3.灰色の鼠
信じられないというように文字を見つめていたリリアンヌは、シエルダ公爵にすがりついた。
「ねぇ!ここに書かれている名前の人は、行方不明って言ったけど、ジョーン兄さんはさっきまで魔法省で私達と一緒だったのよ。」
「この場所に名を連なっている者は、ヘクトルが魔力を感じ無い者ばかりだ。魔力を奪われているか、既に死んでいるか…。」
「そんなはずないわっ!」
「リリアンヌ!」
セドウィグの制止する声を背に聞きながら、リリアンヌはシエルダの邸を飛び出した。
つい先ほどまで一緒だったジョナサン。そんな彼が数刻も経たないうちに死んだなどと、リリアンヌは信じたくなかった。テイルーズ(渡り鳥の精霊)を召喚して、先ほど教えてもらった彼の店に真っ先に飛んだ。そろそろ日が暮れ始めた頃に店先についたものの、彼の店は閉まったままで、呼び掛けても返事はなかった。仕方なく、カインドの邸に帰途につくことにした。
「ジョルジオっ!」
出迎えてくれた執事のジョルジオをひっつかまえ、食い付かんばかりに問いただそうと構えた。
「お帰りなさいませ、リリアンヌ様。」
「ねぇ、ジョーン兄さんが…。」
「兄さんがどーかしたのか?」
そこへ現れたのは、菓子を頬張りながら廊下を歩いてきたジュリアン。
「あ、ううん。なんでもないの。」
不思議そうに首を傾げる二人を置いて、リリアンヌは軽く笑ってその場を離れた。
実の弟であるジュリアンに聞こうかとも考えたが、知っていれば呑気に菓子を頬張っているはずもない。すっかり混乱したリリアンヌは、まだ外に留まっていた小型の赤鳥に使いを頼んだ。レイヘルトンに向かうと言っていたルビウスに手紙を送ったのだ。
「リリア、ご飯食べよう。」
もし、ジョナサンが魔力を消して行方不明ならば、ルビウスはすぐに帰って来るはずだ。
そんな考えに浸っていたリリアンヌの背後から、レイチェルが玄関の扉から顔を出して声を掛けてきた。
「うん、今行く。」
呑気にご飯を食べる気にはならないが、腹が減ってはなんとやら。もう随分と遠くに去った渡り鳥をちらりと見やって思った。帰って来たルビウスに問い詰めれば、何か教えてくれるだろう。そんな安易な考えを胸に、邸の中へと戻った。
しかし、一週間。さらには1ヶ月になってもルビウスからの返事はなく、彼自身も王都には帰って来ない。しびれを切らしたリリアンヌは、シエルダ公爵を再び訪ねたが生憎、彼は留守だった。当然、邸にいるはずのセドウィグにも会えず、手掛かりの一つも掴めずに、無情にも3ヶ月の月日が経っていた。そんなある日…。
「ねぇ、聞いた?」
「聞いた聞いた。ハーバー男爵のお弟子さんの話でしょ?」
「怖いよねぇ。噂では、見つかった時、灰色の鼠が群がってたんだって!」
「うそぉ!いやだ、私弟子なんかやってなくて良かったぁ。」
冬休みを間近に控えた学校のあちこちで、ひそひそとそんな噂が立ち始めていた。
「なんの噂だろ?」
「さぁ?」
鞄に教材を仕舞っているレイチェルに、隣に座っていたリリアンヌが尋ねた。しかし、噂話などに興味がないレイチェルは、さらりと流して席を立った。リリアンヌも彼女に続いて席を立ったが、教室の隅で話すその内容が気になって彼女達に声を掛けた。
「ねぇ、なんの話をしてるの?」
「えっ?」
「あっ。」
ぱっとこちらを向いた二人は、リリアンヌの姿を見ると途端気まずそうにお互いを見やった。
「大した話じゃ…。ねぇ?」
「う、うん。カインド公爵のお弟子さんなら知ってる噂だし。」
ちらりと黒い上着を着るリリアンヌを見たおさげの女子生徒は、もごもごと言いにくそうに隣の茶色の長い髪をした友達を見やった。
「私、聞いたことないの。良かったら、話してくれない?」
渋る二人を説得するのはかなり骨が折れたが、必死に頼み込んだことで、どうにかその思い口を開かせることに成功した。
「従兄から聞いたんだけど…。」
同じ学校に在籍する茶髪の少女の従兄に、魔法使いの家系であるクラスメイトがいるという。
