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9.卒業試験の朝

長くなりました。リリアンヌが急に乙女に…ww

魔法師の弟子にとって卒業試験というものは、一度きりの人生の中で最も大切な一日となるであろう。


魔法師や魔術師を総括している魔法省があるリヴェンデルでは年に一度、魔法省の一室を貸し切って卒業試験なるものが行われる。

対象者は魔法省が定める初級以上を持つ者。

試験形式は受験者一人に対し複数の魔法師との面接形式をとる。どんな質問や実技試験が成されるのか、その内容は決して明かされず、過去の出題問題もわからないために受験者には困難な道となろう。


歴史あるこの卒業試験は、ひとつの儀式である。その暗黙の規則に習い、受験者は何一つ間違えることなく試験に挑まなければいけない。

古いしきたりが組み込まれた卒業試験。

その日をリリアンヌとレイチェルの二人が今日、迎えた。


受験者の朝は早い。


外はまだ日が昇っておらず薄暗い。そんな中、リリアンヌの部屋では盛大な鐘音が鳴り響いている。耳障りなその音を本人はいつまで経っても止めようとしない。やがて、二つ目の置き時計が木製の独特の音を立てた。その喧しさに耐えきれず、リリアンヌが毛布をはねのけて起き上がった。


「あぁー、もう、うるさいなっ!」


真っ白く薄い毛布が宙に舞い、その隙に数多く置かれた個性豊かな置き時計を止めて行く。

欠伸を噛み締めて濃い茶色をした丸い時計を止める。

歪んだ二つの対照的な針を眺めて文字盤を見れば、時刻は午前五時を示していた。


「さぁて」


大きく伸びをして、窓掛けを盛大に開けた。顔を出し始めた朝日が、王都の街並みを照らし始めている。

窓の外にある景色に背を向け、昨夜のうちに用意していた黒服を手に取った。

寝間着を脱ぎ捨て、真新しい衣類を身につける。

僅かに青を交えた丸い襟がついた肌着の赤茶色の留め金を留めて。その上から、踝まである丈が長いつなぎを頭から苦労して被った。黒いそのつなぎから頭を出して腕を通す。細い紐が両肩に掛かり、まるで前掛けのようだとリリアンヌは思った。

乏しい胸元が、黒服のためにますます寂しく見える。

身体の曲線を美しく浮き出す上質な生地で作られた服に戸惑いながら、壁に取り付けてある楕円だえん形の鏡の前でクルリと回ってみる。ふわりと裾が広がり、綺麗な円形を描いた。

暖かくなった気候に合わせた薄い生地であるが、しっかりとした作りの服で動き易く丈夫である。

襟の下に揃いの黒く細い布状の紐を雑に結び、髪を櫛で梳いた。そして赤い色合いの細く布状の紐で、左右の髪を後ろで結ぶ。あまり上手いとは言えないくくり方であるが、本人は気にしないようでそのまま上着と外套を手に取り部屋を出た。


「おはよう、ジョルジオ」


途中洗面所に寄って身なりを整えたリリアンヌは、食堂で朝食を準備するジョルジオに声を掛けた。


「おはようございます、リリアンヌ様」


ざっと身なりを検査されてから、笑顔で挨拶をされた。どうやら身だしなみは合格のようだ。内心ほっとして席へと着いた。右隣の席は真新しい食器が並んだまま空席で、レイチェルがまだ起きていないことを物語っている。


大丈夫だろうか。


試験日当日に遅刻など洒落にならない。

料理を口に運びながら、心配だなぁと零した。

リリアンヌの試験は午後からであるが、受験者は全員午前の部が始まるまでに会場にいなければならない。ルビウスの部屋の前で、レイチェルの事が気にかかった。その気持ちを振り切るかのように大きく息を吐いてから扉を叩いた。


「はい」


「リリアンヌです」


「どうぞ」


入室の許可を貰って、静かに扉を開けた。あまり音を立てないように扉を閉めて、ルビウスと向かい合った。


「挨拶に参りました。今、お時間よろしいでしょうか?」


「あぁ、大丈夫だよ」


上質な椅子に腰掛けるルビウスは、手元にあった書類から顔を上げて微笑んだ。ゆっくり広い机へと向かって歩く。靴だけはずっと使っている革靴だ。魔法で綺麗にしてあるために新品のように見える。真っ黒のその靴を見ながら、ルビウスの待つ机の数歩手前にたどり着いた。顔を上げて真っ直ぐにルビウスの顔を見つめ、口を開いた。


「本日、無事に卒業試験を迎えることが出来ました」


事前に決めていた挨拶。その文章を頭に思い浮かべながら、形ばかりの感謝を述べた。


「孤児であった私を引き取って頂き、心から感謝をしております。カインド邸でお世話になって早八年。ご迷惑もお掛けしましたが、先生の寛大なお心で邸に置いて頂けたことを一生忘れません。先生に教えて頂いたことを思い出しながら、カインドの弟子として恥じぬよう、精一杯頑張って参ります」


