第四話 悪夢の始まり
少しだけ、暴力的シーンなどがあります。お気をつけ下さい。今回は、アンジュリーナとリリアンヌ中心です。
今にも嵐になりそうな大空を見上げて、リリアンヌは駆け出した。ベクトルよりも先に馬車を降り、フレドリッヒの元に向かったはいいが、どうも長兄の元には辿り着けない。組み立て式の小屋と小屋との間が狭く、さらにはむさ苦しい男たちが通るため、前に進めないのだ。
「ちょっと、すいませんっ」
「おっと」
無理やり男たちの間をすり抜け、必死に前に進もうとするが、まだ幼い少女は男にぶつかり、はね飛ばされる。
「痛い」
図体のデカい男に当たり、その反動ではね飛ばされた。無様に地面にぶつかると擦りむいたのだろう、右肘から血が流れている。
唇を噛み締めて傷の具合を見ていると、ふと目の前に人の気配がして顔を上げた。見れば、年は中年ぐらいだろうか、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべて濃い紫色の騎士団の服を着た男性が立っている。
「よぉ、嬢ちゃん。一人でこんな所にいちゃ危ないぜ。もしかして、男にでも会いに来たのか?うん?」
「違うわ。フレッド兄さんに会いに…」
「フレッド?あぁ、あのいけ好かないラービンか。残念だが、お前さんのようなおチビさんに、エル・ラービン第三隊長は興味ないだろうよ。俺で良かったら、相手するぜ」
そう言うと筋肉で盛り上がった自身の右腕を伸ばしてきた。思わずぎゅっと目を瞑ったが、その手は何時まで経ってもリリアンヌに触って来ない。
「いててててっ」
痛さに声を上げる男の声を聞いて目を開けたリリアンヌは、その様子をぽかんと見上げた。捻られてる右腕は、ひとりでに後ろにひねり上げられており、それは何とも奇妙な光景だった。
「うちの末の妹弟子に声を掛けるなら、先生の許可を取ってからにしていただきたい」
そんな男の後ろから少し怒った様子で姿を現したのは、今から会いに行こうとしていたフレドリッヒだ。
「なに!妹弟子?」
「えぇ、そうですよ。先生に殺されたくなければ、今すぐここから姿を消しなさい。今後、彼女に近づかないと誓ってね」
男の耳元で囁いたフレドリッヒは、顔に無数の傷を付けた男の必死に誓うと叫ぶ声を聞き、ようやく身柄を自由にしてやった。
「フレッド兄さん、ありがとう」
男の慌てて去る後ろ姿を見ていたフレドリッヒは、リリアンヌの言葉で険しい顔のまま彼女と向き合った。
「リリア!君は、なんで一人でこんな所にいるんだ」
怒りながらも立つのを手伝ってくれた兄弟子に、リリアンヌはふんと威張って言い返した。
「私、フレッド兄さんを助けに来たのよ」
「くだらない冗談はよしなさい。外出許可を先生から貰っているのかい?」
「外出許可?そんなの、なんでルビウスさんに言わなきゃいけないの?」
意味が分からないと首をふるリリアンヌを見て、フレドリッヒは心底呆れたというような、はぁーと長い溜め息をついて、右手で額を覆った。
「あいつらは仕事をほったらかして、一体何をしてるんだ。先生から大目玉を食らうぞ。で、ここまでは何で?誰かに飛ばして貰ったのかい?」
「ううん。ベクトル様の馬車に乗せて貰ったの」
ベクトル?とフレドリッヒが眉を寄せて聞き返してきた所で、ヨロヨロと右側から歩いてくるベクトルが見えた。
「やはり、あいつか。リリア、あの男には今後関わらないように」
「あら、どうして?いい人じゃない」
「先生からの指示だよ。私もあの男はあまり好きではない。…いいね」
師匠や兄弟子の命令で人との付き合いを強制させられるのは、一体どういうことだと不満を漏らしたが、フレドリッヒの有無を言わせない圧倒さに負けて、リリアンヌは大人しく頷いた。
「おぉ、フレドリッヒ殿。ようやく辿り着けた」
「これはこれは、ベクトル殿。こんな国境の果てまで来られて、どうされました?」
ひぃひぃと言っていつもの笑顔を向けてくるベクトルに、若干顔をひきつらせながら、フレドリッヒは何でもないように聞いた。
「上から、この案件の意見を聞いてくるよう言われまして」
「そうですか。しかし、ごらんの通り、呑気に書類に目を通せるような状況ではないのですよ」
