12.図書室の男
一方、本館の二階、西端にある自分の部屋へと戻って来たリリアンヌは、その暫く見ない内にまるっきり変わっている部屋に驚愕していた。見る先から溢れるゴミの山、山、山。いくら元の部屋が散らかって汚いからといっても、流石にゴミを溜めた事はない。
ゴミの大半は、お菓子の包み紙や飲料が入っている空き瓶、雑誌、さらには蝋燭を灯した名残もある。そのせいか、換気をされていないリリアンヌの部屋は悪臭が籠もり、食べ物のカスを嗅ぎ分けた小汚い鼠の軍団と、お決まりの黒い物体がカサカサと音を立てて動き回っている。さらには、五月蝿い虫まで飛び回っているのだ。
その部屋の姿を見れば、全うな女子なら悲鳴を上げてひっくり返るほどだ。しかし、ご存知の通り、そのような可愛らしい性格ではない彼女。あまりの変わりように驚愕するだけだった。
そんな部屋の様子を見る限り、完全に宴会をしていたであろうと伺えるが、あいにく部屋の主のリリアンヌではない。公爵家の使用人達がそんな馬鹿な訳がないし、忙しい主でもない。従って、一番容疑者として怪しいのは、後ろでニヤニヤ笑っている栗毛の兄弟だろう。
「おい、リリア。悲鳴ぐらいあげたらどうだ?男から見たら、可愛くもないぞ。」
流石、農家の息子だけあって、リリアンヌの部屋の惨状を見て悲鳴など上げず、ただ面白そうに見ているだけだ。
「ジョーン兄さん、リリアに可愛さを言ったて無理だよ。」
ジョナサンの左斜め後ろにいる弟、ジュリアンは腹を抱えて笑い出した。そんな彼らを見て、リリアンヌは怒りが爆発しそうになった。
「ちょっと、二人ともいい加減にしてよ。私の部屋をゴミだらけにして!宴会するなら自分の部屋でしたらどうなのよ。」
「俺達の部屋じゃジョルジオに直ぐ見つかるんだよ。まっ、リリアの部屋なら元々汚ねぇし?」
「やれやれ、困った人達ですね。」
全く悪びれもしない二人に、さらに言い募ろうとしたとき、呆れ気味のジョルジオが現れた。
「げっ!ジョルジオ?」
「暫く大人しくしてたと思ってたんですが。キャサリンのお菓子をこんな所で食べてたんですね。全く、お二人共逃げられると思わないで下さい。」
ジョルジオの姿が現れた途端、ばたばたと逃げだそうと思った兄弟は、先手を打たれた老執事に兄弟もろとも首根っこを掴まれ、リリアンヌの部屋へと投げ込まれた。
「女性の部屋に許可無く入り、しかもゴミだらけにするなどもってのほか。魔法を使わず部屋を綺麗にするまで、部屋から出てはいけませんよ。リリアンヌ様、掃除が済み次第お呼び致しますので、暫くオリヴィア様のお部屋でお待ち頂けますか?」
喜々として返事をしたリリアンヌに、にっこりと微笑んだジョルジオは、部屋へと入って入り口に陣取った。
そんなわけだから、帰っているのかわからないオリヴィアの部屋へと向かう。彼女の部屋はリリアンヌの斜め向かいで、すぐについてしまった。
扉を叩いて部屋の主からの反応を待つが、一向に反応は帰って来ない。もう一度叩いてみるが、返事はなかった。仕方がないので、時間潰しに本館三階にある図書室へと向かう。
「リリア、どこに行く?」
途中、学校から帰って来たらしいレイチェルに会い、オリヴィアがいない事を伝えると、彼女の部屋へと誘われたが、試験が確か近かったようであったから礼を言ってそれを断った。
リリアンヌの部屋と反対に位置する図書室は、西館にある書籍室とは異なり、リリアンヌでも読めそうな本が置かれているという。実際に入った事は無かったから、好奇心でいっぱいだ。
少し分厚い古びた両扉の内、一つを押し開いた先には、夕日が差し込んだ煙突のような広い図書室が姿を現した。
目の前には、広い机と規則正しく並んだ椅子。奥には、これまたびっちりと並んだ多くの本棚がある。光に誘われ、頭上を見上げると天井は遙か高く、円形に習って壁の側面には本棚が埋め込まれ、辺りには螺旋状の階段と橋渡しの階段が幾つも掛かっている。
そんな部屋を目のあたりにしたリリアンヌは、思わず駆け出していた。
「素敵っ!素敵っ、こんなに本があるなんて。」
孤児院ではこんなに綺麗な本や、分厚い本など目にする事など不可能に近かった。綺麗な本が何人もの子供達に盥回しに読まれ、元の絵の色まで分からなくなっていったし、少しでも厚さがあれば、破られ、ページがいつの間にか減っていった。