「健闘を祈ってるよ。君なら大丈夫だろうけど」


じっとリリアンヌを見やっていた闇が柔らかく微笑み、右手を差し出して来た。その手と握手を交わしながら、ジョルジオに教えて貰った愛想笑いを浮かべた。


「ありがとうございます。…お世話になりました」



そう言って手を離し、叩き込まれた綺麗な礼をした。頭を上げた時には、彼は穏やかな笑みをリリアンヌに向けて言った。


「はい、良くできました」


手元の書類にさらさらと文字を書き連ね、赤い朱肉で大きな判を押した。


「はぁー、緊張した」


書類に判が押されたことを見届け、リリアンヌは途端に力を抜いた。その様子を見ながら、ルビウスがくすりと笑った。


「このぐらいで緊張しているなら、試験ではもっと緊張しなければいけないんじゃないのかい?」


からかいを含んだその言葉にむっとしながら、長椅子に腰を下ろして反論した。


「大丈夫です!」


ムッと言い返したリリアンヌをくすくす笑って、そうかい?と言った。ふんとそっぽを向いたリリアンヌに、ルビウスが静かにやってきた。隣に座る気配はするものの、顔を戻しはせずリリアンヌはそっぽを向いたままだ。そんな彼女の髪にルビウスの手ががかった。


「な、なに?」


「この髪型で行くのかい?ジョルジオがよく何も言わなかったね」


するりと紐を解いたルビウス。はらりとリリアンヌの頬に髪が落ちる。


「あっ、せっかく括ったのに!」


「あまりに酷いからね。結び直してあげるよ。向こうを向いていて」


なんてことをっと非難がましいリリアンヌの抗議にも応じず、ルビウスは促した。有無を言わせぬ気配に大人しく左側を向いた。優しい仕草で左右の髪を掻き上げて、どこから出したのか櫛を丁寧に通していく。やけに慣れた手つきに、思わず皮肉が口をついてでた。


「…随分と慣れたご様子で」


その言葉に背後で小さく笑う声が聞こえる。


「なに笑ってるの?」


「…いや、別に。四つ上に姉が一人いるからね。よく手伝わされたんだ」


「ふーん」


ローリング公爵に嫁いだという姉君は、もうすぐで一歳になる息子がいたはずだ。

そんなことを少し話したあとは、柱時計が時を刻む音だけが部屋に響いた。


「…どうしょうかな」


「なにが?」


ぽつりと零れた言葉に、ルビウスが聞いてきた。


「一人暮らし。受かったらここを出て行くでしょう?仕事も探さなきゃいけないし、どうしょうかなって」


さらりと言ったリリアンヌの言葉に、細い布状の紐を括ろうとしていたルビウスの手が止まった。


「ルビウスさん?」


途端に静かになった彼をどうしたんだと後ろを振り返ろうとした。


「…なんでもないよ、あぁまだ括り終わってないから前を向いていて。まだ試験を受けていないのに、随分とせっかちだね」


「みんな独り立ちして行ったし、私だっていつかは出て行くでしょう?人生設計はきっちりしとかないと」


布が擦れる音を耳に挟みながら、リリアンヌはふふんと笑った。


「出て行けなんて一言も言ってないけどね。ずっとこの邸に居たらいいんだから」


手が止まったところで、ぺたぺたと完成度を確認していたリリアンヌは、さらりと髪を撫でた手に導かれるように背後を振り返った。


「一緒に住めばいいよ」


にこっと笑ったルビウスを怪訝な表情で睨むとばっさりと言い返した。


「出た、変態発言」


「しつこいね、君も」


変態じゃないと何度言ったらと眉間に皺を寄せるルビウスを鼻で笑った。


「女性と一つ屋根の下に住むと言う意味をわかってるなら、普通の紳士ならば言わないでしょうから」


「普通の紳士だ」


「どこがよ。とにかく、受かったらここを出て行くから」


「駄目だ」


「…はぁ?」


今度はリリアンヌが眉間に皺を寄せた。


「世の中を知らない女性一人が暮らして行けるほど、今の世の中は甘くない。現実を知るべきだ」


はっきりと言い切るルビウスに、ますますリリアンヌの皺が深くなる。


「…出て行くもの」


「君が試験に受かったら、考えてもいい。だけど、それまでに僕が納得できるような理由を考えておくように」


話はそれからだ。

そう言うルビウス。細長い布をきっちりと首もとに結ぶ姿は確かに、立派な成人した紳士の面立ちをしていた。全身を黒で統一したその服を着こなす容姿は、その地位にいるのに相応しい。思わず見つめてしまったリリアンヌは、遠くを見つめていた深い黒の瞳と視線が絡んで慌てて逸らした。

ルビウスが何か言葉を発する前に、廊下にバタバタと慌ただしい足音が響いた。


「あぁ、やっと来たね。時間ぎりぎりだ」


柱時計が示す時刻を確認しながら立ち上がったルビウスの背に声を掛けた。


「ルビウスさん」


机へと向かうルビウスは返事をせずに振り返った。


「私、絶対に受かってみせるから」


真っ直ぐ、深い黒の瞳を見つめて言い切った。


「…頑張っておいで」


ほんの僅かな間を開けて言ったのは、当たり障りのないそんな言葉。

彼が椅子に座る前に扉が叩かれ、入室を許可されたレイチェルが部屋に入ってきた。リリアンヌと似たり寄ったりの挨拶を述べる彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。


