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8.二人の喧嘩

四章の後半戦がスタートです。今回はさらりと流すことにしましたので、内容はかなり薄くなってしまいました。

リリアンヌは怒っていた。

それはそれは、今までないほどに。

けれど、執事のジョルジオを引き連れて現れたルビウスには、さすがに少しびびった。


「…僕が返ってくるまで待っていたと言うことは、君も僕に言いたい事があるんだろう」


まずはそっちの言い分を聞こうか。

部屋に入って来て早々に、ルビウスはリリアンヌを冷ややかに見つめて言った。


「私、何も悪いことしてないわ!」


外套に繰るんだ荷物ごとジョルジオへと手渡しながら、ルビウスはほぅと片眉を釣り上げた。


「怒られる覚えは無いって言うんだね」


先生怖いよぅと泣き声を上げたレイチェルを背後に庇い、負けるものかと真正面から真っ直ぐ見つめた。


双方睨みあって数分後。

先に行動したのはルビウスだった。

リリアンヌの近くへと歩み寄り、背後を伺い見た。


「…レイチェルが腰を抜かしたらしいね、具合を見させて貰っても?」


「汚らしい手でレイチェルに触らないで!」


それだけは許さん!と怒り、眉をひそめて唸り声を上げた。不潔なその身体で、レイチェルに触れるなど誰が許すかと敵意を剥き出しにするリリアンヌ。

彼女が言った言葉なのか行動なのか。どちらにせよ、ルビウスが睨んできたことで、彼の逆鱗に触れたことは確かだ。


「ひぃっ」


悲鳴を上げたのは、リリアンヌでもレイチェルでもなく。

静かにことの成り行きを見守っていたローリング公爵だった。ぱっと座っていた長椅子から立ち上がり、おっかないとばかりにジョルジオが居なくなった戸口へと避難して行った。


逃げやがったな、あのやろう。


羨ましげにルビウスの義兄を睨みつけるリリアンヌに、ルビウスがにこやかに笑みを湛えて言った。


「リリアンヌ、なんと言ったのかな。出来ればもう一度言って欲しいのだけれど」


もういっぺん言って見ろ。


そう捉えたリリアンヌは、彼の恐ろしい雰囲気に望むところだと内心の怯えを隠して顔を上げた。


「お望みなら、何度でも言って上げるわよ!この女たらし!汚らしい手でレイチェルに触らないで!!」


声高らかに、明るい居間でルビウスへと言い放った。

一度ひとたび怒りが爆発すれば、それを治めることは難しかった。怒りに任せて罵った。


「…不潔不潔、不潔!ルビウスさんは女だったら誰でも良いんでしょう。だって、あの女の人と口づけしあってたものね!?別に、あなたが誰とそんなことをしようが関係ないけど、弟子にまで手を出すなんてどうかと思うわ!」


自分以外の女性とそういうことを事実していたのだ。

大人の男性であるルビウスが、軽々しくするのは当たり前のことなのかもしれない。けれど、実際にされた自分との口づけは、彼にとってその程度のことなのだと見せ付けられて、酷く心が傷ついたこともまた事実だ。


あのことを謝って、誠実のように見えた一面に許そうと思った。悲しくなったその心は、嫌悪に変わって。裏切られたという気持ちになった。


「リリアぁ、謝ろう?」


泣き声を交えたレイチェルの声と背中の温もりに、思わず涙が零れ落ちそうになった。しかし、ここで泣かないのがリリアンヌの性分。


勝手に出歩いたことを今謝れば、許してくれる。

そういう意味を込めているレイチェルの言葉だが、酷い言葉を投げ出たリリアンヌには深く響き、違う意味に聞こえた。


ごめんなさい。


たったその一言を言えばいいのに、どうしても言えない。

それに、どうして自分が言わなくてはいけないのかという気持ちが強い。本来ならば、ルビウスが言う言葉でもあるのだ。


「謝ったりなんかしない!私、何も悪いことしてないもの」


吠えたリリアンヌに、レイチェルは本気で泣き出した。

ごめんなさいとわんわん泣くレイチェルを放って、ルビウスは小さく息を吐いた。背後で黒みを帯びた茶色の扉につく、銀色の縦長い取っ手にしがみつき、まさかと右手で口元を覆ったまま固まる義兄に声を掛けた。


