2.消えた人々
「あ、いやこれには訳が。」
じりじりとジュリアンが挟まる窓側へと避難するリリアンヌをルビウスは、じっと動かずに見つめている。
「訳?盗み聞きと人の手紙を見るのに、理由があるのかい。では、是非その理由を聞かせてもらおうか。」
ルビウスの手元にあった手紙は、その言葉と共に炎に包まれ、灰となって瞬く間に消えてしまった。
「ど、どうして燃やすのっ!?」
「どうして?元々必要無いものだからだよ。」
「だって、女の人達が一生懸命書いたのよ!それを燃やすなんて酷いわ。」
カンカンになって怒るリリアンヌに、ルビウスは少し呆れたように言い返した。
「リリアンヌ、怒っているのはこっちなんだけれど?」
そうだったと思い出すと同時に、リリアンヌはジュリアンが挟まる窓の横の隙間から、身を乗り出して足をかけた。
「あ、お邪魔しました。」
「危ないから、二人共とりあえず窓から離れて、こっちにおいで。」
「大丈夫、私達こっから来たんだから。ねっ、リアン兄さん。」
「どんな所から来てんだよ。」
「先生、挟まって身動きが取れません。」
ルビウスの後ろから、そんなあきれた声を出すアレックスの言葉を挟んで、各々の話したい事を口にする二人の弟子に、ルビウスは溜め息をついて振り返った。
「アレックス、ジュリアンを助けてやってくれ。」
そう言った後に、こちらへと足を進めたルビウスに、リリアンヌは思い切り叫んでやった。
「嫌っ!こっち来ないで。来たら飛び降りてやるんだから!」
「リリアンヌ、危ないから暴れるんじゃない。」
「うわっ。」
シッシッと暴れるリリアンヌをルビウスは慌てて保護をしようとしたが、その手を逃れようとバランスを崩したリリアンヌは、遥か高く宙に身を投げ出してしまった。
「―――――っ。」
覚悟を決めて目を瞑ったリリアンヌだったが、身体はいつまでたっても落下せずに宙に浮いている。
「だから動くなと。」
「…ごめんなさい。」
「ほら、早くそちらの手も寄越しなさい。」
ルビウスが間一髪リリアンヌを捕まえた事で、落ちる事は免れたのだった。
「魔法省でも魔法規制がしかれていて、魔法省に登録されていない魔法師が魔法を使うと不法侵入者と見なされてしまうから。」
浮遊の魔法を使って、リリアンヌを部屋に引き入れたルビウスは、はぁっと溜め息をついて彼女を見やった。
「あぁ、びっくりした。」
「それはこっちの台詞だよ。」
ジュリアンがアレックスに助け出されたのを確認して、彼は再びリリアンヌに向き直って尋ねた。
「で?何故、普通なら学校に行ってる筈の君達がここにいるのかな。」
「…その。ジョーン兄さんに頼んで、連れてきてもらったの。」
「学校を抜け出して?」
「だって、ヴィア姉さんがセドウィグ殿下は死刑になるかもって言ってたんだもの。ルビウスさんに聞こうにも、仕事だってほとんど屋敷に居なくて。魔法省で会議があるから、ジョーン兄さんに頼んで連れて行ってもらったらって。そのほうが、ルビウスさんを捕まえるより早いかもって。」
「オリヴィアは一体、何を吹き込んだんだ?」
頭が痛いと額に手をやったルビウスは、言い聞かせるように言葉を繋げた。
「リリアンヌ、僕は確か『何かあれば叔父上に言うように』そう言わなかったかい?」
「言ったわ。でも…。」
あの人苦手なんだもの。
拗ねるように小さく呟いた声に、わからなくもないと同情の色を浮かべたが、さらりと流して先を進めた。
「とにかく、魔法省に潜り込んで、会議を盗み聞きしたことは後日3人とも時間を作った時に。いいね?これから残念ながら、レイヘルトンに向かわなければ行けないから。アレックス、レイチェルとジュリアンをカインド邸に送り届けてやってくれ。風蘭。」
アレックスに引っ張られ、戸口に隠れるように立つレイチェルと、腰が抜けて動けないジュリアンを嫌そうにアレックスは荷物のように担いで、移動魔法の光と共に消えた。
《何故、主でないルビウスに呼ばれなければいけないのですか。》
変わりに現れたのは、ムスッと睨みを効かせて舞い降りてきた神隠しの神・風蘭。