「お忙しいのは、重々承知なのですが。うーん、しかし困りました」
「申し訳ありません。幹部の方々に、そうお伝え願いますか?」
「いえ!それでは私の立場がありません。どうか、一時間、いえ、三十分お時間を頂けませんか?簡単に質問に答えて頂くだけで構わないので。お願いします」
なおも食い下がるベクトルに、迷惑そうに顔をしかめながらも、フレドリッヒはその半分、十五分なら時間を空けましょうと言った。
「ありがとうございます。おや、魔女殿。肘から血が出ておりますよ。手当てを致しましょう」
「いえ、直ぐ側に医師がいますので、そちらで手当てをしてもらいます。あなたのお手をわずらわせる程でもありません。お気持ちだけで。あぁ、そうだ。リリアンヌが大変お世話になったそうで、兄弟子としてお礼を申し上げます」
ありがたいと思ってるとは到底思えない視線で、チラリとベクトルを見ると、無理矢理にリリアンヌをせき立てて歩かせた。
「お礼を言われるまでもありませんよ」
背後から掛けられた言葉は、冷たく殺気を帯びていた。後ろを振り返ってベクトルを見ようとしたが、フレドリッヒはそれさえも許さず、無理やりといったふうに直ぐ側にあった小屋に入らされた。そこは簡易医局となっている小屋だったようで、リリアンヌが医師に手当てをして貰っている間、フレドリッヒは不機嫌そうにまた外に出て行った。
治療が終わり、暇つぶしに布の隙間から外の様子をこっそり伺うと何やら外は慌ただしくなっていた。医師が違う患者を見てる隙を見計らい、するりと外に飛び出した。
「フレッド兄さん、どこ行ったんだろ」
彼は直ぐに戻るとは言っていたが、大人しく待っているというのは性に合わない性格だ。
それにまだ伝えていない事がある。狙ったかのように金髪に水色の瞳の若い男性。金髪は多く街にいるが、水色の瞳を持つ者はなかなかいない。馬車に乗る間際に聞こえた声も合わせると、この一連の犯人はフレドリッヒを狙っている。早く伝えなければ。
きょろきょろと辺りを見渡していた時、不意に背後からリリアンヌの手首を掴む手があった。
その手は氷より冷たく、リリアンヌの体温を奪っていく。そのあまりの冷たさに、生身の人間ではないと悟ったリリアンヌは、掴まれている手首を振り払うと背後に振り返った。
「リナ…?どうしてこんな所に」
手首を掴んだ人物は、こんな場所に居るはずがないアンジュリーナだった。うっすらと微笑むアンジュリーナの肌の白さは蝋人形よりも白く、血の気が無いため青白く見える。彼女の赤い髪は艶がなくボサボサで、色あせ随分手入れがされていないようだ。澄み通った青色だった瞳は濁って灰色となっており、リリアンヌが知っている彼女とは同一人物とは思えない。
「どうして?リリアこそ、どうしたの」
「私はフレッド兄さんに会いに」
うろたえるリリアンヌの手をまた、アンジュリーナはそっと取って微笑んだ。
「私に隠し事するなんて」
「リリアっ!」
いつもと雰囲気が違う彼女に、会話が成り立たないことで困惑していると遠くからフレドリッヒが自分を呼ぶ声が聞こえて、顔をアンジュリーナから逸らした。
「あら、偶然ね。私もフレドリッヒ様に会いに来たのよ?…フレドリッヒ様にお近付きになりたくて。なのに、いつもリリアばかり。リリアと仲良くなったら、私も見て下さると思ったのに。…使えないのなら、あなたはもういらない!」
殺意が籠もった声にはっと気付いた時には、リリアンヌを守るために発動させたフレドリッヒの防衛壁をいとも簡単に突き破って、無数の真っ黒なコウモリがリリアンヌに一斉に群がった。目の前が瞬く間に闇に包まれ、息苦しさでもがくリリアンヌをコウモリの群れが、ずるずると闇の奥深くへと引きずり込んでいく。
「…ごめんなさい、リリア。でも、あなたが悪いのよ?」
意識が朦朧とする中、高らかに笑う声とアンジュリーナの歪んだ笑顔を最後に、リリアンヌの視界は真っ黒に染まった。
ふと冷たい感触を頬に感じて目を覚ませば、リリアンヌは冷たい地面にうつ伏せに倒れていた。
「うっ」
鉛のように重い体を無理やり起こして、ゆっくりと辺りを見渡した。
「ここ、どこ?」