そんな本が当たり前だったから、綺麗な本が並ぶのを目のあたりにして、誰がじっとしていられよう。
近くの螺旋状の階段を駆け上がったリリアンヌは、壁紙のように並ぶ本を眺めながら、そしてその本棚の間から時折顔を出す、大きな窓硝子を覗き込んだりと大忙しだ。
流石は魔法使いの屋敷と言うべきか、邸には魔法がかかっており、天井にたどり着く事はほぼ不可能に思える。永遠に続くかと思われる、濃緑の絨毯を敷き詰めた階段に、少し疲れてきたそんな頃、リリアンヌは右脇に現れた穴熊の巣ような個室を見つけた。
「何だろ、ここ。」
暖炉は無くても図書室は暖かいのに、その部屋には中くらいの暖炉が一つに、人ひとりがやっとの淡い灰色の長椅子と小さな机が置かれていた。思わず足を踏み入れると、個室全体がおかしなことに気がついた。まるで、歪んだ鏡の中にいるような錯覚になるのだ。少し気分が悪くなったリリアンヌは、部屋を出ようと入り口に顔を向けた。そのとき、キラリと視線の先に何かが光ったように見え、思わず部屋へと再び顔を戻した。しかし、光った正体は見つからず、ふらりとリリアンヌは真正面にある本棚へと近付いて行った。
リリアンヌの背丈より少し高い位置にあったのは、薄っぺらい銀色の表紙に包まれた絵本のようだった。辺りには、分厚く高そうな本が並ぶのに、一冊だけやけに目立っているそれが気になって、リリアンヌは背伸びをして無理やり引きだそうとした。
台も使わずに本を引きだそうとしたからか。勢いに任せて引っ張ったたため、絵本の左右にあった分厚い本までも引っ張っり出すことになってしまった。
「うわっわ、あ!」
しまったと思った時には、既に時遅し。高そうな本たちは絨毯が引かれているのにも関わらず、鈍い音を立てて着地した。
「あー。」
怒られるかなぁと思いながら、本を拾おうとしゃがみこんだリリアンヌの目に飛び込んで来た文字は、【全集:人名事典】という名の分厚い事典。それが、リリアンヌが触れた途端、風も無いのに独りでにパラパラと一面を捲り、ある一面でその勢いが止まった。
ズキズキと痛む頭を支えて、ゆっくりとその言葉を口に出して読み上げる。
「セド…リック、ファム…リ、ヴェン、デル。」
―セドリック=ファム・リヴェンデル
その一面にはそう記されていた。
「セドリック?」どこかで聞いたことがあるような名前だと思いながら、先を読み進める。
「セドリック=ファム・リヴェンデル。元の名をセドウィグ・キングリー。36代国王の第二正妃の嫡男。」
そこまで読み進めた時、カタンと後ろから物音が聞こえ、パッと振り返った。
すると歪んだ部屋の入り口には、見慣れない男性が一人突っ立ていた。黒髪に深紅の瞳のその男性は、まるで悪戯が見つかった少年のような顔をしている。
「…やあ。」
「どちら様?」
やや間があってから、やっと口を開いた男性は、軽やかに挨拶をしてきた。それには返事を返さず、何者かと尋ねたリリアンヌに男性は首を竦めると、なんてことはないかのように話し出した。
「ここの主である彼、ルビウスとは彼が小さい頃からの付き合いなんだ。だから、よくここの図書室に入り浸ってるんだけど。君は?どこかで見た顔だけど?」
ルビウスが年を取ればこんな感じになるのかもしれないななどと、呑気に考えていたリリアンヌは、問いかけられてはっと中年にしては若く見える男性を見上げた。
「私、ルビウスさんの七番弟子よ。ちなみに、私はあなたとなんか会ったことないわ。」
「あぁ、弟子か。ルビンもとうとう七番目をとったのか。そうなら僕に一言、言ってくれてもいいのにな。しかしまぁ、気が強いお嬢さんだね。あの人を思い出すよ。」
知り合いだと言う男性は、一人呟いていたので、リリアンヌは手元の事典に目を戻した。
「用が無いなら出て行ってもらっても?」
本というのは、静かな場所でないと頭に入ってこない。服装からして、どこかのお偉い貴族の方だというのはわかるが、用もないのに近くでベラベラ喋られると、気が散ってしまうではないか。そんな風に言ってやったのに、男性はピクリとも動かず、リリアンヌを見つめている。半ばイラつきながら、まだ喋り足りないのかと男性を睨んでやると、リリアンヌの睨みなど気にしないように彼は口を開いた。
「これはほんの助言だけど、本を読むなら、この部屋を出て読むことをお薦めするよ。ずっとこの部屋に居ては、気分が悪くなってしまうよ。」