「あ、風蘭!」
《お久しゅうございます、リリアンヌ様。久しくお呼びが掛からず、この私め、寂しゅうございました。》
「ごめんね、初級を取るのに必死で。」
《私めなどに謝罪など必要ありませぬぞ。リリアンヌ様が、学問に励まれているのは存じておりました故。誠にようございました。》
ありがとうと和やかに再会を喜ぶ中、ルビウスがその会話を割って入った。
「風蘭、リリアンヌをシエルダ公爵の本邸に送り届けて欲しい。」
《それ程のこと、私めにわざわざ言いつけなくとも、あなたが送れば良いのでは?まぁ、リリアンヌ様の為とあれば、お安いご用ですが。》
「リリアンヌはまだ移動魔法が出来ないし、飛行魔法を使えば目立ってしまう。僕はすぐにレイヘルトンに飛ばなければ行けないから。」
《相変わらず、落ち着きがないことで。まだ若いのに、そんなに仕事ばかり根詰めているとろくなことはありませぬぞ。》
「魔法師を甘く見るもんじゃないさ。心配は無用さ。」
「ねぇ、ところでジョーン兄さんは?レイチェルを追いかけて行った筈だけど。」
レイチェルと共にアレックスに連れられて来ては居らず、姿が見えない。
「ジョナサン?いや、レイチェルは廊下を歩いていたところをアレックスの弟子に保護されたと聞いたけれど、ジョナサンのことは何も聞いていないな。」
「どこに行ったんだろ。もしかして、自分だけさっさと逃げたとか?」
有り得なくもない。と顰めっ面を作るリリアンヌに、ルビウスは軽く笑ってそれを否定した。
「そんなことはないだろう。ジョナサンもなんだかんだ言って、優しい所があるのを知っているだろう?」
「そうだけど。」
《リリアンヌ様、此処にいても仕方がありませんし、シエルダ邸に向かいませぬか?》
「もしかしたら、魔法省にいる知り合いに会って話をしてるだけかも。リリアンヌは叔父上のところに行っておいで。素敵な人に会えるかもしれないよ?」
「素敵な人?」
「うん、それは会ってからのお楽しみだけど。風蘭、じゃ頼んだよ。」
《あなたに言われずとも、ちゃんと送り届けますとも。》
「あぁ、そうだ。リリアンヌちょっとおいで。」
そばによったリリアンヌに、ルビウスはそっと口を彼女の耳に近づけて話した。
「あのナンシー家との婚約の話、叔父上にはきっぱり断っておいてもらったよ。それを君に教えておこうと思って。」
「な、なんで私にそんなこと!私、別にルビウスの婚約はどうでもいいんだからっ。たまたま手紙が落ちてて、封が開いてたから中を見てみたくなっただけよ!ちゃんと貰った手紙ぐらい管理しときなさいよね。」
「いや、ちゃんとしまっておいたはずなんだけど。…さぁ、なんで君に話してるのかな。リリアンヌは、僕に手紙を書いてはくれないの?」
「誰があんたなんかに書いてやるものですか。手紙を渡す人の気が知れないわね。風蘭、行こう!」
少し笑っていたような風蘭に、慌ててそう伝えてリリアンヌは背を向けた。
ひゅんと柔らかな風に包まれて、辺りの景色が変わった時にはルビウスの姿は無く、どっしりと構える古びた錆色の屋敷が目の前に現れた。年季が入った建物で、公爵ほどの地位の者が住むとは思えない。
《申し訳ありませぬが、私めはここで失礼致します。あの者に、あまり会いたくないもので。》
そう言って一礼して去った風蘭を名残惜しそうに見つめていたが、気を取り直して大きな玄関の扉に向き直った。
「とにかく、シエルダ公爵に会えばいいのよね。」
風蘭さえも会いたくない人物に、一人で会わなくてはいけない憂鬱に負けそうになるものの、それを振り切るかのように重い鐘を鳴らした。しばらく経って、執事らしき人物が扉をあけてくれ、シエルダ公爵に会いたいと伝えた。しかし、現在当人は出掛けていて留守であるという。
「…困ったなあ。」
そう言ったリリアンヌに、カインドの弟子であるからか、邸の中で待つよう勧められたが、どうしようかなかなか決められないでいた。
「何事だ?」
「あ、旦那様。カインド公爵の七番弟子でらっしゃいます、リリアンヌ様が旦那様にお会いしたいとのことで。」
