10.九つの課題(前)
短いですが、二つに分かれてしまいました。
低く響く音と共に重い扉を開ける。
部屋の中は僅かに明かりが灯るだけで薄暗く、埃とカビの古臭い独特の匂いが鼻をついた。人ひとり通れる隙間から、部屋へと身を滑り込ませた。ひとりでに大きな音を立てて閉まった扉に気にも止めずに部屋の中央へと足を進める。
鍵がかかったようで、重々しい音がリリアンヌの背後から部屋に響いた。
背もたれが低い、小さな椅子が一つ。部屋の中央に白みを帯びた明かりに照らされて存在している。絨毯は擦り切れていて、辺りにはがらくたの山が。汚れた石造りの壁の前に積まれている。
円柱のような部屋のひんやりとした空気が、窓一つない密室に緊張感を増して存在する。
ゆっくりとそちらに歩いて行くとちょうど明かりの影となる場所に、なだらかな曲線を描く長い机が椅子に面して準備されていた。
そこにずらりと並んだ黒い人物達。
「リリアンヌ・カインドです。よろしくお願いします」
一つの椅子を囲むように、八人の魔法師が席に着いていた。性別も顔も分からない試験官に、椅子の左側に立って頭を下げた。
頭を上げて八人の魔法師を窺う。
ピクリとも動かない彼ら、彼女達。背丈ととんがり帽子の種類が違うだけで、皆が皆、同じように見える。
左から三番目の席が一つだけぽっかりと空いている。
しばしの沈黙の後、リリアンヌの真正面に座る人物が口を開いた。
「これから、あなたに九つの課題を出します。落ち着いて挑みなさい」
「はい」
どこかで聞いた優しい声。
そっとその試験官を窺うと淡い紫色の瞳が帽子の縁の真下から覗き、にっと相手の口元が緩んだ。思わずリリアンヌも顔が緩みそうになったが、必死に耐える。
相変わらず、お気楽な性格をしているルビウスの爺様である。
「これより、ルビウス=レオ・カインド公爵の七番弟子、リリアンヌ・カインドの卒業試験を始める!進行はロアウル=ビス・シェルダン。試験長はシリウス=ジウ・カインドが務める」
年配と思えるの嗄れた男性の声で、びくりとリリアンヌの身体が自然と揺れた。
「まぁ、まずはお掛けなさい」
向かって左側の男性の厳しい声を和ませるように、シリウスが声をかけてきた。
そっと古びた椅子に腰掛けた。
決してリリアンヌが太っているわけではないのに、椅子は耳障りな音を盛大に立てた。
「えーっと、質問はケビンからでいいかな?」
「あ、はい!」
向かって左側の端に座っていた若い男性が、派手な音を立てて立ち上がった。
「は、はじめまして。記録係のケビン=フキ・カレラスです。えっと…」
「ケビン、落ち着いて。受験者に挨拶は必要ない。それに、君は席を立たなくていい」
手元の書類を慌てて捲る彼は、二十歳そこそこだろうか。随分と若く見える。
真新しそうなとんがり帽子が頭からずり落ちそうなのも気にせず、一心不乱に書類に視線を落としている。
そんな彼に、シリウスが苦笑を交えた声でやんわりとたしなめた。
「あ、すいません」
ストンと席に腰掛けてリリアンヌに視線を向けた。
「では、初めに…口答質問をします。魔法省で禁術に指定されている魔法または術を最低三つ、上げてください」
「時空渡り(ときわたり)と死生術、不死の魔法、輪廻の魔法です」
緊張のあまりなのか、質問者の声が裏替えっていたが、リリアンヌは特に気にした様子もなく質問に答えた。
痩せた青年は机の上で流れるように動いている筆記用具をじっと見つめた後、分厚い洋紙を広げて万年筆を袖口から取り出した。
そっと垂直に万年筆を立てて、倒れないことを確認している。
「うぉほっん!ケビンっ!」
何ともいえない静寂に戸惑っていると進行係と名乗った恰幅ある男性が声を張り上げた。
「まぁまぁ。ロアウル、そう大きな声を出さずとも聞こえているよ」
