第十二話 王城と国王
長くなりました。
大きくゆったりとした馬車の中は大変快適で、背にある真っ赤な座布団にもたれながら、リリアンヌは馬車の扉に備え付けてある小さな窓から外を眺めていた。
個性豊かな街並みが流れるように窓から去って行く中、馬車は殺風景な赤みがかった淡い黄色の塀が並ぶ石造りの通りをしばらく走った。
やがて、馬車はゆっくりと速度を落としてがやがやと賑やかな場所で止まった。
城に着いたのかと思えばそうではないようで、城の一番外にある外門に着いただけだという。
重そうな銀や赤色の鎧を身にまとう衛兵達を窓から眺めてた。するとすぐ背後で、御者が宰相とカインド公爵が乗る馬車だと伝えてた。ちらりと中を窺った衛兵が、宰相を確認して許可を出した。
御者は馬に鞭を打ちつけ、静かに馬車を走らせた。
城は三つの門で守られているという。
先程通過したのは、その名の通り一番外に位置する外門。侵入者を防ぐ為に造られた門であるため、塀や門が分厚く頑丈で衛兵達も体格が大きい者が多いという。
その他に中門、内門との順に続く。
門に合わせた環境も全く違う。
先程言ったように、外門は頑丈な重々しい雰囲気を纏う。それとは対照的に中門は殺風景ではあるが清楚な雰囲気を纏い、内門は花や植物が植えられて華やかな雰囲気となっている。
衛兵達の装いもそれに比例していると言えよう。
外門から内門にかけて軽装となり、内門では身だしなみと丁寧な言葉使いも重要視されるという。
そのほかに、各々の門で検問所が設けられており、数人の衛兵達が中を確認するという。
貴族達が主に通る正門と商人達や使用人達が使用する裏門との二つがあるのは、一般の貴族の邸と同じらしい。
と王城についてそんな説明をルビウスから聞いているといつの間にか、馬車は来客専用玄関へと到着していた。
邸から城に向かう道のりよりも、外門から城へと到着する時間のほうが長く感じたのは多分、リリアンヌの気のせいでは無いだろう。
レイチェルは何度となく寝そうになっていて、そのたびにルビウスに叩き起こされていたのだから。
ルビウスに促されて、レイチェルと共に馬車から降りると二人の目の前には、背中を反らなければ見えない程大きく真っ白な城がそびえ立っていた。
日の光を浴びて、曇りない白が眩しく辺り反射している。
鋭く尖った城一高い円錐の先端には、真っ白な旗が風ではためき、濃い紫色で描かれたイヌワシの模様が凛々しくリリアンヌ達を見下ろしている。
「リリアンヌ、レイチェル。行くよ」
既に開け放たれた城の大きな大きな両扉の前にいるルビウスに声をかけられて、二人は慌ててその姿を追いかけた。
ルビウスの後ろについて、慣れない革靴をカポカポと音を立てリリアンヌが歩く。
城の天井は遙か高く。地面には塵一つ落ちていない、よく磨かれ抜いた綺麗な真新しい白い床があるだけで、城の中は辺りに余計な物は一切ない。
先頭を歩いていたルーベント宰相が、真正面にある黒い扉へと近づく。その後に倣って三人が静かに続いた。彼は、扉の両脇に佇んでいた衛兵にカインド公爵をお連れしたと伝えた。
「ルーベント宰相殿ご帰還。カインド公爵と二名の弟子殿のご来城です」
扉が勝手に開くと同時に二人の衛兵は、そう声を張り上げた。
扉がゆっくり向こう側へと開け放たれた。
扉の向こう側。そこには、ずらりと濃い紫色の服を身にまとった何十人もの兵が、敬礼の姿勢で両脇に列をつくって並んでいた。
その異常な光景を前に、リリアンヌは大丈夫だろうかこの人達はと心の内で思った。
「ルーベント宰相殿、カインド魔法大臣、お久しゅうございます。二人のお弟子殿、ようこそリヴェンデル城へ。私、幹部理事のリカ・ベクトルと申します」
その列の最後尾の真ん中、濃い紫色の切りそろえたやや長めの髪に、薄い青色の瞳をした若い男性が立っていた。にこやかな笑みを湛えて、彼はそう自らを名乗った。
「ここから先は私が案内致します」
人の良さそうな笑顔を四人に向け、さっと案内する彼は余程人の相手をするのに長けていると見える。
「どうしました?ルーベント宰相」
完璧な顔の表情をベクトルに見えぬように歪ませていたルーベント宰相に、ルビウスがこっそり声を掛けた。
「私はどうも、あの男がどうも好きに慣れないのです。あの顔で、こちらを見られると虫唾が走ります」
「…お気持ち察します」
ルビウスもリリアンヌ達に見えぬよう、顔をしかめて同感した。
ベクトルに案内されて沢山の階段を上り、廊下をくねくねと曲がって長い道のりを歩き、ようやく式が執り行われると言う儀式の間に着いたの頃には、太陽はすっかり傾きかけていた。
「何をしてらっしゃるんですか、ベクトル殿」
場所は、儀式の間の扉前。
口元をひきつらせながら、ルーベント宰相はへらへらと笑っているベクトルを見た。
「いやぁー、私としたことが。すっかり道に迷ってしまって、皆様をつれ回してしまいました。これは失礼」
ちっとも反省していないかのような人を小馬鹿にしたような態度は、ルーベント宰相の怒りの限界を超えたようだった。
「貴方は自分が何をしたのか分かってるんですかっ!」
ガミガミと出来の悪い息子を叱る母のように、ルーベント宰相がベクトルを怒鳴った。
とんがり帽子を押さえながら、やれやれと首を振って呆れているルビウスに、リリアンヌはこっそりと聞いた。
「ルーベント宰相は、なんで怒ってるの?」
「ベクトル殿が道に迷って、式に遅れたんだ。婚礼式は特別でね。無断欠席、遅刻は絶対許さない。だから、僕達は入ることが出来ないんだ」