「その辺の部屋に通しておけばいいだろう。玄関に突っ立て居られたら、邪魔でしかたがない。」
本人の帰宅であった。振り向いた先には、全身黒づくめの背が低い男性が一人立っている。魔法師の象徴のとんがり帽子はへなりと曲がり、少し色あせているように思う。その姿があまりに可愛らしいかったために、ぷっと吹き出したリリアンヌに、鳶色の冷たい視線が刺さった。
「何が面白い。」
「あっ、ごめんなさい。だって、建物もとんがり帽子も年季が入ってて、怖いって有名なシエルダ公爵には不似合いで可愛らしいなって。」
「かっ可愛らしいっ。」
シエルダ公爵よりも幾分若い執事は、リリアンヌのその言葉にたまらず吹き出した。けたけた笑う執事を特に窘めることもせずに、リリアンヌを軽く押しのけて執事に帽子と体を包んでいた外套を押し付けると、ちらりともリリアンヌを振り返らずに颯爽と先に進んで行く。
「ついて来ぬのか?あやつに会いに来たのだろう。」
執事はゲラゲラ笑っていて、全く役に立たないと睨んでいたリリアンヌに、家主からの入館の許可が下りた。魔法師の館には大抵結界が張られ、そこに住む者に許可されねば、その結界に弾かれてしまうのはここ数年で学んだことだ。
「しかし、随分あれから時間がかかったな。ルビウスがわざわざ、おぬしをここに連れてきて手掛かりも教えていたというのに。本部の会議を盗み聞きしに行きにぐらい間抜けだったとはな。」
「そんなの誰だってそうするわ。」
数歩先を歩くシエルダ公爵の後を必死について行きながら、たまらず反論する。
「でかいのは態度と言葉だけか。リヴェンデルの血を引くだけあるな。まぁ、ルビウスも弟子の教育は、かなり手を抜いているらしいからな。」
なんて失礼な人だろうか。
頭に血が登ったリリアンヌは、皮肉を込めて言い返してやった。
「この性格は生まれつきなんです。でも、ルビウスさんの叔父様っていうあなたも、人を見下してるところはルビウスさんとかと良く似てるって思うわ。さすが、有名な冷徹人間ですね。」
ピタリと薄暗い廊下で立ち止まったシエルダ公爵に、自分はなんて事を言ってしまったのかと真っ青になった。しかし、シエルダ公爵は目の前の壁を真っ直ぐ見つめるだけで、何も言わない。
怒らしてしまっただろうか。
急に不安になってきた頃に、シエルダ公爵は手を伸ばして、そっと壁に触れた。真っ白な壁だったそこは、公爵の手から外側へと円を描くように真っ黒な扉が姿を表した。
「怖いもの知らずなところは、父親譲りか。」
「…え?」
ガチャリと大きな音を立てた扉のせいで、シエルダ公爵がなんと言ったのか聞き逃した。無言で扉を開けたまま、先を促す公爵に押されて、そろりと真っ暗な扉の向こうに足を踏み出す。
「ぎゃっ。」
少し進んだ時に、真っ暗な中で階段になっているなど分からず、当然のように足を踏み外してドスンドスンとしばし階段を転がり落ちることになった。
「あいた~。ったく、階段になってるとか言ってよね。」
体をさすりながら、小さくぼやいたのが聞こえたのか、背後の天井から下に向かって一気にランプが灯った。
「灯りつくなら、最初からつけてよっ!!」
たまらず上にいる公爵に怒鳴って、狭く急な階段を降りていく。先ほどから漏れていた光にたどり着くと、そっと中を窺った。
「わっ、ちょっとそれはたんま!」
《これこれ、往生際が悪いですぞ。》
《そうだよぉ、セドウィグはさっきからそればっか。》
《あっさり負けちゃいなよ。》
「うーん。いやいや、ここは負けられないさ。」
まるで外の日の暖かい光が差し込んでいるような、明るい小さな部屋に、溢れんばかりの神神々がいた。チェスを楽しんでいるのか、1人用の革の椅子に足を乗り上げて考えに浸る黒髪の男性を囲むように、神々が覗きこんでいる。
《あ、来た来た!来たよ。セドウィグ!》
《それでは我々の相手は、ここまでですな。》
