16.小さなきっかけ
知らない女性に押し倒されているルビウスを見るのは、酷く不愉快だ。
「まぁ、赤くなっちゃって。初なこと。」
顔が熱を持っているのは、他人に言われなくてもわかる。
唇を噛み締め、ルビウスの体の上に優雅に座る相手を睨みつけて、壁に刺さった煙管を右手で勢いよく引き抜いた。熱をもつその煙管の部分は、リリアンヌの右手を遠慮なく焼き尽くすが、彼女にとってそんなことはどうでもよかった。
侯爵の趣味がどんなものか、わざわざ知りたいなどということは全くなく、出るに出られずに仕方なくこの部屋にいるのだ。
「あなたの趣味に興味なんかありませんけど。ルビウスさんの上から退いてくれませんか?」
「何故、あなたに命令されなくてはいけないのかしら。」
「その人は私たちの師匠です。目の前でコケにされているのを見るのが嫌なので。」
そう、煙草の甘ったるしい匂いに苛々して、師匠がコケにされている姿が不愉快なだけ。
そう自分に言い聞かせて、煙管の吸い口をマクセル侯爵に向けた。
「私が罰を受けるのは当然だけど、ルビウスさんは関係ないでしょう。」
「師匠としての責任があるでしょ?でも、まぁ。」
そんなに罰を受けたいなら。と侯爵は自身の黒く、長い爪の人差し指を煙管に向けて、小さく呪文を唱えた。すると、煙管は生き物のように右手首へと音を立てて絡みついてきた。
「右手を引きちぎってあげましょうか。それがあなたの罰に。」
みるみる内に手首を締め上げる煙管の痛さに、リリアンヌはたまらず悲鳴を上げた。
「リリアンヌ…。」
小さくルビウスが呼ぶ声が聞こえたその後、今度はマクセル侯爵の小さな悲鳴があがった。生理的に涙が浮かぶ視線でそちらに向ければ、膝をついて起き上がったルビウスが、左手で侯爵の首を掴んで押さえ込んでいた。空いた右手には、キラリと光る刃物が握られている。
「…お戯れが過ぎるのでは?いつまでも、やられているとお思いでしたか。命が惜しければ二人を解放してください。」
その言葉に反応するかのように、煙管はより一層手首を締め付け、次の瞬間にはバキッと骨が折れる音が室内に響きわたった。
リリアンヌは痛さのあまり立って居られず、カクンと右手首を庇うように崩れ落ちた。丈夫に作らているパイプ型の煙管は、右手首の肉に食い込み、血が溢れて床へと滴り落ちている。
右手の感覚が麻痺して、これはもう駄目かも知れないと思った時、部屋の窓硝子が全て割れるほどの衝撃で扉が開かれた。
「マクセル侯爵!!」
飛び込んできた男性は、怒りで真っ赤になったルビウスの祖父・シリウスと、今にも倒れそうな真っ青な顔をした男性陣であった。皆揃いの黒い法衣を身につけているからにして、魔法師であろう。そのシリウスの怒りは後々、あれほど怒った顔をしたシリウスを見たのは初めてだったと、ルビウスが語った程だった。
「何という!マイク、早くレイチェルを下ろしてやりなさい。ルビウス、後はアーサーに…。誰か、ロウ医師を呼んで来てくれ!大至急だ。」
若い少年が、シリウスの血相にわたわたと部屋を出て行ったのを片隅に見つめていたリリアンヌは、右手首をそっと触られて痛さに顔をしかめた。
「いっ!」
「あぁ、すまない。ロウ医師が来るまで、痛みを取り除いておかなくては。辛いだろう…。」
知らぬ間にそばに来ていたルビウスが、そっと痛々しい右手首を包み込んで癒やしの呪文をほどこしてくれた。
「ありがとう。大丈夫…。だから、ルビウスさん。そんな顔をしないで?」
決して大丈夫なわけでないけれど、怪我をしている当人よりも酷く辛そうに顔を歪めているルビウスに、泣き言は言えないと思った。