腕を組んで壁に寄りかかりながら、彼はリリアンヌにそう説明した。
「さて、どうするかな」
陛下に合わせる顔がないと怒鳴るルーベント宰相と怒られているというのに、へらへらと謝っている二人をどこか面白そうに眺めてルビウスはそう呟いた。そんな時、ガチャリと重く白い扉が開いて、きっちりとした正装に身を包んだシリウスが出てきた。
どこかの結婚式にでも出席するような装いだ。
「何をしてるんだ?式はもう始まってるぞ。早く入りなさい」
あれ?とリリアンヌが首を傾げると横からルビウスがこっそり耳打ちしてきた。
「多分、爺様が国王を説得してくれたんだよ。爺様は魔法省の幹部、元老の一人だから」
くすくすと笑って、ルビウスは祖父の元へと近づく。
「特別だぞ。晴れの姿…まぁ、二回目だが。甥であるお前にも見て貰いたいとシャロンも言っていたから」
ぽんぽんとルビウスの肩を叩いたシリウスは、ベクトルに以後気をつけるよう咎めて部屋へと戻って言った。
シリウスの後に続き、ルビウスとリリアンヌ達も続いた。
部屋へと足を踏み入れると、そこには煌びやかな世界が広がっていた。
眩い(まばゆい)程、天井から吊された装飾用の電灯で明るい部屋には無駄な飾りはなく、床一面に赤い絨毯が敷かれている。
白い壁には繊細で凝った柄が控え目に描かれ、柱には細やかな模様が彫刻で作られている。
そんな部屋の正面に、数十段の階段を上った一際高い位置がある。白金で作られた輝く椅子に顎髭が特長の貫禄ある王らしき人物とその左隣に、真っ白な花嫁の衣装に身を包んだ女性が座っている。
ルビウスは階段の脇に控える大臣らしき人物達に会釈して、真っ直ぐに歩いて行く。リリアンヌ達はルーベント宰相に入り口付近で待機するようにと言われ、大人しくその言葉に従った。
「国王陛下、遅くなり誠に申し訳ございません」
階段の手前、王座に近づいたルビウスは、優雅な仕草で左膝を床にいて頭をさげて詫びた。それを見ていた濃い金色の髪をもつ、まるで野獣のような国王が、豊かに蓄えた髭を撫でながら凄みがある声でこう答えた。
「良い、許す。しかし、二度はないと思え…さぁ、面を上げよ。我が国が誇る漆黒の魔法師よ」
「…ありがとうございます」
「堅苦しい言葉は止めよ。今日を以て、伯父と甥と言う関係になったのだから」
愉快そうに微笑む王を静かに見つめていたルビウスは、伯母に祝いの言葉を送りたいと申し出た。無言の王に促されて、近くに下りてきた純白の花嫁の衣装に身を包む女性は、ルビウスに向かって穏やかに微笑んだ。
ルビウスの伯母だという花嫁は、黒みを帯びた茶色の髪を持ち、それは緩やかな巻き毛であるが、全て緩やかに結い上げてある。淡い紫色の瞳は、恐らくシリウス譲りなのだろう。
穏やかな会話を交わす二人を椅子に座って眺めていた国王は、席を立って階段をゆっくりとした動作で下りてきた。そして、扉近くに居たリリアンヌ達に近づいてきた。
もう若くは無いだろう、年を召した国王は花婿という名には程遠い容姿ではあるが、花嫁に合わせた純白の礼式用の衣装に深い赤色の外套が王の威厳を醸し出している。
「お前達が、ルビウスの言っていた弟子達か」
近衛兵を後ろに従えて、リリアンヌ達の数歩手前で立ち止まった国王は、がっしりとしたその体格でリリアンヌ達を見下ろした。
「しっかりと勉学に育むよう」
リリアンヌとレイチェルにそっと置かれた手の平からは、温かさが伝わって来た。私語は禁止だと言われているので、リリアンヌは何も言わずにただ頭を下げた。
「あっ、陛下~」
そのとき、リリアンヌの後方からベクトルの声が聞こえてきて、どんと体がぶつかった。次の瞬間には、リリアンヌは突き飛ばされていた。
「陛下、この度は誠に…」
つらつらと喋るベクトルを国王は無視して、リリアンヌを凝視しているた。
「お前は…」
「古代魔女だっ!」
王が言葉を言い終わらない内に、大臣の一人らしき人物が叫んだ。
「陛下、お下がり下さい」
後ろに従えていた二人の近衛兵が、王を守るように身に付けていた鋭い剣を抜いてリリアンヌに刃先を向けた。
リリアンヌは部屋になだれ込んできた重々しい鎧を身を包んだ兵に瞬く間に囲まれ、槍と刃先を向けられた。
「待つのだ、お前たち!」
国王の一声で、切りかかろうと身構えていた兵達の動作がぴたりと止まった。
絨毯の上座り込んだまま放心状態であったリリアンヌは、被っていた筈の覆いが頭から落ちているのに気づき、慌てて被り直した。
覆いを被り直した丁度その時。体が突如浮き、誰かに抱きかかえられていた。
「ルビウス」
国王が忌々しいそうに睨む先には、リリアンヌを腕に抱えたルビウスがいつの間にか佇んでいた。
「僕の弟子に刃先を向けるなどとは…いい度胸ではありませんか」
顔は笑ってはいるが、全身から殺気が漂っている。
「狼族に人魚の娘などと魔族を弟子にとったかと思えば、今度は古代魔女か」
怒りにふるふると震えながら、年老いた金色の瞳をルビウスに向けて国王は叫んだ。
「古代魔女など絶対に許さんぞ!今すぐ抹殺せよ!」
「僕の弟子です。貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「何だと!?」
王たる人にさらりとそう言い返して、ルビウスは兵達が作り出した円の外に追い出されたのであろうレイチェルに、国王から視線を逸らさずに声を掛けた。
「レイチェル、そろそろ帰るよ」
レイチェルが頷いたのを確認するとルビウスは優雅に微笑んだ。