将来のことを真剣に考えた。

職が決まるまで、この邸で世話になることも脳裏に横切ったこともある。だけど、これ以上一緒にいれば。


――本気で好きになってしまいそうで。


身よりもない自分が近くにいれば、世話になった彼に迷惑をかけるだろう。師弟の関係が切れるその時が、彼との別れの日だ。


「リリア、お待たせ」


いつの間にか伏せていた視線を上げ、目の前に立つレイチェルに笑いかけた。


「遅刻かと思って心配したよ」


背中の中ほどまでしかない、裾が短い上着を着ながら、同じような恰好をしたレイチェルを見る。似たり寄ったりの服装だが、小柄で童顔の彼女に合わせて少し幼い印象に見えるように黒を基調としたその服は、とてもよく似合っていた。目尻近くに止めている装身具を直してやりながら、その姿を眺めた。

もう少しで成人する二人は、裾が踝まである女性用の服装だ。その裾から、なにやらちらちら白いものが目に映る。


「ん?」


風通しのよい黒い外套を纏った所で、靴の隙間からそれが覗いている。

外套の留め金に苦労しているレイチェルの裾をちょっと失礼して捲った。


「レイル、この靴下で試験受けるわけじゃないよね?」


革靴から覗くその物体は、くたりとくたびれた白い木綿の靴下であった。


「どうしたんだい?」


外套片手に、側にやってきたルビウスに複数の糸も出ている靴下を見せた。


「この靴下、バレたら減点よね?」


あげすぎだと言うように、裾を捲り上げるリリアンヌの手を下げさせるとルビウスは呆れたようにレイチェルを見た。


「一体これはいつの靴下だ?試験に履いていく靴下が置いてあったろう」


「…見なかった。靴下、じゅう」


「わざわざ答えなくてよろしい」


ぴしゃりと言い放ったルビウスに困惑しながら首を傾げたレイチェルの留め金をとめてやり、ルビウスは慌てたように彼女をせき立てて部屋を出た。リリアンヌも後を追う。

ジョルジオに靴下を取ってきてもらい、みんなに見守られながらまっさらの靴下に呑気に足を通した。


「お嬢さん方、そろそろ出た方がいいんじゃないかい?」


早く早くと急かすリリアンヌとようやく靴を履いたレイチェルに、ルビウスが声を掛けた。


「行こう!」


レイチェルを引き連れ、邸の玄関扉を元気よく開け放した。


「僕は君達がちゃんと向こうに着いたことを確認してから後を追うから」


行ってらっしゃいと続けたルビウスと執事のジョルジオ、厨房から顔を出したキャサリン、双子の侍女。邸の住人総出で見送られて手を振った。


「「行ってきます」」


邸の敷地内を足早に駆けて門まで行く途中、向こうから歩いてきた女性にレイチェルが思わず声を上げた。


「あ、ヴィア姉さんだ」


「あんたたち、まだ出てなかったの!?」


なんてのんきなっ!と怒られ、追い立てられるように門まで走らされた。ふと邸を振り返り、二階にある一室の窓を見れば、ちらちらと鮮やかな赤色がうつっている。


ケルベロスである。


大きく手を振ってやると答えるように鮮やかなな赤色が左右に動く。可愛いなあと思わず笑みを零すと門の入り口で仁王立ちするオリヴィアが吠えた。


「早く行きなさい!!」


おっかないと二人揃って瞬間移動魔法を発動させた。

たどり着いたのは、寂れたいわゆる旧館と呼ばれる魔法省の玄関口。一度だけ、下見と称してルビウスに連れてもらったことがある。ちゃんとたどり着けたとほっとしたリリアンヌだが、左側を見て青ざめた。一緒に魔法を発動させたレイチェルがいないのだ。

黒を纏う少ない人混みの中を見渡すが、彼女の特徴である混じり気のない白い髪が見当たらない。

どこに飛んでいった!?

焦るリリアンヌだが、本人はこの場に無かった。心配だからと一緒に来たのは全くの無意味であったと嘆くリリアンヌは、吹き抜けの天井を仰いだ。脆そうな建築物の旧館は、玄関口に丸屋根があるのが特徴だ。本館とも呼ばれたこともあるらしいが、旧館と言うのが今の呼び名だ。

丸天井には神々や精霊など、細やかな美しい絵画が描かれ、さながら美術館のように見える。しかし、天井から吊された装飾用の灯りに蜘蛛の巣が巻きつき、その価値は誉められるようなものではない。

あまり明るいとは言い難い照明に目を細めて辺りを見渡した。黄ばんだ内装は所々剥げ落ち、埃っぽさが目立つ。埃を被った敷布が家具の上に被せてあり、普段はこの旧館は使われていないのであろうと推測される。

