6.月明かりの無い夜
前半はリリアンヌ目線、後半ジョルジオ目線です。
一歩手前ですが、まだ大丈夫…。
邸の者達はとうに寝静まった真夜中に、一人寝台の中でその真っ暗な闇を眺めていた。
月灯りも無い今宵の夜は、不気味な気配が漂う。
そんな事は気にせず暖かい毛布達は、幸せな夢の中へと誘うが、目を閉じてもなかなか睡魔はやってこない。
ルビウスがジュリアンを抱えてどこかへ消えてから、五日目の夜。ジュリアンがルビウスに殺されたという話をどこからともなく聞いた以外は、全く音沙汰はない。邸の皆はどことなくよそよそしいように思えた。
どうして、いつも何も言ってくれないのか。
なぜ、ジュリアンを殺したのか。
自分はここにいてはいけなかったのではないか。
暖かい毛布に丸まって、そんなことを思っていたとき、静かな邸にほんの小さな音が聞こえたように思って、瞑っていた目を開いて起き上がった。
ルビウスが帰って来た?
そう確信に似た直感を持って、寝着の上にゆったりとした毛糸の羽織物をはおり、靴を履くのもそこそこに寝台から離れた。そっと部屋の取っ手を回すと、カチャリと音がしたが扉を開けて廊下を伺えば、誰もいない寂しげな暗黙がある。
―――静かに。
全神経を尖らして扉を閉めきると、そっと足早に玄関へ向かう。
「…大丈夫だ。しばらく一人にしてくれ。」
「…しかし。」
階段の手前、うっすらと灯る玄関で、声を潜めて話す男性の声が聞こえて、壁に隠れて恐る恐る伺う。どうやら、帰ったばかりのルビウスと出迎えたジョルジオが話をしているようだ。
「ジョルジオ。」
尚も食い下がるジョルジオに、疲れた様子を隠しもせず厳しい声で咎めた。
「…わかりました。後でお水をお持ちします。」
「ありがとう。」
その言葉で勝敗がついたようで、ため息を交えてジョルジオが折れた。ルビウスのほっとしたような穏やかな声を最後に、会話は終わりを告げた。
「リリアンヌ様?どうなされました?」
静かな邸に扉の閉まる音が聞こえてから、ジョルジオのため息だけがその場にいることを告げていた。彼は振り向いた際に、こちらに気がついて、手元にある灯りを掲げた。
「いや、その。」
夜遅く起きていることに、あまり良い顔をしないジョルジオは、酷く驚いた顔でこちらを見ている。
話をしていた二人に気を抜いて、知らず知らずの内に身を乗り出していたようだ。
「ルビウスさん、帰って来たんだ。」
あまり良い言い訳が思い付かず、仕方なく思った通りのことを口にした。
「えぇ、つい先ほどお戻りに。」
「そう…。」
気まずい沈黙が二人の間に訪れ、ごまかすように西館を見やった。丁度、彼の部屋に灯りがついた頃だった。
ジョルジオも玄関から同じように西館を見やっていたようで、しばらく何やら彼は考え込んで、意を決したようにこちらに向き直った。
「リリアンヌ様に、少しお願いしたい事がございます。」
そう切り出されて、数刻後。
一人、並々と注がれた水差しと飲み物用の容器を片方ずつの手に持って、ルビウスの部屋の前に佇んでいた。
暖かった体温は、すっかり冷えてしまっている。
ジョルジオのお願いというのは、精神的に参っているルビウスに水を持って行ってやってほしいというものだった。
あまりお酒に強くないというルビウス。そんな彼が、精神的に辛い時は度を越えて飲むのだという。
ジョルジオが何度言っても聞かず、飲むのも大概にしろと言ってやって欲しいという。
「そんなこと言われてもなあ。」
ジョルジオが言っても聞かないならば、自分が言っても意味が無いのではないか。
そんなことを先ほどから考えて、扉の前で佇んでいる。両手が塞がっていて扉を叩けないというのもあるが。
そうこうしているうちに、何やら扉の向こうから話声が聞こえてきた。ドスンドスンと歩く音の次には、盛大に目の前の扉が開かれた。
《扉の外に客人だっ!お、なんだ?》
「ひっ、だ、誰?」