「国王陛下、シャロン伯母上。本日はお招きありがとうございます。チャーリー王子にお会いできなかったのは残念ですが、お二人のこれからの門出を甥として、心よりお祝い申し上げます。このような祝の言葉で大変恐縮ですが、私はこれにて失礼致します」
「待て、ルビウス!」
国王の言葉には一切耳を傾けず、パチパチと瞬きを繰り返す花嫁に笑顔を向けた。レイチェルが群がる兵達を掻き分けて近くに来たのを確認して、黒い外套を翻した。
「カインド公!これで城内違反は百九回目ですぞ!」
「何をしている!早く古代魔女を仕留めろっ!」
咎めるようなルーベント宰相の声と怒り狂った国王の声が、視界が霞んで消えるのと同時にぷつりと途切れた。
変わりに訪れたのは、生温い風と肌寒い空気。
空には、赤を交えた黄色がほんのり明るい闇にまだ残っていて、リリアンヌ達を優しく包んでいた。
日の暮れた王都の空は、すぐ手の届く距離にあるように見えて。真下を見下ろせば地面は遥か下にあった。
「浮いてる!?」
突如のことに驚いたリリアンヌは、思わずルビウスの胸元にしがみついた。右腕にリリアンヌ、左腕にレイチェルを抱きかかえて、ルビウスは空中に漂っている。
「そうだね、“浮いてる”ね」
ははと笑ったルビウスは、すぐ右下にあった丈夫な白い石造りの縁に着地して、二人を抱え直した。
どうやらそこは、賑やかな催しものが開かれる際に王が顔を見せる室外に突き出た屋根のない台で、祭りがないこの時期はひっそりとと静かな場所だ。
彼が着地したのは、その台に取り付けてある分厚い石造りの手すりだった。
「城の敷地内では魔法に規制が敷かれてるから、雑な魔法しか使えない。その所、理解して欲しい」
その言葉が言い終わらない内に、ルビウスは何もない空中へと足を踏み入れた。
「えっ!」
気付いた時には、リリアンヌ達はまたまた空中に居た。先程と違うのは安定感。ふわっと浮いたと思えば、一気に重力に従って真下へと落ちていく。
「いやあ、落ちているっ。まだ死にたくないぃ!」
凄まじい勢いで落ちて行く中をそんなふうに絶叫するリリアンヌは、必死にルビウスにしがみつく。
反対側にいるレイチェルを見やれば、至って平気そうな顔である。一体、彼女はどんな神経をしているのかと疑う程だった。
城の壁面は凄い勢いで過ぎ去って、落下の速度を物語っている。
外套がはためく音がうるさい。
城を半分ほど過ぎた頃、今度は追い風に強く押されて、前に進みまたもや舞い上がった。
風に乗るように押されて、吹き上げられたと思ったら、またもや凄い勢いで落下していく。
そんな繰り返しが続き、リリアンヌが気が遠くなりそうになった時、あの異様な雰囲気の邸の屋根が視界に見えた。
その屋根を真下に捉えたルビウス。なだらかな屋根と邸の上の階を魔法で突き破って、最下の部屋にドスンっと鈍い音を立てて、立派な作りの長椅子へと着地した。
「うっ」
「けほけほ」
遥か空の上から着地したにも関わらず、長椅子はびくともしなかった。変わりに三人の身体は尻から頭のてっぺんにかけて振動を伝え、白い埃が辺りに舞い上がってリリアンヌは咳き込んだ。ルビウスも、着地の衝撃に思わず声が出たほどである。
「これだから城から帰ってくるのは嫌なんだよ」
一人文句を言っているルビウスの腕の中で、リリアンヌが瞳を瞬いて尋ねた。
「馬車で帰らないんですか?」
ルビウスは二人を掴んでいた腕を離し、頭に乗っているとんがり帽子を取った。
「さっき言ったように、城には魔法規制が敷かれてる。国王陛下が住まうのだから、安易に刺客者が侵入出来ないようにということだよ。どんな魔法師、魔術師であれど規制魔法に引っかかるようになってるんだ。…先程、国王を怒らしてしまったからね。簡単には帰してはくれないと思って、低級魔法を使ったけれど…ジョルジオ!」
とんがり帽子を持つ右手で、空中に舞う埃を振り払っていたが、もう我慢の限界だというように執事の名を呼んだ。
ルビウスの声に呼ばれたジョルジオは、彼から向かって右側にある戸口付近に物音一つ立てずに姿を現した。
「お呼びでしょうか、ルビウス様」
「ジョルジオ、これで掃除したというのか?名家であるカインド公爵家がこのような手抜きなどと陛下に知られたら!」
珍しく焦っているルビウスは長椅子から、がばっと立ち上がってリリアンヌとレイチェルについてくるように促した。
「掃除係に厳しく言っておいてくれ」
「はい、申し訳ありません。…どちらに?」
ジョルジオの脇を通り過ぎ、彼の背後にある扉を開けながら、ルビウスは振り向きもせずに答えた。
「部屋に戻るよ。リリアンヌに魔法を教えようと思う。…陛下が来ても、絶対に部屋に通すな」
そう言って不機嫌そうに、深い緑の上質な絨毯が敷かれた廊下を歩いていく。
「承知しました」
長椅子から舞い上がった埃が舞う中、ジョルジオは静かに頭を下げた。そんなジョルジオを肩越しに見ながら、足早に歩いて行くルビウスにリリアンヌは早足で着いていく。その二人の後に、小走りで後を追うレイチェルが続く。
邸の外に出て、屋根が備えてつけてある渡り廊下を渡って、西館と呼ばれる小さな屋敷に足を踏み入れた。
無言で歩いていたルビウス。彼は二階にある部屋の扉を開けて、リリアンヌ達に部屋の中に入るよう無言で促した。
日も暮れた部屋の中は薄暗く、背後でルビウスが灯りをつけた。突如明るくなった部屋の眩しさに目を細めて、リリアンヌは部屋を見渡した。向かって正面に大きな両窓が一つとその手前に、横に広いどっしりと腰を落ち着けた机と上質な革張りの椅子が一つ。その机の前に猫足の長椅子が二つ、背の低い机を挟んで向かい合っている。