泥と埃を吸い込んだ絨毯は、元は何色であったのかも推測出来ないほどで、華やかな花の柄はほとんどその姿を消していた。辺りにいる人々は全員が黒を纏い、同じようなとんがり帽子を被っている。その人達の間を縫いながらレイチェルの姿を探すが、やはり彼女の姿はなかった。


「受験希望者の方?」


不意に掛けれた言葉。

玄関口のちょうど正面にある大きな石段の踊場で、すらりと長身の女性が一人でそこに立っていた。


「はい」


「あぁ、やっぱり。お名前と受験票を」


自らは動かず、右手を差し出してきた。階段を上がって受験票を差し出す。


「お名前を」


「リリアンヌ・カインドです」


「こちらに。控え室にご案内します」


手元に持っていた手帳に何やら書き込み、左手首にまいていた腕時計で時刻を確認し、地面に広がる黒い布を手繰り寄せて階段に上がっていった。そのあとリリアンヌも静かに続く。ずるずると裾を引きずりながら歩く姿に、裾が邪魔にならないのだろうかと不思議に思った。


「…卒業試験は初めて?」


「え?あ、はい」


階段をひたすら上がって行く彼女が唐突に声を掛けてきた。まさか声を掛けてくるとは思っていなかったために反応が遅れたが、さらりと返事を返した。


「そう、初めての試験で残念ね。いつもなら綺麗な棟であるのだけれど、今回に限ってこの旧館」


階段を上がりきって立ち止まった彼女は息を整えながら、リリアンヌを振り返った。


「…そうなんですか。特に気にしていませんから」


「あら、そうなの?余計なことを言ってしまったわね」


苦笑を漏らす彼女。どうやら緊張しているであろうリリアンヌを気にかけてくれたようだ。再び歩き出そうとした彼女に、思わず聞いた。


「あの!レイチェル・カインドはもう来てますか?」


つばが広い帽子のために表情は読み取れないが、不思議そうに首を傾げた。


「姉弟子なんです。一緒に来たんですけど彼女…、着地点を間違えたみたいで。どっかに飛んでいったみたいなんです」


心配だと言うリリアンヌの真意が漸くわかったらしく、彼女は忍び笑いを漏らした。その態度に眉をひそめたリリアンヌ。慌てて謝りながら、彼女が言った。


「あ、ごめんなさい。馬鹿にしているわけじゃないの。さっき、試験官の待合室に吹っ飛んで来た子のことだと思い出したら可笑しくて」


どうやら場所は違えどちゃんとこちらに来れていたようだ。ほっと安堵を漏らして笑った。


「控え室で待ってらしゃっるから大丈夫よ」


くすくす笑いを漏らして再び長い階段を上りだした。気が遠くなりそうなほど続く石段を時折曲がりながら上がって、最上階に着くと両扉が取り除かれ、中の様子が丸見えの講堂が直ぐ正面に見えた。


「こちらが控え室。少し先に行けばお手洗いもあるから。基本的に出入りは自由だけど、飲食と魔法、私語は厳禁よ。下の階に食堂があるから飲食するならそっちでね」


頑張ってねと声を掛けてくれた彼女に礼を言って、リリアンヌの背丈の何倍もある入り口をくぐった。丸天井の高い天井は薄い灰色で、照明は付いていなかった。その代わり、高い位置にぐるりと周囲を囲む窓の細い格子の隙間から外の光が取り入れられており、広い講堂は充分明るく、文字が読めるほどだ。


長い木の机と同じような木の長椅子が規則正しくならび、まるでこれから講義を聞くようであった。

等間隔に間を開けて座る人の中、レイチェルの混じり気のない白い髪を見つけてほっと一息ついた。


「おい、名前」


そんなリリアンヌの近くにぬっと現れた人物は、ぶっきらぼうにそう尋ねてきた。


「リリアンヌ・カインドです」


どこかで聞いたことがある声だととんがり帽子の影となっている顔をそっと窺い見れば、その不機嫌そうな深い黒の瞳とばっちり目があった。

アレックス・シエルダ侯爵。ルビウスの弟君であった。


「試験の時間は?」


「…午後の部です」


手元に持っていた手帳に何やら書きなぐって、顎でついてこいと合図した。長机と長椅子が交互に並ぶ間を通って、既に着席している人の最終尾の端っこに案内されて静かに着席した。レイチェルは二つに別れた長机の反対側に座り、斜め後ろからリリアンヌがその姿を眺めることになった。こうやって静かに待つことは、リリアンヌにはどうも出来ない。きょろきょろと辺りを見渡せば、読書をする者、小声で呪文の確認をする者、机に突っ伏して寝入る者と様々であった。あまりに時間がもて余るので、アレックスの姿をこっそりと探した。灰色の壁に等間隔に並んだ似たり寄ったりの魔法師達。監視員なのか、受験者をじっと見つめるためにどうも落ち着かない。後ろの方で何やら魔法師と話をかわしているアレックスを見つけてため息をつき、机に肘をついてぼーっと宙を見つめた。


