第八話 六人の弟子
流血、残酷な描写があります。苦手な方はご注意下さい。
愛でたく弟子となれたリリアンヌ。玄関先で、どうも納得がいかないと師であるルビウスに食ってかかっていた。
「どうして勉強ばかりなの!?」
これから出掛けようというルビウスは、困ったなあとリリアンヌを見つめている。
リリアンヌはここ数ヶ月、マーサ小母さんに勉強を教えて貰いながら屋敷の手伝いに勤しんでいた。しかし、何時までたってもルビウスはリリアンヌに魔法を教える気配を見せないのである。
「だから、君は学校に通えてなかったから。まずは勉強から…」
「そんなことは何度も聞いてわかってるわ!」
読み書きが出来ないリリアンヌは、まず勉強をするようにルビウスに言われた。だから、せっせと勉強して同い年のレイチェルと並ぶ学問をマーサ小母さんも驚く速さで身に付けたのだ。
「何時までたっても、魔法を教えてくれないじゃない!」
「いや、だからその…」
「何をしてらっしゃるんです、兄上?」
リリアンヌはルビウスの背後から声を掛けてきた青年を見た。ルビウスと同じぐらいの年のその青年は、緩く巻かれた艶やかな焦茶色の毛を短く切りそろえて丁寧に頭に撫でつけており、ルビウスと揃いの深い黒の瞳が鋭くリリアンヌを見ている。どこかルビウスに似ていて、どこか違う雰囲気を持つ人物だ。
「あー、直ぐに行くよ。アレックス」
「本当に祖父様の言っていたとおり、この娘を弟子になさったのですね」
どこか侮辱したような態度でリリアンヌを見下すと何が気にくわないのか、彼はふんと鼻を鳴らしてじっとリリアンヌを見た。
「そんな態度をするな。リリアンヌ、彼は私の弟でアレックス・シエルダ候」
紹介されたアレックスは形だけ優雅に紳士の礼を取った。リリアンヌも遅れて礼を返してからふと思った。
「もしかして、あなた…」
「あぁ、ミミズクの姿で一度会ってる」
ぶすっと応えるアレックスの顔には、眉間に皺がよっている。
「あの時は失礼致しました」
「こちらこそ」
ぎこちなくお互い微笑むとリリアンヌとアレックスは見えない火花を散らした。どうやら二人は相性が悪いようだ。
「アレックス、そろそろ行こうか。わざわざ迎えに来てくれたんだろ?フレドリッヒも待たさせているし」
そこへ仲裁に入ったのはルビウスで、アレックスは渋々フレドリッヒが待っている馬車へと向かった。
「リリアンヌ、帰ったら魔法教えてあげよう」
「本当!?」
「あぁ。だから、良い子で屋敷で待っているんだよ」
「えぇ、勿論」
馬車へ向かう間際、どういった心境の変化なのかルビウスはこっそりリリアンヌに囁いて頭を撫でた。行ってきますと言って、踵を返して馬車へと向かって行った。
向かった先の黒塗りの艶やかな上質な馬車。彼は、その手前で待っていたアレックスにも何か囁くと馬車に乗り込んだ。
一体、何を言ったのかリリアンヌはわからなかったが、こちらを見たアレックスの顔が真っ青だったのはしっかりとわかった。
徐々に遠くなって行く馬車を見送っていると馬車と入れ違いに、淡黄色をした馬に乗ったオリヴィアが屋敷へと帰って来た。彼女が乗っている馬は、まだ若い雌馬で名前はティアといった。穏やかな気性で、何頭かいるカインドの中で一番扱いやすいと聞いた。そんなことを思い出しながら駆け足で馬小屋へと向かう。
「お帰りなさい」
木造の少し小さな馬小屋で、ティアから降りたオリヴィアに声を掛けた。
「あぁ、リリア。ただいま」
「今日は早かったね」
オリヴィアは王都近くにある十六から通える二年制の大学部に通っている。だから、何時も別荘に帰って来るのは弟子達の中で一番遅くなる。
