抜けな盗賊のようだ。


「…風蘭は来ないよ。最初に言ったはずだよ?『限られた魔法で』とね」


片手を腰に当てている姿は威圧感を湛えていて。


無言で自らの敗北を認めろと言っていた。


「君の負けはもう決まりじゃないかな?」


いつまで経っても睨みを効かせるだけのリリアンヌに、僅かに首を傾げてルビウスが口を開いた。


「…誰がそんな事を決めたの?」


ふんと鼻で笑って、絶対に敗北を認めないと胸を張った。


彼はリリアンヌになるべく危害を加えないように気を張っている。それを利用して、一つの結論に思い至った。


なんだ、最初からそうすれば良かったんだ。


うっすらと勝利の笑みを湛えるリリアンヌを見て、ルビウスは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。


「…なんだろうか」


「この勝負、私がもらったわ!覚悟するのね」


そう言った彼女の瞳が、鮮やかな血色に染まった。

そのことにルビウスが気づいたときにはすでに、リリアンヌの反撃は始まっていた。


相手の魔力を眠らす、または取り込むことが出来る能力を持つリリアンヌは、その独自の能力を用いてルビウスから魔力を奪い取ろうと画策していた。


空気を吸い取るかのように、ルビウスが持つ魔力を体に取り込む。しかし、ルビウスの魔力が思ったよりも巨大で、全部は奪い切れなかった。仕方ないと半分は諦めて身を縛り上げていた縄を破壊した。


立ち上がったリリアンヌの足元に、円を描くように影が湯気のように躍り上がる。


「…リリアンヌ、君にはその魔力は危険だ」


とんがり帽子で表情は見えないが、持ち前である勝ち気な性格になったリリアンヌに、ルビウスの弱々しい声が届いた。


「大丈夫よ、すぐに決着がつくでしょう?…ねぇ、ルビウスさん?」


ゴォと竜巻のような音に負けないように、リリアンヌの凛とした声が静かな世界に響いた。

その風の音とは対照的な柔らかな風が二人の間に吹き、ルビウスのとんがり帽子を空高くに舞い上げた。


帽子の行方も追わず、二人は静かに見つめ合っている。

男は苦しげに眉間に皺を寄せ、娘は笑みを深くした。


「私がまともな勉強をしてないって思ってたでしょう?…残念でした。これでもちゃんと勉強をしてたのよ?だって、身近な人に関しての勉強だととってもはかどるんだもの」


そう言って、リリアンヌは瞳を瞑って意識を遠くに集中させた。


彼女の足元にくすぶっていた影が、闇を増して彼女を包む。


【光の楽園の姫よ。この果てしなく広がる闇を貴殿の聖なる光で打ち払いたまえ】


召喚の呪文ことばを言い終えるとリリアンヌの足元に渦巻いていた影が眩い光で蹴散らされ、あちこちで悲鳴が上がった。


魅惑の夜景が広がっていた静かな世界は、リリアンヌが召喚した光の精霊によって真っ白へと瞬く間に染められていった。

闇の住人達は光の届かぬ場所へと逃げ込み、空に淡い黄色を帯びた白を重ねて白い光の閃光がほとばしる場所へと変貌した。

耳を塞ぎたくなるような悲鳴に、リリアンヌは顔をしかめてルビウスを窺い見ていた。


彼は丁度、光の閃光を腹に一発浴びて体をくの字に折り曲げているところだった。なにやら呪文を発して反撃しているが、リリアンヌが召喚している光の精霊の数が勝っており、全く歯が立たない様子だ。