目の前に現れたのは、茶褐色の肌に燃えるような赤の髪と深い緑の瞳。盛り上がった筋肉を持つ巨人の鬼であった。
寝癖のような赤髪の中からは、真っ黒な二本の角が闘牛よりも立派に生えている。白い尖った歯を見せながら、にっと笑った鬼はしゃらんしゃらんと首や手首、手足についた無数の輪を鳴らして背後を振り返って言った。
《可愛いお嬢さんじゃないか!おい、ルビウス。我が食ってもいいか?》
「…煩いぞ、クロウド。ヘクトル、彼奴を連れていけ。」
《なんだ、つれないな!月灯りの無い夜ぐらい一緒に…。こらっ!ヘクトルやめろ、我はまだ帰りたくないんだっ。》
地を這うようなルビウスの声に負けず、大きな声で喚く鬼に、思わず不愉快そうに眉を潜める。
身体に巻きついた無数の影を拒否しながら、クロウドは窓の向こうにある闇に引き込まれていった。
途端に静かになった部屋に戸惑っていると、暖炉の前に置かれた長椅子に座るルビウスが、こちらを見ないままに声を掛けてきた。
「どうしたんだい?こんな夜中に。」
「えっと…。今のは?」
「鬼神のクロウドと黒の神・ヘクトルだよ。」
「へ、へぇ。」
「とにかくお入り。廊下にいては身体が冷えてしまう。」
そっと背中を見えない手に押され、部屋に足を進めると背後で扉が静かに閉まった。
しばらく扉を顔だけ後ろに向けて見つめていたが、静かになった部屋へと向き直った。
「さっきの鬼って、人を食べるの?」
「クロウドかい?まぁね、正確にいうと死間近の者にある本来の寿命と肉体を主食にしているんだけど。今日は月が出ていないから、腹が満腹にならないんだろうね。彼が取り込んだ寿命と血肉は、魔法師達に均等に分け与えられるんだよ。大切な役割を担っているけれど、死神の父とも呼ばれる彼だから…。その水は?」
「ルビウスさんが飲んでるから、水を持っていってくれないかって、ジョルジオが。」
「…ふん、ジョルジオめ。」
相変わらずこちらを見ずに暖炉の火を見つめていたルビウスは、右手に持っている透明な硝子の器に入った、透明な液体と氷を揺らして一気に煽った。
「酔ってるの?」
ジョルジオのやつ、クロウドと飲んでるのを知ってるななどと独り言を呟くルビウスに、半分からかいを含んで尋ねた。
「ん、まぁね。あまり強くはないから、飲むのは止めるように姉上やジョルジオに言われたのだけれどね。」
ふーっとため息を零し、肘掛けに体を預けて言った。そんな彼を戸口の近くで眺めてから、しばらくして、ゆっくりと近いていった。歩いている途中に、暖炉から目を離してたどり着いた先は、長椅子の背もたれに無造作に脱ぎ捨てられた黒い外套。
それには、大量に血塗られた紅があった。
「こっちにお座り。風邪を引いてしまうよ。」
「…ルビウスさん、それ。」
「…リアン兄さんの血なんだよね。」
沢山の酒の瓶と硝子の器と杯がが並ぶ机に、そっと手元に持っていた水差しを置き、未だ暖炉の火から目を離さない疲れきったルビウスの横顔をしっかりと見つめた。
「…そうだといったら、君は僕を軽蔑する?」
「そんなこと…。」
「しないと言い切れるかな。魔法師の世界じゃ、師が弟子に直々に処罰を下すのは暗黙の了解だ。師として、禁術を使い、己を忘れた弟子を野放しには出来ない。特に、僕は魔法大臣の職についている。知り合いや肉親を手に掛けてるなんて、日常茶飯事なんだよ。」
ジュリアン・ハイディリアの罪は、禁術とされる死の呪文の使用と実兄、ジョナサンの殺人罪、さらにはマリエダ・コウリィースの仲間であったと疑惑を掛けられたためであった。
新しく手元の器に琥珀色の酒を注ぎながら、彼は淡々と言葉を繋いだ。
「…だからって、殺すなんて!」
何も殺すことはないではないか。
抑えられない怒りで思わず、責めるように叫んでしまった。
ルビウスが悲しそうに揺れる漆黒の瞳をこちらに向けてから、後悔に悩まされた。
「…そうだね。」
消え入りそうな声の後に瞳を逸らした彼が、泣きそうだと思ったのは多分気のせいではないと思う。