相手をしていた年老いたしわしわの老人の声で、隣で小さな背を精一杯伸ばして勝利の行方を見つめていた幼い男の子も、棚の上から覗き込んでいた白銀の青年も小さな竜巻と共に消えてしまった。カタカタと物が揺れる音を小耳に挟んで、しばらくまだ考えていた一つくくりに結んだ黒髪の背中が、ゆっくり振り返ってリリアンヌに笑いかけた。
「やぁ、私の可愛いリリアンヌ。良く来たね。」
「な、なんでここに?」
「あれ、僕がここにいるから来たのではないの?」
行儀悪くチェスをなぎ倒して机に脚をのせて組むと、再び背を向けた彼は、わからんというように首を傾げた。
「お前の娘は、お前に良く似てやることが普通ではないな。ルビウスがわざわざ教えてやった事が理解出来ないとは、相当な間抜けだ。」
入ってすぐ右脇にある小さな台所から、薬缶片手に現れたのは、無表情なシエルダ公爵。
「薬缶を掛けっぱなしとは何事だ。中身が空っぽではないか。チェスに夢中になって、火事を起こすつもりか。」
怒りはしていないようだが、彼は言いたいことだけ言って、台所に再び引っ込んでしまった。
「あぁ、忘れてたよ。大丈夫、火事なんて起こしやしないさ。しかし、他人の娘を間抜け呼ばわりとは酷いね。」
カツンと靴音を鳴らしてやってきたセドウィグを呆然と見上げていたリリアンヌに、彼は目を細めて優しく頭を撫でくれた。
「…大きくなった。ますますマリーに似てきたんじゃないか?」
「…お母さんは、こんなに気が強くなかったんじゃない?」
「いいや、小さい頃の彼女も気が強かったよ。おいで。」
大きく開かれた腕の中に、リリアンヌは戸惑いながら飛び込んだ。
「…心配して損した。」
「そんなことを言うのかい?」
「…だって。」
「セドウィグ!茶の葉をどこにやったんだ?」
台所からかけられた叫び声に、セドウィグは首をすくめて困ったように呟いた。
「やれやれ、ちょっとは気を効かせるということが、彼には出来ないのかね。ゆっくり話もさせてくれないなんて。せっかくの感動的な再会が台無しだ。」
「おい、聞いているのか?」
「今行くよ、アーサー。ちょっと座って待っておいで。」
台所にすっこんだままのシエルダ公爵に叫び返して、そちらに彼は消えた。しばらくして、三人分のカップを持って戻ってきた二人は、リリアンヌが待つ机にそれぞれ座って腰を落ち着けた。
「で、アーサー。君は今まで彼女に、一言も僕がここにいると言ってはくれなかったのかい?」
「何故、私がわざわざ言わねばならない?」
「親切心というものがないのか?」
暖かい茶を啜りながら、平然を言うシエルダ公爵に呆れたように言って、セドウィグは続けた。
「ルビウスも同罪だな。彼は仕事にかかりきりだ。」
「ねぇ、話が全然見えないんだけど。ちゃんと説明して頂戴。」
口尖らして話に割って入ったリリアンヌに、ごめんごめんと謝ってから、セドウィグは頭を整理するように話し始めた。
「えーっと、何から話せばいいんだろうか。僕が駆け落ちでマリーと国を出たというは、ルビウスから聞いたかい?」
「えぇ、少しだけ。」
「それが一番上の兄、今の現国王の機嫌を損ねたのか、あの馬鹿な長兄上は、戦争を始めて…。けれど、あの原因は僕のせいではあるね。」
「それで幽閉されいて、なんで今頃死刑なの?」
「最初は古代魔女と関係を持って、国を守るはずの者が国を出たからだったかな。確か、その罪で幽閉ということになったんだ。だけど長兄上は、僕を都合の良い人形にしか思ってなかったから、僕が反発したことに怒ったのかな。それに、古代魔女との結婚は法律で禁止されていたから。」
「禁止?」
「古代魔女に関わることも、関係を持つことさえもこの国では厳禁なんだ。理由は知らないけれど。まぁ、くだらない理由じゃないかな。長兄上がリリアンヌを殺そうとしたのも、そんな理由かな。他にも理由はあると思うけど。」
「じゃあ、お母さんと結婚したから?」
「ルビウスが前に言っていたけれど、籍は入れていないんだよ、僕達は。だから、君のことも僕の子供もとして認知されていない。…ごめんよ。」
すまなそうに言うセドウィグを見つめて、リリアンヌはふっと微笑んだ。