よしよしとリリアンヌはほくそ笑んで、さらに大量の光の精霊を呼び寄せようとした。


「リリアンヌ!光の精霊の召喚を今すぐ止めるんだっ!闇の住人達を抹殺するつもりか!」


凄まじい勢いで去って行く淡い黄色をした光の閃光を屈んで避けながら、ルビウスがリリアンヌに怒鳴った。


「手加減をしないって言ったのはそっちでしょう!?それに、試験の勝敗はどうなったのかしら!!」


耳を塞ぎながら、リリアンヌも声を張り上げて言い返してやった。


「…っ!わかった、わかった!君の勝ちだ、だから今すぐ止めるんだ!」


あちこちで爆発音が響く中、ルビウスは左腕を球体の形をした光の渦に拘束されている。細い布状の光が、彼の首を締め上げている。


その苦しさからではないだろうが、ルビウスは仕方ないとばかりに負けを認めた。


リリアンヌは歯を見せて笑って、早速光の精霊達の帰り道を作ってやった。

頭上高くにポカリと空いた穴に、促されるように戻って行く精霊達を眺めていたリリアンヌは、不意に腰に回った腕に抗議の声を上げた。


「ちょっと!」


「ここから早く離れなければね。怒り狂った闇の住人達の餌食になってしまうよ」


疲れきった様子のルビウスは、簡潔にそう言って術を発動させた。


「…いやぁ、たまげたな。ルビウス、大丈夫か?」


「大丈夫に見えますか?」


そんな会話が聞こえて来た頃には、カビと埃が入り混じった臭いが鼻をついていた。


悪夢にうなされて起きたような心臓の音も呼吸も。落ち着きを取り戻していて、リリアンヌはゆっくりと瞳を開けた。


瞬きを何度かして鮮明になった視界の先は、何も変わらない薄暗い部屋の中だった。


冷たくなった手を動かしながら、目の前の椅子に座る人物を目を凝らして観察した。


椅子にぐったりと身を預けているのは、ルビウスであると確認出来たのは随分と時間が掛かった。


「…まぁ、普通に考えれば大丈夫ではないか。しかし、見物だった」


堪えられないというようにククっと忍び笑いを漏らすシリウスの声に、ルビウスの不機嫌そうな声が部屋に響く。


「お気楽な爺様にとっては、それそれは面白かったことでしょうね。今頃、闇の世界では戦にでもなっているというのに」

はぁと溜め息をつくルビウスの声にかぶって、一際声の大きい魔法師が声を上げた。ロアウルである。


「うぉほん!レオ殿の試験では、彼女は合格ということでよろしいですな!」


「………」


「いいんだよね?ルビウス」


にやにやと笑っていそうな言葉を無言のルビウスに、シリウスがかけた。


「…えぇ、お先に進んで下さい。僕はしばらくここで一息つかせて頂きますから」


白い物体(恐らくルビウスの手)が半ば投げやりに左右に振られて、椅子に体重をかける音が部屋に響いた。


密かに喜ぶリリアンヌは、くるりと審査員達が並び机へと振り向いた。


「では、アーサー!」


カタンと椅子が引かれる音に促されて、立ち上がった背の低い男性を見た。


「監視係のアーサー=リド・シエルダだ。課題は…」


そう言いながら、彼は右手を上げた。

肌寒い空気が部屋になだれ込んで来た。途端に霧状の雲が部屋に立ち込めて、次の瞬間には部屋の景色は白を大きく含んだ灰色の雲に隠れて見えなくなった。


霧状の雲がゆっくりと晴れていく。霧の雲が晴れたその先に、淡い青い空が広がっていた。


見渡す限りの青に困惑しながらも、ここはどこかと目を凝らした。


空の遥か上空と思わしき広い大空の空間に、大小様々の岩石が浮かんでいる。そんな空間の中でリリアンヌが立つ場所は、彼女の両足が辛うじて乗ることが出来る小さな灰色の岩石だった。不安定な場所でつりあいを取るリリアンヌの頭上を大きな土の塊のような岩石が、のろまな動きで通り過ぎて大きな影を作った。


時折、風が強く吹き付けるだけの静かな空間には人ひとりおらず、穏やかな時間ときが流れている。


「何をぼぉっとしている」


ぼんやりと辺りを眺めていたリリアンヌに、冷たい声がかけられた。慌てて声の方へと顔を向けると右斜め上の空間に、黒の外套をなびかせながら腕を組む男性がリリアンヌを見下ろしていた。くたりと古びたとんがり帽子の主、アーサーである。


「課題は封印術だ。対象を無傷のまま封印しろ」


そう言って彼が右手で高らかに指を鳴らすと巨大な檻が空中に出現した。


一方が銀色に輝く、頑丈そうな柵がはめ込まれた重々しい檻だ。その檻の中に蠢く生き物は、ほの暗い金色の瞳を三つ持っていて、檻の中を落ち着きなく右往左往している気配がする。

時折聞こえる低いうなり声が、その生き物の獰猛さを物語っているように思う。


【解除】


アーサーが、トントンと軽く右手で檻を叩いた。


閉ざされた銀の柵が、勢い良く開け放たれる。大空に飛び出してきたのは、骨格の良い大柄な青い虎。しかし、どこかの国にいるような可愛らしい物ではない。口元からはみ出た二本の鋭い牙は、鮮やかな血色で三つの金色の瞳は飢えた獰猛な野獣であった。


飛びかかってきた猛獣をかしわして、下に浮いていた岩石へと飛び移った。猛獣はその行動を読んでいたのか、先程リリアンヌが立っていた小さな岩をひとっ飛びで飛び越え、リリアンヌに白く光る爪を剥き出して飛びかかった。


ぎょっと目を剥いて痺れ術を放ち、術は見事に命中した。


うなり声を上げて真下へと落ちていった猛獣に、ほっと一息ついたところへ空中で見ていたアーサーが声を上げた。


「攻撃魔法は減点だ。リリアンヌ・カインド」


なんだって!?


思わず抗議の声を上げそうになったリリアンヌだが、ふと生暖かい鼻息が頭に掛かって振り向いた。


「うぎゃっ!」


いつの間にか、猛獣が背後に立ちはだかっていた。音もなく這い上がった猛獣に、素直な悲鳴を上げて防衛壁を作り上げた。

大柄の虎は、薄い膜のような半透明の防衛壁を押し切ろうと鋭い牙を突き立てた。


リリアンヌの身長を優に越えるほどの肉付きの良い虎は、恐らく雄であろうその力強い後ろ足を踏ん張り、太い前足を振り上げて防衛壁を破った。


古代魔女に従えるまだ若い“彼女”を呼び出していたリリアンヌは、とっさに自衛魔法で身を包んだが、相手の方が一歩早かったようだった。


鋭い爪が左肩を掠め、鮮やかな赤い血が宙に舞った。


虎は、自衛魔法の熱気で髭を焦がすものの、その魔法の圧力をものともせずに毛を逆立て牙を剥いている。ずらりと並んだ鋭い血色の牙から涎が滴り落ち、長い舌が口からはみ出て舌鼓を打っているように見える。