先程までは、野外にいた筈だが見るからに彼女が今いる場所は、どこかの屋敷内のようだ。ひんやりとした冷気が漂う薄暗い廊下には人一人おらず、辺りはしんと静まっている。のろのろと壁伝いに立ち上がって、リリアンヌは一人考えた。
「フレッド兄さんを探しに外に出たら、リナに会って。それから…」
得体の知れないコウモリの群れに飲み込まれたんだった。そう思い出して、ぶるっと身を振るわせるとリリアンヌは両腕で自らを抱きしめるように、両腕ををさすって辺りを見渡した。
廊下には、時代遅れの蝋燭の火がぼんやりと等間隔に並び、うっすらと廊下を照らしているだけだ。しんと静かな屋敷に漂う闇を見れば見るほど、得体の知れないモノが潜んでいるように思えてならない。
「…お、お化けなんていないんだから!」
じわじわと湧き出てきた恐怖心を断ち切るかのように、思わずそう呟いたリリアンヌ。自分を奮い立たせるかのように、声を大にして叫んだ。
「怖くなんかないわ!」
すると、彼女の声に反応するかのように、どこからかガタッと重々しい音が響いた。
「ひっ」
思わず悲鳴を上げたリリアンヌだったが、ゴクリと喉を鳴らして音のした方向をじっと睨んだ。
「誰かいるの?」
自分でははっきりと言葉を発したつもりであったが、リリアンヌの耳に聞こえたのは、か細く震える少女の声だった。
「誰かそこにいるんでしょう?隠れていないで、早く出て来なさいよっ」
いつもの勝ち気な声がリリアンヌから発せられると、数メートル先の扉が高らかな不協和音を奏でながら、ゆっくりと開いた。一際明るい暖炉の灯りが、廊下へと漏れる。
しばし、中から何かが出てくると気を張っていたリリアンヌだったが、部屋の中からは一向に何も姿を現さない。ならばこちらからと思い、静かに足を踏み出した。
足音さえ響かない屋敷内の造りはしっかりとしていて、それなりに金持ちの貴族の家だということが窺える。けれど、活気がない屋敷の中は、不気味さに拍車を掛けている。誰にも会わない廊下をゆっくりと歩いていると、窓の外からうっすらと薄い雲が掛かった三日月がぼんやりと見えた。
扉が開いたままの部屋の近くで立ち止まると、扉に身を潜めるかのように隠れながら、そっと部屋の中を窺った。
「この役立たずがっ!」
バシンッという派手な音と共に部屋の中央の床に投げ出されたのは、リリアンヌをこんな場所に連れ込んだアンジュリーナだった。思わず声を掛けようとしたが、それを遮って近くに佇んでいた彼女の父が怒鳴りつけた。
「失敗しただと?」
「はい、でもまだ良い機会はありますわ!七番目の弟子と友達になったのです。上手くいけば、フレドリッヒ様にお近づきに…」
そこまで喋ったアンジュリーナを父親は、右手で思いっ切り平手打ちした。パンッと乾いた音が部屋に響く。
「『上手くいけば』だと?何を生ぬるい事を言っているっ。ラービン家の嫡男は、こちらには興味が無いと言ってるではないか。その七番目の弟子が来てから、その者に掛かりきりだと言うし…折角、ラービンの息子をお前を使ってこちら側に付けようと思っていたものをっ!」
せわしなく部屋を右往左往する父親をアンジュリーナは悲しそうに見つめていたが、やがて体を起こして父親を説得しようとすがりついた。
「お願いです、お父様。七番目の弟子はなんとか致しますわ!ですから…」
「そうか…。邪魔ならば消してしまえば良いのだ」
「え?」
ぽつりと呟き、にんまりと不気味な笑みを作った父親は、アンジュリーナの肩を掴んで顔を近づけた。
「アンジュリーナ、計画は変更だ。フレドリッヒではなく、師のルビウス・カインドにしなさい。幸いにもまだあいつは独身だ。七番目の弟子と仲良くなったのなら、簡単に近づける」
「でも、私はフレドリッヒ様をっ」
「こちらに興味を失った奴などに、いつまでも構って居られるか。それに、お前の気持ちなどは二の次だ。貴族の娘は所詮、只の道具に過ぎないなのだからな」
そう突き放す父親を呆然と見上げていたアンジュリーナは、視線を逸らして黙って頷いた。
「ルビウス・カインドを手玉に取り、権力を根こそぎ奪え。手段は選ぶな。邪魔な者は消せ」
「消す?魔法も使えない私がどうやって…」
「なーに、安心しろ。あの方から必要ならばこれを使えと頂いたからな」
