第一話 一番弟子
ほんの少し、ホラー要素入っております。少しだけですが、苦手な方はご注意下さい。フレドリッヒ、出番多しです。
アンジュリーナ・セシルの友達となって、こまめに邸にレイチェルと共に呼ばれる事になり、段々とセシル家の内情がリリアンヌにもわかってきた。
彼女の家は、病気がちな母親と王都で有名な劇場の持ち主であり、中央役所に勤める父親と一人娘のアンジュリーナの三人家族だそうだ。その病気がちな母親は、今は別荘で療養中だそうで、仕事でよく家を空ける父親は殆ど家に居ない為、彼女は寂しい思いをしているらしい。そのせいか、リリアンヌ達はほぼ毎日のようにアンジュリーナに邸に招かれ、彼女の様子を探るのは簡単なことだった。リリアンヌ達以外にも、同級生の女子の約半分は邸に遊びに来ている。大半はお茶を飲み異性の話をしたり、お菓子を作ったり、宿題をしたり。たわいもないことである。
リリアンヌ自身、そんな事にはさらさら興味は無いが、ルビウスからの仕事であるために仕方が無くつきあっている。
冬休みも半ばになったそんなある日、ルビウスから今日は早く帰って来るようにと言われたリリアンヌとレイチェルは、セシル家を早々に辞して、カインド邸へと帰って来た。
応接室の扉を開ければ、長椅子に優雅に腰掛けるルビウスと珍しく不機嫌なフレドリッヒ、その他に弟子達が揃っている。
「あぁ、二人共、適当に好きな場所に座りなさい」
戸口で佇む二人に視線を寄越したルビウスがそう促した。リリアンヌ達が、長椅子に腰を落ち着けた事を見届けて、会話を再開させた。
「フレドリッヒ。前から言っていただろう?お前は長く私の弟子でありすぎた。そろそろ独り立ちを…」
「私は独り立ちなどしません!まだまだ先生の域に達してないのに、何故そんな事を仰るのですか」
「一体どの口が、そんな事を言うのかな。お前のように、七年も弟子をやっているなんて、周りの者達もびっくりだよ」
「弟子じゃなくて、助手の呼び名がぴったりね」
憤慨するフレドリッヒに肩をすくめて溜め息を零したルビウスに代わり、彼の背後に立っていたオリヴィアがケラケラと笑いながら話に加わった。
「いいかい、これは決定事項だ。昨年の魔法師認定試験を首席で取った君をいつまでも下働きさせられないというのは、立場上無理なのはわかるだろう。来月を区切りに防衛省に行きなさい。向こうには、話をつけてあるから」
きっぱりと言い切ったルビウスに、何やら言いたそうなフレドリッヒだったが、師の決定事項に大人しく従うことにしたようだ。
「と言うわけだから、諸君。フレドリッヒが独り立ちする。今まで以上に仕事が増えるだろうけど、よろしく頼むよ。フレドリッヒの後継には、エリック。君だ」
黙って成り行きを見守っていた弟子達の中の内、こっそりと隠れるように窓辺に立っていたエリックは、名を呼ばれてさも嬉しそうに答えた。
「フレッド兄さんが独り立ちするのはわかったけど、なんで私達まで呼ばれたの?」
これまた成り行きを見守っていたリリアンヌは、痺れを切らしてルビウスに尋ねた。
「あぁ、そうだった」
呼びつけたことを本当に忘れていたようで、ルビウスはたった今思い出したとばかりに二人に向き直った。
「リリアンヌ、誕生日はいつだい?」
「さぁ、そんなの知らない。でも、前に居た施設では多分初夏の生まれだろうって」
誕生日など今まで生きてきた中で、必要無い物の一つだと考えていたリリアンヌは、ルビウスの問いに適当に返した。
「そうか。レイチェルは、冬の終わりだったね」
何やら少しの間、考え込んだルビウスは一人結論が出たらしく、口を開いた。