我慢ならないと指を右耳に突っ込んで隣に座るシリウスが苦笑を漏らしながら言った。
「し、失礼しました。お次をどうぞ」
「では、魔法省理事を代表してリカ=シュウ・ベクトル」
ロアウルという男性が、ケビンという青年の真反対の端に座る青年に視線を送った。
「はい。では、私も口答質問で」
柔らかな声に誘われて、久しぶりとなるリカ・ベクトルを見た。
「魔法師の心得と規則を復唱して下さい」
丸い縁、幅の狭いとんがり帽子の下では、おそらくいつもの笑顔があるだろうと想像出来る口調だ。
「はい。魔法師の心得は『いかなる時も己の心を見失わず、誠の心と志と共にあれ。…さすれば月光が道を指し示す』です。規則は『民への自愛』、『王への忠誠』、…『意志の尊重』の三原則です」
とにかく覚えにくいこの二つは、試験に必ず出るとジョルジオに叩き込まれた内容だ。
途中、なんだったかと危ういところもあったが、難なく答えられた。
「大変、結構です。…ビス殿、次の項目へどうぞ」
さらさらと流れるように文字を書き連ねてから、リカ・ベクトルは進行係のロアウルに視線を流した。
先程のケビンという青年は、話の速さによって勝手に動く万年筆ともの凄い速さで、本のような分厚さの書類の上を移動している筆記用具をまだ見ている。
「うむ、では…。モーリス防衛大臣」
なにが書かれているのかは知らないが、あんなものを眺めていて何が面白いのかとリリアンヌが眺めているとロアウルが声を張り上げた。
「ウィリー!君の順番だっ」
「ロアウル、声が大きいよ」
飛び上がって驚くリリアンヌを放って、シリウスが勘弁してくれと声を荒げた。ウィリーと呼ばれたよれよれの外套を纏う小柄な男性も椅子から飛び上がって驚き、大して背丈もない背筋を正した。
「失敬。ロアウル、うっかりしていたんだ。…あぁ、悪かった。防衛大臣のウィリー=テオ・モーリスだ。お嬢さん、その場に立っていただけるかな?そう、私の眼を見据えて」
地面に静かに降り立って、彼の小さな濃い茶色の瞳を見つめた。進行係の「どいつもこいつも」というぶつぶつ言う小言が聞こえる。
「これより実地試験です」
その言葉で、擦り切れた絨毯の上に魔法陣がリリアンヌを囲むように現れた。円形の中に複雑な文字と図形をした焼き印は、絨毯を焦がしてその形を現す。
絨毯を焦がしたような匂いが酷く不愉快だが致し方ない。
「私が一つ、古来の魔法を唱えます。あなたの能力だけで、その魔法を回避してください。良いですね?いきますよ」
魔法は使っては駄目だと言われ、どうしたらいいのだと混乱した。心の準備もする隙もなく、モーリス防衛大臣は辺りの空気を頭上に集めて雨雲を出現させた。それはしばらく型を探していたようで、モヤモヤとモーリス防衛大臣の頭上を漂っていた。その間に、自分の奥底に眠る能力をあるだけ引っ張り出す。
やがて、モーリス防衛大臣の一声でそれは凛々しく気高い、百獣の王の姿へと型を変えた。
巨大な石像と化した灰色のライオン。
百獣の王と呼ばれるその堂々たる風貌に、リリアンヌも恐れを抱くほどだった。
気迫に圧されるリリアンヌを見据えた後、力強い雄叫びを高い天井へと放ってライオンは宙を蹴った。
ライオンの雄叫びで部屋には地響きが立ち、冷たい風が白みを帯びた灰色の銀髪を舞い上げた。
壁がパラパラと崩れる音が聞こえる。
雄ライオンが石膏の牙を剥き出し、鬣を靡かせてリリアンヌへと飛びかかった。
今にもリリアンヌを食おうと口を開けるライオンに、自分の中にある能力を右手に持って投げつけた。
リリアンヌの右手の指先がライオンの鼻面が触れるか触れまいか。
そんな距離で石像はぴたりと宙に浮いたまま止まった。やがて石像の足元から小さくひびがはいり、連動するかのように石像の全体に深くひびが入ってそれは音を立てて砕け散った。
派手に砕け散った石像だったが、小さな風を伴ってリリアンヌの足元にその破片が瞬時に集まった。