講堂の正面にある大きな時計が、古びた鐘を奏でた。


午前八時。卒業試験の午前の部が開始となった。一人の魔法師に連れられ、小さな男の子が神妙な面持ちで講堂を出て行く。それをぼんやりと見つめて、暇だなあと大きな欠伸を一つした。うっつらうっつらと昼寝を始めたリリアンヌ。本格的に寝入ってしまったのはその後すぐ。目を覚ました時にはレイチェルの姿は無く、時計の針は短針も長針、どちらも空を向き、丁度二つの針が重なる頃であった。両腕を伸ばしながら周りを見れば、午前の部の受験者は誰一人おらず、午後の部が始まっていた。と言ってもリリアンヌの時間まではまだあるので、席を立って講堂を出ようとした。


「どこにいくんだ」


入り口の近くで壁に凭れていたアレックスが、じろりと睨んで聞いてきた。


「時間があるからちょっと散歩」


「…試験中は勝手な行動は厳禁だ。下の階以外はいけない」


「建物の中をみたいんですけど」


リリアンヌの問いに少し考えたアレックスは、人差し指で左側を指し示して言った。


「別館なら問題ないだろう。時間までには戻れよ」


その言葉に頷いて廊下に出て、教えて貰った道を行く。お手洗いの前を通り過ぎると小さな踊場が姿を現した。壁の突き当たりに備え付けてある小さな鉄扉を押し開ける。


流れ込んでくる風を受けて、外に躍り出た。


石で造られた屋根がない渡り廊下は、雲が多く存在する淡い青空の下に存在していて、目の前のまだ真新しい建物へと続いていた。

数段の階段を下りて、風を受けながら渡り廊下から身を乗り出し、建物に囲まれた中庭を眺めた。

花壇が少し並ぶだけのこじんまりとした中庭を通り過ぎ、黒塗りの建物の中へと足を踏み入れた。壁は汚れもない真新しい白色であるが少し古びているように見える。床には濃い青の絨毯が敷かれている。

余計な家具はあまり置かれて居らず、殺風景と言える。少し埃っぽい廊下を一人、ゆっくりと歩く。

そのとき、閉め切られた建物の中で突風が吹いた。眩しい閃光が走り、思わず目を閉じるとリリアンヌの外套と銀色の髪を舞い上げた突風は、名残惜しそうに開け放たれた窓から去っていった。


「えぇ!!」


目を開けて目の前を見たリリアンヌは、思わず叫び声を上げた。そこには、柱時計に寄りかかるように眠る幼い自分がいたからだ。


「なんで!?」


頭をぶつけたのか、完全に伸びている幼い自分に駆け寄るとしゃがんで覗き込んだ。白みを含んだ短い銀色の髪、赤色の瞳は伏せられているけれど正真正銘、幼い頃の自分である。


なぜ、過去の自分がこんなところにいるのか。

信じられない思いで眺めていると一つ、心当たりがあった。


「そういえば…」


昔、定期試験の時に時空渡りをして未来の自分に会ったことがある。


「…今日だったんだ」


すっかり忘れていた。

しばらく放心状態となっていたリリアンヌだが、いつまでも起きない自分に手をかけた。遠慮も無くゆすり起こす。


「ちょっと、早く起きなさい!」


「うぅーん」


悩ましげな声を上げて、幼い自分がうっすらと目を開けた。そのことにほっとしながら、誰が来るかわからない。少しの焦りがリリアンヌの頭を占める。


「あぁ、今日だったんだ。すっかり忘れた!とにかく、伸びていないで早く起きて!」


独り言のように言葉を口にしながら、まだ虚ろな瞳をする自分を揺すった。ぱちっとこちらを見た自分が叫んだ。


「えぇっ!?私っ!」


やっぱり自分だ。反応が今の自分と一緒だ。


苦笑をこらえて言った。


「そう、私はもうすぐ十六にあるリリアンヌ。いろいろ説明してあげたいけど、ここは人通りが多いから。とりあえず場所を移動しないと」


混乱しているであろう自分をせき立てて、床から立ち上がらせた。説明をしてやらなければ、この自分は多分置かれている状態が分からないだろう。一度だけ、ルビウスに連れてきて貰ったことがある建物の中を歩く。

背後を振り返れば、興味津々といった様子で建物を見渡す自分が随分間抜けに見えた。


「こっち!」


苛立ったように言って手招きをする。やっとこちらのあとを追ってきた自分を引き連れて廊下の角を曲がろうとした時、近づいてくる人の気配を察して慌てて近くにあった石像の隙間に自分を押し込む。