突如訪れた沈黙に、気まずくなり、仕方がないので静かにルビウスの隣に腰を下ろした。暖かい暖炉の火に、冷え切っていた体が温まった頃、ルビウスが
おもむろに話し出した。
「…あの子達はね。ハイディリアの子達は、呪いによって長くは生きられないんだ。…ウルーエッド戦があった時、彼らのご両親は避難されなかった。あのあたりの住民は、命よりも自分達の農作物が大切だと言って、ほとんどの人がね。運良く、ハイディリア家は命を落とすことは無かったけれど、飛び散った呪い返しの魔法の影響で、副作用が出たんだ。だんだん年を増すにつれて、体の自由が利かなくなって呼吸困難を訴え、日常の生活さえ出来なくなる。ジョナサンは、自分達が長くないと最初から知っていた。だから、彼は僕の弟子になるときに言ったんだ。」
一旦言葉を切ったルビウスは、薪が燃える音にしばし耳を傾けてから、再び口を開いた。
「…最期は、僕の手で楽に殺してくれって。」
薪が一層激しく燃えている様子に目を奪われたまま、ゆっくりとルビウスの方を向いて尋ねた。
「リアン兄さんも?」
「いいや、あの子は自分がよく怪我をしている理由さえわかっていなかったから。ジョナサンから、ジュリアンのことも頼むと言われていただけだったよ。」
だから、わざわざジュリアンその手で殺したのか。
「…ごめんなさい。」
「どうして謝るの?」
ルビウスの疲れた顔に焦点をあわせてから、目を伏せて謝った。彼は、何度か酒を口に運んで、何故と首を傾げた。
「酷いこと、言った。」
「まだ、可愛いもんだよ。」
少し笑って、ルビウスは背もたれに身を預けて天井を見やった。さらりと顔から滑り落ちた黒の前髪から覗く整った顔に、知らず知らず目を奪われた。
「…なに?」
「な、なんでもっ。私も飲んでみようかなって…。」
伏せっていた漆黒の瞳が、突如リリアンヌを向いたことに慌てて、見入っていたことをごまかすように酒の瓶を見た。
「ふっ、君はまだ未成年だろう。成人するまで我慢しなさい。」
目の前にあったお酒が、横から現れた腕に捕らわれていった。それを少し拗ねた目で追い、ルビウスを睨んだ。
「ジョルジオがほどほどにしなさいっていってたわよ。」
本来の目的をようやく切り出したことに、ルビウスは少し苦笑してこちらを見てから、驚いたように数回瞼を瞬いて顔を背けた。組んだ足の上に肘を乗せて手で顔を覆う彼の頬が、何故かほんのり赤い。
「わかってるさ、あぁ。まだ大丈夫だ。…しかし、君はどうして。そんな格好なんかで。酒を煽っている男の部屋に来るなんて、まるで襲って下さいって言ってるようなもんだよ。」
首を傾げて何を言っているのかと考えていると、はっと今の自らの服装を思い出して胸元を見た。
「違う、そんなつもりないもの。」
慌てて、白い首筋が見える胸元の桃色の寝着と朱の羽織り物を掻き合わせて、真っ赤になって叫んだ。
「わかったわかった。だから、早く部屋に戻りなさい。」
器片手に背を向けたルビウスは、そう早口に言うが、どうもその背が寂しそうに見え、一人には出来ないと思った。
「…リリアンヌ?」
去る気配が無い背後を不審に思ったルビウスは、机に酒を置いて振り返った。その瞬間、意を決したように彼の頭を抱きかかえた。
「…何を、しているのかな?」
「慰めてあげようと思って。」
長椅子に膝立ちになり頭を抱かえたため、身動きが取れないルビウスは、大人しく身を預けてきた。そんなルビウスを腕に抱いて、何故こんなことをしているのだろうと、羞恥心でいっぱいだった。
もしかしたら、部屋に充満した嗅いだこともない酒の匂いに酔っているのかもしれない。
「…そんな事を言ってはいけないよ。」
「え、なん…。」
不意に顔を上げて視線を合わせたルビウスは、暖炉の火に負けないほどの熱い眼差しを向けて、疑問を唇で塞いで遮った。