思わず後ずさると虎が大きく一歩踏み出した。その距離、僅か数センチといった所だろうか。

動けば、命はないと本能が警告を発している。


そんな緊張感溢れる空気の中、薄い雲と岩が流れる緩やかな時間の中を一筋の光が、一人と一匹のあいだに降り注いだ。


白銀の光の中から現れた暗赤色の大きな鳥は、大きく翼をはためかせながら一人と一匹が対峙する岩を俊敏な動きで旋回した。

風を切るその音が、リリアンヌのすぐわきを掠めた。その音を合図に岩から飛び降りる。彼女の背中に着地して、右腕でしがみついた。肩からは血が波打って流れていて、その痛みに知らず知らずに表情が険しくなっていく。つりあいを取りながら左斜め下になった岩を見下ろす。


虎は、長い尾を靡かせて旋回するまだ若い大きな鷲をじっくりと品定めするように三つの瞳で見つめ、ゆっくりと不安定な岩の上を歩いている。


封印術は一発勝負だ。


何度も好機が訪れるというものではなく、隙をついて確実に一度で封印しなければいけない。どうすればあの虎の隙をつけるのか。


そんなことを考えていたリリアンヌに向かって、青い虎が行動を起こした。上半身を下げて後ろ足に体重をかけ、足腰の弾力を使って華麗に飛び上がった。

何百トンもあろうかという巨大な猫が宙を飛び、大きな鷲のような鳥に乗るリリアンヌ目掛けて牙を剥き出した。


そのことにぎょっとしたリリアンヌ。まさか大きな虎が飛び上がるなど考えもしなかったために、とっさの判断が欠けてしまっていた。


何か魔法を口にしようとしたときには、すでに虎の鋭い牙は鷲の下半身に食い込んでいた。

甲高い悲鳴が柔らかな青が広がる空に響き渡った。


悲痛な鳴き声を上げる暗赤色の鷲は、まだ産毛も抜けきらないその翼を激しく羽ばたき体勢を大きく崩した。


虎の重量と重力に引っ張られて、地面に向かって落ちていく中をリリアンヌが停止の魔法を唱えるが、上手く発動せずに落下の速度は増していくばかりだ。


もがく“彼女”に食らいついている青の虎は、“彼女”が暴れる度に食らいつく力を込めて爪を立て、身動きを封じる。


甲高い鳴き声も次第に弱まり、翼の羽ばたきが弱々しくなった。


空飛ぶ大きな獲物を仕留める巨大な猫。その姿はまさに、猫が鳥を仕留めた瞬間の描写さながらであった。

自然の掟となっている食う側と食われる側。

常に危険と隣合わせである、その厳しい世界を一瞬垣間見たようだった。


その血の色がついた暗赤色の大きな羽毛と美しい白銀の羽が、舞い起こる風に吹き上げられていく。

虎をなんとかしようと躍起になるリリアンヌは、背後にいる虎目掛けて反発魔法を放ったが、不安定な中で発したその魔法は全く見当違いの方向へと飛んで行ってリリアンヌを困らせた。


やがて、一人と一匹と一羽は、ゆっくりと漂っていた表面が平らな岩へと勢い良く叩きつけられた。

岩に小さな亀裂が無数に入り、不気味な音を大きく立てる。分裂を免れた岩の上で、粉末状になった砂埃が周辺に立ち込めている。


「う、うーん」




粉末のような岩の破片を被ったリリアンヌ。痛む身体をゆっくりと起こした。起こした身体から、パラパラと破片がこぼれ落ちていく。


両手を地面につくとズキリと左腕が痛んだ。恐らく岩に叩きつけられた時に打ちつけたのかもしれない。

左肩を右手で庇いながら、立ち込める砂埃の霧の中を目を凝らした。

視界が効かない霧の中で、巨大な生き物が動く気配がする。

そのしぶとさにギリリと歯を食いしばった。その時に不意に吹き付けた風が、いつまでもその場に佇む霧を追い立てていく。晴れた視界の先に、血にまみれた“彼女”が横たわっていた。いつの日にかその凛々しい背中に乗せてくれた面影はなく、ぐったりと鮮やかな血の海の中でぴくりとも動かない。


自然と力がこもる右手を気にも留めず、じっとその青い虎を見つめた。三つの瞳は相変わらず獰猛な色を湛え、くわえていた屍を口から離した。


ゆっくりと近づいてくる虎がする呼吸が耳に届き、心臓の鼓動が早くなった。虎に気づかれないように静かに、その場に捕獲魔法の仕掛けを備え付けた。


ゆっくりと立ち上がって後退する。


その時、パキッと音を立てて体重を乗せた後ろの地面が崩れた。リリアンヌの左足が、岩の地面の終わりを捉える。


――もう後がない。


ゴクリと唾を飲み込み、間合いを読む。


やがて、虎の前足が仕掛けた罠の上に乗せられた。瞬時に捕獲魔法が発動する。

重々しい赤茶色の鎖が青い虎を締め上げた。


低いうなり声を上げて鎖を引きちぎろうと暴れる虎。だが、動くたびに鎖は更に強く締め上げていく。


虎の動きが封じられている今しかない。


リリアンヌは、中級の封印術を発動させようと口を開いた。が、次の瞬間、青の虎は鎖を引きちぎって牙を向いた。


「うそ!なんで捕獲魔法が効かないの!?」


仰天しながらも逃げ道を探し、右側へと駆けだした。広い平らな岩の上をリリアンヌが走り、その後を虎が追う。彼女が向かった先は、先程よりも幅が狭い岩の端。背後を振り向くとすぐ真後ろに虎がいる。