部屋の壁という壁は本棚となっていて、難しいそうな背表紙がびっしりと隙間なく収まっている。ルビウスは辺りに魅入っているリリアンヌ達に目もくれず、外套ととんがり帽子、上着をまるで葉がない木のような木製の洋服掛けに吊した。
「凄い本の数」
自分の背よりも遥かに高い本棚を首が痛くなるまで見上げていたリリアンヌは、ぽつりとそう呟いた。
「君達が読めるような本は、まだ無いかな」
不意にかけられた声に驚き、ぱっと背後を振り向いた。いつの間にか背後に立っていたルビウスは、いつものようににこかやかな笑みを浮かべていた。
「機嫌、直ったの…?」
怪訝そうにルビウスを見て聞けば、彼は首を傾げてリリアンヌを見た。
「機嫌?僕が怒っていたのは、陛下に対してだよ。…さて、魔法を教えてあげようか」
どういった心境の変化なのかと疑う程の心変わりだが、教えてくれると言うことなのだから素直に喜ぶ事にした。
「何から教えたらいいかな。…そうだな、うん。レイチェルもいることだし、召喚魔法がいいかもしれないね。…二人とも風蘭と連水を呼び出しなさい」
独り言とのように結論を出したルビウスは、首もとを緩めながら左側へと歩き出した。
「どうやって?」
「出てきて欲しいと願うも良し、出てこいと命令しても良し。呼び出し方は、その人によるね。けれど、リリアンヌは初めて呼び出すのだし、呪文を唱えた方がいいと思うよ」
寝室に繋がるであろう扉を閉めながらリリアンヌの問いにルビウスは軽く答え、とりあえずやってごらんと付け加えた。
そんないい加減なと顔をしかめたリリアンヌの隣では、レイチェルが既に連水を呼び出す準備をしている。
《連水、出てきて》
リリアンヌにはわからない言葉で小さく呟いたレイチェルは、右足でとんと地面を叩いた。すると地面が水面に打つ波紋のように波打ったかと思えば、波紋は次々とレイチェルの目の前に集まり、彼女そっくりの形をとったのだった。
「連水、その姿はなんとかならないかい?」
窓という窓を閉めたルビウスは、上等な椅子に腰掛けてレイチェルの姿を象っている連水を見ていた。
《この姿の方が楽》
「そうかい、それなら仕方ないね」
はぁとため息をついて、ルビウスはリリアンヌを見た。
「リリアンヌも風蘭を呼び出してごらん」
《風蘭?どこにいるの…?》
訳がわからないまま、心の中で風蘭に問いかけた。
やや間をあけてから、季節外れの暖かい春風がリリアンヌの前髪を舞い上げた。
《お呼びで御座いますか?リリアンヌ様》
ふんわりとリリアンヌの目の前に、風蘭が鮮やかな赤の衣をなびかせて舞い降りた。
《リリアンヌ様からお呼び頂けるなど私め、大変嬉しゅう御座います》
嬉しそうに両腕を互い違いに袖に突っ込んで、体を左右に揺らす風蘭。今日ばかりは少し可愛く見える。
「リリアンヌが呼びたくて、風蘭を呼び出したんじゃないよ?それに、そんな嬉しそうにするんじゃない。反吐が出る」
《なんですか、ルビウス。…居たですか》
とてつもなく嫌そうな顔をするルビウスを一瞥して、風蘭は言葉を続けた。
《そう言いながら、私めの力が必要だったのでしょう?》
風蘭が話を終えると同時に、廊下から慌ただしい声が聞こえて来たのだった。
「陛下、お待ち下さい!」
「ここから先は、国王様でもお通し出来ません」
あの容姿に似合わずに慌てた声で制するのは、恐らくルーベント宰相の声。対して、相変わらずの仕事口調のフレドリッヒ。
慌ただしい声は、西館の玄関口から部屋の入り口へと近付いてきている。
「まぁ、今回ばかりは君の力を借りるしかないからね。僕は陛下を追い返すから、リリアンヌとレイチェルを連れて隠れてなさい。戻っていいと言うまでだよ」
《仕方在りませんね。リリアンヌ様、レイチェル殿、此方に》
リリアンヌとレイチェルは、手招く風蘭の元に近づいて首を傾げた。
一体どうしたというのか。
《当主。私もレイチェルと一緒に行くぞ》
「いいよ、行っておいで」
ゆったりと椅子の背もたれに背中を預けるルビウスが、もうひとりのレイチェルにそう言った。
「風蘭、くれぐれもよろしく頼むよ」
扉が勢い良く開き、鬼の形相で部屋にやってきた国王を見たのを最後に、リリアンヌ達は既に風蘭の力によって姿を消していた。
「あれ?」
見渡す限りの深い森。
君が悪いほどの静けさが不気味で、身体にまとわりついて飲み込まれそうだ。
リリアンヌの隣にいるレイチェルは、いたって平気そうな顔をしている。
「ここは?」
リリアンヌの真後ろにいた風蘭を振り返って聞いた。
《ここはカインド家が保護しております、静寂の森で御座います》
「静寂の森…」
どっこいしょと近くの岩場に腰を下ろす風蘭を視界に捉えながら、どこかで聞いたことがある名前だと考えた。別荘近くにそう言えばあったなと思考を巡らす。
《しばらく森で、様子を見ることに致しましょう》
風蘭はそう言って瞳を閉じ、辺りに耳を澄ませた。
どこからか吹いてきたのどかな風が、生い茂る草木を揺らす。森にある全てのものが騒がしい現実とは切り離された世界を作り、まるで別世界のような感覚に包まれる。聞こえてくるのは風に揺れる木々の音、小鳥のさえずり。リリアンヌは、嬉しくなって隣にいるレイチェルに話し掛けた。
「レイル!私、こんなに草木ばっかりの森、初めて見たわ!すごいね」
しかし、笑顔でレイチェルを見れば、彼女は無表情でどこか遠くを見つめていた。