灰色だった石像の破片が灰白色となって形を成し、四脚の足元から徐々にその風貌をかたどっていく。
リリアンヌの目の前に、真っ白な石膏で作られた美しい雌ライオンが姿を現した。
うなり声を上げて、モーリス防衛大臣へと向かう。
埃を蹴り上げて。白い牙を剥き。
机の上の書類を舞い上げて、モーリス防衛大臣の机の上に着地した。
「ひぇぇ!」
しかし、さすがは防衛大臣。叫び声を上げながら自分の身を柔らかな座布団のような透明の結界で守った。が、まるで本当に生きているかのような雌ライオンを相手に仰天したのか、椅子から派手な音を立てて転がり落ちた。
「アーサー!!」
声を張り上げたのはシリウスで、その声にさっと立ち上がった人物がいた。シリウスの隣の隣に座っていたルビウスの叔父、アーサーである。
雌ライオンを封じようと右手を上げたが、封じられるのを悟った雌ライオンは机の上を駆け出した。
机の上に置かれた書類を蹴散らして元気よく駆けていく。薄い書類が宙を舞い、重い書類が机から滑り落ちた。
雌ライオンは一気にケビンという記録係が座る机の端まで来ると机を台にして跳び、天井へと駆け上がった。
「まぁ、元気な雌ライオンだこと」
試験官の周りは沢山の紙切れが舞い、その中からおかしそうに笑う女性の声が上がった。
リリアンヌも重力に逆らって部屋の中を走り回る雌ライオンを可笑しそうに眺めていた。しかし、突如出現した網で雌ライオンは捉えられ、不服そうなうなり声を上げて姿を消した。
リリアンヌも残念そうにため息を零して試験官に向き直った。
一続きの長い机の付近には、雌ライオンが暴れた後の残骸が散らばっている。それを試験官が魔法で各々片付けていた。…一部の者を除いて。
「だだだ大丈夫ですか!?テオ殿、お気を確かに」
「…こ、腰が。腰が抜けた」
床に転がっているモーリス防衛大臣に肩を貸しているのは、机の上を真っ黒な着色液で駄目にされた記録係のケビン。
その二人の姿がまるで、端から見たら親子のようでリリアンヌはクスリと笑みをこっそり漏らした。
「ケビン、しばらくウィリーを頼むよ。なに、少しの間だから。…ロアウル、試験を続けてくれ」
試験官が皆、席に落ち着くとシリウスが声を掛けた。呆然としていた進行係が慌てて手元の書類に視線を落とした。
「えー、次は総監督のテレサ」
「えぇ。…監督係のテレサ=ケイ・マクセルよ」
リカ・ベクトルの右側に座る一際目立つ服装をしている女性が声を上げた。今日は露出度が低い服装をしているが、それでも彼女が普段まとう色気は隠せていなかった。
どんな課題を出されるのか、自然と体が緊張した。
「私の課題は簡単。変化よ。変身の術を使って好きな物に変化してごらんなさい」
「…なんでもいいんですか?」
変化の魔法はあまり上手くない。細やかな魔法の作業が嫌いなのだ。
参ったなとマクセル侯爵に質問すれば、どうしたもんかと頭を悩ませるリリアンヌに思わぬ人から助言を貰った。
「そうだよ、なんでも。君なら猫なんてどうだろうね、さぞかし気品高い美しい猫に…」
「シリウス、今はテレサの番だ。口を慎みたまえ!」
「あら、いいんじゃありませんこと?受験者にどのような対応をなさるのかは、お好きになさったらいいんですから」
うふふと笑うシリウスに進行係のロアウルが叫んだが、マクセル侯爵が首を傾げて笑い声を上げた。
「しかし…。孫の弟子だからと言って、甘い採点をされたら困る」
「失礼な!僕はどんな女性にも公平に…」
「もういい!シリウス、試験中ぐらいは女性への愛を語るのを慎んでくれ!」
熱く女性への愛を語ろうとしたシリウスに、勘弁してくれとロアウルがぴしゃりと言い放った。
「決まったかしら?」