【古来の印を以て汝を封じる】


少々焦って呪文が早口になってしまったが、虎に向かって隙を与えずに封印術を放った。封印術はきちんと虎に向かって発動し、白銀の膜が虎を包み込んだ。やがてそれは大きな球体となり、岩の上で鉛と化して動かなくなった。


「…はぁ」


脱力仕切ったリリアンヌは、肩の痛みも忘れてぺたりと冷たい地面に座り込んだ。


「攻撃魔法の使用、防衛魔法の脆さ、呼び出した精霊を死亡させたことにより、リリアンヌ・カインド。計六十一点の減点だ」


淡々と述べたアーサーの言葉で試験は終わりを告げ、再び辺りが細かい霧に包まれた。霧が晴れた時には、薄暗い試験会場にリリアンヌは座り込んでいた。


「怪我は大丈夫かな?」


「…えぇ、大丈夫です」


気遣うように声をかけてきたシリウスに、立ち上がりながら答えて首元に結んでいた細い布状の紐を抜き取った。左肩に歯を使って縛り上げて止血した。治癒魔法を使ってもよかったが、まだ試験は続くだろうから、体力は出来るだけ残しておこうと思ったのだ。


「アーサー、六十一点だなんで随分と大きな減点を付けたのね」


シリウスの隣、進行係と反対に座る背の低い女性が柔らかな声を上げた。


「ベティ、次の課題に進みたいのだがね」


「まぁ、ごめんなさいね。ロアウル。で、お次はどなたなのかしら?」


「勿論、君からだよ!ベティ―」


「ありがとう、シリウス。だけど、あんまり女性ばかりに気を使っているとあなたのお孫さんに白い目で見られるわよ?」


両手を目一杯広げて隣を見ていたシリウスは、うっと言葉に詰まって静かになった。リリアンヌが肩を縛り上げている間に、そんな会話が繰り広げられていた。


「ベティ=メグ・プラマーが次の課題を担当します。あたしの担当は、召喚。基礎魔法の一つね?今、あなたが契約している神か精霊を一人、そしてこの場で新しく一人と誰でもいいから契約して見せて」


可愛らしく首を傾げてそう言った彼女は、小さなとんがり帽子を被っている。


「わかりました」


肩はズキズキと痛むが、大きく深呼吸をして風蘭を呼び出す。


《風蘭》


意識を集中させて呼び掛けたが、いつもは直ぐに現れる彼がなかなかやって来ない。


《風蘭?》


一人対の多数大勢という圧力の中、焦りだけが募っていく。


《風蘭、どうして来てくれないの?》


何度目になるかわからないほど彼の名を呼んだ頃に、じんわりと汗ばんだリリアンヌの前髪が優しい春風に舞い上げられた。カビと埃の匂いが漂う密室で、草と土の匂いを交えた外の冷ややかな風が吹く。


《お呼びでしょうか、リリアンヌ様》


ようやく訪れた神隠しの神に、ほっと胸を撫で下ろしてリリアンヌは審査員に向き直った。


「神隠しの神、風蘭です」

左後ろに立つ風蘭を紹介するとプラマーと名乗った女性が、じっと風蘭を見つめた。


「神隠しの神ねぇ…」


ふーんと言った風にぶつぶつと呟く彼女の隙をついて、


《リリアンヌ様、遅くなりまして申し訳ありませぬ》


「どうして直ぐに来てくれなかったの?ちょっと焦ったわ」


小声で苦笑を漏らすリリアンヌに、風蘭は心底申し訳なさそうに頭を下げた。


《規制魔法が思ったよりも厳しゅうございまして。くぐり抜けるのに苦労致しました》


「そうなの?」


「では、次は新しく契約を結んで見せて」


ひそひそと会話を交わす二人の間に、プラマーが割って入って声を掛けた。


《リリアンヌ様。新しく呼び出すのならば、鈴姫がよいかと》


「すずひめ?」


《はい、私め達の末の姫君でございます。風神の姫で、陽気なおなご故に契約するのは容易かと》


長い付き合いとなる風蘭の助言に、リリアンヌは静かに頷いて召喚魔法を頭に思い浮かべて唱えた。


【華麗なる風の姫君よ、我、貴殿と契約を求む者なり。地上に降り立ち、その姿を我の前に現せ】


根本的な基礎は全てにおいて同じであるが、召喚呪文は魔法師によって言葉使いや唱え方が異なるため、その種類は無数に存在する。根本的な基礎は、綻びが無い二つの魔法陣を浮かび上がらせ、その中で召喚者は呪文を口にして対象者と契約を交わすと言うものだ。しかしながら、魔法省が提示する上級や特級階級の位を持つ魔法師は、その限りではない。


基礎を怠れば、命を落とすことも多々あるこの召喚魔法。師から弟子へと徹底的に叩き込まれるものであるが、何分彼女の師はあのルビウスである。リリアンヌがそのことを知ったのは、風蘭と契約したずっと後のこと。