「レイル…?」
どうしたんだと顔を覗き込むと、反対側の右袖を誰かに引っ張られた。振り向けば笑顔のレイチェル。
「あ、れ?」
二人のレイチェルを見比べているリリアンヌを見て、レイチェルは連水を紹介してくれた。
「それは連水。連水、リリア」
レイチェルの言葉に、ちらりとリリアンヌに視線を寄越しただけで、連水は何も言わなかった。
「連水、殆ど喋らない。でも、リリアのこと嫌ってない」
あの表情の無い顔で、よくそんなことがわかるなとリリアンヌは心底感心して小さなため息を漏らした。
《風蘭、嫌な奴ら来る》
《分かっています。では、連水。此方を頼みます。リリアンヌ様、レイチェル殿、参りましょう》
身体の奥底から漏れる殺気を醸し出しながらぽつりと言った連水に、少し不機嫌そうに答えた風蘭が二人を森のさらに奥へと誘導する。
「どうしたの?というか、どこ行くの。連水は?」
思いつく限りの質問を前方を行く風蘭の背中に問いかけた。
《ポータリサの方向より、リヴェンデルの国軍が来ております。数はざっと千。忌々しい現国王が命令したのでしょう。この速さは恐らく、精霊・悪魔の知識が豊富な幹部の中の誰かが、手を貸していると思われます。そうでなければ神隠しの神であるこの私めが、居場所を突き止められる事など有り得ません。ですので、とりあえず森の住民達に手を貸して頂こうと思うのです。その間、連水が足止めをしてくれるので》
ぴょんぴょんとはねるように進む風蘭を足を最大限に動かしながらレイチェルと共に必死に追うリリアンヌは、疑問に思った事を聞いた。
「なんで、国軍なんかがこんな所に?」
《其れは、リリアンヌ様。あなた様を殺すためでしょう》
ぎょっとして足が止まったリリアンヌを風蘭は立ち止まって振り返り、先を促す。
「私、何もしてないんだけど」
《リリアンヌ様が何をされても、されなくとも。ルビウスの弟子で居る限り、あの忌々しい現国王は見つけ次第、殺そうとしてくるでしょう》
「どうして?」
《恐れながら、その理由は私めには分かり兼ねます》
リリアンヌの身長の何十倍もある巨大な岩を登りながら、あの優しそうな人が何故と考えた。肩に手を置いてくれたあの暖かさ、それに…。
そこまで考えていた時、リリアンヌ達の後方からどんっと噴水が地面から吹き出た。
森の大地に雨を降らせ、空に虹を作る。
その霧雨を浴びながら、リリアンヌはぼんやりとそれを眺めて思った。
古代魔女の風貌だと分かった時、国王の態度が豹変した。
それはきっと私がこんな髪と瞳(姿)だから。
《連水ですね。リリアンヌ様、お気になさらず先に進みましょう》
しっとりと濡れる髪と顔。霧雨の気持ちの良い水滴を感じとるかのように、ゆっくりと瞳を閉じた。
風蘭に急かされてよろよろと岩を登りきり、先に登っていたレイチェルが差し出してくれた右手をとって彼の後に続いた。
気分が沈んだリリアンヌの感情に関係なく、三人は森の奥へと到着した。
伸び放題の雑草は足元を隠すように生い茂り、どっしりと構える木々には渋い緑の苔がまとわりついている。
腐った木々があちらこちらで横倒しとなっており、蔦が様々なものをからめあげている。切り株からは瑞々しい若葉の新芽が無数に生え、森の奥は神秘的な気配に包まれていた。
《さて、手始めに門番に挨拶をしなければなりませんぬ》
そう言った風蘭は、近くにあった太い枝を拾って左手前にある大木を軽く叩いた。普通ならば軽く叩いただけでは木の音は響かないが、風蘭が叩いた音はまるで、木々が木霊するかのようにあちらこちらに大きく響いていく。
腹の底を震わせるかのような重々しい音が木霊して、奥へと吸い込まれていった。
しんと静まった森に変わりに、葉と枝がこすれる音に伴ってどこらから、ずっしりと体重がありそうな、けれど凄まじい速さで生き物が動く音がだんだん近付いてくる。
動く気配が直ぐ間近へとやって来た頃に、ぴたりと音が止まった。が、何も現れない。そのことにリリアンヌが痺れを切らして、左前にいる風蘭へ言った。
「ねぇ、風蘭…」
そう話しかけようとしたリリアンヌは、風蘭の目の前にある背の高い藪から飛び出してきた生き物に息をのんだ。
藪から前足を上げて高く飛び上がる姿は馬そのものであるが、それはお伽話に出てくる上半身が人間で、下半身が馬の姿をしたケンタロウスだった。一際大きなケンタロウスを先頭に、後から次々と小柄なケンタロウスが続いて藪から飛び出してくる。どれも、リリアンヌ達よりも三倍はある先端が鋭くとがった枝の部分が長い槍を片手に持っている。
リリアンヌ達は瞬く間に、無数のケンタロウスの群れに囲われた。
一斉に槍の先端を向けられ、リリアンヌ、レイチェル共に放心状態である。
そんな二人を放って、先頭をきって出てきた一際大きな褐色の肌を持つケンタロウスが口を開いた。
《誰かと思えば、風蘭。貴様か》
半ばあきれたように槍を縦にした彼が、風蘭の名を呼んだ。
《久しゅう御座いますな、アリッサム》
少し嬉しさを交えて、風蘭は彼、アリッサムに声をかけた。
《何故、突然森に来た?事前に知らせを寄越せとあれほど言っているだろう》
《私めも急な事だったのですよ》
周りのケンタロウスの群れに槍を向けるのを止めるよう身振りで指示して、彼は風蘭の後ろにいるリリアンヌ達に視線を向けた。
つぶらな茶色の瞳と視線が合う。
《その者達は?》
《此方、リリアンヌ様で在らせられます。私めの契約者で御座いますよ。お隣は、レイチェル・ディオム殿。連水の契約者で在らせられます》