そういえば、先程からガンガンと頭は鳴るし、吐きそうな気分ではある。そう思ったら、さらに気分が悪くなったリリアンヌは、男性の助言を有り難く受け取ることにした。読みかけの事典を部屋に移動させるにはあまりに重いので、少し気が引けたが読んでいた一面を破りとって服のポケットへと突っ込んだ。取りあえず、重い事典を閉じるだけ閉じ、リリアンヌは颯爽と男性の脇から部屋を出た。
「ご親切に助言をどうもありがとう。」
勿論、お礼を言うことも忘れずに。
「…本は大切にするように、誰からか教わらなかった?」
振り返って見た男性は、腕を組み入り口に寄りかかって、片眉を釣り上げでいた。いかにも怒っているという体勢だが、リリアンヌは何故か彼が本気で怒っているのではないとわかった。だから。
「確か聞いたことがあったような、無かったような…。」
惚けたように言葉を濁せば、男性は、今回だけだぞと言うように口元を緩ませた。
「ねぇ、ルビウスさんの親戚の人?どこから入って来たの?」
親近感が湧いた彼に、自然と質問が口を飛び出していた。
「親戚…ではないかな?いや、厳密に言えば、親戚になるのか。どこから入ってきたかって?僕も魔法使いだから…。」
「リリア―?」
「誰か呼んでるよ。」
親切にも答えてくれそうだったところに割って入ってきたのは、己を呼ぶオリヴィアの声。
「ヴィア姉さんだ。なんだろ。」
「それじゃ、僕もそろそろお暇しないといけないね。」
階下に気を向けていたリリアンヌを置いて、さっと階段を上がり始めた男性を思わず引き止めた。
「待って!」
「うん?」
「また会える?」
次の段に右足を乗せたまま、振り向いた彼にリリアンヌは、思わずそう聞いていた。
彼は、しばらく黙っていたが、やがてにっこり微笑むと、「君が僕に会ったことを秘密にしてくれるなら。」と言ってまた階段を上がり始めた。
「リィリーアー?」
やがて、近くなってきたオリヴィアの声に返事を返して階段を降り始めた時、名前を聞き忘れたと振り返ったときには、男性の姿は無く、ひたすら続く階段があるだけだった。
「ちょっと、リリア!どれだけ探したと思ってるのよ。」
やがて上がってきたオリヴィアの小言を耳の隅で聞きながら、リリアンヌは名残惜しそうに男性がいた場所をしばし見入っていた。
「ちょっと、リリア。聞いてる?」
「え?あっ、うん。ごめんなさい。」
うっかり聞き逃したリリアンヌは、素直に謝ってオリヴィアに向かい合った。彼女は、小さくため息をつくと、階下を差しながら言葉を続けた。
「そろそろ晩御飯にしようって。私もう、お腹ペコペコ。」
「私も!」
慌てて、階段を降り始めたリリアンヌをオリヴィアが、さっと引き止めた。
「リリア、その紙は何?」
「うん?あぁ、これ?さっき読んでる途中だったから、後で読もうと思ったけど…。もういいや。ヴィア姉さん、戻しといてくれる?」
ポケットからグシャグシャになった紙切れを取り出し、オリヴィアに手渡すと、気を取り直して階段を降り始めた。
「戻しといてって…。」
カサカサと紙を広げたオリヴィアは、その一面を見るやいなや、まるで犬が尾を踏まれたような叫び声を上げた。随分と階段を降りていたリリアンヌは、何事だろうと振り向くと、顔を真っ青にさせたオリヴィアと目があった。
「ヴィア姉さん、どしたの?」
「どしたのじゃない!リリア、あんたなんて物を破ってるの!?」
少し声を張り上げないと届かない距離になってしまった分、オリヴィアの声は図書室に随分と響く。
「なんて物って事典?」
「これ、ただの事典じゃないのよ!あたしたちが、一生働いても返せないような高価な本なんだから!?あぁ、ジョルジオに怒られるっ!」
悲痛な声を上げるオリヴィアに聞こえない小さな声で、悪態をついた。
「そんな高価な本を目につくとこなんかに、置いてたのが悪いのよ。」
「なんですって!?リリア、どうするの、これ!」
聞こえないほど小さな声のはずが、ばっちりオリヴィアには聞こえていたようで、 慌ててリリアンヌは階段を降りきった。こういう場合は、逃げるが勝ちだ。
「こら!どこに行くのっ!」
「ごめんなさーい!」
「ごめんなさいじゃないっ!」というオリヴィアの怒鳴り声を背に聞きながら、リリアンヌはそそくさと図書室を逃げ出し、食堂へと向かった。