だが、彼女は立派に召喚呪文を唱え、均等な二つの白銀に輝く魔法陣が床に浮かび上がっている。


しばらく経って、リリアンヌの目の前に浮かび上がっている魔法陣に、新鮮な空気を含んだ旋毛風が小さく吹いた。それはやがて大きな竜巻となって、ぽっかりと穴が空いたような天井に舞い上がった。


リリアンヌの銀の髪を風が舞い上げる。

風がなりを潜めた頃に魔法陣に立っていたのは、背丈がリリアンヌの半分程しかない小さな女の子だった。衣類は風蘭とよく似た衣であるが、上衣は白で下衣は濃い青色である。細やかな対となる色の刺繍が施された腰から踝まであるその服装は見たこともないが、東の果てにある異国の装いなのだと認識できた。


薄い赤色がかった白の髪は顎下で綺麗に切りそろえられていて、顔の左右の一房に赤色の紐が三つ編みに編み込まれている。三つ編みの最後には、小さな金色の鈴が二つ、並んで輝きを放っていた。色素の薄い硝子のような瞳は、リリアンヌを興味深げに見つめている。


《あなたが、わたしをよんだの?》


「そう、契約したいの」


こてんと愛らしく首を傾げた少女は、にっこり笑うとくるりと軽やかに一回転した。小さな鈴がりんっと彼女の動作に合わせて空気を震わせ、陽気に鳴る。


《いいわ!わたし、魔法師ってだいすきだもんっ》


軽やかに魔法陣の中を移動していた少女は、リリアンヌの目の前。魔法陣のぎりぎり手前で身を乗り出して笑った。


《我、風神の鈴姫。契約を承諾する》


その言葉にほっと胸を撫で下ろして、リリアンヌは契約の言葉を口にした。


【我、リリアンヌ・カインドは風神の鈴姫と契約を結ぶ】


愛らしく笑った鈴姫は、澄んだ鈴の音を部屋に残して下から吹いた突風に乗って、上へと上がって言った。


《またね、リリアンヌ!》


鈴の音に混じって聞こえた少女の声を見送り、魔法陣を消して試験官に向き合った。


「はい、たいへん結構よ。神隠しの神も退出して頂戴」


彼女の言葉で、風蘭が静かに頭を下げて、柔らかな風を巻き起こして姿を消した。

プラマーが、隣に座るシリウスに視線を流した。その視線を受けて、シリウスが小さく頷いて言葉を発した。


「では、次はシリウス=ジウ・カインドが担当する。課題は、君の特技魔法だ」


眉間に皺を寄せてシリウスを窺うと、彼はうっすらと笑みを浮かべて続けた。


「君の特技魔法は?」


「…呪い返しです」


少しの間考えて答えたリリアンヌの言葉に、シリウス以外の審査員が戸惑ったように声を漏らした。


「静粛に!リリアンヌ・カインド、他の魔法にしたまえ」


そこで声を張り上げたのは進行係のロアウル。肩の痛みもあって、さらに眉間の皺を深くした。


「どうしてですか?」


やや棘がある言葉使いで問いかける。


「…こちらの事情でね。他の魔法は何があるかな」


「…鏡映しです」


「うん、それなら問題ないね。ロアウル、いいだろう?」


小さく不満を漏らした進行係だったが、シリウスのやや強引な決定で渋々といった風にとんがり帽子を上下に揺らして頷いた。


「では、もう少し後ろに下がって…。そう、それぐらいでいいよ」


彼の言葉に従い、数歩後退したリリアンヌの目の前に、地底奥深くにあるであろうどろどろとした造岩物質が床に広がった。


もうもうと熱気を上げる赤々しい物体は、重力に逆らって一点に集まり伸び上がった。やがて、黒曜石のような色となって人型をとり、それは表情さえ全く同じようにリリアンヌの姿をとった。なだらかに動く火山岩は、リリアンヌの色や形を美しく取ったまま呪文を口にし、風来の魔法で風を舞い起こしてリリアンヌを攻撃した。突風により鎌鼬で身を切り裂かれる中、痛みで顔をしかめて反撃した。


顔を庇いながら目の前の自分に鏡映しを発動させた。


リリアンヌを攻撃していた風は鏡映しによってなりを潜め、変わりに目の前の自分を攻撃する。あちらこちらに出来た擦り傷は、鏡に移すかのごとく目の前の自分に現れて彼女は、自ら起こした鎌鼬に攻撃されて霧のように欠き消えた。


一息ついたリリアンヌに、シリウスは無言で頷き隣に座る進行係を見やった。


「終わりだよ、ロアウル。後は君だけだ」


そう言ったシリウスの言葉に応じるかのように、無言で立ち上がったロアウルは、瞬時にリリアンヌの左脇へと移動した。

二人の間隔は十数歩といったところか。

ロアウルに向き合ったリリアンヌは、顔も見えない恰幅の良い紳士を見つめた。


「最後の課題は、模擬対戦だ。心してかかるように」


「…よろしくお願いします」


既に気力と体力は底を尽きかけているが、軽く頭を下げてそう答えた。


「この模擬対戦に特に規定はない。ただ…」


そう言葉を切った彼が、右手を上げて試合開始を促す。


「自分の命は自分で守ることだ」


リリアンヌが防衛壁を作る間もなく、熱風に煽られた。その熱風をもろに受け、体を壁に強かに打ちつけた。思わず呻き声が漏れるリリアンヌに構わず、爆破の魔法を放ってくる。瞬間移動でそれをかわし、舞い上がった埃に紛れて雷光を放った。