「うん、ちょっと」
深い緑色の煉瓦造りのローベルおじさんの家の脇を並んで通り過ぎながら、オリヴィアは天を仰いだ。
「嫌な予感がするのよね。森もざわめきたってるし」
先程まで暖かい昼間の天気だった大空は、薄い灰色の雨雲が一面を覆い、今にも雨が降り出しそうな天気となっていた。幾分暖かくなったにも関わらず、急に気温が下がってぐっと寒くなった。
「嫌な天気だわ。フレッド兄さんは?家にいるの?」
ぶるりっと体を震わせたオリヴィアは、呑気に天を仰いでいるリリアンヌに聞いた。
「居ないよ。先生と一緒に出掛けた」
「そうなの?フレッド兄さんまで連れて行くなんて。先生、どこに行くって言ってたか知らない?」
「確か…。リプなんとか侯爵がどうとか、話してたかな」
「リプイージア侯?あの魔法嫌いの説教魔か。じゃあ、先生とフレッド兄さん、今日遅くなるわね。どうりで私に早く帰れっていう連絡が来たわけだ」
ぶつぶつと独り言を呟いていたオリヴィアは、ふっと鼻をひくつかせて辺りを見た。
「どうしたの?」
「…何か来る。リリア、早く屋敷に入りなさい。しばらく屋敷から出ては駄目よ。良いわね?」
どうしてと聞くリリアンヌの質問には答えずに、オリヴィアは屋敷へと追い立てた。そして、あの子達を迎えに行ってくると言って慌てて出て行ってしまった。あの子達とは、すぐ近くのポータリサにある学校に行っているジョナサン達の事だ。わざわざ迎えになど行かなくても、直ぐに帰ってくるのにとリリアンヌは談話室の長椅子でごろりと横になった。
ちょっと横になっただけのつもりが、いつの間にか寝入ってしまっていたようだった。リリアンヌが起きたのは、オリヴィアが迎えに出て行ってちょうど二時間が経とうとしていた頃だった。
「みんな、帰ってるのかな?」
廊下に出て、賑やかな兄姉達を探してみるが誰もいる気配がしない。何時もなら、長椅子で横になるなど行儀の悪い事をすると怒りに来るマーサ小母さんも居ないようだ。
屋敷の中は気味が悪い程、静かだ。
その事に危機感を募りながら、リリアンヌは食堂に降りて窓から外の気配を窺ってみた。
外はリリアンヌが屋敷に戻った時と大して変わりはなく、屋敷の窓に時折、風を切る音を伴って強い風が音を立ててぶち当たるだけだ。
硝子が揺れて、窓枠に当たる音だけが屋敷の中に響く。
屋敷から出るなと言われたリリアンヌは、大きな窓の鍵に手をかけて呟いた。
「外見るぐらいならいいよね」
両窓を勢い良く、向かい風に刃向かいながら解き放った。
窓からなだれ込んできた冷たい風を身に受けて、顔を出した。
銀色の髪がなびくことも気にせず、じっと皆が帰ってくる森を見つめる。
夏はすぐそこまで来ていると言うのに、寒さは冬に逆戻りしたようだった。
その尋常ではない寒さに、リリアンヌは身震いした。
やがて、森から黒い人影が出てきた。それが兄姉弟子だとわかるやいなや、リリアンヌは屋敷から飛び出していた。
「お帰り…」
「リリア、伏せなさい!!」
もう少しで皆の元に辿り着けるという所で、オリヴィアからの厳しい声がかけられた。
その声にびくりと立ち止まった。
短い草花がまるで意思を持ったかのように、立ち止まったリリアンヌを覆い隠して地面に無理矢理伏せさせた。
「うぇ」
いきなりの事に受け身が出来なかったリリアンヌは、地面に思いっきり顔面と体を打ち付け、その痛みに変な声を出した。
オリヴィアは、そんなリリアンヌを狼の姿で軽々と飛び越えた。
その先には、黒い人影。