そんな二人のやり取りを放って、マクセル侯爵が尋ねた。やり取りを顔を引きつらせながら聞いていたリリアンヌは、一つだけよく知っている生物を思い出していた。
「はい、私…。紅の小竜に化けます」
「なんだって!?竜だと…?試験官を馬鹿にしているのか、もっとまともな…」
「お黙りになって!どうぞ、変身なさいな」
喚くロアウルを黙らせて、リリアンヌを促した。
冷ややかな視線が痛い。
気持ちを落ち着かせて、瞳を閉じた。
あの愛らしい、ケルベロスの姿を思い浮かべる。
艶やかな光沢を持つ、堅い鱗と弾力ある肌。鮮やかな赤色の身体。瞳はくるりと愛らしい赤みを帯びた紫色。身体は今では中型犬ほどの大きさだから、蝙蝠のような翼はその倍はあった。
太く長い尾は逞しく、後ろ脚も骨が太く頑丈だ。透き通るほどの美しい爪が、鋭く尖っている。
どんな刃よりも鋭い牙とよく動く尖った小さな耳を思い浮かべた。
身体のあちこちが音を立てて変化して、苦痛に顔を歪めたが思い切ってリリアンヌは閉じていた瞳を開けた。
目の前には古びた机の側面が。塗料が剥げて下の腐った板が顔を出している。
長くなったマズルを上に向けて試験官を仰ぐと丁度、シリウスの淡い紫色の瞳とぶつかった。蝙蝠の翼を広げてどうだと胸を張った。
すると、でかした!とシリウスが手を叩いて叫んだ。敏感な竜の耳には、人間の声量が大きく聞こえるらしく、やかましいと小さく炎を放った。
白みが多くなってしまい、いつもケルベロスが放つ炎とは少し違ったようになったが、炎はちゃんと現実味を帯びていたようで、シリウスのとんがり帽子の先っぽに火が着いた。
「わちちちっ!」
慌てて魔法で消そうとするが、なかなか消えないその炎はごうごうと勢いを増して燃えている。
可笑しくて、翼をはためかせると風の勢い良いで試験官達が吹き飛んだ。
「結構!早く元の姿に戻りなさい」
進行係のロアウルが声を張り上げて、リリアンヌは助かったとばかりに変身術を解いた。その時にうっかり進行係の試験官に炎を放ってしまった。…言い訳のように聞こえるかもしれないが、本当にうっかりだったのだ。
やっと火が消えたシリウスの頭に、再び炎を放ったのは。
「あちゃーっ!!」
ボンと音を立ててもくもく上がる煙を眺めながら、リリアンヌは未だに元に戻らない両手を戻すのに必死だった。
両手を後ろに隠して竜の手のままである、自分の両手に向かって呪文を放つ。そうこうして、ようやく両手が元に戻った。
これだから変身術はどうも好きになれない。
「宜しい。九人中、四人の出題が済んだ、では…」
進行係のロアウルが、試験長であるシリウスとひそひそと何やら話込んでいる。
未だにシリウスの頭からは、焦げ臭い匂いを伴って煙が上がっているが。
「ルビウス、君の番だ」
ロアウルとシリウスが、リリアンヌの背後に視線を向けて言った。
ニヤニヤと顔が緩むのをこらえていたリリアンヌは、その人物の名前ではっと背後を振り向いた。
リリアンヌが入って来た戸口のすぐそばにあったのであろう、恐らく赤い色合いと想像できる小さな肘掛け椅子に誰かが座っていた。薄暗い部屋のために、今まで気づかなかった。
ゆらりと空気と闇が揺れて、その人物が椅子から立ち上がるのが分かった。
「良かったね、リリアンヌ。前半は優しい課題を出して貰って。だけど、後半はそうはいかないよ」
聞き慣れた静かな声と足音が、リリアンヌの立つ魔法陣の手前。光が届くぎりぎりの所で立ち止まってその人物をうっすらと浮き上がらせた。
ゆっくりと俯いていた顔が上がって、深い闇夜の色である黒い瞳がとんがり帽子の縁の下からリリアンヌを窺い、その白い肌が闇に浮き上がった。
にこやかに笑う口が、言葉を発した。
「師である僕を倒せなければ、試験はここで終わりだ。…さぁ、準備はいいかい?」
――手加減はしない。
言葉はなくとも。
彼が纏うただらなぬ雰囲気が、静かにそう語っていた。