慌ただしく辺りが動く、そんな中、ルビウスの右手が僅かに震えていることに気づいた。
「ルビウスさん、具合悪いの?それか寒いとか。」
あの気味が悪い魔女に眺められていたのだ。
いくら解放されて空気が変わったといっても、まだ不愉快な匂いは残っている。
場所を変えた方がいいのではないかなどと考える中、ルビウスはリリアンヌをそっと引き寄せてすっぽりと腕の中に囲った。
「…ルビウスさん?」
戸惑い気味に問いかけたその答えは、消えそうでか細い声だった。
「…君に、また怪我をさせて。」
「ルビウスさんのせいじゃないわ。レイルだって…。」
「右手を失う所だった。」
それはそうだが。
「…すまない。本当に、すまない。」
黙っているリリアンヌをぎゅっと抱きしめて謝るルビウスは、小さな子供のようで、そんな彼の背中そっとを撫でてやりながら、リリアンヌはしばらくその身を預けた。
そんな二人の姿を優しく見守る外野の中を縫って現れた空気の読めない老師は、ルビウスから一番重傷であるリリアンヌを慌てて引き離した。
息を切らして駆けつけたロウ医師に診察されながら、リリアンヌは非常に恥ずかしい思いだった。
そして驚いたことに、部屋にいる魔法師達の中で良く知った人物の顔を見つけた。三番弟子のジョナサンである。彼は、心配だと言っていたオリヴィアに頼まれて、試験場に潜り込んでいたらしい。(リリアンヌの筆記試験会場でいた変な青年も、ロウ医師を呼びに行ったのも彼だった。)気の毒なことに、彼はシリウスやルビウスの義兄、マイケルにもこってり怒られていた。
リリアンヌに応急手当を施したロウ医師は、ルビウスが肋を二本折っていたということに驚愕し、忙しい身でありながらしばらく寝室から出ることを禁じられてしまった。
「六番目のお弟子さん。爆睡しておるわい。」
床で伸びているレイチェルに駆け寄った医師の言葉で、ルビウスはなんとも言えなさそうな顔をすると、誰に言うでもなく呟いた。
「実技試験でも、それぐらいの度胸は欲しいものだね。」
いや、充分すぎるほどあると思うが。
声に出さずにそう思ったのは、彼には秘密である。
時は過ぎ、酷かった右手首の傷も、幾分いえた頃。怪我の為にカインド本邸で傷を癒やしていたルビウスに、マクセル侯爵があの後どうなったのか尋ねた。
「僕も爺様に聞いたけれど、詳しく教えてくれないんだ。」
「どうして?」
もう随分怪我は良いのに、周りから寝台に縛り付けられている彼は、上半身だけを起こしていて、さあ?と首をすくめた。
「よく知らないけど。どうしても知りたいなら、他の人に聞いてごらん。」
「そうするわ。ねぇ?審判ってなんのことなの?」
あの侯爵が言ってたじゃない。そう繋げたリリアンヌの言葉に、あぁと言ってルビウスは答えてくれた。
「罪人を裁く人の事で、マクセル侯爵の家系は昔から持つ能力の為に、それを特別に古くから委ねられてきたんだ。」
「ふーん、偉い人なんだ。」
なるほどと返したリリアンヌは、用は済んだとばかり部屋を去ろうとして立ち止まり、そうだ。と振り返って付け加えた。
怪我をした頃から、こうして二人きりで話すのはどこか照れくさくなって、面と向き直って話すのは久しぶりのことだ。
「未来のルビウスさんに会ったけど、なかなか格好よかったよ。」
時空渡りという、未来や過去に生身で渡る魔法を故意でなくとも使ってしまったことに、ルビウスやシリウスからレイチェルと共に随分怒られたが、そのことはまだ言っていなかった。
「喜んでいのかな?」
「いいんじゃない?あと…。」
「うん?」
「その、マクセル侯爵のことだけど…。」
「なんだい?」