「…義兄上。用事があっていらっしゃったのでしょう?何ですか?」


「いや、お取り込み中のようだから、また今度…」


「「どうぞお気になさらず!!」」


しどろもどろになるローリング公爵に、リリアンヌとルビウスの揃った厳しい声が被せられた。


「そのぉ、実は子供を授かって…」


二人の恐ろしさにしゅるしゅると言葉が小さくなっていく。

辛うじて聞こえた内容。

本来ならば、めでたいその報告に心のこもった祝の言葉を義兄へかけてやるべきであろう。

しかし、頃合いが悪かったとしか言えないこの状態で、そんな気づかいをみせる者はいなかった。


「そうですか、良かったではありませんか。無事に産まれることを願っております」


振り向いたルビウスの顔には、蔓延の笑みが。


「ありがとう。…また今度出直すよ」


「そうしてくださるとありがたいです。ジョルジオ!ローリング公爵のお帰りだ、玄関までお送りしろ!」


部屋に響くレイチェルの泣き声に負けずとルビウスが声を張り上げた。

ルビウスの声に呼ばれ姿を現したジョルジオに、すがりつくように飛びついた。これ以上、とばっちりはごめんだとばかりに去って行ったローリング公爵を冷ややかに見つめていたリリアンヌとルビウス。


「さて、理由を聞けばいいのかな?なぜ、勝手に外出した?」


「私が出掛けようってレイルに言ったの!ルビウスさんだけズルイじゃない。私達だって自由に出歩く権利はあるわ」


権力の乱用だ!と吠えるリリアンヌ。しかし、向かいあったルビウスは実に静かに、彼女を眺めている。


「出歩くなと言わなかったよ、僕は。控えろと言ったはず。だけど今日は、ケルベロスと共に留守番をしているよう言ったね」


今日に限って出掛けた事を彼は問しているようだ。


「あら、私達が出掛けて都合が悪いことがあるの?まぁ、女好きの趣味があるだなんてびっくりしたけど」


「女たらしじゃない。何を誤解しているんだ。僕が言っているのは、君達の身の危険のことだ」


「大丈夫よ、あなたに心配されるほど私はか弱くないわ!そんなに心配なら、檻にでも入れておいたらいいじゃない」


冷ややかに言い返したリリアンヌの言葉に、彼はうっすらと笑みを湛えた。


「…いいだろう、君がそう言うなら。最初からそうしていれば良かったのかもしれないね」


ぎょっとしてルビウスから距離を取るように後ろに下がる。しかし、ルビウスはその距離を埋めるかのように足音高く近付く。

互いに距離を開けてしばらく見合った。互いに何も口にせず、その静寂を破ったのは、リリアンヌであった。

小さな机を回り込んで、リリアンヌが駆け出す。それをルビウスが同じように追う。


「いやーっ、こっちに来ないで!変態、女たらし!!」


「だから、違うって言っているだろう!」


「よく言うわ!触らないでよ、来たら殴り倒してやるんだからっ」


部屋の中を走り回ってルビウスをかわし、手近にある置物を片っ端から投げつけながらリリアンヌは叫ぶ。

陶器が派手な音を立てて割れ、紺色の座布団は破けて羽毛が宙に舞う。家具はひっくり返り、リリアンヌとルビウスの怒鳴り声が部屋に響いた。


「…お二方、ご近所様のご迷惑となります。」


そこへ現れたのは、ローリング公爵を送り届けたのであろうジョルジオ。悲惨な部屋の現状を見ながら冷ややかに言った彼に、ルビウスは大きな溜め息をついて答えた。


「…あぁ、今勝負はついたから」


「信じられない!魔力を封じ込めるなんてっ!!卑怯者っ、正々堂々、真正面から戦いなさいよ!」


疲れた様子のルビウスの右手には、首根っこを掴まれたリリアンヌが。


「…後は頼むよ」


リリアンヌを軽々と肩に担ぎ上げ、部屋を出て行く際にジョルジオにそう言った。


「降ろして!触らないでって言ったでしょうがっ、この変態野郎!」


廊下を歩き出したルビウスをリリアンヌが背中を拳で叩いて性的嫌がらせだと叫ぶ。

平然と廊下を歩くルビウスの頭にリリアンヌの右肘が命中し、ゴンッと鈍い音がジョルジオと扉にすがって覗くレイチェルの元に聞こえた。


「リリア~?」


ジョルジオを仰ぎ見ながら、リリアはどこに連れて行かれるのだと彼女は聞いた。


「…レイチェル様がお気になさることはありません」


溜め息をついてやれやれと呆れたように長年執事を勤める彼は首を振った。

一方、ルビウスに担がれて屋敷を移動したリリアンヌは、西側の端にある部屋へと連れて行かれた。本館の最上階にひっそりとあるその部屋は、黒塗りの重々しい扉で存在している。