「あぁ、もう!ちょっとここに隠れてて。いい?絶対に声を出したり、覗いたりしないでね」


「リリア、こんなところでどうした?」


よく知ったその声に振り返ると透き通った水色の瞳が不思議そうに見つめていた。

一番弟子のフレドリッヒだ。相変わらず美しい女性のような容姿をしている。本人に言えばあまり嬉しくなさそうな顔をするので、最近では言わなくなったが。


「試験まで時間があるから、ちょっとここの建物を見てまわってたの。フレッド兄さんこそ、どうしたの?」


「いや、シエルダ候に呼ばれて。過去からの侵入者がいるらしい。建物の内部にいるようだから、リリアも気をつけるように」


「ふーん、侵入者ね」


平然を装うが、内心はどうも冷や汗が止まらない。

いつもは濃い青色がかかった鉄色、暗い紫味の青緑色の防衛省の制服を身に纏うフレドリッヒ。今日は珍しく黒の外套を纏い、魔法師が着る正装である。手元にとんがり帽子を持っている。――彼がとんがり帽子を被っている所は見たことは今まで一度もない。

緩く結い上げた金色の髪は今では肩下まで伸びている。一体どこまで伸ばす気なのか。そんなことを考えていれば、彼は試験を頑張るように言って、もう一人の魔法師と共に去って行った。


「今のって、フレッド兄さんだよね。へぇ、男前になってる」


フレドリッヒが完全に見えなくなってから、後ろから声がかかった。


「そんなに見たいなら、六年後に好きなだけ見れるわよ。まさか、六年後のみんなを見てみたいなんて言わないでよ?」


「あ、バレた?それより、過去の侵入者って私のことだったりして」


大体、昔の自分が考えそうなことはわかる。

どこかで聞いたことがある説明を自分に言う。


「そうよ。時空渡り(ときわたり)は禁忌の一つ。そんな魔法を許可もなく使って、さらには魔法省の本部に侵入。未来(過去)の自分に会ったなんて見つかったら私も、あなたもただじゃ済まないのはわかるでしょ」


そう言いながら、石像の脇にある薄暗い階段を上がり始めた。その後を憤慨した声と共に十歳のリリアンヌが追う。


「あら、わざとじゃないわ」


「知ってる。レイルとの魔法が被って運が悪かった、って言いたいんでしょ?」


背後を振り返ってにっと笑うと幼い自分は頬を膨らませた。


「まっ、とにかくこの部屋に入ってこれからの事を考えよ」


「ここは?」


部屋に入ってすぐ右手にどっしりと大きな机が現れ、机の上には書類が山のように積もっている。低い机を挟んで向かい合う長椅子と本棚があるだけの殺風景な部屋だ。部屋を見渡して尋ねた自分を見ながら悪戯っぽく笑った。


「魔法大臣の執務室」


「まさか、ルビウスさんの?」


「そうよ。まさか、侵入者が魔法大臣の部屋に行くなんで誰も考えないでしょ」


その言葉にそわそわとしだした幼い自分を見て、リリアンヌはぷっと吹き出して笑った。そんな彼女を怪訝そうに見やる視線に小さく首をすくめた。


「面白いなと思って」


「何が?」


「こう、昔の自分を見たらまだまだ子供だったんだなって」


そん時は意地張って背伸びしてたのに。

窓掛けが掛かっていない、正面の窓を覗いて笑った。


「意地なんて張ってないもの」


「ほら、そんなところが素直じゃないじゃない」


ムキになる自分を再び笑って、窓を背にして窓縁に腰掛けた。


「私、十六になるって言ったじゃない?今日は卒業試験、あなたも試験だったんでしょ」


「そう、初めての試験」


「私達の試験日っていつも災難だわ」


呪われるかもと言ってから吹き出して笑った。昔の自分も戸口で釣られて笑っている。


「しかし、今日まで六年後の自分に会ったことすっかり忘れてたなぁ。でも、歩いたらなんか吹っ飛んできたなって思ったら、昔の自分が目の前に伸びてるだもん」


笑いがこみ上げる中、昔の自分が不機嫌そうに言い返してきた。


「ちょっと、失礼じゃない?そんなこと言ってるけど自分のことでもあるんだから」


「あっ、そっかそっか」


ごめんごめんととりあえず謝った。


「でも、このまま十歳の私がここにいるのはさすがに駄目だから、早く帰る方法を考えなきゃ」


「えっ!」


「え?」


「時空渡り出来ないの?卒業試験間近なのに?」


「あのねぇ、卒業試験受けるからって、何でも魔法が使えるってわけじゃないの!」


「そ、そなの?」


あからさまに落胆した昔のリリアンヌ。黒みがかった赤色の瞳を伏せて、近くにあった深緑の長椅子へと沈み込んだ。


「なに、そのあからさまな落胆は。そりゃ禁止されている魔法や術ぐらいあるでしょうが」


バカじゃないのと呟いた後、十歳のリリアンヌがいきなり顔を上げて叫んだ。


「じゃあ、どうやって帰るのよ!」


「しぃー、声が大きい!だから、それを今から探そうとしてるんじゃない」


そういって辺りを探る。十歳のリリアンヌもそれに倣って辺りを物色し始めた。


「ねぇ、こんなところにほんとに帰る方法があるの?これじゃ、ルビウスさんに直接頼んだ方が早いんじゃない?」


べたりと床に座る十歳のリリアンヌは、飽きたと言わんばかりにそう聞いてきた。


「どうやって帰ったの?」


「それが、良く覚えてないんだよねー」


「えぇー。じゃあ、私帰れないの!?あ、でも六年後の私がいるってことは、無事に帰れたんでしょう?まっ、気長に行こうよ」


ふむと思案するがどうもこの時のことを覚えていないのだ。まったりと机にもたれた十歳の自分は呑気にそう言った。


「そうは行かないよ。私はこれから試験だからそれまでに帰って貰わないと。それに、その時に一人しかいない人物がずっと未来に二人いると片方が、元にいたとこに帰るのが難しくなるんだから」