「なんで謝るの?ただ紙切れ上は他人ってだけでしょう?それでもあなたが私のことを娘だって、そう思ってくれてるならそれでいいよ。」
「リリ…。」
「でも、幽閉されて時間はかなり経ってたんじゃなかった?今更処分を決めるって遅すぎじやない?」
「当時は、十年間の幽閉となってたんだ。で、君が10歳の時に長兄上(兄上)からまた国に尽くすと誓うなら、条件付きで刑を軽くしてやるって言ってきた。それが、長期休暇で君達がポータリサに避暑に行く、少し前のこと。だけど、それを断ってしまったから、死刑になるのは確定って訳かな。」
「何も死刑にしなくたって…。」
「大人しく言いなりにならない者は邪魔になるだけで、始末した方が早いからね。まぁ、僕もまだ死にたくはないから、アーサーの家に世話になってるわけだけど。リリアンヌの冬季の試験が終わった辺りに、適当な時期に話してくれってアーサーに言ったはずだけれど。」
「そんなこと言っていたか?」
「これだもんなあ。」
チロリと見やった視線をかわしたアーサーを、セドウィグはやれやれと首を振った。
「二人は知り合い?」
仲良く会話する二人を交互に見ていたリリアンヌは、首を傾げて尋ねた。
「知り合いというより、兄弟みたいなものかな。親戚同士ってのもあるし。ルビウスの父親、クロムウェルとは小さい頃からよくお互い家を行き来したけど。」
「ふーん。だから、この家に来てたの?でもどうせなら、カインドの邸にこればよかったんじゃない?」
「ルビウスの家には、長兄上に見つかりやすいからね。」
「だからといって、ここに居座られるのも困る。ただえさえやかましいというのに。」
「良いじゃないか、君は殆ど家にいないんだから。安心して居れる場所も少ない僕に、つれないことを言わないでおくれ。」
「国を出ればいいものを。」
「簡単なことを言うもんじゃないさ。あの人が生きている限り、僕の自由なんてありはしないんだ。勿論、ルビウスもね。」
「これからどうするの?」
国から出ず、逃げ隠れるのは彼の性分ではないようだ。
「この腐った世を終わらさなければならないね。」
彼はそう言っただけで、笑みを湛えながら茶を啜った。
「何か策でもあるの?」
興味深く聞くリリアンヌに視線を戻して、静かなその瞳で語ってくれた。
「まだ計画を立て始めたところでね。何とも言えない。けれど、これだけは言えることがある。いいかい?君が生まれる少し前に起こった歴史上最悪の戦、ウルーエッド戦のようなことが今また起ころうとしている。今度は、ここいら全ての国を巻き込んで。今あちこちで、魔法師が消えて悪魔達が増えて来ていると聞いた。国民にも悪魔達の影響が出てるらしく、魔法省は混乱していると。それに、今まで戦に無縁だった村外れでも、厳しい王政に反発する村民との紛争が起こってる。全てマリエダを筆頭にした小汚い鼠の群れの仕業だろうがね。」
「何が目的でそんなことを?」
「あの人は、この世の全ては自らの玩具だと思ってる。人の弱みや隙をついては、自らに服従させているんだ。器が手に入れたあとは、この国を手に入れる為に革命を起こすのかな?」
「革命って。」
「うん、そんな良い響きなもんではないね。まぁ、こちらもあちらが派手にやってくれていれば、やりやすいってもんさ。アーサー。」
そこまで話すとセドウィグは、茶をカップに注いでいるシエルダ公爵に向き直って声をかけた。
「なんだ。」
「魔法省に消えた魔法師の名簿を報告するのだろう?そこに僕の名前を入れておいて。魔法省からの信用がある君なら、簡単なことだろ?この機に便乗して、使わせてもらわないと。それと、リリアンヌ。」
殿下が消えたなどと知られれば、大変な騒ぎになるだろうな。
どこか他人事のように考えていたところに、再び視線を戻したセドウィグに話掛けられて驚いた。
「えっ、なに?」
「ルビウスはいろいろ忙しいみたいだけど、あまり彼を困らさないようにね。君は一様狙われてる身だから。」
「困らしてなんかないわ。」
「どうだか。」