「…ここで今日は反省をしてるんだ」


しばらく使われて居なかったであろうその部屋に明かりを灯し、暖炉に火を入れてリリアンヌを牢に放り込んだ。一目見れば殺風景な部屋であった。しかし、一方の壁は、暗い牢を嵌め込んであり、珍しい造りの部屋だ。


「嘘でしょう!?」


牢の中を転がって壁に顔をぶつけた。その間に聞こえたガチャリと重々しい南京錠の音で、慌てて銀色の柵に駆け寄って叫んだ。


「明日には出してあげるよ」


「あんたが入りなさいよ!」


なぜ、自分がこんな仕打ちをされなければいけないのか。

牢に入って反省するのはお前だと食らいついた。


「無断外出にケルベロスの暴走。君が反省することとのほうが多いだろう?」


片眉を釣り上げて笑ったルビウスは、そう言ってさっと身を翻して部屋を出て行く。その後ろ姿を見ながら柵を揺するがびくともしない。くそぅと唸りながら、部屋から姿を消したルビウスに向かって叫んだ。


「覚えてなさいよ!…ドスケベ野郎―っ」


彼女の渾身の怒鳴り声は部屋を通り抜け、廊下に木霊した。

誰も居なくなった部屋の中で頑丈な柵を握りしめ、報復を心に誓ったリリアンヌだった。


「おはようございます、リリアンヌ様」


朝、南京錠を開ける音で目を覚ました。あまりの怒りで眠れないだろうと思っていたが、いつの間にか壁に背中を預けて眠りこけていたようだ。


「ん~」


まだ頭がシャキッとしないリリアンヌをジョルジオは柵状の扉を開けて誘導する。


「あの変態野郎は?」


大きな伸びをしながら尋ねたリリアンヌ。その言葉遣いに眉をひそめてジョルジオは答えた。


「…ルビウス様でしたら、シエルダ候と玄関先でお話をなされていましたよ。それよりリリアンヌ様、お腹は空きませんか?食堂に朝食の準備が」


「玄関先ね!と言うことはまだ出掛けてないのか。ありがとう、ジョルジオ!」


話の途中で部屋を飛び出して行ったリリアンヌを見送り、久しぶりに邸の中が騒がしくなる予感に溜め息を零すしかなかった。

さて、最上階から玄関先へと一気に駆け下りたリリアンヌは、玄関の入り口にある開けた場所に佇む彼を見つけた。弟であるシエルダ候と小声で何か話込んでいる。階段の最上段にいるリリアンヌには、内容は聞こえてこないが。

二人とも黒い外套を纏い、足元で光る黄緑色の薄い光を見つめている。背を向けるルビウスにニヤリとリリアンヌは笑みを浮かべた。

腹の虫は煩いほどよく鳴いているが、先に一矢報いらねば気が収まりそうもない。

柔らかな絨毯が敷かれた階段を一気に駆け下りる。


「とうっ!」


「っ!?」


階段の丁度半分ほどの所で片足で階段を蹴り、声高らかに言葉を発し宙を飛ぶ。

驚いたようにルビウスが振り返った時には、既にリリアンヌの靴の裏が顔面に命中していた。ルビウスの顔面を踏み台にして、黄緑色の明かりを発する魔法陣の向こう側へと両腕を水平に保って着地を綺麗に決めた。