目の前にルビウスの顔がいっぱいになって、唇に柔らかな感触が離れていっても、しばらくぼんやりと彼を見つめたままでいた。
軽く触れた唇から、微かに苦いお酒の味がして独特の匂いが鼻をついから、ようやくキスをされたのだと認識した。
「…ルビウスさん、酔ってるんでしょう。もう、ふざけるのもいい加減に…。」
「ふざける?誰が?僕はいつだって…。リリアンヌ、君を。」
瞳を必要以上に瞬いて、乾いた笑い声で彼を非難するが、熱い眼差しを送ったままのルビウスは、腰をぐっと抱き寄せて熱の籠もった言葉を返した。
「っん。~っル、ルビウスさ、ん。」
先ほどとは比べものにならないほど、深く長いキスを唇に受けて、戸惑ったように抵抗した。その行動が、彼にとって苛立ったようで、頭の後頭部を左手で固定してさらに口づけを深くしてきた。息継ぎさえも許さないその口づけに、息苦しさが限界を迎えてために、彼の胸元を思いっきり叩いて抗議した。
それによって、少しだけ口を離してくれ、その隙に暖かい空気を思いきっり肺に注ぎ込んだ。そんな休憩が何度があって、暖炉の火と唇を重ねる音が部屋に響き、しばし甘い空気が二人を包んだ。そんな空気に酔いしれて、酸欠と熱さでぼんやりしていた頭は、不意に背中にひんやりとした手が触れて我に返った。
「…いやだっ。」
思うように動かない体の力を振り絞って、ルビウスの拘束を解くと一目散に扉に向かって駆け出した。しかし、後から追ってきたルビウスにあっという間に捕まり、扉に押し付けられてしまった。
「リリアンヌ…っ。」
顔の両側に両手を扉に拘束され、初めて彼が怖いと思った。
恐怖で引きつる表情にも気がつかず、ルビウスは熱にうなされたように、瞼に、頬に、耳に、名を呼びながら口づけを落としていく。
「ひゃっ。いやだ、やめてっ。ルビウスさん…。」
唇が首筋に降り、きつく吸われ、胸元に息がかかった所で泣き声に似た声が部屋に響いた。
「…あ。」
はっと我に返ったようで、瞳を見開いて拘束を解くと、苦悩に似た顔が彼の顔に浮かんだ。その顔を正面から睨んで、見つめた。次の瞬間―。
パシンと乾いた音が部屋に響き、ルビウスの左頬が紅く染まった。
「…っ最低!」
震える声を張り上げて、手を上げた右手を胸元に持っていくと背を向けて部屋から逃げ出した―――。
深夜だというのにお構いなしに階段を駆け降り、渡り廊下を駆けて行っている途中、明かりを手に持ったジョルジオとなぜかフレドリッヒが困惑した顔で本館からやってきていた。
「あれ?リリア、どうし…」
涙をこらえるだけで精一杯だったから、フレドリッヒの問いかけにも答えず、俯いてさっと二人の間を駆け抜けた。
本館の扉を開けて、音を立てて閉めると静かな玄関が迎えてくれた。
「うっ、ひっ。」
溢れ出す涙が途端止まらなくなって、その場にしゃがみこんで声を押し殺して泣いた。
嫌では無かった…。ただ。
―そう、ただ怖かったのだ。
普段見たことも無い、ルビウスのあの獣を見るような瞳が。
◆◇◆◇◆
「フレドリッヒ様、リリアンヌ様のお側にいらしていただけませんか?」
リリアンヌが走り去った、寒さに包まれる渡り廊下で、唖然と佇むフレドリッヒに静かに告げた。
「ああ。」
戸惑ったまま明かりを受け取って、彼は慌てて本館に踵を返した。フレドリッヒを見送ってから、厳しい顔つきで足早にルビウスの部屋へと向かう。
「ルビウス様。」
静かな、しかし確実に怒りを含んだその声に、ぼんやりと長椅子にもたれて暖炉の火を眺めていたルビウスはこちらを向かずに口を開いた。
「…何を怒っている。」
「何をと仰いますか。」
執事にしては雑な閉め方で扉を閉めると、厳しい目つきで見やる。
「ご自身で仰れないのでしたら、勝手ながら私が申し上げましょう。まず、新月の夜はクロウド達と晩酌されるのはおやめくださいと私、口を酸っぱくして申し上げておりました。」
「うん、そうだね。」
「それなのに、ルビウス様は。何ですか?こんなに開けて。」