《東の魔女と連水のお気に入りか》
納得したように頷き、波打ったの黒い髪を後ろで一つに束ねた長い髪を揺らして、辺りにいるケンタロウスに何やら指示した。その指示に従って囲んでいたケンタロウスは、彼だけを残して森の奥へと帰っていった。
《して、我に何ようだ?》
《ルビウスの命より、リリアンヌ様を安全な場所へと隠すのが私めの仕事で御座いましたが、向こうにその様な知識に長けた者が絡んでいるようで、既に居場所を突き止められてしまった次第です。つきましては、静寂の森に住まう民方のお力をお貸し頂きたく思い、門番を呼んだので御座います》
つらつらと一気に喋った風蘭をじっと黙って見つめていたアリッサムは、その地響きある声で聞いてきた。
《貴様にはその様に当主は申したかも知れぬが、我には関係無いこと。それを手伝い、我等森の民に得な事があると申すか》
《勿論で御座います。ルビウスがどのような褒美を貴方方に差し上げるかは存じませんが、あのルビウスのこと。相手がどの様なものを欲するか、承知のことでしょうな》
その言葉で黙り込んだアリッサムは、しばらくなにやら思案しているようだったが、大きく右に迂回して背を向け、付いて来るよう三人に言った。
《長の所に案内する。だが、手を貸すと決まった訳ではない。…決めるのは長だ》
《存じております》
ケンタウルスと風蘭の会話を黙って聞いていたリリアンヌ達に、風蘭はにっこり笑って頷いた。
彼と風蘭に付いて奥に向かう程、木々は更に密度を増して生い茂りリリアンヌ達を奥へ向かうのを阻止しようとしているかのようだった。
レイチェルの手を引いて木々の枝を掻き分け、地面から生える草や弦に躓きながら、やっとの事で大きく開けた場所へと辿り着いた。目の前には、ぽっかりと大きく開いた洞窟がある。既に日は完全に落ち、辺りは真っ暗な闇に包まれている。
背後から吹いてきた肌寒い追い風に身震いして、リリアンヌは口を開いた。
「ここに長って言う人がいるの?」
《さようで御座います》
洞窟からは先程から吹いている風に連動して、風音が人の叫び声のように低く不気味に響いているだけだ。
《長を呼んでくる。ここで待て》
そう言って躊躇無く、真っ暗な洞窟へとアリッサムは入っていった。
どれくらい待っただろう。実際には、ほんの少しの間だったかもしれない。けれど、リリアンヌには随分長い時を待ったように思えた。
洞窟から蹄の音と獣の吐く息が聞こえてくるとギラリと光る半透明の黄みが強い茶色の瞳が二つ、闇に浮かび上がった。
《風蘭か》
少しかすれた眠そうな声が、風蘭の名を呼んだ。
《オリヴィエ殿、このような無礼をお許し下さいませ》
《まぁ、いいさ。わざわざこんな所まで来るとはな》
ゆっくりとした足取りで、洞窟から出てくる。先程から雲に隠れていた月が顔を出し、その者を照らし出した。豊かな真っ黒い毛並み、鋭い瞳、体の大きさはリリアンヌ達が見上げる程大きな狼だ。オリヴィエと呼ばれた狼は、少し眠そうな気配を湛えて風蘭を見た。
《その者達が?》
《はい。リリアンヌ様とレイチェル殿です。リリアンヌ様、彼女はオリヴィア殿の母君で御座います》
「えっ、ヴィア姉さんの?」
リリアンヌは驚いて声を上げ、まじまじと彼女を見上げた。
なる程、瞳の色とダルそうな所がそっくりだ。
「はじめまして、七番弟子のリリアンヌと言います。ヴィア姉さんにはいつもお世話になってます」
《ほぉ、オリヴィアの妹弟子だったか。当主からは、そう聞いて無かったが》
「当主?」
《ルビウス・カインドの事だ。今は代替わりをして、この森を守るのが代わったからな》
へーと納得しているとオリヴィエがのしのしと歩いてきて、真っ黒い鼻面でリリアンヌの体を嗅いだ。
《懐かしい匂いがすると思ったら、そう言う事か。風蘭、あの若い当主は随分と苦労をしているみたいだな》
《私めには、ルビウスの事など関係ありません》
風蘭のつんとした態度に、にやりと鋭い歯を見せて笑ったオリヴィエにぞわりと鳥肌を立てながら、リリアンヌは何のことかと不思議に思った。
《いいだろう、手を貸そう。あの国王の事だ、黙っていたらこの森を好き放題にしかねない。アリッサム、皆を集めろ。久しぶりに血が高鳴るな》
《御意》
くわっと大きな欠伸を一つして、アリッサムが颯爽と去った方向にオリヴィエもひとっ飛びして続いた。
《…やり過ぎないよう、お願い致しますよ》
小さく呟いた風蘭の言葉に答えるかのように、森に野太い狼の遠吠えが響き渡った。
オリヴィエが去った後は、うとうととしだしたレイチェルに肩を貸し、洞窟の入り口の脇で二人で座り込んだ。
いろいろな事があった今日は、随分疲れたようで二人はいつの間にか仲良く穏やかな眠りに誘われていった。
ふとどこか遠くで、不機嫌そうな風蘭の声が聞こえた。
《…勝手なのはルビウス、貴男でしょう。私めには、リリアンヌ様を守る義務があるのですよ。あの国王は?…そうですか、わかりました》
相手の声は聞こえないが、小声の言い合いの末、どうやら風蘭が折れたらしい。
そんなこと浅い眠りの中でふんわりと誰かに抱き上げられた感覚に襲われ、規則正しいその心地よい音にリリアンヌは意識を手放した。
暖かい毛布にくるまれて目を開けた。
リリアンヌは、窓から差し込む眩しい日の光に目を細め、毛布に顔をうずめて幸せな一時へと旅立とうとした。
「リリアっ、いい加減に起きなさい!」
勢い良く扉を開け放ち、毛布を有無も言わさずはがされた。