「魔法を使う者は、初代魔法大臣が作った規則に必ず試験を受けるようにと書いていてね。これがまた面倒でややこしいんだ。試験があるのは二年に二回、春と秋に大抵決まってある。弟子になって初めての試験は、筆記と実技があるけれどそれからは実技だけになる。一人前になる時には、師の立ち会いの元、卒業試験を受けなければいけないという古くて面倒くさいものがあるけどね。合格すれば、晴れて一人前の魔法師だ。それをフレドリッヒは。受かれば何度も受ける必要など無いのに、計三回も受けるなんて…。信じられないよ、全く。あぁ、試験を受ける際に生まれや出身地なんかを記入しないといけないから、聞いたんだ。レイチェルは来年から試験があるから、頑張るんだよ」
リリアンヌの隣にちょこんと座っていたレイチェルは、その言葉に静かに頷いた。
「リリアンヌも二年後の試験に向けて勉強しないとね」
試験があるのかと渋い顔をしていたリリアンヌは、とりあえず頑張ることにして頷いた。
その一ヶ月後。半ば追い出されるように、フレドリッヒは荷物をまとめて邸から旅立っていった。
後からオリヴィアから聞いたことだが、フレドリッヒの就職先は防衛省の第三部隊隊長だという。つまり、若手新人にしてはかなりの出世なのだと。防衛省は防衛大臣を筆頭に副大臣、総隊長と続き、その下に第一部隊隊長、第二部隊隊長と続く。しかし、位では第一部隊隊長が偉いが、重要視されるのは三部隊隊長だそうで、出世への一番の近道なのだとか。
そのフレドリッヒの話で持ちきりなのはどこも一緒のようで、使いに行った店先の店主からはどこも祝いだと言ってかなりのおまけをしてくれるし、アンジュリーナの友達などからも流石は一番弟子だと話を振られる。
「フレッド兄さん、凄い人気」
知らない人々から話しかけられ、精神をすり減らしてぐったりと邸の書籍室で伸びていたリリアンヌはそう呟いた。
書籍室は、西館の端にある部屋でぱっと見ただけでは図書室とそう変わりないように見える。しかし、図書室とは少々違い、主にルビウスやカインドの当主達が必要とする年代物の本が多くある場所である。本数はあまり多くないため、棚の高さはリリアンヌの背と同じ高さだ。おまけに、彼女達のような年若い者が読むような書物はなく、埃とカビが混じった独特の匂いがする。部屋には顔ぐらいの大きさの小さな窓が一つ二つあるだけで、明かりを付けなければ物にぶち当たってしまう。
お世辞にも居心地が良いとは言えないこの部屋。しかし、人に会いたくない彼女達にとっては絶好の隠れ場所であった。ルビウスもそれを知ってか、いつもは鍵を掛けて立ち入り禁止としているこの場所を彼女達の自由にさせていた。
外に出る度、どこに行っても七番目の弟子であるリリアンヌには、様々な人々との関わりが嫌でも増えたのだから。彼女達の疲労は凄まじいものだ。
「先生の一番弟子だから」
同じく柔らかい絨毯が敷かれた床に詰まれた本の山に寄りかかっていたレイチェルは、疲れた様子で話に加わる。
「そんなもんなのか」
はぁと溜め息を零して、リリアンヌは起き上がった。あれからフレドリッヒはたいそう忙しいらしく、邸には一度も顔を出していない。
ルビウスの祖父シリウスも、ちょっと出掛けてくると言ったきり、随分と帰ってきていない。その変わりといってはなんだが、ルビウスは慌ただしく仕事をこなしている。
他の兄姉弟子達は、アンジュリーナの一件で忙しいらしく、帰って来てはすぐに出掛けて行く。
リリアンヌ達は今日は学校が休みで、アンジュリーナは家庭教師が来る日だからと言うことでレイチェルと二人、うるさい周りから離れて書庫でのんびりとくつろいでいる。
「静かだ…」
書籍室のさらに奥にある書庫は、本館にいる使用人達でさえあまり来る事はなく、たまにお茶やお菓子などを運んでやって来るだけである。
またうとうとしかけているレイチェルを眺めて、リリアンヌは手元にあった本に手を伸ばした。