歯切れが悪いリリアンヌに、彼はにこやかに微笑んでいる。その微笑みに向かって叫んだ。
「あの人、ルビウスのこと好きなのね!とってもお似合いだと思うわ。」
自分で言っておいて、言ってしまってから何を言ってるんだと慌てて言葉を足した。
「いや、だから。ルビウスさんも、その…、あぁいう人が好きなのかなと思っただけ!」
更に墓穴を掘ったような慌て振りのリリアンヌを見て、ふっと笑ったルビウスは、寝台に寄りかかったまま答えた。
「なんとも微妙だね。確かに向こうは、好意を抱いてくれているみたいだけど、それは僕が父の子供だからだよ。現に、弟のアレックスも好んでいるし。まぁ、祖父と母親似の彼より、若い頃の面影に似ている僕の方が良いらしいけれど。あのマクセル侯爵は、小さい時から父にぞっこんだったらしいよ。僕にしては、母親並みの年である女性は、悪いけれど好みではないね。」
そう言って苦笑しながら、答えた。
「へぇ。」
「リリアンヌは、僕の女性のタイプを聞かないの?」
「なっ!私はあなたの女性のタイプなんて興味ないもの!」
少しからかい気味に聞かれた質問に、少々むきになって言い返せば、彼に愉快そうに笑われただけだった。
「もう!」
バタンと盛大に音を立てて閉めた扉をしばらく廊下で眺めていたリリアンヌだったが、しばらくたって鼻歌を歌うほど上機嫌でその場を去ったのだった。
「誰に聞こうかな。」
上機嫌で本館に戻ったリリアンヌは、ウロウロと邸の中を巡り、侯爵がどうなったのか教えてくれそうな人を探していた。途中、ルビウスの見舞いに来たであろうアレックスを見かけたが、相性が悪い彼には聞きたくない。そう思ってさっと道筋を変え、厨房にいたキャサリンや、食堂にいたジョルジオに聞くが、知らないと言われてしまった。
やはりシリウスに聞くしかないのか、と思案していたとき、運良く邸に来ていたルビウスの一番弟子、フレドリッヒに出会った。彼もルビウスの見舞いだろうか。
「フレッド兄さん。」
「あぁ、リリアか。」
「何、そのどうでもよさそうな返事。」
久しぶりに妹弟子に会ったならば、もうちょっと言い方があるのではないか。そう口を尖らすリリアンヌに、フレドリッヒは渋い顔で話してきた。
「先生も怪我をされて、おまけにリリアも学校と仕事、共に遅れていると言うし。更には、レイルと一緒に謹慎処分。ヴィアもジョーンもしばらく魔法を使用禁止。その間の仕事をリアンとリックで回すなんて、出来るはずがないのに。」
はぁー。と長いため息をついたフレドリッヒは、見下げるようにリリアンヌを見ている。
痩せた体系で、けれど背は割とあるために、上から見下げられるとかなりの迫力がある。
「リリア、弟子になったら仕事を手伝ってくれるはずだな?」
「…そんなことも言ったっけな?あっ、でもちゃんと仕事してるよ!」
ルビウスの弟子になる際に、渋る師匠を折ることを手伝ってくれたフレドリッヒ。その時、リリアンヌは怠け者のオリヴィアの分も、仕事を手伝うからと掛け合っていた。しかし、弟子となってもうすぐ二年。ルビウスから言われている仕事は文句を言わずに手伝っているし、勿論、その分の報酬もちゃんともらっている。約束は破っていない…はずだ。
なのに何故、彼は怒っているのだろうか。
水晶玉のような美しい水色の瞳は、静かに怒りが籠もっている。男性でありながら、綺麗な容姿をもつフレドリッヒは、怒り方もそれはそれは恐ろしく、兄姉弟子の中で一番怒らせたくない人物である。
「片付けても片付けても、リリア、君が仕事を増やす。」
「ご、ごめんなさい。」
おどおどと謝るリリアンヌに、フレドリッヒはやれやれと首を振って小さく呟いた。