無数の眩しい雷光が落とされる中、ロアウルは器用に身を動かして流れるように攻撃をかわして風圧をリリアンヌに放つ。


分身の術で攻撃を受け、次の魔法を唱えようとした。


「遅い!」


その一声で途中まで唱えた呪文は欠き消え、変わりにどこからか長い剣がリリアンヌに向かって突き刺さる。その針のような剣を次々と避けるが、床に刺さっていく剣をかわす行動を読んだようにあちらこちらから剣が勢い良いを増して飛び出してくる。静止の魔法も間に合わず、リリアンヌは長い剣の中に身動きを封じられてしまった。


歯を食いしばり、唯一動く左手の手首を回してロアウルに向かって衝撃波を放った。


空気を取り込んだ衝撃波は、見事にロアウルの腹に命中し、隙をつかれた彼は背中を石造りの壁に打ちつけた。そのことに小さく笑みを漏らして、長い剣を切り刻んで脱出した。


もうもうと煙を上げる中、瓦礫から身を起こす音が部屋に聞こえてリリアンヌは身構えた。


「いい気になるなよ、小娘が…!」


低い怒りを込めた言葉とともに床に血を吐き、袖を拭う。手っ取り早くこの試験を終わらせるにはどうしたらいいかと考えを巡らせるリリアンヌは、静かにその姿を見つめていた。


年老いた暗い茶色の瞳には殺意が灯り、先程の衝撃で吹っ飛んだのであろうとんがり帽子に隠れていた赤毛の髪からは、鮮やかな血が額から滴り落ちている。瓦礫にまみれた黒の外套は所々破けて汚れ、ただならぬ雰囲気が漏れ出ている。


まず、相手の身動きを封じなければ。


そう考えたリリアンヌは、拘束魔法を発動させようとした。


しかし、凄まじい速さで呪文を口にした相手に唱える速さが負け、発動させるまでにはいたらなかった。


果てまで広がりそうな闇が広がる天井から、火を纏った馬が軽やかに駆けてきた。その姿はなんとも凛々しく、中心は熱を持って赤く、外部に向かって白を帯びている。

炎を燃やす鬣と尾を靡かせて、ロアウルの右脇へと降り立つと赤々しい瞳をリリアンヌに向けた。


ぞくりと背中に悪寒が走り、リリアンヌは不覚にも一歩後退した。その行動が、相手に好機を与えるものであったと気づいたのは、火馬がリリアンヌへ向かって駆け出した時だった。


逃げなければいけないと頭ではわかっているのに、脚が床に貼り付けられたかのように動かない。


そんなリリアンヌに、火馬は炎を撒き散らしてぐるりと優雅に辺りを一周する。擦り切れた絨毯が、弧を描いて燃え上がる。


僅かな熱気で焼け付くような痛みが走るその炎は、聖火だった。

古代魔女の血を引く彼女。神聖なる炎は、魔女・悪魔払いに使われた歴史が古く、今でもその力は度々使われもしている。

身を切り裂かれるような痛み、その苦しみは拷問にも似た仕打ちで、用途によって使い分けられている。


聖火は、リリアンヌにとって何よりも恐ろしいものであった。


瞬く間に炎に囲われたリリアンヌ。

炎が身を焦がし、空気は炎に燃やされ、体の水分を奪っていく。


水霊を呼び出そうと焦げ臭い空気を取り込むために口を開ければ、火馬が高らかに嘶き、前足を振り上げた。辺りを旋回する火の馬は、巧みに炎を操ってリリアンヌの身体を火で縛り上げる。


「う、あぁ。熱い…」


アツイ、クルシイ。


身を焼く臭いが、酸欠状態のリリアンヌに漂ってくる。

立っている事もやっとだった彼女は、既に足に力を入れて踏ん張れる力も無く、床に力なく倒れ込んだ。途端に、リリアンヌの身体を炎が勢い良いを増して包み込んだ。


「いやぁぁぁぁぁ」


絶叫にも似た悲鳴を上げて目を瞑った彼女に、短い呪文が耳に届いた。


「…?」


蹴散らされるかのように振り払われた炎。


季節に相応しい、優しい風が汗ばんだ額を撫でて、ゆっくりと瞼を開けた。

目の前にあるのは、風に揺れて靡く黒の外套の裾。顔を窺いみるかのように、とんがり帽子の下に隠れた顔を見て思わず声を上げた。


「ルビウス、さん?」


リリアンヌを庇うかのように背を向けて立ちはだかっている彼は、嗄れた声を上げたリリアンヌに厳しい面立ちを緩めて背後を見た。


「立てるかい?」


膝を付いて立ち上がる手助けをしてくれるルビウスに、頷いて自力で立ち上がった。


「手助けは無用ですぞ!レオ・カインド殿」


怒りに喚くロアウルを冷ややかに見やり、ルビウスが言い放った。


「気でも狂われましたか、シェルダン侯爵」


火の馬を従える彼は、ルビウスの言葉にカッと頭に血が登ったようで、大きな声で怒鳴り返した。


「なんだと?お前のような若造に、そのような非常識なことを言われる覚えはない!まだ私の試験中だ、外野は引っ込んでろっ」


「試験は終わりのはずです」


「まだ終わっていない!」


「ロアウル、終了だよ?もう十分、彼女の実力は見れた!受験者を殺すつもりかっ?」


席から身を乗り出して声を上げたのは、やや焦りを醸し出したシリウス。周りの審査員も戸惑いが隠せないようだ。ひそひそと話を交わす審査員達を無視して、ロアウルが声を張り上げた。