振り返れば、丁度ルビウスが魔法陣に吸い込まれていくところで。


「よし」


ざまーみろと不敵な笑みを浮かべて拳を握って笑った。


「兄上っ!?」


魔法陣が発動して兄の姿が消えたところで、彼の弟は驚愕して叫んだ。


「お前、兄上になんてことをっ」


怒りのあまりわなわなと震えてリリアンヌを見やったアレックス。しかし、そんなことを恐れる彼女ではない。


「え、何って…心を込めたお見送り?」


「どこがだよ!」


覚えてやがれ!そんな台詞を残して、兄の後を追うように彼も姿を消した。誰も居なくなった玄関先。その場所にべーっと舌を出して食堂へと向かった。


午後、食事と入浴を済まし、ご機嫌で邸を歩くリリアンヌの姿があった。

まだまだ仕返ししたりない彼女は、ルビウスに参ったと言わせたくて次なる作戦を考えている。


「…晩ご飯に香辛料を大量に入れてやろうか」


ふふんと笑って厨房に向かったその後ろ姿をレイチェルが恐ろしげに見つめていた。


その日を境に、二人の長い戦いが幕を開けた。


「リリアンヌ!なんていうことをしてくれたんだっ」


ある日、試作段階の魔術をリリアンヌが弄ったことにより、派手な爆発音で邸の屋根が吹っ飛び、窓硝子の割れる音と共にルビウスの怒鳴り声が邸に響いた。

うひゃひゃと笑い転げるリリアンヌに、ルビウスもやられっぱなしではなかったが、体力的には彼女のほうが優っている。


「全く、なんだって言うんだ?ジョルジオ、なんとか言ってくれ!」


「…仲が宜しいことで」


ハイディリア兄弟が亡くなり、使用人達も減って沈んでいた邸が賑やかとなり、時たまアレックスも加わって喧嘩というよりはそれは悪戯に近く見える。

戦に備えるリヴェンデルの張り詰めた空気が、カインドの本邸では穏やかとなっていた。


「リリアンヌ様、レイチェル様」


ルビウスに仕返しをするのにも飽き始めた初夏の事。リリアンヌは十四歳となり、伸ばし始めた銀色の髪を無造作にひとつくくりに結んでいる。均等ではない左右の赤い紐が、彼女の動作に習って時折揺れる。

蒸し暑さも増した今日はリリアンヌとレイチェル、二人仲良くお行儀悪く床に座り込んで、図書室で時間を潰していた。

そこへやってきたジョルジオ。彼には珍しく、神妙な顔つきをしている。


「なーに?」


キャサリンが作ってくれたふんわりと焼かれた焼き菓子片手に、床に寝そべるリリアンヌの側でレイチェルが首を傾げた。リリアンヌは白く丸い襟の肌着の上から薄い青色のひとつなぎの服を纏い、レイチェルは若葉の緑色をしたひとつなぎだけの服を着ている。後ろの腰付近で結んだ、長細い帯状の布が童顔の彼女によく似合っていた。


「ちょっとこちらにお座り下さい」


規則正しく並んだ椅子へと誘導するジョルジオの後ろ姿を見やって、二人は顔を見合わせた。


「?」


なんだろうかと二人揃って並んで座り、ジョルジオと向かい合った。


「リリアンヌ様、ルビウス様にちょっかいを出されるのも大概になさりませ」


「…ちょっかいなんかじゃ」


「なにか?」


反論も許さず、彼は広い机の上で両手を組んで言った。濃い青色の瞳が鋭く光った。

おぉこわいと視線を逸らして肩をすくめたリリアンヌを見ながら、彼は続けた。


「リリアンヌ様のお怒りはごもっともでございますが、あれから半年は経ちます。そろそろ良いのではと」


邸中を巻き込んで始めた二人の喧嘩。あれから半年が過ぎた。思いつきの仕返しは、ほとんど底をついている。


「まぁ…ジョルジオがそう言うなら」


めったなこと以外は口を挟んで来ないジョルジオ。ところが今回はどういったことか、直談判をしてきた。呆れて物も言えないといったところか。


「それはようございました。レミとソラ、キャサリンからもいい加減にしてくれと言われていましたので」


どうやら使用人達から苦情を受けていたようだ。

そうだったのかと他人事のようにその事実を流す。


「では、邸内での過激な喧嘩は今後お控え下さいますよう…邸の掃除も大変ですので。」


念を再度押され、リリアンヌは小さく返事をした。


「もう一つお話がございます」


まだあるのかとうんざりしたリリアンヌだが、恐らくここからが本題だろうと身構えた。


「リリアンヌ様もレイチェル様も、来年には卒業試験を控えてらっしゃいます。そろそろお勉強をなさるべきかと」


「勉強ならしてるわ。ねぇ、レイル」


失礼なと続けたリリアンヌは、レイチェルと自慢気に胸を張った。師であるルビウスを当てには出来ないため、独自に本を漁って勉強をしているのだ。そのことは執事であるジョルジオがよく知っているだろうに。