「なんで?帰る時間はいつでも一緒なんだからいつまでもいてもいいんじゃないの?」


「駄目なの。人はそれぞれ、その時に歩まなければいけない場所があるんだから。よく考えてみなさいよ。ここでの生活が良くなってずっといるとするでしょ?過去の自分がここに来たなら未来の自分がその先を歩むことは出来なくなって、過去の自分も未来の自分も消えてしまうんだから」


「ふーん。でも気をつけたら自分だけの犠牲で済むんじゃない?」


「自分だけの人生を狂わすだけならいいかもしれないけど。誰も何も巻き込まない訳ないでしょうが。興味本意に過去の歴史をひっくり返したり、死ぬはずの人間が生きていたりするかもしれない。人類の全てを狂わす時空渡りだから昔に禁止になったって。まぁ、それまでは渡った先に干渉しないって条件で使われてたみたいだけど。習わなかった?」


習っていないと首を振った自分にため息をつきたくなって、隣に立って机にもたれた。


「確かね、ここで二人で話をしていたような…」


うーんと首を捻って考えていると右下から、何やら熱い視線が送られているように感じた。

彼女の視線とぶつかった。


「なに?」


「別に。私も年頃になったら、それなりの容姿になるんだと思って」


ヘラリと笑うそのときの自分が、確かそんなことを思った気もした。


「ねぇ、レイルは試験に受かった?ヴィア姉さんは彼氏とか出来てる?ジョーンに兄さんはどんな仕事についてるのかな?あ、ルビウスさんが結婚してたりして」


次々に出てくる質問をかわして、顔を背けた。


「教えられない」


「ちぇっ。ケチ」


「ケチってなによ。未来の自分と会って話してることさえ、本当は禁止なんだから」


「つまんないわ」


十歳のリリアンヌはむくれてそっぽを向いた。


「今の状況を説明してくれるって言ったのに」


「あら、説明したじゃない?六年後の今日は卒業試験の当日。時空渡りをするつもりはなくてもレイルとの魔法反発で未来に吹っ飛んできた自分の面倒をわざわざみてあげてるんじゃない。時空渡りは禁忌の一つの魔法だから、見つかる前に帰ってって話」


「それって説明?せっかく来たんだから色々教えてくれたっていいじゃない」


「わざわざ来たんじゃなくて、吹っ飛んできたの間違いのくせに」


うっと言葉に詰まる彼女にはぁとため息が零れた。


「もうちょっと危機感を持ってよね?」


「そうだね、リリアンヌは昔から危機感が薄い」


突如、戸口で聞こえた声に二人揃って背後を振り返った。


「やぁ、六年前のリリアンヌ。会えて光栄だよ」


にこやかにそう言った人物。とんがり帽子を手に笑うルビウスがいた。


「いつの頃まで時空渡りをしに行ったのか、あの時のリリアンヌは結局言わなかったから、見つけるのに少し時間がかかってしまったよ」


小さなリリアンヌからリリアンヌに視線を移したルビウスは、困ったように眉をひそめて続けた。


「で、なんで僕にすぐ言わなかったんだい?」


「試験で忙しいんでしょう?それに、自分の事は自分で片付けようとしただけよ」


「確かに試験官として忙しいけれど、一言でも言ってくれても良かったんじゃないか?」


「私だってついさっきまで忘れてたのよ!」


言い返してやりながら、近づいてきたルビウスと距離を取った。


「もしかして二人、喧嘩してるの?何か…」


眉をしかめて見つめる小さなリリアンヌは、そんな言葉を言った。


「あぁ、まぁそんなところかな?とにかく、試験もあるのだから十歳の君を帰してから話をしよう、いいね?」


「考えは変わらないわ」


「それでもいい。けれど、僕によくよく説明して欲しい」


そう言って十歳のリリアンヌを帰す準備をしに、扉を開けて隣接する部屋にルビウスは消えていった。いまいち状況が飲み込めないという視線が伝わってくる。首をすくめて小さな声で少しだけ話した。


「私、卒業試験に受かったら成人でしょう?だから、カインド邸を出ようと思って。自立したいのよ。」


「それをルビウスさんは反対してるの?」


「まぁ、そんなとこ」


準備が出来たという声で話は中断され、大人しく二人は揃って隣の部屋へと足を踏み入れた。殺風景な部屋の中には白墨で描かれた複雑な模様をしたさほど大きくない魔法陣が一つと天井に同じ魔法陣があった。