「忌まわしき古代魔女は、抹殺するべきだ!試験で誤魔化せば、誰も何も言わんだろう」


その一声でルビウスが、幾分低い声で彼を制した。


「…あなたにそんな権限が今、おありなんですか?」


「ルビウス、落ち着け。ロアウルは今、正気じゃない…。相手にするな」


「お黙りになって下さい!今、僕は彼に話をしているんですっ!」


慌てて孫を制するが、逆にルビウスの逆鱗に触れたようで睨みを効かされて黙った。


「今は、僕の七番弟子の試験のはずです。それなのに何故、試験に理由を付けられて弟子を殺されなければいけないんです?あなたにそんな権限があるのかと聞いているんですよ!」


静かに怒るルビウスの声に、しんと部屋が静かになる。そんな彼に抱き寄せられて外套の中に囲い込まれたリリアンヌは、一体どうしたのかと彼と進行係を交互に仰いだ。


「…私は元老の一人だ。危害を与える前に危険物は処理した方が…」


「だからなんです?人を裁く権利でもあると?はっ、とんだご身分だことで。僕の弟子はみんな危険物質ですか?そうまで仰るなら、この僕も危険物質だと言うことですね」


弱々しく言ったロアウルに、ぴしゃりとルビウスが言い返す。唸り声を上げてうなだれるロアウルは、何も言わない。


「その聖馬を今すぐ消して下さい。試験は終わりだと爺様も仰っています。聖馬を消さないならば、カインドへの攻撃だと見なして、あなたを排除します」


そう続けたルビウスに、シリウスが戸惑ったように声を上げる。


「ルビウス!?」


ロアウルの近くにまだ佇む火の馬は、不機嫌そうに鼻を鳴らして鬣を揺らし、片足で地面を掻いた。その姿は既に凛々しい火の馬ではなく、荒々しい暴れ馬のようだ。


「大いに結構。あなたのそういう真っ直ぐな所、嫌いではありませんが。少しは保身に走った方が身のためだと学ばれた方がいいのでは?」


殺意をその闇色の瞳に乗せ、そっとリリアンヌを背後に庇ってルビウスは呪文を口にした。

言葉に連動して、ルビウスの地面近くから影が立ち上り、一カ所に集まる。影の中から出現したのは美しい黒犬で、黒の毛並みを靡かせて聖馬に飛びかかった。

身の危険を感じた馬は、優雅に天井に向かって地面を蹴り上げた。その後を俊敏な動きで黒犬が後を追う。


ルビウスも、黒犬が側を離れたと同時にロアウルに向かって金縛りの術を放った。


「ルビウス!」


彼の本気を垣間見たシリウスが、怒ったように孫の名を呼んだ。しかし、彼は気にも止めないように相手に向かって落石の魔法と闇を操って鞭を編み出し、尖った先端で急所を狙っていく。ロアウルも、天井から落ちてくる落石をよけながら瞬間移動魔法を繰り返し、ルビウスには烈火の炎を。背後にいるリリアンヌに針の雨を降らせた。


小さく悲鳴を上げて針の雨を風来の魔法で吹き飛ばすリリアンヌを援護するように、闇が天井から落下してくる無数の針を蹴散らした。


「ロアウル、試験は終わりだと言っているだろうっ」


そう声を上げたシリウスの声に同調するかのように、闇の巨大な鞭が左側からロアウルを弾き飛ばした。彼の身体が宙を凄まじい速さで飛び、ルビウスが腰掛けていた椅子付近の壁へと激突した。

呻き声を上げる彼に、闇が留めを刺そうと群がる。


だが、その闇はロアウルを庇うかのように立ちはだかった人物の光に打ち払われた。


「叔父上、何のまねですか?」


小さく悲鳴を上げてルビウスの足元へと戻った闇をちらりと一瞥して、ルビウスが不機嫌そうに相手に尋ねた。ゴホゴホと苦しそうに息をするロアウルの前に立ちはだかるのは、ルビウスの叔父、アーサーであった。


「いい加減にしろ、ルビウス。…物の分別もわからぬ幼子でもあるまいに」


くたびれたとんがり帽子をそのままに、斜めに被る彼は諭すように甥を眺めている。鋭い黒を帯びた茶色の瞳は、普段は隠れた赤色をより一層引き立ててルビウスを見る。


「僕に言う前に、彼にそのように言って頂けますか?」


しばし静かに睨みあった二人、ルビウスが先にそう言葉を口にした。


「ロアウルには厳しく言っておこう」


低くそう答えたアーサーの答えに満足したのか、ルビウスはくるりと彼らに背を向けた。ルビウスを包むように漂っていた闇が薄くなり姿を消し、その瞬間に天井から馬の嘶きが聞こえた。悲鳴に似た高らかな嘶きは、天井で響いて止まった。