「存じ上げおります。しかし、卒業試験というのは魔法だけに限らないことを知っておいでですか?」


「どういうこと?」


魔法師になるための試験だ。魔法以外になにが含まれるというのか。

眉間に皺を寄せて聞くリリアンヌにジョルジオは静かに言った。


「一人前の魔法師になるということは人としても自立していなければなりません。礼儀作法から言葉遣い、勿論一般教養も含まれます」


知らなかったその内容にぎょっと目をむく。


「ルビウス様は気にされておいででらっしゃいませんが、礼儀作法一つ間違えて不合格となった方を私は存じ上げております。本来なら、お二方のお年には礼儀作法は完璧になされている方が大半です」


なのに邸を走り回り、床に寝そべるなど。そんな小言が聞こえて来そうな雰囲気に、なすすべもなく二人揃って身を縮める。


「特にレイチェル様。初級をぎりぎりで合格なされたとお聞きしました。私は卒業試験が心配です」


びくりと身を震わしたレイチェルを横目で窺いつつ、リリアンヌは早くこの説教が終わるように祈った。今日はこのあと久しぶりにケルベロスと街に遊びに行く予定をしている。どこに行こうか。思わず顔がにやけそうになるが、必死に隠そうと努力した。しかし、自然と顔は綻んでいたようだった。ジョルジオが厳しい声でリリアンヌを呼ぶ。


「聞いていらっしゃいますか、リリアンヌ様」


「う、うん。もちろん」


「いいですか?約一年、お二方には一般教養から礼儀作法。全てをこれから学んで身につけていただければなりません。本来ならば、ルビウス様が今まで通りお弟子様達を見なければいけないのですが、何分あの方は多忙です。なので、僭越ながら私がお二方の教鞭を執ることとなりました」


「えっ!?ジョルジオが教えてくれるの?」


珍しいこともあるものだと二人は顔を見合わせた。


「はい。事前に申し上げておきますが、手加減は一切いたしません。私はお二方に立派な淑女になって頂きたいので」


淑女と聞いて嫌な予感がした。


「一年で全てを身につけていただくには、時間がまず足りません。魔法についても勉強していただかねばなりません。ふざけている時間などないのですよ」


にっこり笑ったジョルジオに、勘弁してくれと声を上げそうになった。

何度も繰り返すが、彼は長年執事として勤める。その実績は確かなもののようで、宣言通りの非常に厳しい教育はリリアンヌさえも泣きそうにさせるほどのものであった。

言葉遣いから始まり、お辞儀の角度、愛想笑い。挙げればきりがないほど。彼の教育で何が厳しいかと言えば、その人の苦手とする分野をとことん叩くというところだろう。

ある日、挨拶の仕方を学んでいたときのことであった。

極端な人見知りをするレイチェル。彼女は知らない人に会えば引っ込んでしまい、挨拶さえもろくに出来ない。ジョルジオは個性の一つだと言ったが、試験ではそんなことを理解しようなどということはない。一向にマシにならないその態度をどうしたものかと思案したジョルジオは、ルビウスに外出許可を貰ってレイチェルを街に引っ張り出した。

レイチェルにとっては、見ず知らずの人達が行き交う場所は恐怖以外の何物でもない。その場所に、彼はレイチェルを一人で置いてきた。曰わく、魔法を使わずに邸まで帰って来いという。あまり一人では外出しないレイチェル。彼女が邸まで帰って来れる保証はどこにもない。

道を尋ねていけば帰って来れるだろう。しかし、極度の人見知りの彼女にそれが出来るかどうか。


「恐ろしいな、ジョルジオは」


師であるルビウスは、他人事のようにそう言って笑っていた。結局、レイチェルが帰って来たのは日付が変わった翌朝で。出迎えたリリアンヌの腕の中でわんわん泣いたのは言うまでもない。


そして、リリアンヌもジョルジオの恐ろしさにおののいた。

淑女というのは淑やかな上品な女性のことだ。はっきり言おう、彼女には無理な話だ。

廊下を走らない、大声を上げない、笑顔を常に湛える。

出来ないと吠えれば、出来るまでやらされ、本気を出さないだけだと怒られた。一日中お辞儀と歩く練習で終わった時には、あちこち筋肉痛となったほどだ。


「ジョルジオも必死なんだよ」


ぐったりとして食事の席に着くリリアンヌとレイチェルに一人、愉快に笑う元気そうな青年が言った。ルビウスである。

その姿を横目で睨みながら、彼の汁物が泥に変わればいいのにと念じた。元々、ルビウスが師として教えることを教えてくれていれば、レイチェルともにこんな苦労をしなくて済んだのだ。