「…全く、先生はリリアに甘すぎる。」
「うん?」
「いいや、何でもない。」
「ふーん。あ、そうだ。フレッド兄さん、マクセル侯爵がどうなったのか知らない?」
「マクセル?あぁ、あの魔女のことか。シリウス様が、偉く怒ってらっしゃったから。当分牢からは出て来れないだろう。…そうだ、忘れるところだったけど。これ、リリアに。用がそれだけなら、私はもう行くよ。」
懐から茶色い封筒を取り出した彼は、それをリリアンヌに手渡すとルビウスの寝室へと向かってさっさと歩いて行く。
「ねぇ!私にはお見舞いないの?」
そんな彼の後ろ姿にそう叫んでみれば、彼は顔だけ振り返って左側のポケットを軽くたたいて答えた。そのまま何も言わずに去ったフレドリッヒを見送って、リリアンヌは自分のスカートの左側に手を突っ込んでみる。先程まで空っぽだったそのポケットからは、綺麗な蜷局をまいた棒付きの飴が、一つ現れた。
「…飴、一つって。」
小さな子供じゃないんだから。
ちょっと期待したのを裏切られた気分である。
貰った手紙を見るため、(裏面を見れば、魔法省と書かれてある)静かな図書室にやってきたリリアンヌは、お気に入りの階段の中ほどで腰を落ち着け、手紙の封を破った。
今の季節、雨降りの雨期が過ぎ去って、学校では夏休みを間近に控えてはいるものの、怪我をしてほとんど邸を出ない生活をしている彼女にとっては、夏休みが一足早く来た気分である。そんな彼女の最近の楽しみは、うるさい兄弟に邪魔されないこの静かな図書室に通うことであった。本を見つけるのもお手のものとなって、あちこちから引っ張り出して階段で読みあさっている。さて、薄い手紙の封を破ったリリアンヌ。折りたたんである丈夫なカードを取り出して、内容を読んで落胆した。カードに書かれていたのは、『不合格』の文字。
「…やっぱりなぁ。」
「何がやっぱり?」
「あ、また来たんだ。」
数段上の階段から声をかけてきたのは、リリアンヌの実の父にあたるセドウィグ殿下。リリアンヌが図書室に通いつめているのは、どこからともなく現れる彼に会うためでもあった。いつも音を立てずに現れてはやってきて、家主であるルビウスに見つかる前に去るので、突如現れても驚かなくなった。
「あの家は居心地は良いけれど、話し相手もいなければ、外に出れないから不便だよ。」
そう呟いて、彼はリリアンヌが手元に持つカードを覗き込んだ。
「魔法省から、試験の結果が送られてきたの。でも、駄目だったわ。」
「そうか、残念だったね。」
「うん、でも結果はわかってたもの。ほら、時空渡りをしたとき。六年たった私がそう言ってたのよ。」
そう、カインド邸を出るという六年後の彼女に応援するといった時、彼女はお礼に初めての試験の結果を教えてくれたのだった。全く良い(よい)ことではなかったが。
「まぁ、次があるよ。」
「そうね。もうすぐ夏休みで、ポータリサに行くから、ルビウスさんに教えてもらえるし。」
「そうか、夏休みか。寂しくなるね。」
あからさまにがっかりしたセドウィグを見上げて、リリアンヌは乾いた笑い声を上げた。
「たった数ヶ月のことでしょう?帰って来たら、またここに来てあげるから。」
そう言ったが、セドウィグはただ寂しそうに笑っただけだった。
「あ、レイルは結果どうだったんだろ。今回試験落ちたら、実家に帰らなくちゃいけないだって。」
そんなセドウィグを放って、リリアンヌはぱたぱたと図書室を飛び出した。
あの日起こった出来事は、リリアンヌとルビウス、二人のほんの小さなきっかけの一つとなったのは言うまでもない。しかし、どんなきっかけかは、残念ながらもっと後のお話になりそうであるが。