その天井から、まだ火の勢い良いが止まない炎の塊が降ってきて、ドスンとけたたましい音を立てた。


ぐったりと動かない炎の馬の首筋に、闇色の黒犬が食らい付いていた。獲物を仕留めた“獣”は、動かぬ獲物には用はないとばかりに軽やかにルビウスの下に駆けていって姿を溶け込ませた。


「…おいで、リリアンヌ」


ゆっくりとした動作で差し出された右手を取るのは躊躇って、戸惑ったようにリリアンヌは僅かに身を引いた。しかし、そんな彼女に腕が伸び、その行動を許さないとばかりに強引に引き寄せた。


「っ!」


キツく引かれた腕の痛みに顔を歪めるリリアンヌをやや強引に、部屋の戸口へとせき立てる。引きずられるようにして小走りで歩くリリアンヌを連れて、ルビウスがアーサーの脇を通り過ぎた。


「どこに行く」


「すぐに戻りますよ。彼女を玄関まで送り届けるだけですから。それに、少し時間が必要でしょう?…彼にも僕にもね」


そんな彼にアーサーが咎めるように声を掛けた。低い音を立てて開いた扉の手前で、ルビウスが顔を背後に向けて視線を寄越し、小さな笑みを零して歩き出した。席からアーサーの元へとやってきたシリウスが、その後ろ姿を見送った。


ルビウスに引き連れられて、冷たい石畳の階段へとやって来たリリアンヌは、そっと窺い見るようにルビウスの表情を見た。ちらりともリリアンヌを見ない彼は、階段手前で彼女を抱き上げて階段を上り始めた。


「ひ、一人で上るっ!」


密着する身体に慌てて拒否を示したが、ルビウスはリリアンヌの言葉が聞こえなかったように、平然と階段を上る。


しっかりとした足取りで長い石畳の階段を上り切ったルビウスは、階段の終わりでリリアンヌを下ろして夕陽が差し込む大きな玄関を見やりながら言った。


「…真っ直ぐ邸まで帰るんだよ?それで卒業試験が終了となる」


視線をリリアンヌへと戻し、右手を彼女の左肩に添えた。チクリとした痛みが肩に走った後は、まるで怪我などしなかったように破れた服も元通りに治っていた。


「…ありがとう、ルビウスさん」


「気をつけてお帰り」


小さく礼を言うリリアンヌに、ルビウスは肩にキツく結ばれていた赤色の紐を丁寧に取り外してそう言った。

ゆっくりと踵を返し、夕陽が差し込む玄関へと駆け出した。


外へと飛び出たリリアンヌは、扉を出てすぐの所で大きく深呼吸をした。先程まで、暗くカビ臭い場所に閉じこめられていた彼女。外の空気は彼女にとって、とても新鮮であった。


「あれ、リリア?」


と、そこへ不意にかけられた言葉。どこかで聞いた声だと視線を右脇に向けた。


男性用の衣類を纏う姿は、若い紳士のいでたちそのもので、その上に揃いの黒の外套を羽織っている。金色の美しい髪が夕陽に反射して、眩しいほどだ。


「…あぁ、マクセル侯爵の」


一瞬誰かと思ったが、そのさわやかな笑みと天使のような容姿で、過去の記憶が呼び出された。


面倒くさい奴に会ったと彼女の表情は語り、鬱陶しそうな視線を投げつけられたにも関わらず、彼、ジェイドは爽やかな笑みを湛えたまま問いかけてきた。


「今、試験が終わったの?」


「そうよ。あんたもそうだったんじゃないの?」


「うん、そうだよ。午前の部だったけど」


ふーんと大して興味もないと言うように答えたリリアンヌに、ジェイドはにこやかに言葉を続けた。


「屋敷で暇をしているなら、師匠に書類を渡して来いって兄弟子に使いを言い渡されて。…でも、役得だったな」


「…?」


何が言いたいのだと、リリアンヌが首を傾げるとジェイドが一歩大きく足を踏み出してリリアンヌに近づいた。


「今度、夏祭りが王都であるでしょう。それで、一緒に行かないかって誘おうと思ってたんだ」


祭事にはあまり興味がないリリアンヌ。そんなものがあるのかと初めて知った。


「レイルも一緒に?」


思わぬ人物の名前を言うリリアンヌに、ジェイドは金色の瞳を見開いて驚いた表情をした。


「…彼女も一緒に行きたいって言うなら」


「…考えとくわ」


苦笑を交えて言ったジェイドに、リリアンヌは愛想もなく冷たく言い放つと瞬間移動魔法を発動させる準備をした。


「じゃあ、私、帰るから」


「うん、ばいばい」


そう言って魔法を発動させたリリアンヌは、レイチェルの試験はどうだったのかと気をもみ、そのことで頭の中がいっぱいだった。だから、ひらひらと手を降るジェイドが笑みを深くしたのも、ルビウスが階段際で先程の二人の様子を静かに見つめていことにも、彼女は気づかなかった。


リリアンヌの姿が消えたその後、ジェイドが少し真面目な顔をしてルビウスと向き合った。

しばし、深い闇色を湛えた黒の瞳と鮮やかに輝く金色の瞳が、探りあうように互いを見つめていた。


やがて、ゆっくりとした動作でジェイドがルビウスの元へと歩み寄った。

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