「君は時空渡りが始めてだし、魔術で少し反動を抑えてあるんだ」


もの珍しそうに眺める十歳のリリアンヌにルビウスはそう説明した。


「もう帰されちゃうの?」


さぁと促されて円に入ろうとした十歳のリリアンヌが、ルビウスを見上げてそう聞いた。


「こちら側の者に知られない内に帰った方がいいからね」


大体は考えているが分かったのだろう、ルビウスは苦笑して言った。


「じゃっ、私に言いたいことがあるんだけど」


最後に一言いいでしょう?そう付け加え、ルビウスの許可を取って魔法陣から少し離れた所にいるリリアンヌにかけてきて小さく耳打ちした。


「私、家を出て自立するの良いと思うわ」


応援してると肩を叩かれて笑った。


「ありがとう。流石、私だわ」


でしょう?と相手が得意気に笑ったところで、一つ思い出したことがあった。それをお礼だと言って耳うちしてた。


「それって良いこと?」


耳打ちされた内容に怪訝そうに顔をしかめた自分に背中を押して促した。


「良いことよ」


ムスッとしてルビウスの元へ戻った自分を眺める。

あんなに背は小さかっただろうか。昔の自分はあんな生意気な言葉を使って、表情はいつもあんな不機嫌そうな顔をしていたんだろうか。

そんなことを考えていたら、ルビウスとなにやら話をしていた自分が振り返って、じゃあねと言ってきた。ひらひらと手を振り返して彼女は光の中に消えた。


「さて」


十歳の自分が姿を消した所で、ルビウスが振り返った。その顔は険しい。


「一人でなんとか出来ると思った?」


片手を腰にあててこちらを見るが、何も言えずに視線を逸らした。そんなリリアンヌにルビウスが声を掛けようとした時、隣の部屋の扉が乱暴に開かれた。


「兄上、いらっしゃいますか!」


慌ただしく二人のいる部屋に入ってきたのは、彼の弟であるアレックスだった。


「兄上、あの馬鹿女が時間になっても戻って来ないんです。どこにいるか知りませんか!?」


身振り手振りでルビウスに伝えるアレックスは、随分と焦っているようだった。ルビウスが、黙って顎で彼の背後を指し示した。


「おまっ!こんな所にいやがったのか!!あれほど、すぐ戻って来いって言ってただろうが。どれだけ探したと思ってるだっ」


聞いているのか!と怒鳴りながら近付いてきたアレックスに縮み上がりながら、ごにょごにょと言い訳をした。


「…思いも寄らぬ出来事がありまして」


「はぁ!?試験時間だ。落第してぇなら別だが、すぐに旧館に迎えっ!」


何を怒っているのだと首を傾げるリリアンヌに近付いて、ルビウスが助け船を出してくれた。


「まぁまぁ、アレックス。彼女にも色々と事情が」


「兄上、休憩時間はそろそろ終わりです。すぐに試験会場にお戻り下さい」


しかし、その言葉もピシャリと言い返され、彼は肩を怒らして廊下に出て行った。


「リリアンヌ、後でアレックスに謝っておいたほうがいいと思うよ」


首をすくめたルビウスが苦笑して言った。その顔をじっと見つめた。


「ん?顔に何かついてる?」


あまりにリリアンヌがじっと見つめるものだから、首を傾げて彼は言った。


「ルビウスさん」


もうすぐこうして近くにいることも出来なくなる。そう思うと彼に対して、言葉で現せない感謝がこみ上げた。


「…これ、あげる」


上着につく物入れを探って出てきたそれを彼に突き出した。金物屋で買った小さな銀時計。ほとんど使っていないその時計は、リリアンヌにはどうも使いづらかった。


「…使用済みの物を人にあげるとは」


銀時計を丁寧に受け取りながら、彼はクスクスと笑った。リリアンヌの照れ隠しの感謝気持ちだと分かっていたのだろうか。


「ありがとう。…大切にするよ」


嬉しそうにそう言って笑った。


「おい!試験を受けねぇのか?」


アレックスの怒鳴り声でルビウスと見つめあっていたリリアンヌは、彼に背を向けて駆け出した。アレックスに怒鳴られながら走らされ、引率の担当者に引き渡された。


長身の魔法使いの後ろをゆっくりとついて行く。長い長い階段を降りて。ひんやりと冷たい空気がリリアンヌを包み、ゆらりとどこからか吹いてきた風に揺れる蝋燭の火が、地下へと向かう剥き出しの石段の入り口を薄暗く照らしている。


廊下の壁に取り付けてあった角灯取り外し、明かりを灯した魔法使いが先頭に立って、なだらかな曲線を描く階段をゆっくりと降りていく。魔法使いの青白い光で、対照的な二人の影が石造りの地下階段に長く伸びる。


地下に降り立つと目の前に、古びた木の扉が威圧感を纏って佇んでいた。


先程の魔法使いはすでにいない。


大きく息を吸って吐き、右拳で二回、扉を叩く。


腐った木の扉はあまり良い音はしなかったが、中にいる人物には聞こえたようで、低い男性の声が聞こえた。


木製の、その独特の音を立ててリリアンヌは扉を開けた。



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