ふんと胸を張って言った言葉は、セドウィグに軽く笑ってあしらわれた。そんな二人の父娘を全く気にせず、ここの邸の主は懐から取り出した紙をチェスの駒が散乱した机に広げている。
「なぁに、それ。」
丸めてあった紙が机に広げられると、リリアンヌは覗きこむように彼の向かい側から乗り出した。
「仙里眼だ。魔法省に出す報告書に使われている。」
「古来からある魔法紙でね。精霊や神をこれと契約させて、複数の者を監視、捜索出来るのだけれど、これは…。蒼の神ヘクトルか。」
「蒼の神?」
驚いたように紙を見やるセドウィグに、オウム返しのように問いかけた。
「12人姉弟の神でね。ほら、ルビウスが黒の神を従えてるだろう?あれの姉弟だよ。破壊的な力を持つ黒の神に比べて、蒼の神は比較的穏やかだけれど、少々気難しくて。なるほど、余計なことを言わないアーサーとは気が合うわけか。」
一人納得するセドウィグの脇で、リリアンヌは黒の神と言う名を必死に思い出そうと頭を捻った。どこかで耳にした名前だが、どうも思い出せない。
そんなことをしている内に、小ぶりな机に余るほどだった魔法紙は、青白い光と共にどんどん大きく変化していく。紙の縁から更に新しい紙を再生しているようで、一気に机からはみ出た。机から出たならば、重力に従って垂れるはずだが、紙はなんてことはないかのように、ふわりと浮き上がっている。
「アーサー。」
少し非難がましいセドウィグの声に、用紙の上に乗り上げていたリリアンヌは体を起こして上を見上げた。座っていた椅子と共に空中に浮く彼は、胡座をかいて魔法紙を眺めている。
「何故こんな狭い部屋で、彼を取り出したんだ。」
「お前が、己の名を書き加えろと言ったからだろう。」
セドウィグの向かいに、同じく空中に浮くシエルダ公爵がいた。黒い外套を穏やかにはためかせる彼は、突っ立ったまま何やら呪文を口にして魔法紙の上に静かに降り立った。
まるで呼吸するかのように、穏やかに上下を繰り返している魔法紙は、リリアンヌの手から温かい熱を送って来ている。
「…生きてるみたい。」
リリアンヌのその言葉に小刻みに笑った魔法紙は、大きくその身を波立たせた。あやうく振り落とされるのではないかと言うほどの勢いに、紙に必死にしがみついていたリリアンヌは、向かいに紺青色の小さな竜が座っているのを見つけた。
「…あなたが蒼の神?」
ちっちゃな二本の角、飛べるかもわからない蝙蝠の翼を含めて、手のひらに乗るほどの幼い竜であるが、彼の持つ貫禄は神と呼べるほどのものであった。幼い竜は、その問いには答えず、藍白の瞳を細めて整った鋭い歯を見せた。まるで微笑んでいるようなその姿に、リリアンヌも同じく微笑んでみせた。
その姿に一人満足した様子の蒼の神は、その小さな口からふうっと青白い炎の息を吹き出した。その炎はしばらくもやもやと空中を漂っていたが、やがて決心したように一つ一つ細かい文字に変化して、紙の上に並んでいった。しまいには、小さな竜自身も青白い炎に変化して紙の上に文字を作っていく。
「うわぁ、綺麗。」
竜の光に魅入っているリリアンヌのそばで、シエルダ公爵は全く興味なさそうに次々と書かれる文字を眺めている。その姿に、リリアンヌも紙の上の文字に目を向けた。紙の上には、次々と青い文字で人の名が書かれている。
「これが今、行方不明の人の名前?」
「そうだ。ヘクトル、セドウィグの名前も加えておけ。」
すると、紙の隅に座るリリアンヌの近くで、新しくセドリック=ファム・リヴェンデルと名前が追加された。
「これはリヴェンデルだけの魔法師?」
「いいや、レイヘルトンとサンリーチも含めてだ。さっきより随分と増えたな。」
シエルダ公爵の近くに這って行ったリリアンヌは、ふと目にした文字に呆然となった。
「…なんで?」
「うん?どうしたんだい。」
近くにやってきたセドウィグに、そこから目を離さず指で指した。
「…ジョーン兄さんの名前がある。」
「ジョーンって、ルビウスの三番弟子だった、ジョナサン=ヘル・ハイディリアのこと?」
そう、青い文字が並ぶその中に、つい先ほどまで一緒だった兄弟子の名があった。