床と机に転がる空の瓶を呆れたような眺めて、最終的に険しい顔で睨んだ。
「悪かったよ。」
全く反省の色が見えない返事に、眉を釣り上げ長椅子の近くに歩いていく。
「お酒類はしばらく没収させていただきますよ。」
「それはほとんど爺様の酒だよ。」
泥酔していても屁理屈を叩く、相変わらずの当主に少しだけ苦笑してため息をついた。
「無駄口を叩く余裕がおありですか。そうですか、ではもう一つ。リリアンヌ様に何をなさったのですか?泣いておいででしたよ。」
シリウスの小さい頃より、つまり先々代の公爵の代から、この邸で働く。勿論、ルビウスの扱いなど慣れたものだ。
びくりと体を硬直させたまだ年若い当主に、さらに厳しく声をかける。
「ルビウス様、こちらを向いて私の目を見てください。」
そろりとこちらを向いて、二つの色の瞳が合わさった。
「…まさか、手を出されたわけではありませんよね?」
そう口にした途端、大人しかった漆黒の瞳がそわそわと視線を逸れてさまよう。
図星か…。
あぁと、暖炉の火で薄暗く照らされた天井を見上げた。
「…どうしょうもないシリウス様に、何故そこだけ似てしまわれたのか。」
「聞こえているよ、ジョルジオ。」
嘆かわしいと呟いたら、少しうんざりとしたルビウスの声が聞こえた。
彼の祖父、シリウスは惚れた亡き妻を寝取ってきたのである。しかし、物分かりの良い彼はそんな事をするとは到底思えない。だから、寝着姿の彼女を心身ともに疲れている彼の元に送り出した。
「…とにかく、今日はもうお休みください。」
はぁーと自然に出たため息の後に、疲れた声で繋げた。
「お説教は明日かい?恐ろしいね。」
クスクスと笑いながら、再び酒の入った手前の杯を手に取った。
「お飲みになるなら、お水になさってください。」
そのきつい匂いの酒を奪い、水の入った硝子の器を押し付けてぴしゃりと言い放つ。
普通なら、当主にそんな態度を取るなど有り得ない事だが、ここの邸の主人達は、そんなことは大して気にしないのである。だから、怒っているとあからさまにわかるよう、眉を釣り上げて両手を腰に当てた。まるで、母親が小さい子供を叱りつけるように。
「隣でお休みになられるよう、準備をしてまいります。それまでに、そのお水を全て飲みきって下さいませ。」
少し間を置いてから、うろたえるルビウスに言い、視線をまだ窓に映る闇に向けた。一瞬、闇がびくりと震えたように見え、それから気を取り直して手を振り、その闇から窓掛けを閉めてルビウスを隠した。
すっぽりと闇が見えなくなった時、落胆する声が小さく聞こえたが、聞こえなかった事にしよう。
まだ減らない水を手に、ぼんやりと座る当主を横目に踵を返して、隣にある寝室に足を踏み入れた。
随分と使われていないその部屋は、幾ら使用人が整えていてもやはり本人が寝るには少し寝心地が悪そうに見える。
小さく呪文を唱えると、窓掛けは勝手に閉まり、ひっそりと佇む暖炉に火が灯った。寝台は慌てたように寝具を整え、近くの照明具は優しい灯りを灯した。
出しっぱなしの書と服に眉を潜めると、慌てて元の位置へと戻り、変わりに寝着が飛び出して来た。見えないほどの埃達を追い出してから、仕上げに寝台に入りやすいよう掛け布団をめくってから、部屋を見渡した。
納得する仕上がりになったところで、再び体を反転させて戻った。
「お休みの準備が出来ました。」
寝室と執務室の間の扉の前で頭を下げ告げた。
「…ありがとう。もう少ししたら…。」
「いけません。ただえさえ、月夜が無い夜は身体に負担が増えるのですから、夜更かしはよくございません。それに、ルビウス様。あなたは明日、早く起きてリリアンヌ様に謝らなければなりませんでしょう。」
もう少し起きてると言う言葉をあっさりと蹴って、寝室の扉を開けて促す。
「…闇の力が強くなるそんな夜に、彼女を来させた君にも責任があるんじゃない?」
「何か仰いましたか?」