丁度その時、邸に古い鐘を鳴らす音が響き渡ってリリアンヌは顔を上げた。この邸には、出入り口が三つある。正面玄関と使用人が使う勝手口、本邸から渡り廊下でつながっている西館の裏口。正面玄関の鐘は先月替えたばかりだったはずだし、勝手口の鐘は今潰れていて使い物にならない。残るは裏口しかない。
しかし、ルビウス以外は殆ど使っていない裏口に誰が来るのか。
不審に思ったリリアンヌは、レイチェルを揺り起こした。
「ねぇ、レイチェル。起きて、裏口に誰か来たみたい」
よだれを垂らして爆睡しているレイチェルは、どんなに揺すっても一向に起きない。しかし、古い鐘はその間もしつこいほど鳴り続いている。余程執念深い客と見える。仕方ないのでレイチェルを起こすことを諦め、リリアンヌは一人部屋を出た。
ガラガラと古い鐘の音を揺らす速度からして、子供ではないだろう。あの鐘は随分と重く、子供がずっと鳴らすには無理がある。実際リリアンヌとレイチェルが、ガラガラと鐘を鳴らして遊んでいると数刻も立たない内に疲れ、さらにはジョルジオがすっ飛んで来て、古くなっているから触らないようにと怒られた。そんなジョルジオも姿が見えない。一体どこに行ったのか。そんな事を考えていたら、いつの間にか裏口へとたどり着いていた。
まだ鐘は鳴り続いている。
「ちょっと!ここは裏口よ。用があるなら、正面玄関に回りなさいよ!」
勢い良く扉を押し開けたリリアンヌは、相手を確認せずにそう怒鳴った。
「…相変わらずのようで安心した。久しぶり、リリアンヌ」
声に促されて見上げれば、しばらく顔を出さなかった兄弟子、フレドリッヒが立っていた。
噂をすればなんとやら。
「フレッド兄さん」
「今、皆出払っているんだろう?ちょっと気になって」
「何が?」
手ぶらで邸に堂々と入るフレドリッヒを追って、リリアンヌも慌てて扉を閉めて邸の中を歩く。
「セシル家は?」
アンジュリーナについての報告だろうか、リリアンヌはあぁと答えた。
「大した進展はないよ。最近はめっきりフレッド兄さんの話ばかりだし」
「どこも似たようなものだな。あぁ、私は先生から独り立ちさせられたから、名がフレドリッヒ・エル=ラービンになった。父から爵位はまだ譲り受けてないけど、公式の場ではちゃんとそう呼ぶように」
どうでも良いことのように付け加えたフレドリッヒは、颯爽と書籍室に入っていく。
「エル?」
その後について行きながら、リリアンヌは不思議そうに尋ねた。
「師からの贈り名だよ。独り立ちすると祝のかわりに師から貰えて、それを加えた名が正式な名前なんだ」
リリアンヌもその内貰えるさ。と言いながら、フレドリッヒは開け放たれたままの分厚い扉をすり抜けて書庫へと入った。
書庫には、書籍室にはない古い書物、歴代のカインド家当主が調べた書類が眠っている。
フレドリッヒは一体、何を調べたいのか。リリアンヌは、手短な書類から目を通しているフレドリッヒに聞いた。
「わざわざ仕事の合間に邸にくる程、何の資料を探してるの?」
「セシル家の事だ。20年程前、シリウス様が当主だった時期に一度調べ上げた資料があったはずなんだ。…これだ」
黄ばんだ本の紙の一面をめくっていたフレドリッヒは、今にも崩れそうなその本の中ほどで手を止めた。
「何が書いてあるの?」
背伸びをしてフレドリッヒが持つ本を覗いてみるが、身長差からして勿論見れるはずもなく…。リリアンヌは仕方なく断念してフレドリッヒの言葉を待った。
「エリックから先生が仕事をそっちのけだと悲痛な伝達が、山ほど届いていて。あの方は本当に必要な事以外、自分が興味無いものはほったらかしだから。少し手伝おうと思ってね」
「随分と身勝手な人ね」
リリアンヌのやや棘を含んだ失礼な言い方に、フレドリッヒは眉をひそめて窘めた。
「師の事をそんな風に言うもんじゃない」
「はーい。で、何なのそれ」
軽く返事をしたリリアンヌにまだ何か言い足りなさそうにしていたフレドリッヒだったが、リリアンヌの言葉で手元で開いていた書物に視線を戻した。