「今日から本格的に魔法の訓練だって、良かったじゃない」
テキパキと窓を開け放ち、忙しそうに歩き回る人物を目をこすりながら見れば、姉弟子であるオリヴィアだった。今日も身動きがしやすそうな体の曲線が出ている衣類を身につけている。
「あれ?私、森で寝てた筈なのに…」
辺りを見渡すとそこは、貴族の屋敷によくある極一般的な一人部屋だった。おかしいなと首を傾げているとオリヴィアが近くにやって来て、寝台から半ば強引に引きずり下ろされた。
「あぁ、なんか昨日は凄かったらしいじゃない?国王が邸にやって来てすごい剣幕で。でも先生の方が上だったかな。あんなに怒ってた先生、久しぶりに見たわ」
けたけたと笑いながら廊下を移動し、とある部屋へと入るとオリヴィアはサバサバと動きながらリリアンヌの服を脱がせて行く。
「ヴィア姉さんのお母さんにも会って」
まだ寝ぼけているリリアンヌは、されるがままで昨日の出来事を思い出している。
「あぁ、母さんに会ったってね」
誰に聞いたとは言わずに、オリヴィアはその話をさらりと流した。
「さっ、さっさと湯浴びして着替えて朝食を食べに下にいらっしゃい。レミ、ソラ後は宜しく。私は先生に呼ばれてるから、もう行くわ」
ざぶんと湯船に浸かったリリアンヌとは関係なく、オリヴィアの声と入れ替って風呂場に来たのは、袖と裾をめくりあげた双子だった。
「ひ、一人で大丈夫です」
「「お任せ下さい、リリアンヌ様」」
噛み合ってない会話の末、リリアンヌは声にならない悲鳴をあげたのだった。
前にもこんな事が確かあったなどと考えながら、朝食を終えたリリアンヌは西館の二階、ルビウスの部屋へと来ていた。軽く部屋の扉を叩けば、ルビウスの軽い返事が返ってきた。
「どうぞ」
部屋に入ったリリアンヌをルビウスは、視線で長椅子に座るように勧め、自分も何やら書類を書いていたものを引き出しへと仕舞って、リリアンヌの前にある長椅子に腰掛けた。
「昨夜は済まなかったね。あの国王がまさか邸まで来るとは、思わなかったから」
やれやれと肩をすくめながら彼は笑った。
「あの国王は、もの凄く頑固で傲慢なんだ。欲の塊だと言ってもいいかもしれない…。全く身内として恥ずかしいよ」
「でも、伯父様にあたるんじゃないですか?」
よくわからないが、確かそんな話を言っていなかったか。
「そうなんだ。不覚にもあの人は、伯父にあたる。結婚したからね。しかも、どうも僕があの人の末の弟、セドウィグ殿下に似ているとかで気に入られてるんだ。全く忌々しい」
綺麗な顔をしかめて顔をリリアンヌから背けると少し間を開けて気を取り直し、話題を変えた。
「暫くは、こちらに干渉してこないと思うけどね。さて、リリアンヌ。あの人の乱入で予定が狂ったけど、君の魔法練習を始めようと思う」
その言葉で、リリアンヌはぱっと顔を輝かせて笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
「その代わり、学校にもしっかり通って座学もするように」
「学校…?」
「そう。秋から通えるよう、学校には話を通してあるから」
さらりと言ったルビウスに顔をしかめてみれば、彼は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。レイチェルと同じ学級だし、ジョナサン、ジュリアン、エリックも通う学校だから。ついでに言えば、オリヴィアの大学部と姉妹校なんだよ」
のんびり言うルビウスとは反対に、リリアンヌは眉間の皺を更に深くした。
本来ならば、手放しで喜んで良いことだろう。しかし、リリアンヌは何故か腑に落ちないまま、ルビウスに尋ねた。
「私は貧民の出です。血のつながりもないルビウスさんに、学校に行かせていただく事など出来ません」
「そうかな?君は、私の七番目の弟子になっただろう。ならば、私には君を学校に行かせなければならない義務があるんだ」
何でもないかのように答えるルビウスは、リリアンヌを見ながら更に続けた。
「これは決定事項だよ、リリアンヌ。…さて、魔法練習を始めようか」
長椅子から立ち上がったルビウスは、夏になって使われなくなっていた部屋の暖炉に近づいた。リリアンヌも納得出来ないまま立ち上がって、渋々ルビウスの元に近付いた。
「魔法で火を灯してごらん」
彼は隣に立ったリリアンヌに、それだけ言うと自分はさっさと机へと戻っていった。
「えっ!?教えてくれないの?」
基礎すらも教えてもらっていないと言うのに、どうしろと!と戸惑うリリアンヌの顔を見ずに、ルビウスは立ったまま机の引き出しから書類を出しながら言った。
「一から順々に教えていくのは、あまり好きではないんだ」
分厚い書類を取り出して、火がついたら言ってと彼は言って、椅子に腰掛け書類に目を通し始めた。リリアンヌは呆れて物も言えなかったが、仕方ないので目の前の難題に取りかかった。
暫く暖炉の前で考えていたリリアンヌだったが、何も知らないのに魔法が使える訳もないので、ルビウスに問いかけた。
「これって、誰かに聞いたり調べたりするのは駄目ですか?」
「別に構わないけれど、聞いても誰も教えてくれないと思うよ」
「じゃあ、手がかりだけでも」
「…仕方ないね。僕は呪文を使えとは言っていない。自分で出来ることの中で火を灯せればいいんだよ」
ルビウスの言葉で、暖炉の前にしゃがみ込んで頭をひねった。
確かルビウスは、風蘭を呼ぶ際に頼む、命令するなど人それぞれだと言っていた。
火にも精霊がいるのではないか。いるとしたら、どこに?