ちろりと瞳を向けると、彼は慌てて少しになった水を煽って席を立った。
「何でもないよ。あぁ、わかったわかった。大人しく寝るよ、だからそんな怖い瞳で睨まないでくれ。」
その怒った目が、母上にそっくりなんだよ。
ブツブツ呟く彼の言葉を小耳に挟んで寝室に誘導し、寝着に着替えている間にさっさと散らばった酒と杯を片付ける。
水飲んだからか、少し頭が冴えたようだ。
本来ならば、今すぐ謝りに行かせたい所だが、致し方ない。
苦笑いを漏らして、粗方片づいた部屋を見渡した。すると、長椅子の背に無造作に掛けられた外套が目に入った。それを手に、綺麗に畳むと寝室へと向かった。
寝室では寝着に着替え終わったルビウスが、丁度宙を見やって眉に皺を寄せて難しい事を考えいる途中であった。
「先程、エル・ラービン様がいらっしゃいました。恐らく、会議の伝言かと。後日にしていただくようにお伝えしておきます。後、こちらの外套はお召し物と共にお預かりしておきましょう。」
久しく見なかった若い当主の寝着姿に、小さく安堵を漏らして言った。
まだ若いのに、彼はゆっくり身体を休めることをしない。働き過ぎである。
「僕に仕事に行くなと言うのかい?」
そう言った言葉に、あからさまに不愉快な顔でこちらに顔を向けて言った。
「いいえ、そうは言っておりません。お召し物も外套も少し使い物にならないかと。色は落ちても、匂いはなかなか消せませんので。そんなお召し物で魔法師の方々とお会いになられても、あまり良い顔はされないと存じます。すぐに変わりの物をご用意致しますので、ご安心を。」
苦笑をこらえてそう言えば、服を一式差し出し、履いていた靴を掲げて不思議な顔をした。
「…靴もか?」
この人は、いつもこうだ。自分のしてきた事に無頓着で、他人で汚した血だらけの服を着ていても大して気にしない。過去に何度か交わした会話を追いかけ、答えた。
「はい、お預かり致します。本音を言えば、入浴もお勧め致したいのですが、かなりのお酒を飲んでおられるようなので。明日の朝になさってください。」
「わかった。」
大人しく寝台に潜り込んで丸まった主を見、そっと灯りを消した。
「お休みなさいませ。良い夢を。」
軽くお辞儀をして言ったその言葉に返ってくる返事は無く、穏やかな息づかいがしばらく経って聞こえた。
《ジョルジオ、酷いではないか!》
そっと扉を閉めて廊下に出た先に、巨大な鬼が大層ご立腹な様子で立ちはだかっていた。
「どちらが酷いのでしょう?私には、主に酒を進め、勝手に恋路を眺めていた方が酷いと思いますが。」
静かにと山ほどの洗濯物を片手に、右手の人差し指を口に持って行ってクロウドを見た。
《退屈だったのだよ。》
途端、シュンと大人しくなったクロウドに、優しく問いかけた。
「では、一つお願いを申し上げても?」
その言葉にパッと輝かされた顔を向けられ、苦笑しながら続けた。
「ルビウス様はこんな夜は大層夢見が悪く、良くうなされます。あなたに、夢時の門番をお願いしたいのです。」
《我は、夢食いではない。》
内容を聞いて、ちょっと不機嫌になったクロウドに、根気よく話しかける。
「今宵だけです。無防備なルビウス様には、隙をついて様々なモノが寄ってきます。あなたもご存知でしょう?もし、門番を受けて下さるなら、今回のことは私だけの胸に留めておくとお約束いたします。お礼には、美味しいお酒をお渡しいたしましょう。」
その甘い言葉に誘惑された鬼神は、あっさりと承知し、嬉しそうに巨大な身体を揺らしてルビウスの寝室へと入って行った。その時に鳴る腕輪などの金属音は、手を上げた瞬間に消え、邸に再び静かな静寂が訪れた。
階段を降りきり、本館と西館を繋ぐ廊下にある扉の前にたどり着くと、二人の少女が見計らったように現れた。
「…明朝、日が昇ってから若様の部屋に冷たいお水を。今夜は途中に起きられる事はないでしょうから。」
深紅の髪と金色の瞳を持つ瓜二つの片方にそう言って、もう一人に向き直った。