「どうやらセシル家は、代々呪われていたらしい」
「どういうこと?」
「これは、シリウス様が当主だった頃の記録だけれど。一度、セシル家の当時の当主に頼まれて、悪魔払いをしたと書かれている。それも一度切りではなく、当主が変わるごとに」
「うーん。じゃあ、ルビウスさんも悪魔払いをしなくちゃいけないんじゃない?」
「先生と呼びなさいって言ってるだろう。先生が当主になった際に今の当主が断って、それ以来悪魔の気配は無かったらしい」
「ふーん?」
フレドリッヒに注意されたことをさらりとかわし、興味無さそうに相槌を打った。
「一度は悪魔を追い払ったけれど、また何らかの事情で悪魔に取り憑かれるようになったとしか考えられない。それを誰が先生に教えた」
「何の目的で?しかも、普通“先生”が気づくんじゃない?」
「言っただろう?先生は興味を失ったら、既にご自身の記憶から消されて、絶対にその事を思い出されない」
「ふーん、じゃあ随分と親切な人がいたのね」
よっこいしょと床に腰を下ろしたリリアンヌは、フレドリッヒにそう言った。しかし、彼は違うと言ってそれを否定した。
「稀に代々悪魔に好かれる家系があるけれど、悪魔払いをされたのはシリウス様だ。また悪魔に好かれ、取り憑かれるなど無いはずだ」
「つまり?」
「高度な魔法を使う者が、わざと悪魔払いをしたセシル家に悪魔を取り憑くよう仕向け、先生に教えた。かなりの愉快犯だろう。それに相手は先生が一度興味を失ったものに二度と関心を示さないことを知り、しかも高度な魔術魔法を使う者と来た」
ぎりと歯を食いしばるフレドリッヒは、持っていた書物を手に力を込めた。彼の手の内にある書物がメキリと音を立てる。
「これは、名も高いシリウス様と先生に対する侮辱以外の何ものでもない」
「あー、フレンド兄さん?」
分厚かった筈の書物は、めきめきと悲鳴を上げながら歪な形へと変形し、それを見ていたリリアンヌが控えに声を掛けた。
「ふん、大体検討はついている。今に見ていなさい!」
一切、彼の耳には届いていなかった。
「フレンド兄さん、本。本が…」
この中の本は、くれぐれも大切に扱うようにとルビウスから言われている。あとから小言を言われるのは勘弁、とさり気なくフレドリッヒから書物を取り上げようとリリアンヌは立ち上がって、そっと手を伸ばした。
「リリアンヌ!」
バシッと言う音と共に、書物は勢い良く床へと叩きつけられ、その姿は無惨なものとなった。
「なに!?」
いきなり名前を呼ばれ、驚いて飛び上がったリリアンヌは、書物から視線を離してフレドリッヒを仰ぎ見た。
「先生はいつお戻りになる?」
「さぁ?」
「その書物を元に戻しておくように。弟子なのだから、それぐらい出来るだろう?…いくら独り立ちしたからといって、私も先生の一番弟子だったからにはする事がある」
曖昧な返事を受け取ったフレドリッヒは、ほとんど独り言のようにぶつぶつと呟き、つかつかと書庫の出口に向かい、姿を消した。
「ん~、リリア?」
瞼を擦りながら、レイチェルが本棚の後ろから顔を出した。どうやらさっきの音で目が覚めたようだ。
「おはよう、レイル。よく眠れた?」
「うん…。今、フレッド兄さん、いた?」
「さっきまでね。ところでレイル、これ元に戻せる?」
変形した書物を指差して、リリアンヌは困ったようにレイチェルに聞いた。
「元の姿を見てないから、無理だと思う。リリアがやった?」
静かに驚くレイチェルを否定して、リリアンヌは呟いた。
「私も見てないんだなあ…。フレッド兄さんがしたんだよ。元に戻しておけってさ。元に戻す魔法は教えて貰ったけど、元の姿が分かんないから無理だよね。全く、師が師なら弟子も弟子だよ」
「どういう意味?」
「深い意味はない」
「リリアやってない、大丈夫」