「従兄のクラスメイトは、ハーバー男爵のお弟子さんをしてらしたらしいの。でも、最近になって学校をよく休んでいたらしくて。それである時、従兄のところにハーバー男爵がいらして、そのお弟子さんを知らないかって。」
「知らないか?師匠も弟子の行方を知らなかったの?」
「そう、従兄も知らないからその日は、王都の外れにある屋敷に帰られたらしんだけど…。」
いつもは使っていない離れの屋敷の扉が開いていて、その中にすっかりやせ細って亡くなっている弟子を見つけたという。
「お弟子さんの姿が見えなくなったのは、ほんの数日だったのに、その遺体は骨の皮だけだったって。それで、その子の身体には無数の鼠が群がっていたらしいの。」
「鼠…。」
「リリア。」
すっかり考えに浸っていたリリアンヌは、はっと自分を呼ぶ声に顔を上げた。
「どうしたの。」
不思議そうにこちらを覗き込んでいるレイチェルに、にっと笑って頭を振った。話しているうちに顔色が悪くなった彼女に礼を言って、教室を移動した後ずっと考えに浸っているリリアンヌをレイチェルはずっと不思議に気にしていた。
「なんでもないよ。どうかした?」
「風蘭が来てる。」
話題を変えるために尋ねた言葉は、思いも寄らぬ名前を含んで帰って来た。
レイチェルが指し示す校庭を見れば、ぽつんと佇む風蘭がいた。真っ赤(猩々緋色と呼ぶのが相応しい)異国の衣を纏う彼は、殺風景な校庭にやけに目立って見える。
「珍しい。どうしたんだろ?」
リリアンヌとレイチェルが窓から眺めているのに気がついたらしく、注目されている彼は両腕を交互に袖に突っ込んで、ぴょこんといつもの挨拶をした。学校に現れるなど、今まで一度もなかったためにリリアンヌはガタンと席を立って、教室を飛び出した。
「あれ?リリアンヌ、もうすぐ授業始まるよ。」
「レイルもどこいくの―?」
「ちょっと。」
なぜかついてきたレイチェルと共に、クラスメイトの間をぬって校庭へと向かった。
「風蘭!」
《リリアンヌ様、学校まで押し掛け、誠に申し訳ありませぬ。》
「それはいいの。それよりどうしたの?」
《私め、リリアンヌ様がお困りでらっしゃると聞きまして。リリアンヌ様がお待ちでらっしゃるのにも関わらず、返事も寄越さないとは些か許せませぬ!ですので、あやつを連れて参りました。》
「へ?」
自信気に胸を張る彼は、ぴっと左手の人差し指を立て、空を見上げている。風蘭に習って、二人もすっかり冬となった曇った空を見上げた。見上げる三人の頭上の遥か上から、何やら黒い物体が凄まじい速さで向かってくる。何やら身の危険を感じるリリアンヌだが、だんだん大きくなってくる物体の正体を見つめて驚いた。
黒い物体は三人の頭上、少し上で速度を緩めてふんわりと足元から着地した。大した衝撃はなく、緩やかな風が舞っただけの中で、リリアンヌは久しぶりに見るその人物に少しだけ笑いかけた。
「全く、満足に仕事さえさせてくれないとは。」
舞い降りて来た当人は、黒い外套に積もる雪を叩き落としながら、実に不機嫌そうだ。
《おぬしが、リリアンヌ様の手紙にも返事をしないからではないか。》
「仕方ないだろう?珍しく向こうで、大吹雪になってしまったんだから。」
《そんな時こそ魔法を使えばよいではないので?本当に魔法使いだかわかりませぬ。》
「失礼だな。こっちにだって、やらなくてはいけない仕事があるんだよ。神隠しなんか使って。あぁ、後でアレックスに散々怒られるな。」
とんがり帽子を頭から取って風蘭を睨んでいたルビウスは、ふっと表情を和らげて言った。
「ただいま。リリアンヌ、レイチェル。」
「お帰りなさい。」
素直に師を出迎えたレイチェルとは反対に、リリアンヌは笑っていた顔を引っ込めて口を一文字に結んだ。
「リリアンヌは、お帰りとは言ってくれないのかな?」
「またすぐに出掛けるんでしょ。」
ふーんとそっぽを向くリリアンヌに少し苦笑しながら、ルビウスは弁解するように彼女を見て言った。
