2.休日の呼び出し
ひんやりと肌寒い空気が頬を撫でて、思わず身震いをしてリリアンヌは目を開けた。
薄暗い部屋の中、身を起こすと寝椅子に寝かされていたのだと分かった。目を凝らして当たりを見渡すと、向かいにすやすやと眠るレイチェルの姿がある。
暖炉の火は先ほどまで灯っていたようだったが、今ではすっかり消えている。そんな気温が下がった随分と寂れた部屋で、リリアンヌは一人しばらくぼんやりと寝椅子に身を起こして考えていた。
確か、ルビウスとレイチェルとともに、何かの召喚魔法に巻き込まれたようだった。
一体、ここはどこだろうと蜘蛛の巣が沢山張っている天井を見上げて思案した。
「なんて乱暴な召喚をするんですか!」
そんなとき、壁を隔てた向こう側の背後から、ルビウスの非難の声が聞こえてきた。
背後を振り向けば、少しだけ扉が開いていて光が一筋漏れている。先程の風は、恐らくあそこから吹いてきたのだろう。
リリアンヌは、そっと寝椅子からおりて扉に向かった。
「…すまなかったよ。急ぎだったし、色々とこちらの魔法が妨害されて、手段を選べるような場合ではなかった。」
しおしおと謝るのは、シリウス。彼とは、久しくまともな挨拶さえここ数年していない。そんな間に、艶やかな黒髪には白髪が多く混じり、恰幅あるお爺さんという装いになっていた。
広い勉強机に肘をついて、その上に顎を乗せている。上質な椅子に腰掛けているシリウスは、参った様子で相手を見上げていた。机も椅子、どちらも年期が入って脆くなって、彼が体重を掛ける度に耳障りな音を立てる。その音に眉をしかめ、リリアンヌは体を動かしてシリウスの向かいに佇む人物を覗き込んだ。
扉の隙間から覗いた先には、顰めっ面をしたルビウスが、防寒着を脱いだ姿で腕を組んでいた。ちらりとその漆黒の瞳で、こちらに視線をやったルビウスと目があったように思って、リリアンヌは慌てて姿を隠した。
どうも話を聞いてはいけない気がしたから。
「…とにかく、どんな理由があれど、今後はあんな雑な呼び寄せはやめてください。体が保ちません。」
ルビウスは、そんなリリアンヌに気づかなかったように話を続けて、シリウスに釘を差した。対するシリウスは、随分と反省したように小さく分かったとだけ答えていた。
「で、至急の用とはなんです?下の階には、魔法省に属する者達が大勢居ましたが。」
「…ああ、実はだな。」
ルビウスが動く音を聞き、これ幸いとリリアンヌは再び隙間から部屋を覗いた。その時、シリウスの歯切れが悪い言葉を打ち消すように、よく知った男性の声が聞こえてリリアンヌは目を見開いた。
「僕から説明するよ、シリウス殿。」
「セドウィグ…?」
「セド?どうしてここに。規制魔法は?」
驚いたのは、リリアンヌだけではないようで、ルビウスも目の前のシリウスも驚いた声をあげた。
「あぁ、邪魔だったから壊したよ。アーサーが今直してくれてるさ。」
平然と伝えるセドウィグに、シリウスは驚愕したような唸り声を上げ、その後にルビウスの呆れた声が続いた。
「あれの魔法が、どれだけ時間と手間が掛かるのか知っていてそんな事を?叔父上に会うのが恐ろしいな。」
「まぁ、いいじゃないか。」
小さい事は気にするなというセドウィグに、シリウスはさっきから唸りっぱなしである。
「…僕は知りませんから。」
「おやおや、久しぶりにあった兄弟子に随分な言いぐさではないか?もっと、こう、泣いて喜んでくれるとばかりに…。ほらほら!ルビンっ!僕の胸に飛び込んでおいで、昔みたいに。」
「やめて下さい!いつの話ですか。」
男と抱き合う趣味はありません!と叫ぶルビウスに負けて、セドウィグは渋々といったふうに引き下がった。
「昔は、セド、セドって懐いて可愛かったのに。」
はぁーとため息をついたセドウィグは、どこかに腰つけたようで、いつもの落ち着いた声へと戻った。
「もう、昔の話ですよ。…重要な話なんですか?」
「そうみたいだね、早いものだ。そうだよ、とっても重要なものさ。」
そう言葉を切ったセドウィグは、その前にと身を動かすとリリアンヌが聞き耳を立てる戸口に足を進めた。
「リリア~?」
慌てて離れようと身を返すと、話し声に目を覚ましたレイチェルが寝ぼけ眼でヨタヨタとこちらにやってきていた。
「うぁっと、ちょっとまっ…!」
ちょっと待ってと小声を掛けた時には時既に遅し。手加減が全くないレイチェルを支えきれなく、更には後ろの扉も勝手に開き、リリアンヌはレイチェルと共にひっくり返った。
「いったぁ~。」
「ははっ。僕の小さい頃にそっくりじゃないか?だけど、リリアンヌ。立ち聞きは、品の良いものではないのだよ。」