「そうだよね」
書物をひっ掴んで、元あった場所に無造作に突っ込むとレイチェルと共に書庫を出た。
書籍室を出れば、どうやらルビウスが帰って来たようで、本邸が慌ただしくなっていた。
「良いですか、先生。これはカインド家に対する侮辱です!」
机をバンと音を立てて叩いて訴えているのはフレドリッヒ。
本邸へと戻ったリリアンヌ達は、応接室へと足を向けた。そこには思った通り、先程帰ったばかりであろうルビウスが長椅子に腰掛けて困ったようにフレドリッヒを眺めていた。彼はリリアンヌ達を見て、部屋に入るように言った。
「分かったから。フレドリッヒの言うとおり、僕もこのままでいいとは思ってないよ。だけど、君はもう弟子ではないだろう。口を挟めるのはここまでだ」
有無を言わせぬように話を打ち切ると、ルビウスはエリックを呼んで、フレドリッヒを玄関まで送るように言いつけた。
「先生」
「慕ってくれるのは嬉しいけれど。いい加減に大人になりなさい、フレドリッヒ。僕も君に随分と頼っていたことは反省する。仕事もちゃんとするし、今ある自分の場所を大切にしなさい。今度会うときは、大臣と第3部隊隊長と言う立場だ。いいね?」
「…分かりました。お元気で、先生」
「あぁ。君ならどの仕事でも立派に成し遂げると信じてるさ。自慢の一番弟子だからね」
立ち上がってフレドリッヒの肩を叩くと、ルビウスはそう声を掛けた。
「ありがとうございます。そのご期待に応えれるよう、精一杯頑張ります」
ルビウスに頭を下げるとフレドリッヒはリリアンヌ、レイチェルに顔を向けた。
「リリア、レイル。これから先生と居る時間が長くなるだろうけど、あまり迷惑をかけないように」
「はぁい」
気のない返事をしたリリアンヌを置いて、フレドリッヒはカインド邸を静かに去って行った。
「さて。リリアンヌ、レイチェル。話があるんだ座りなさい」
ルビウスの目の前に腰掛け、リリアンヌは大した話なんか無いだろうにと小言を言った。
「今、王都で、気味の悪い噂が流れてると言うんだ。そこで、ジュリアンに調べて貰ってるんだけど、リリアンヌにもそっちに回って欲しい」
「レイルは?」
隣に座るレイチェルに顔を向けながら、リリアンヌが聞いた。
「レイチェルは、アンジュリーナ・セシルについててもらう」
僅かに顔をしかめたレイチェルを無視して、ルビウスはリリアンヌを見た。
「エリックにもそっちに回るよう言っておくから。いいね?頼んだよ」
念押しをしてルビウスは、やや慌ただしくその場を立ち去った。
「面倒ね」
彼の後ろ姿を眺めながらそう呟いたが、まぁ良いかと諦めた。とにかく、仕事をすればお金が貰える。それを資金にして、この家を出ればいい。それまでの辛抱だと、リリアンヌは自分に言い聞かせた。
翌朝。まだ空が薄暗い中、ジュリアンに急かされて、リリアンヌはまだ住民達が眠るとある住宅街へと来ていた。
「眠すぎる」
眠そうな瞳を擦って大きな欠伸をするリリアンヌは、随分と不機嫌だ。それもそのはず、普段ならこの時間、彼女はまだぐっすりと夢の中にいる時間帯なのだから。
「しっかりしろよ」
そう言うジュリアンも、今にも瞼が落ちそうな顔である。
「で、何を調べるの?」
「うーんと明け方と深夜に女の叫び声が聞こえるらしい。んで、叫び声があった日には必ず、惨殺体があがるらしい」
「噂なんじゃなかったけ?」
「魔法師は警察、保安官じゃないから詳しいことはよくわかんないんだよ」
「じゃあ、あがった死体を調べたらいいわけ?」
そのリリアンヌの質問に、ぎょっと瞳を見開いたジュリアンは、ぶるっと身震いをして否定した。
「そんな恐ろしいこと!」
「じゃあ、どうするのよ。…私、帰って寝るわ」
「待ってて!」
はっきりしないジュリアンを置いて、邸に帰ろうとしたリリアンヌは、覆いが着いた黒い外套の首元を後ろから勢い良く引っ張られてよろけた。