いつの間にかリリアンヌの背後にいた、その黒い人影の喉に鋭い牙を剥きながら噛み付いた。
「うわぁあああああ」
男性の悲痛な声が聞こえなくなると変わりにジョナサンの怒った声が直ぐ真上で聞こえた。
「ヴィア姉さんに屋敷から出るなって言われてだろっ!こんのバカ!」
草を払いのけて体を起こすと鬼の形相で怒った顔のジョナサンが、リリアンヌのすぐ側に立っていて真上から見下ろしていた。
「つい忘れたの」
膨れっ面でジョナサンに言ってそのまま顔を後ろに向けた。
若葉の瑞々しい草原は、空の灰色のせいで黒づんで見えた。その草原を北から吹いてきた真冬の冷たい強風が、草花を波立てた。
そんな緑の上で、黒の外套と黒服を纏った一人の人間が静かに事切れていた。黒い外套が草原の上に広がり、首元からは鮮やかな赤が辺りを血の色に染めていく。
その人間の首もとに食らいついていたオリヴィアは、二人をゆっくりと振り返った。
紫がかった黒の美しい毛色を赤く染め、振り返った彼女の口元はべっとりと血塗られていた。
《ジョーン、皆を連れて屋敷に入りなさい》
オリヴィアとリリアンヌの間に、冷たい風が吹く。
草花も風に揺られて。
彼女の紫がかった黒の毛色と銀色の髪をなびかせた。
いつものオリヴィアの声より幾分低いその声は。いつもは見たことがない、底知れぬ殺気をまとっていて。
半透明の黄みが強い、黒みがかっている茶色の瞳がじっとリリアンヌを見つめた。
魅入られるようにその美しい瞳を見つめていたリリアンヌを無理矢理立たせたジョナサンは、こちらに向かっていた三人の弟妹弟子に、屋敷に真っ直ぐ走るよう指示した。
「後ろを向かずに屋敷まで走れ」
ジョナサンはそう言うと弟子達が脇を通り過ぎた時に、とんとリリアンヌの背を押して走らせた。よろよろと走り出したリリアンヌに、レイチェルは手を差し伸べて引っ張ってくれた。その時、先程リリアンヌとジョナサンがいた場所から、派手な爆音と共に砂埃と土が空に舞い上がった。
リリアンヌの頭に、散った草や泥が空から降ってくる。
「何!?なんで空からこんなの降ってくるの?って、そうじゃなくて!ジョーン兄さん、大丈夫なのかな」
ぜいぜいと息をしながらレイチェルに声を張り上げて聞いた。
「ジョーン兄さん、空間移動魔法使える。大丈夫」
レイチェルは振り向きもせずに答えたが、リリアンヌは気になって振り向いた。二人が居た場所は、草花の絨毯が無残なほど掘り起こされ、下に隠れていた濃い茶色の地面が剥き出しになっていた。
もはや、人間が立っていられない。
砂埃が舞うその少し離れた場所に、ジョナサンが空中に浮いている。無事な姿を視線の端で確かめて、リリアンヌは再び速度を上げて走り出した。
「レイル!ジョーン兄さん、大丈夫だっ」
言葉を言い終わらない内に、いきなり立ち止まったレイチェルの背中にぶち当たって、リリアンヌはその痛さに顔をしかめた。鼻をさすりながら、今日は災難だと呑気に思った。
「なんで、あんたがここにいるんだ!」
怒り狂ったジュリアンの声に、リリアンヌは鼻をさすりながらレイチェルの背中から顔を出した。
「おや、ご挨拶だ事。儂は、お前達に会いに来たんじゃないんだよ」
屋敷に続く道の塀の前で、二人の大柄な男を従えた老女が立ちふさがっている。大柄な男達は黒い外套に身を包み、顔さえ見えない。
「別にあんたなんかに会いたい奴なんていない!早く帰れ」
「お引き取りを。マリエダ様」
凄みがきいたエリックの声で灰色の外套を纏った小柄な老女は、ははっと乾いた笑い声を上げた。
「この儂に、帰れだと?そんな事は、もう少しマシな人間になってから言うもんだ」