キョロキョロと部屋を見渡したリリアンヌは、長椅子の下、絨毯の裏などをあちこちを探し始めた。
「やっぱいないよねぇ、召喚呪文が必要?」
こんなところにいるわけないと独り言を呟いていた時、高級そうな酒がずらりと並ぶ棚の一番上にぼんやりと揺れる陽炎の塊を見つけた。
「もしかして…」
部屋の隅に置かれた棚にひっそりと隠れるように漂う陽炎に、ゆっくりと近づいて声を掛けた。
「ねぇ」
《ひゃあ!》
優しく声を掛けたつもりだったが、相手にはかなりおどろかせてしまったようだ。
「そんなに驚かなくても…」
少し呆れつつ、リリアンヌは言葉を続けて話掛けた。
「火をおこして欲しいんだけど。あなた、火の精霊でしょう?」
わたわたと急いで部屋の角に隠れた陽炎は、姿が全く隠れていないとは気付かずリリアンヌの様子を窺った。リリアンヌはというと地面を足で叩きながら、苛々と陽炎の返事を待っている。
「ねぇ、火をおこしてくれるの?くれないの?どっちなの」
眉間に皺を寄せるリリアンヌにすっかり怯えた陽炎は、そのゆらりと漂う陽炎を揺らして小さな声で答えた。
《だって、あなた神隠しの風蘭と契約してるじゃないですか》
「だから?」
《風蘭は怖いから嫌だ!》
「はぁ?」
どこが怖いんだと呟きながら、幼い男の子のような声ですっこんでしまった陽炎を引っ張り出すため、リリアンヌは棚に足をかけてよじ登りだした。
「いいから、火をつけてよ」
《嫌だ嫌だ。わーん、お母さん~!怖いよぉ》
「うるさい!あんた男の子でしょ。いちいち泣くんじゃないっ」
陽炎をむんずと掴んで引き下ろし、べそをかいている陽炎を暖炉に放り込んだ。
《僕はまだ、独り立ちしたばかりなのに》
「だから何?ぐずぐずしてないで、さっさとつけなさいよ」
ピシャリと言い放って、リリアンヌが火をつけるよう促した。結果的に火がついたのは、すかっり日も暮れた頃だったが。
シロという半人前の火の精霊は、怒るリリアンヌに恐れをなして泣きながら帰って行った。
それを見ていたルビウスには、有り難くもないお説教を頂くことになってしまったが。
そんなカインドの屋敷の様子を城の一室から魔法の望遠鏡を使い、眺めている国王がいた。
「陛下、あの魔女が魔法を習い始めたようですね」
豪勢な部屋の隅に佇んでそう国王に声をかけたのは、灰色の外套を纏う人物。声はまだ若い男性のものだが、頭からすっぽりと覆った外套のせいで、選別ははっきりとわからない。
「あぁ、そのようだ。全く忌々しい魔女だ!」
手に持っていた望遠鏡を地面に叩きつけ、方足で踏みつけると灰色の外套を纏う人物を睨みつけた。
「なぜさっさと始末しない?小娘一人にどれだけかかっているんだ!」
ダンっと拳で窓枠を叩き、どなる国王に灰色の外套を纏う人物は頭を下げて言う。
「申し訳ございません。マリエダ様から、少し様子を見ろとの仰せで」
「何か考えがあってそう申すのだな!」
「はい、あの者が秋から学校に通い始めます。学級に手下の者を通わせておりますので、始末するのは容易かと」
その言葉にうっすらと笑みを浮かべて、国王は鼻で笑った。
「そうか、それなら良い。儂はあの魔女をルビウスから引きはなせればそれで良いのだから。後の事はそちらに任せる」
「お任せを。しかし、陛下。失礼を承知で申し上げます。昨夜のように国軍などを動かされますとルビウスに必要以上に警戒されてしまいます。今後はそのような身勝手なことはお控え頂きますよう…」
「儂に意見するか!」
再び怒りを宿した国王にひれ伏すように、灰色の外套を纏う人物は上半身を更に深く下げて言った。
「とんでもございません。陛下のお手を煩わせるような…」
「もう良い!あの魔女はそちらに任せる!」
「…畏まりました。宰相には伝えますか?」
「いや、アレはルビウスと幼なじみだ。なんだかんだ言って裏で繋がっているかもしれん!悟られないようにしろ」
「仰せの通りに」
下がってよいと身振りで示した国王にお辞儀をしてから、静かに姿を消した。
「…陛下から、なるべく早く始末するようにと」
広い王城の敷地の一角、人通りが少なく薄暗いその場所で、二人の人間が向き合って会話をしている。灰色の外套を纏う男性は、先程国王と話をしていた人物で、彼と話をしているのは子供のように背の低い人物だ。
「…そうですか」
大人びた口調を話す灰色の外套を纏う人物は、まだ少年というほどでもないまだ若い男の子。
「しかし、お前の情報は良く役に立つ。マリエダ様も感心しておられた。これからもこの調子で頼むぞ」
白い城壁に背を預けていた男性は、そう言って姿勢を正すとさっとその場を離れて歩き出した。少年は、その後ろ姿に小さくお辞儀をすると踵を返した。
目深に被った灰色の外套の下から、強い意志を湛えた深い緑の色合いがなんとも鮮やかに輝いていた。
そんな少年とは反対に歩き出した男性に向かって、夏特有の蒸し暑い風が吹いた。
熱が籠もったその熱風を身に受けるように立ち止まった男性。屋根がついた長い静かな渡り廊下で、男性の口がゆっくりと綺麗な弧を描いた。
寄りいっそう強く吹いた熱風が、彼の外套と覆いの下に隠れた濃い紫の髪を静かに舞い上げていった。