「ちょっと!」
引っ張ったジュリアンに非難しようと振り向いたリリアンヌは、引っ張った人物は予想と違っていて、拍子抜けした。
「リック」
リリアンヌ、ジュリアンと揃いの黒い外套を身に着けたエリックは、不機嫌そうに路地に佇んでいる。
「どこ行くんだよ」
「どこにって。帰るんだけど?」
「三人で巡回しろって言われて来たんだぞ。ちゃんと仕事をして貰わないと困る」
腕を組んで偉そうに威張るエリックを横目で睨みつけながら、リリアンヌは深いため息をついた。
「巡回?」
「そう。夜が明けるまで、この付近で噂が本当かどうか確かめる」
「はいはい、わかった。じゃあ私、向こうを回ってみるから」
さっさとその場を去ろうとしたリリアンヌは、またまたエリックに外套を引っ張られてその行動を止められた。今度は何だと不機嫌な顔を隠しもせず、エリックを振り返った。
「お前は一応、女なんだから単独行動は危険だ」
思わず怒鳴り返そうになったその言葉に、嫌みったらしくそうでした!!とだけ返した。
「リック、じゃあどう振り分けるつもり?」
ジュリアンが睨み合う二人の会話に割って入り、おずおずと質問してきた。
「リアンが一人で回れば…」
「それは絶対に無理!」
エリックの言葉に勢いよく首を振って遮り、とんでもないとばかりに否定した。余程、嫌なのだろう。
「三人で回るしかないんじゃない?」
うーんと思案するエリックに声を掛けるリリアンヌは、少し明るくなってきた空を見上げた。
「もう直ぐ明け方だし、時間無いよ」
皆が促されるように空を仰ぎ見る。
「仕方がない。急ぐぞ」
覆いを目深に被って、エリックは路地奥へと急いだ。リリアンヌもジュリアンも同じように覆いを頭に被ると急いで後を追った。
「巡回の範囲は?」
足早に路地を駆けるエリックの後ろを追いながら、リリアンヌが背後から彼に質問した。
「お前、そんなのも知らないのか。良くそんな無知で、巡回に出たな」
エリックの言葉、一つ一つがリリアンヌの感に障る。
「悪かったわね、私はルビウスさんからこっちに回れって言われたから、こっちに来ただけよ」
「先生の名を気安く、さん呼びで呼ぶんじゃない!」
「私はそう呼ぶようにって言われたもの」
つーんと顔を背けてエリックを早足で追い越しながら、リリアンヌは言い返す。その後を張り合うように早足で並んだエリックは、リリアンヌを睨みつけながら言い返してきた。
「古代魔女のクセにっ」
「何よ、このチビが」
ピタリと立ち止まったエリックに、勝ち誇ったようなリリアンヌ。
「お前~っ」
彼の逆鱗に触れたのか、エリックはわなわなと震えながら、リリアンヌに対抗しようと口を開いた。が、それは二人に漸く追いついて息を整えるジュリアンに遮られた。
「喧嘩なんかしてる、場合じゃ、なくてさ、もう直ぐ、明け方だよ。リック、例の叫び声ってどんなの?」
あっとばつの悪そうに顔を見合わせた二人は、黙りこくって互いを睨み合ったが、取りあえず喧嘩は休戦して目の前の課題を片付ける事にしたようだった。
「どう言えば良いのか。聞いた人は、殆ど惨殺体で見つかってるとか」
「?」
「だから、叫び声を聞いた奴はその場で死んでるか、友人に言った数日後に惨殺体になって見つかってるらしい」
急に声を潜めたエリックに聞き入っていた二人は、ぶるりと身を震わせた。そんな事はお構いなしに、エリックは話を続ける。
「その声は、まだ成人してない若い女の声で…」
きゃぁぁぁぁぁああ
「そっ、こんな声らし…」
路地奥から聞こえて来た叫び声に、三人は固まって耳を疑った。そして聞こえてくる、裸足で地面を歩く音。
「なんか、聞こえない?」
引きつった顔で他の二人にそう聞くジュリアン。
「…聞こえる」
それに答えたのは、これまた引きつった顔のエリック。
