第九話 神隠しの風蘭
風蘭と読みます。
リリアンヌの目の前に、古い洋紙が床一面に広がっている。その中央に立っているのが、ルビウス。
家具が方隅に移動された後、見計らったように古びた洋紙が現れ、一面に広がったのだ。
「これはね、面倒くさがり屋の爺様が作ったものなんだ。この文字で描かれた魔法陣に乗るとその者に合った魔法、魔術を自動的に探し出してくれる。本来なら、一つずつ魔法が合うかどうか試して行くんだけど」
肩を竦めながらリリアンヌを中央まで案内する顔は、かなり呆れ気味だ。
「爺様はそれが面倒だったみたいだ」
リリアンヌが中央に辿り着くと、銀色の細かい文字で描かれた魔法陣が浮かび上がった。
「うわっ」
それと同時に、体が重力に逆らって浮き上がるとリリアンヌは驚いて声を上げた。
しぃーと目の前に居たルビウスが、人差し指を口元に当てて静かにと合図する。
《お呼びかね》
ぶわっと部屋に風が巻き上がり、リリアンヌ背後から小型の魔法陣が突如として出現した。その中から、顔中が剛毛で覆われた大柄な男がのっそりと這い出てきた。
《眠い…》
左側に現れた魔法陣の中から、鋭く尖った爪を持つ両手で眼を擦りながら出てきたのは、大きな大きな真っ白な熊であった。なんとも可愛らしく、前足を前に出して座っている。
《久しぶりの外だわ―!》
そう言ってリリアンヌのすぐ近くの小さな魔法陣から飛び出てきたのは、愛らしい人間の赤子のような妖精。現れて早々にひらりと薄い裾をなびかせて走り出した。しかし、洋紙の端にあった見えない壁に、派手な音を立ててぶつかって気絶した。
《おやおや、まだこんなに小さな子なのかい?》
次々と出てくる者達に目を白黒させていたリリアンヌは、上から降ってきた声に顔を上げて叫んだ。
「うわぁあっ!」
天井の魔法陣から上半身だけをだした美しく白い衣を纏う女性は、(普通に見ればさぞ美しいのだろうが)何せ天井から白く長い髪をダラリと垂らしているのだから、幽霊としか見えない。
《何だい、失礼だね。その辺を漂っている人間の魂と一緒にしないでおくれ》
リリアンヌの反応が気に障ったのか、ふんと言って引っ込んでしまった。それを見て少しばかり申し訳なく思った。
色とりどりの眩しい光が部屋を満たし、部屋には奇妙な輩が溢れている。
次々と部屋に溢れてくる奇妙な者達をどうしたらいいのかと途方に暮れていたリリアンヌに、ルビウスが笑いながら声を掛けてきた。
「これは皆、神だったり精霊だったり、はたまた妖精だったり。悪魔も稀にいるんだけど。全員リリアンヌと契約したいとか、力を貸したいと願う者達なんだ。爺様は、面倒くさがりで大ざっぱで。コレを作ったは良いけれど、微調整を怠ってね。一遍に沢山の精霊達を招く事になった」
やれやれとまだまだ出てきそうな個性豊かな精霊達にピシャリと言い放った。
「リリアンヌとの契約希望者は、上位五名までとする。それ以外の者は、速やかに退出しなさい」
《えぇー!》
魔法陣から出てきたばかりの魔神達とその他の者達は、一斉にルビウスに反論を浴びせた。
《そんなのずるいぞ!》
《勝手に決めるな》
《私達にも選ばれる権利があるわ!》
そうだそうだと猛抗議する声がうるさくて、思わずリリアンヌは叫んだ。
「うるさ―いっ。黙って言うこと聞きなさい!大人しく帰らないと…」
《か、帰らないと…?》
ピタリと静かになった部屋で、小さな鬼の角を頭に一つ持った薄汚いコウモリが恐る恐る聞き返してた。そんなコウモリを見ながら、あれが妖精などと言うならば、夢もへったくれもあったものではないとリリアンヌは心の隅で思った。
「マーサ小母さんに頼んで、お前たちみんな晩ご飯の材料にしてやる―!」
くわっと口を開けて、リリアンヌは妖精達に突進した。
《わぁー!!》
そんなリリアンヌを見た沢山の精霊や妖精達は、我先にと各々魔法陣の中に入り込んで姿を消した。
ふんと自信満々にルビウスを振り返れば、彼は腹を抱えて笑っている。何が面白いんだと睨んでやるとクスクスと息を整えて姿勢を直した。
「まさかあんな風に追い払うなんてね。リリアンヌが初めてだよ」
「だって、うるさかったんだもの」
そんな会話をする二人の間をずいっと割り込んで来たのは、北風の神だという無表情の男。
《私と契約しろ》
その言葉で静かだった部屋が、途端に騒がしくなった。
いや、私とだ!何を言う、あたいよ!と言い争いを始めた精霊に妖精、神々。ルビウスは、面白そうにその光景を眺めているだけである。
「待ってよ!あなた達を私が選ぶんでしょう?ちょっとは静かにして!」
シュンとした精霊達におかまないなく、リリアンヌは続ける。
「このままじゃ埒があかない…。でも、私は魔法とかよくわからないから。だから、一つだけ条件をつけるわ」
びっしと残った五人に指差して、リリアンヌは告げた。
「私の事を一番に思ってくれてる者と契約する」
すると、我こそが一番だとまたもや口論が始まってしまった。
うーんと首を捻るリリアンヌに、とんとんと両足で床を蹴って跳びながら軽やかに近づいて来たのは、風変わりな服装をした小柄な少年だった。