「ソラ、あなたはこの洗濯物を。同じように、明朝までに外套と新しい服を用意なさい。」
全く同じ二人は、少しもズレずに綺麗に頭を下げた。どちらがレミでソラかは、普通の人ならわからないだろう。今説明するならば、左側に立つのが姉のレミ。右側に洗濯物を抱えて立つのが妹のソラだ。
そんな二人の脇を通って、扉を開けて廊下に出た。寒さが増した渡り廊下は、年を取った老人には堪える。
《ジョルジオ。》
気持ち足早に、けれど行きよりは緩やかに歩いていると、真っ暗な闇から声がかった。
「あぁ、ヘクトルですか。」
黒の神、ヘクトル。彼に仕える神の一人だ。
真っ暗な闇の中、姿を現さずこちらを見つめる視線に、臆することなく見つめ返した。
《何故、あの小娘をルビウスの元にやった?まさか、本当に安らぎにでもなると?》
小馬鹿にしたような声に、体に力が入るのがわかったが、長年学んだ落ち着いた声でそれを打ち切る。
「いいえ?今宵に、リリアンヌ様をルビウス様のお部屋に促したのも、私の計算通りです。まぁ、ルビウス様が手を出されるまでは計算外でしたが。リリアンヌ様も、夜にうろつくと言う意味を身をもって知った事でしょう。」
さらりと言いきってやると、闇の主はほぉと少し感心したように笑った。
《カインドの執事は恐ろしいな。》
「ほめ言葉と受け取っておきましょうか。」
《食えぬ奴だ。》
目の前の闇が揺らいた次の瞬間には、ギラリと光る鋭い牙を見せた厳つい大きな龍の顔が出現した。
月が見えない新月。月が満ちる満月の夜は、魔力や魔法が高まり、術や魔法を使うには最適だが、そんな満月の夜と違い、新月(朔)の日は魔力や魔法が低下する。魔法師達は、魔法が満足に使えなく、人によっては全く使えなくなることもある。そんな夜は、闇に住む神や悪魔、死神が力を増す。月明かりが無いことをいいことに、あちこちで暴れるのだ。
反対に、闇に好かれるルビウスは例外で魔力を増し、一人でその尻拭いをする羽目になる。
闇の者を多く従えるルビウスにとって、疲労がピークを迎えるのも自然の成り行きだ。
そんな闇の住人の一人。基本無口で、あまり姿を表さないこの神。今日は月明かりが無く、お酒も入って少々お喋りが進むようだ。
《いつまでこちらにいるのだ?おぬしの体はそろそろ限界ではないのか。》
代々、執事を受け持ってきたターナー家。本来ならば、当主の代が代わるごとに執事も代わる。だが、先々代の当主に頼まれ、シリウスまで受け持った。今では孫にあたるルビウスまで受け持ってしまった。
「有り難くも、クロムウェル様からお言葉を頂きましたので。」
嫡男として、カインドの名を継がなくてはいけなかったルビウスの父、クロムウェル。だけども、病弱だった彼には到底無理だった。子供を授かったのも奇跡なようなもので、二つの闇を持った長男ルビウスには、クロムウェルよりもさらに期待と責任が重くのし掛かった。手元から奪われ、遠く離された我が子の距離。
神隠しの風蘭に頼むも、やはり抱きしめられない温もりに耐えきれずに、両親はよく口論を繰り返していた。
そんなときに、国王から言い渡されたウルーエッド戦のお触れ。猛反対する父、シリウスと妻のメアリーを押し切り、クロムウェルは戦地に就くことを決定した。
『命が尽きるその瞬間まで、彼女の側にいることを誓ったから。』
出立する前日、安らかに眠る子ども達を眺めて顔色の悪い彼がそう言った。
『でもね、ジョルジオ。一つ心残りなのは、残して行くこの子達の事なんだ。』
愛しそうに一人一人の髪を撫でながら、彼は泣きそうな声で告げた。
『大丈夫でございます。ルクシア様は、しっかりしておいでです。後数年すれば、ローリング公爵夫人に相応しい方となりましょう。アレックス様は、少々手が掛かりますが、意志をしっかり持っておられますから、心配する必要はないと思います。ルビウス様は…、賢いお方です。直にご立派な次期公爵となられますでしょう。』