そう言って父親が黒い上着の物入れから取り出したのは、小さな透明な瓶に入った赤い液体。こっそり中を窺っていたリリアンヌは、一体あれは何だろうかと首を傾げながらもっとよく見ようと身を乗り出した。一方、赤い液体を見たアンジュリーナは顔を真っ青にさせて震えだし、身を縮こまらせている。
「…お父様。それだけは、お願いです。どうか、お許し下さい」
「何を恐れる?苦しいのは最初だけだ。直ぐに楽になる…さぁ」
娘の口に無理やり液体を流し込んだ父親は、満足そうに笑って部屋を出て行こうと踵を返した。アンジュリーナに目を奪われていたリリアンヌは、とっさに身を隠す機会を見失い、扉を迂回して来た父親とばったり対面してしまった。
「えっと…」
こんな場合は早々に逃げるに限るが、反射的に言い訳を頭の中で考えたリリアンヌは、そう口を開いた。しかし、狼狽えているリリアンヌには目もくれず、誰もいないかのように父親は脇をすり抜けて行った。
「あれ…?もしかして私、見えてないとか?」
しばらく呆然としていたリリアンヌだったが、はたと思い出したようにアンジュリーナに駆け寄った。
「うぐっ…げほ」
部屋の隅でうずくまるアンジュリーナは、大量の血を口から吐いていた。
「リナ、大丈夫っ?」
先程のアンジュリーナの父親のように、恐らく彼女にも自分の姿は見えていないだろうとと思いながらも、手を差し出して声を掛けた。
「ふっ。ふふふふ、あはははは」
突如、不気味に笑い出した彼女に驚いて差し出していた右手を引っ込めると、そろりと後ろに下がって距離を取った。
「大丈夫だって?誰のせいでこんなに苦しんでると思ってるの!?…お前のせいだ。お前さえいなければ」
口から血を吐き、リリアンヌを睨み付けたアンジュリーナはゆっくりと立ち上がり、ふらふらとリリアンヌへと向かう。瞳は血走り、首筋や頭の血管は不自然な程浮き上がっている。じりじりと間合いを詰めるアンジュリーナから距離を保とうと、後退していたリリアンヌは、どんと背中に衝撃を感じた。見れば、それは冷たい壁で、もう逃げ場がないと悟って、アンジュリーナと真正面から向き直った。
「私のせいってなによ。私、何もしてないわ!どうしてそんな事を言われなきゃいけないのよ!」
身に覚えのない事を自分のせいだと言われても、何のことかさっぱりわからない。
憤慨してそう叫んだリリアンヌをアンジュリーナは蔑んだ視線を向けて言った。
「わからない?はん、随分と言い身分だことね。私は、あんたよりずっと前からフレドリッヒ様を想っていたのに。孤児の分際で、一体どうやって取り入ったの。やっぱり体?」
「何言ってるの?フレッド兄さんはただの兄弟子よ」
「嘘よ!じゃあ、なんでお食事に誘っても末の妹弟子が心配だからって断られるのよっ。可笑しいじゃないっ!しかも、なに?師でさえもたぶらかしたなんて、さすがよね。身よりのない孤児っていうのは」
言いがかりもほどほどにしろと怒鳴りそうになるがぐっとこらえて、フレッド兄さん本人に聞けばいいと答えようと口を開くより早く、アンジュリーナはリリアンヌの首に手を掛けて笑った。
「あんたが現れてからだわ。上手くいかなくなったのは。折角、友達として取り入ってから、捨ててあげようと思ってたのに…もう我慢出来ない」
「あ、アンジュリーナ…」
ぐっと力を込めてきたアンジュリーナの手を解こうと、リリアンヌが彼女の腕に触れたが、彼女は許さないとばかりに更に力を込めた。
「ルビウス・カインドだったわよね?あなたの師匠。レイルと私を見張ってたみたいだけれど、大した成果上げられなかったみたいよ。ふっ、せいぜいあなたが苦しむのを見ていたらいいわ」
「うっ、苦し…。リ、ぁ、やめ…」
八歳の子供の握力とは到底思えない力で、首を締め付けるアンジュリーナが面白そうに、苦しみで顔を歪ますリリアンヌを眺めている。
「がはっ、た、すけ…て」
空気を求めて口を大きく開くが、全く肺には入って来ない。開いた口から、よだれが落ちて瞳からは涙がこぼれ落ちていった。
「うふふ」
ぼんやりと霞む視界の先に、嬉しそうに微笑むアンジュリーナがいた。
先程まで力一杯暴れていた手足は力無くダラリと下がり、地面から体は浮き上がっているように感じる。
こんな事がいつの頃だったかあったなと、リリアンヌは遠い記憶と共に意識を手放した。