むしゃくしゃする気持ちをルビウスにぶつける。生野菜の中に丸々太った青虫を隙をついて呼び寄せて隠す。食事を終えて食堂から出るとき「リリアンヌ!」とルビウスが怒鳴り声が聞こえたが、それは聞かなかったことにする。

そうやって時折ルビウスに八つ当たりをしたが覚えることが増え、本格的に忙しくなるとそんな暇も無くなっていった。

頭に本を数冊乗せて廊下を歩いていたとき、ばったりルビウスと出くわしたことがあった。日頃の行いが悪いからか、彼はさっと防衛体制に入ったが、リリアンヌは何をするでもなくちらりと彼を見やってこう言った。


「ごきげんよう、カインド公爵」


服の裾をつまんで優雅に挨拶をしたリリアンヌに、ルビウスは唖然としてその場に立ち尽くしていた。

この前まで邸を走り回っていた娘が一体どうしたことか。

その姿を去り際にしめしめと内心思いながら、リリアンヌはジョルジオが言った言葉を思い出していた。

どうも礼儀作法が出来ないと言うリリアンヌに、ジョルジオは真顔でこう言った。


「四六時中、淑女でいろと申しているのではありません。人前にでるときにだけ、仮面を被って頂けたらよいのです」


私生活でどのように過ごそうか、それは口に挟まないが試験の時だけ完璧な淑女になりきればそれで良いと言うのだ。

成る程、それならば頑張れると張り切った結果が先程のリリアンヌの挨拶だ。

これで礼儀作法はもう良いだろう。空いた時間で魔法の基礎勉強をしなければ。


「受験生は大変だ」


リリアンヌはそう呟いて頭の一番上に乗せていた本を一冊取って開き、目を通し始めた。


さて、月日が経つのは早く、二年はあっという間に過ぎていった。

リリアンヌ、レイチェルは共に十五歳となった。春の訪れを告げる暖かな風が王都にやって来た頃、卒業試験を知らせる手紙が彼女達の元に届いた。


「一週間後?」


「そう、場所は魔法省の旧館。詳しい内容は自分達で確認しなさい」


ルビウスの執務室で向かい合って長椅子に座っていたリリアンヌとレイチェルは、師から同じ封筒を各自に手渡された。少し厚みがある真っ白い封筒。黒い着色液で書かれた力強い文字は、自らの名前が書かれてあった。封が切られていない裏面には、魔法省の印であろうか細やかな柄をした焼き印が押されていた。思い切って封を開けたリリアンヌとは対照的に、レイチェルは封を開けようかどうしようか手紙片手に悩んでいた。無くしてしまうかもしれないから、今の内に見てしまいなさいと言うルビウスの言葉に漸く封を切った。


「あ、午後からなんだ」


封筒の中には受験票と詳細が書かれた書類が入っていた。リリアンヌは午後の部、レイチェルは午前の終わりと時間が違い、内容を互いに見比べた。

午前の部の試験は八時から開始で、受付は午前六時から始まるという。

起きられるかなと心配するレイチェルの言葉を小耳に挟みながら、リリアンヌはぽつりと呟いた。


「…1ヶ月後か」


兄姉弟子達が皆通ったその道。卒業試験を無事に合格すれば、晴れて一人前だ。


「レイル、ジョルジオ達にコレを見せて来よう?」


嬉しそうに笑顔を零してレイチェルと部屋を飛び出したリリアンヌ。彼女の後ろ姿をルビウスの切ない視線が追った。


十五になった彼女の姿は、彼になにを想わせたのか。

長椅子に背を預けた彼は、邸の外に広がる陽気な空を見やった。鮮やかな青が広がる雲一つない空から、暖かな日差しが薄暗い部屋へと静かに降り注いでいる。開け放たれた窓からは春に吹く独特の暖かい風が部屋へと舞い込んで来て、白く薄い窓掛けを揺らした。


運命を分かつその日は、すぐ目の前へと迫っていた。

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