《リリアンヌ様、私めが一番に貴方様を思っております》
「ふーん」
リリアンヌよりも背の低い彼は、混じり気のない鮮やかな赤色をした羽衣の両袖を広げている。色素の薄い、淡い灰色の鋭い瞳を見ながら、リリアンヌは適当に相槌を打つ。
《その証拠に、私めはこの場を辞退させて頂きます。貴方様は、大層お困りの様子。私め一人が辞退し、貴方様の負担が少しでも楽になればと思った次第で御座います》
「…へぇ、なかなか面白いじゃない。じゃあ、あなたにしようかな」
《ありがとうございます。これで、契約成立ですね》
勝手にリリアンヌは契約をしてしまった。
「ちょっと待ちなさい!リリアンヌ。こっちへ…」
《私めの主に軽々しく触らないで頂きたい》
そのことに慌てたのはルビウスで、ちょっと待ったとリリアンヌに手を伸ばしたが、その手は少年によってパシッと弾き返された。その様子を今度はリリアンヌが、面白そうに笑って見ている。
「もう一つの質問をさっき、教えてくれなかったお返しよ」
べーっとルビウスに向かって舌を出すと小柄な少年に、こっそり耳打ちする。
驚くルビウスを部屋に残して、魔法に包まれた。
「ざまぁ、見ろ。しかし、さっきのルビウスさんの顔、見物だったなあ」
《リリアンヌ様に満足して頂けたようで、私めもうれしゅうございます》
春に吹く、優しい風が二人を包んだその後。
リリアンヌは少年の力を借りて、近くの町へと続く森の前に移動していた。
「そう言えば、自己紹介がまだだったよね。私、リリアンヌ。よろしく」
《これは、失礼致しました。私め、神隠しの神、風蘭と申します》
両手を鮮やかな赤色の衣の袖口に互い違いに入れて、ぺこりと風蘭は頭を下げた。
「神隠し…?フウラン?」
《いえいえ、風蘭で御座います。神隠しというのはですね…まあ、簡単に言えば子供を隠したりする事でしょうか》
音が微妙に違うのか、何度も風蘭はリリアンヌの言葉を直した。神隠しの事はよくわからなかったので話に触れず、リリアンヌは思案した。
「さて、どうしよか」
軽はずみで屋敷を出たはいいが、ルビウスは恐らく怒っているだろう。
《宜しければ、少し遠出をなさったら如何です?》
瞳とほとんど揃いと言える白に近い、灰色の髪を頭の真上で一つのお団子にしており、それを手櫛で直しながら風蘭は提案した。
《あのカインド邸には、少しばかり迷宮の術と後消しを使いました故、暫くはルビウスも追って来れないかと》
「迷宮の術と後消し?」
《迷宮の術というのは、文字通り建物を迷宮にしたり、対象者を迷い込ます術で御座います。後消しは、言わば足跡を消して無かった事にするものです。これで、あのルビウスも追っては来れますまい》
ふふんと胸を張る風蘭をほぉと尊敬の眼差しで見ていたリリアンヌは、ふと疑問に思った事を聞いた。
「呼び捨て?」
《ルビウスの事で御座いますか?あれとは長い付き合いで…》
「そうだな。随分、長い付き合いだ」
突如聞こえたその声に。はたと二人は顔を見合わせ、恐る恐るポータリサの町へと続く道のりに顔を向けた。芝が道の脇に生えていて、見渡しの良い草原がずっと続いている。遠くに色とりどりの町並みがぼんやりと見える。
そんな光景を背景に、芝を削った道のりのど真ん中で立ちはだかるのは、静かな怒りを纏ったルビウスだった。
眉間にこれでもかと皺を寄せ、左手を腰に当てて首を傾げて二人を見ている。
《ぎゃっ》
「ひぃ!」
《リリアンヌ様、だだ大丈夫で御座います!私めが必ずや…》
「とにかく、逃げよう」
すっかり怯えた風蘭の言葉に聞く耳持たずで、リリアンヌはくるりと踵を返して森へと向かった。
「どこに行くんだい?リリアンヌ」
先程まで誰もいなかった森へと続く道に、ぬっとルビウスが現れた。
「うわっ、何で!?」
背後を見れば同じようにルビウスが、いつの間にか左右にもルビウスが。全員、同じように不機嫌そうだ。
「分身の魔法だよ。…すっかり油断したよ、風蘭。君は随分、僕をコケにしてくれたね。暫く“向こう”で反省してなさい」
ひゅんと風を切った音と共に、背後を振り返るとすぐ後ろに居た筈の風蘭の姿が消えていた。
「リリアンヌ、屋敷に戻るよ。何時までも君の遊び相手をしてられる程、暇でもないからね」
そんな言葉を発しながらリリアンヌの腕をしっかと掴んだルビウスは、瞬時に辺りの景色を回転させた。驚く程の目まぐるしい速さで過ぎ去っていく景色を眺めていると突如、ぴたりと景色が止まった。
元いた談話室に戻ったこともわからず、ヨロヨロと目を回すリリアンヌに対して、ルビウスは勝手な行動をするなと怒って留めとばかりに外出禁止令を言い渡した。
「ルビウスさんの馬鹿!嫌いよ」
唯一の反撃にとルビウスに浴びせた暴言はあっさりとかわされて、さらには。
「そんな事を言う子には、きつい罰が必要だね」
やっと自覚したばかりの魔力を取り上げられて、自室に閉じ込められてしまった。
そうこうしている間に王都へと移る日は刻々と近づき、賑やかなカインドの別荘にいつの間にか暑い暑い夏がやって来ていた。