「向こうの仕事は中途半端だけど、多分アレックスがやってくれるだろうし。しばらくはこっちにいるよ。来客が来るかもしれないしね。それに、ジョナサンのこともあるから。」
どうだか。
ちろりと白い目を向けるリリアンヌに構わず、彼は仕方ないと言葉を続けた。
「うちの小さな魔女さんは、ご機嫌がよろしくないようだね。せっかく、ジョナサンの詳しい情報を聞こうかなと思っていたんだけど。また今度かな。」
「い、言わないなんて言ってない!」
くるりと後ろを向いたルビウスの腰にしがみついて叫んだリリアンヌは、瞬時にぱっと離れて距離を取った。
「じゃあ、授業が終わるまで邸で待ってるとしよう。」
「その必要はないわ。早退してくるから。ね、レイル。」
こくんと頷くレイチェルを連れて、建物に戻ろうとするリリアンヌをルビウスはちょっと待ったと引き留めようとした。
「いや、それは…。」
「風蘭、ルビウスさんがどこにも行かないように見張っててね。すぐ戻ってくるから!」
「こら!リリアンヌ、レイチェル!」
《承知しました。》
あっさり無視をされて、風蘭と二人、取り残されてしまった。
「蒼の神っていうのと契約してる魔法紙に確かに、ジョーン兄さんの名前があったの。」
カインド邸に向かう馬車の中、リリアンヌはルビウスにシエルダ公爵とセドウィグ殿下に会った事、行方不明者の報告書(魔法紙)にジョナサンの名前が書かれていた事を伝えた。
「違う日に、シエルダ公爵を訪ねても居ないって言われて…。」
「叔父上は、ほとんどあの邸にはいらっしゃらないよ。大抵東にある別荘にいらっしゃるから。用がなければ、めったに王都に顔を出されない。だから、あの邸を訪ねても居ない方が多いね。セドウィグ殿下は、冥界に遊びに行ってるんじゃないかな。」
しばらく黙ってリリアンヌの話を聞いていたルビウスは、そう言葉を口にした。
そう言えば、風蘭が客が来ているから冥界に戻ると言っていた。あれは、セドウィグのことだったのかと遅くながら納得した。
「…灰色の鼠、ね。」
「それ、殿下も言ってた。」
「なるほどね、向こうが先手を打って来たか。」
「灰色の鼠って何か意味があるの?」
「魔法師の間では、マリエダ・コウリィースのことを灰色の鼠と呼んでいるんだ。つまり、小汚くてずる賢い鼠の群。本人もそう呼ばれてるのを知ってか、昔は灰色の外套を来たり、鼠を僕にしてた時期もあったからね。」
「へぇ。」
うとうとしだしたレイチェルに肩を貸してやりながら、そっとリリアンヌもレイチェルにもたれかかった。
「リリアンヌも眠いのかい?」
「…ううん。」
「いいよ、眠ってても。ついたら起こしてあげるから。」
その穏やかな声に、今まで張っていた気がふっと緩んで、睡魔が襲ってくる。ルビウスの言葉に、確か何かを返したような気がするが、何を返したかは覚えていない。けれど、何故こうも彼のそばにいると安心感に満たされるのか、不思議に思ったのは最後に覚えている。
すっと睡魔に誘われていったリリアンヌを穏やかに見つめていたルビウスは、窓枠に肘をついたまま目を閉じるとしばらく経って、鋭い目つきで馬車の車輪を睨んだ。彼が見やる先には、灰色がかった汚れた鼠が一匹、回る車輪にしがみついていて。ルビウスが見やると同時に、鼠は悲痛な叫び声を上げて燃え落ちた。
「…小汚い鼠が。」
そう冷たく呟いた言葉も、穏やかな寝息を立て始めたリリアンヌには、聞こえるはずもなく。
そんな彼女をしばらく眺めていたルビウスは、そっと自らの外套を寄り添って眠る弟子達に掛けてやった。
「本格的に、鼠取りを始めないといけないな。」
リリアンヌの頭の少し上に右手をつきながら、声になるかならないかの囁きを残して、微笑を浮かべた。その彼の顔は、実に美しく、恐ろしいほどだった。そんな笑みで、リリアンヌを眺めていた彼は、不意に彼女の頬に唇を近づけた。が、頬に唇がつく、ほんの少し手前で止まって、閉じていた瞼をうっすらと開けた。その漆黒の瞳に、穏やかに眠る彼女を映すと小さく笑って、彼は頬ではなく額に軽くキスを送った。静かに走る馬車の中で、何が起こったかは彼しか知らない。