チカチカとする目を瞬いて見上げると、穏やかに笑うセドウィグと心配そうに見つめるルビウスの姿がある。
こう見ると、二人は瞳の色が違うぐらいで双子のように良く似ている。
「…大丈夫かい?」
そんなことをぼんやり思えば、ルビウスがまた寝入ってしまったレイチェルを上から、退かしながら尋ねてきた。
「大丈夫。」
転けた時に頭を打ったのか、少し痛む頭をさすりながら自力で起き上がった。
「しかし、セドウィグと同じ目くらましの魔法を使うとは。」
たまげたと言わんばかりのシリウスの声は、ルビウスに向かって発せられていた。
「…言っときますけど、僕が教えたのではありませんから。」
少し不機嫌なルビウスは、レイチェルを抱き上げて長椅子に運ぶと不服そうにそう言った。
「私、何も魔法なんか使ってないわ。」
そのルビウスの不機嫌さに負けないように、リリアンヌも声を上げて訴えた。
事実、ただ扉の隙間から話を聞いていただけなのだから。
「ルビン、お前ってやつは。僕に何か恨みでもあるっていうのか?」
リリアンヌの言葉を聞いたセドウィグは、恨みがましくルビウスを見やって言ったが、彼はそっぽを向いて無視した。
「まぁ、いいさ。僕はリリアンヌの師ではないのだから。だけどね…。」
ふらりと暗い雰囲気を漂わせ、ルビウスの視覚に回ったセドウィグは、魔法で重い銅像を呼び出して思いっ切りルビウスの頭を殴った。
「っ!なにす…、セドっ?」
ゴンっと鈍い音が上がり、銅像はルビウスの頭に直撃した。あまりの鈍い音に、シリウスは痛そうに顔をしかめ、リリアンヌは先程打った頭をさすった。
彼は、殴られた頭に両手をやってしゃがみ込んで、悶絶している。涙目でセドウィグを見上げる限り、痛さは半端ではないようだ。
「僕の可愛い娘を泣かした罰だよ。一発でも殴り足りないけれど。」
無表情に言い放つセドウィグの怖さは、生半端なものではないがルビウスは臆することなく問いかけた。
「なんでっ。」
「うん?ジョルジオから聞いたに決まってるだろう。」
もう一発殴ってやろうかと銅像を持ち上げたが、やられっぱなしのルビウスではない。セドウィグの銅像をぶっ飛ばすと、すくりと立ち上がり、睨み合った。
「これこれ!」
シリウスの制する焦った声も無視して、険悪な雰囲気が部屋を包んだ。まるで眼で話をしている二人に、リリアンヌは少し慌ててセドウィグの淡い水色の袖口をつまんだ。
「兄弟喧嘩もそこまでにしたらどうだ?」
「叔父上。」
そこへ割って入って来たのは、無表情な表情のアーサー。
「やあ、アーサー。規制魔法はもうかけ直し終わったのかい?」
「お前が要らん用事を増やさなければ、本来はしなくてよい魔法直しを…な。」
恐ろしく冷たい鳶色の瞳に、セドウィグは困ったように肩をすくめた。
「どうせ、脆くなってたんだ。あの魔法は、初代魔法大臣からずっと触ってないだろう?あれじゃ意味ない。」
「いいや、お前が弱くしたんだ。自分の能力を忘れるんじゃない。お陰でかけ直すのに、随分と時間と労力を省いた。」
先程まで睨み合っていた二人の間を何てことはないかのように歩いて行き、レイチェルの長椅子の向かいに腰掛けた。
「あぁ、それは悪いことをしたね。」
どうでもよいかような返事に、僅かに眉を寄せたアーサーは、ルビウスとセドウィグに留めのように言い放った。
「これ以上、くだらないことに労力を使わせるな。」
「承知しました、叔父上。」
「しょうがない、ルビン。この話は保留にしておこうか。」
そんな返事をした二人は、リリアンヌに向き合った。
「しかし、リリアンヌ。お母さんみたいに、君は益々綺麗になっていくね。おとーサンは、心配だよ。」
ぎゅっと抱きしめたセドウィグに、酷く苛ついたリリアンヌはぐいっと腕を突っぱね、ルビウスの後ろに回り込むと拒否を示した。
こんな所で抱きしめられるなど、恥ずかしい以外の何物でもない。
そんな思春期の乙女心を分からないセドウィグは、酷く傷ついた様子で唖然と佇んでいた。
「リリアンヌは13になるんですよ、セド?思春期の女の子の気持ちも分かってあげないと。」
苦笑するルビウスが、リリアンヌの気持ちを弁解してくれた。しかし、セドウィグはがっくりと肩を落として寂しそうにしていた。
「そうか、思春期か。本来はきっと、喜ぶ事なんだろうけど。」
しばらく経ってそう言ったセドウィグに、少し悪い事をしたように思った。
「話を始めても良いか?緊急なんだが。」
そんな穏やかな中、忘れた緊張を呼び戻したのは、成り行きを見ていたアーサーだった。