その言葉が合図だったように、大柄な男とは別の黒服の男が二人、宙からジュリアンとエリックを目掛けて現れた。二人の男の手元には、鋭く磨き抜かれた短剣が。薄暗い光を浴びて不気味に光る。
「あぶなっ」
リリアンヌが叫ぶよりも早く、エリックとジュリアンは真反対へと瞬時に跳び、刃から逃れた。
「お嬢ちゃん方、呑気に観戦などをしている場合じゃないんじゃないかい?」
はっと振り返れば、まるで死に神が持つような大きな黒い鎌を振りかざした二人の大男が、リリアンヌとレイチェルに留めを刺そうとしていた所だった。しかし、鎌が振り下ろされるより早く、リリアンヌとレイチェルの足元に淡い金色を帯びた魔法陣が浮かび、瞬時に二人は屋敷から距離を置いた森の入り口近くへと移動していた。
「ちっ、フレドリッヒか。間の悪い」
老女が呟いた声を辛うじて聞いた時には、二人は濃い青色の衣類を纏った痩せた背中に庇われていた。
「お久しぶりですね…。マリエダ・コウリィース様」
いつも通りの淡々としたフレドリッヒの声に、宙に浮いてこちらを窺っていた老女は、ふんと不愉快そうに答えた。
足先まである灰色の外套が、風になびいてふわりと舞い上がる。
「儂は、お主だけには会いとうなかったわ。遠隔魔法の使い手で、ルビウスの一番弟子、フレドリッヒ・ラービン。やはり、あやつは真っ先にお主を返して来たか」
「お褒めいただき光栄です」
何てことはないように言ったフレドリッヒの背中を見つめていたリリアンヌは、顔を出して辺りをこっそり窺った。
左側の崖を目の前にして、オリヴィアが狼の姿のまま、三人の黒い影に牙を剥いて時折、口から鮮やかな赤い火を相手に放っている。
その反対側、森の手前でジョナサンが姿を消して別の場所に現れ、足元で編み出した渦巻く風を灰色の外套を纏う相手に向けていた。
エリックとジュリアンは、それぞれ先程の相手だろうか。淡い黄色の塀近くにいる。エリックが自身の右腕を紐のように伸ばして相手の身動きを封じ。ジュリアンは、草花を足元付近に呼び寄せて蛇を象った黄緑色の曲線を作り出していた。
様子を窺うからにして、今は呑気に話などしている場合ではない。
「今日は何が目的で?わざわざ先生やアレックス様が居らず、私までも居ない時を見計らっていらっしゃったのなら、弟子達の内、誰かだと見て良いでしょうかね」
「察しが良いな。儂は、その古代魔女の屍が欲しくて参った。さあ、その娘をこちらに渡すのだ。大人しく渡すと言うならば、今回はお前達の命は見逃してやろう」
老女にしては細く小さな、右手をこちらに出したマリエダは、嬉しいそうにそう言った。
灰色の外套に隠れていた右腕が、外套が風に巻き上がる共に姿を現した。
その腐敗した無惨な腕に思わず悲鳴を上げそうになった。
酷い火傷をしたような。
まるで、死体の肉が腐っているような腕。その肌の色は赤黒く変色しており、おうとつが目立つ。
空に向けた手の平の指先は、半透明の白い骨が顔を出していた。
そんな腕を確かに目にしているだろう、フレドリッヒは微動だにせず淡々と言葉を繋いだ。
「そんな事を私がするとでも?そんな馬鹿な事をした時には、先生に酷い目にあわされます。それにこの子は、先生の七番目の弟子となりました。つまり、私の妹弟子ということ。私は先生に代わって、この子を守る義務があるんですよ」
「ほぉ。儂とやり合うと?お主は良くても、他の弟子達はどうであろうか」
腕を外套の中に引っ込めて、ふわふわと宙を漂いながら面白そうに辺りを見渡した。
「大丈夫ですよ…先生が選んだ子達ですから。簡単にはやられません」