「ねぇ、遭遇した場合はどうすればいいの?」
「とにかく…、逃げろっ!」
リリアンヌの問いに、全速力で音とは反対の方向に駆け出したエリックを追って、リリアンヌ達も駆け出した。
「遭遇したら、捕獲しろって言われてる」
走りながら答えるエリックを追うリリアンヌは、少しだけ後ろを振り返った。薄い霧に隠れた隙間から色白の足と手が見える。
「ちょっと、何とかならないの!?まだ追って来てる」
ジュリアンが走る速度を上げて、エリックを抜かして前に出るとリリアンヌはエリックの隣に並んでそう怒鳴った。
「お前が何とかしろよ!」
「何にも出来ないの?こんの、役立たずっ!」
「はあ!?お前に言われたくない!」
速度を合わせてほんのり明るくなった路地を駆けて双方声を張り上げて言い合う中、不意にエリックが立ち止まって背後を振り返った。
【閉じ込め】
壁に右手を付き、そう呟くと煉瓦造りの塀が粘土のようにグニャリと曲がって、エリックの目の前を塞いだ。ふふん、と歪に塞がれた塀の前で、自慢げに視線を寄越すエリックを睨みつけていたリリアンヌは、ぴきっという音で塀の異変に気が付いた。
「うっ、あぁ」
後ろで小さく悲鳴をあげる、ジュリアンの声が聞こえる。
「リック、後ろ…」
震える指でエリックの後ろを指さすとそこには、少女と思わしき小さな白い手が鮮やかな血色に染まった塀の間より覗かせていた。
「ぅ、うわぁぁぁぁぁぁ」
悲鳴を上げて駆け出すジュリアンの後を少女の小さな声と足音が追ってくる。
ヒドイ、ヒドイ。
「リリアっ!早くっ」
エリックの急かす声に、はっと意識を戻すとリリアンヌも急いでの後を追う。
「何でっ」
エリックの小さな呟きが、リリアンヌの耳に届く。ジュリアンが右へと建物の角を曲がると彼はどんと誰かにぶつかって、衝撃で冷たい煉瓦造りの地面に尻餅をついた。リリアンヌ達は辛うじて巻き込まれずに済んだが、追っ手の仲間かと身構えた。
「何をやってるんだ?」
建物の角から出てきたのは、ごく暗い紫色に青緑色が掛かった特徴的な防衛省の制服を纏ったフレドリッヒだった。
「フレッド兄さ~ん!」
へにゃへにゃと情けない声を出すジュリアンに、フレドリッヒはやれやれといったふうに右手を差し出し、引っ張り上げてやった。
「見回りの途中じゃなかったのか?」
「見回りはしてたんです!で、その途中で出たんですっ」ジュリアンがフレドリッヒにしがみつくような勢いで必死に伝えるが、主語が無いと叱られた。
「例の連続殺人鬼だろう?で、どうしたんだ。見つけたんだろ」
きょろきょろと辺りを見渡していたエリックに顔を向けたフレドリッヒは、申し訳無さそうに立つ彼を見て深い溜め息をついた。
「逃がしたか」
「申し訳在りません」
「私に謝る意味があるか?先生にきちんと報告しなさい」
「…はい」
「フレッド兄さんはどうしてここに?」
たった今、存在に気づいたという顔で覆いを取り払ったリリアンヌを見つめたフレドリッヒは、少し険しい顔を緩めて答えてくれた。
「これから国境に向かう途中だったんだ。近くを通りかかったら、例の叫び声が聞こえてきて。遠目の能力を使って周辺を探ってみたら、お前達が仲良く追いかけっこをしてるのが見えたからな」
その言葉にむっとして言い返そうとしたが、フレドリッヒに他の弟子達共々、馬車に乗るよう促されたため、リリアンヌは仕方なく言葉を胸の内に留めた。どうやら、邸まで送ってくれるらしい。
――フレドリッヒ様。
エリック達の後に続いて、馬車に向かおうとしたリリアンヌの耳に、小さな女の子の呟きが届いた。ほんのりと明るくなった路地をぱっと振り返ったが、そこには誰もおらず、空耳だったのだろうかとリリアンヌは首を傾げて馬車に乗り込んだ。その後、オリヴィアから先程三人がいた路地で金髪の若い青年の惨殺体が見つかったと報告されたのは、また次のお話。