努めて優しく答えると、俯いたままの彼は小さく頷いた。
『…この子達は、僕がメアリーを選んだことを恨むかな?』
広い寝台にごちゃごちゃになって眠る子ども達を見て、ポツリと呟いた。
『いいえ、そんなことはございません。幼い頃は、まだ理解出来ないかもしれませんが。己に愛する人が出来た時には。きっと、分かって下さいますでしょう。』
静かに寝台の近くにいる彼は、堪えきられないように涙した。
『本当は、ルクシアが嫁に行くまで。ルシウスが、公爵を継ぐまで。アレックスが、独り立ちするまで。側で、見守ってやりたかった…。』
父になったとき、先が短い自分の命の限り、幸せな日々をこの子達と過ごすのだと。
思いが溢れて、堪えられきれず涙を流す背中に思わず触れた。
『きっと、クロムウェル様のお気持ちは皆様に伝わっていましょう。側に居られない時は、…私が、クロムウェル様に伝えましょう。皆様の日々を私の目を通し、耳を通し。大きく成長される皆様の全てを。』
『…ジョルジオ。』
涙を零すその瞳を膝を折って、視線を合わせた。
『私に、お言葉を下さいませ。シリウス様が公爵の地を退かれれば、私の任は解かれます。すれば、ルビウス様のお近くには居られなくなります。あなた様の瞳の代わりとなって、皆様を見守ることをお約束いたします。』
『…ルクシアが嫁にいって、アレックスがこの家を出て行っても?ルシウスが、大切な人を手に入れるまで?』
『はい。』
どれだけ願っても、叶えられない願いを気休めでも。せめて、幼い頃の彼を見てきた者として、聞いてやりたかった。
『…ありがとう、ありがとう。ジョルジオ。』
ほっと、顔を緩めた彼を見て、何故か泣きたくなった。
任期を伸ばす術をかけて、ようやく泣き止んだ。
『さぁ、明日に備えてもうお休み下さい。メアリー様が心配なさいます。』
そんなクロムウェルをそっと促して寝台から離した。
翌日、別れを惜しむ人混みの中、馬車の窓から身を乗り出して、彼はくしゃくしゃにした顔で、何度も何度も。懇願するように同じ言葉を繰り返した。
『…頼むよ。頼むよ、ジョルジオ。あの子達を。ルクシアを、ルシウスを、アレックスを。』
愛しい我が子を。
可愛い可愛い僕とメアリーの子を。
まだ幼い子達を残して行く同じ親の心境を察し、努めて涙を堪えらえた。
『おまかせ下さい、クロムウェル様。メアリー様。このジョルジオ、心身共に御子方に尽くします故。…無事にお戻りになられるのを皆様と共に、心より願っております。』
震えそうになる言葉を抑えて、頭を下げるので精一杯で、彼の最後の顔は見れなかった。
年を取ると、どうも涙もろくなってしまう。
昔を思い出して涙ぐむ姿をヘクトルは、首を傾げて眺めていたが、しばらく経って一言口を開いた。
《それが、おぬしの使命か?》
いつか、心から愛する女性とその子供達に囲まれて、幸せを掴んだルビウスを見届けるのが。
「はい、私の使命でございます。」
きっぱりと言い切った事に笑って、さらに続けた。
《大層な使命なことだ。しかし苦労するな、おぬしも。まだまだ道のりは遠そうではないか。》
「ええ、まだ遠いかもしれません。しかし、ここで投げ出すなど以ての外。」
ふわふわと漂う龍の顔を眺めて、一人決意を胸にした。
精一杯応援し、彼の恋を成就させるのだと。
《そうか。まぁ、面白そうだから、少し様子を見させて貰おうか。》
「ご自由にどうぞ。」
再び闇の中に溶け込んだ黒い龍は、愉快そうに闇を泳いで去っていった。
自身の命がつきる時、それはルビウスに幸せが訪れた時。
その時には、きっと首を長くして今か今かと待っている二人に、彼らの可愛い子供達の話を持って、会いに行こうではないか。
あの世で仲良く微笑みあっているであろう、クロムウェルとメアリーの我が姪夫婦に。
そんなことをヘクトルの去った後の闇を見つめて思って、再び本館に向けて足を進めた。