言葉が言い終わるとフレドリッヒが短い呪文を口にして、マリエダの真下に魔法陣が浮かび上がらせた。柔らかな金色の光が連なる文字から辺りを照らす。
「世間話はこの辺にしておきましょうか」
「遠隔魔法で来るか。残念だがフレドリッヒ、遠隔魔法は対象物の一部が地に着いていなければならんぞ?知っていると思ったが」
残念だと言葉を繋げた彼女にお構いなく、フレドリッヒは陣を発動させた。
「えぇ。勿論、知ってますよ。しかし、それはあくまで基本論。それを応用させれば、便利になるんです」
【列鎖、縛り縄】
フレドリッヒが呟いた声に反応するかのように、魔法陣が金色を増して光った。円を描く魔法陣の中から沢山の金色の鎖が空に向かって出てきたかと思えば、勢い良くマリエダの体に巻きついて彼女を地面に叩きつけた。
「うわー、凄い!」
舞い上がる砂埃りに顔をしかめながら、フレドリッヒの背中から眺めていたリリアンヌは思わずそう言葉ん漏らした。
その時、不意に腕を引っ張られて後ろを振り返った。
「何?レイル」
「乗り出すとフレッド兄さんの防衛壁術が崩れる」
「防衛壁術?」
こくっと頷くレイチェルは、薄い灰色の雨雲の空を指差した。
「なにこれ?」
先程までなかったそれは、半透明の薄い膜が三人を包み込んでいた。
「これが防衛壁?」
「そう」
【壊】
そんな悠長な二人の会話は、マリエダの呪文によって打ち切りとなった。
「面白い事をするじゃないか。だが、遠隔魔法ばかりに頼っていてはいけないのぉ」
さらさらと砂と化した鎖の残骸から起き上がったマリエダは、右手の人差し指で小さな火を灯すとふぅと息を吹きかけた。小さな小さな火だった薄い紫色を帯びた薄い青色の炎は、長い糸を引くようにゆらゆらと揺らめいて形を変えた。
強風を追い風にして、見る見るうちに巨大な大蛇となり森に向かう。
「フレッド兄さん!」
レイチェルの切羽詰まった声と同時に、森は瞬く間に火の海と化した。
「あぁぁぁぁぁ!」
その森と連動するかのように、オリヴィアの身体が炎に包まれ、絶叫が辺りに響いていた。
「ほれほれ。森の火を早く消さなければ、狼族の娘が丸焼けになってしまうぞ?まぁ、狼の丸焼きという美味そうなのが、出来上がるが」
「ヴィア!」
「火を消すには、お主が使えぬ自然魔法を使わなけばならんな。実に見ものだ」
けたけたと笑うマリエダを一瞥すると、フレドリッヒは二人にここから動かないようにと言って森へと駆け出した。
「ヴィア姉さん!」
炎を消そうと悶えるオリヴィアの姿を見ていられなくなったレイチェルは、あっさりと言い付けを破って膜の外に飛び出した。
「レイル!」
その後を追ったリリアンヌも、フレドリッヒの防衛壁を潜ると外に飛び出した。
【氷結】
黒の外套を纏う相手を魔法で凍らし、息の根を止めたレイチェル。彼女の元に駆けつけようとしていたリリアンヌは、ふと背後に気配を感じて振り返った。
「本当に馬鹿な子達だ」
その言葉を発した口元が弧を描いている。
静かに佇む人物を目の前にリリアンヌは悲鳴も上げず、その場に立ち尽くした。
強い風が灰色の外套を巻き上げ、マリエダの覆いを取り外した。
年老いた老女の顔。しかしそれは、先程の腕と同じような赤黒い色が顔のほとんどを占め、リリアンヌよりも幼い少女が腐食した何とも見るも無惨な姿だった。
「お前さんの命はどんな味がするのか、楽しみだ」
そう言いながら、風になびく袖口に右手を差し込む。鮮やかな血の色をした長い髪が、空に舞い上がった。
ゆっくりと複雑な紋章が描かれた大ぶりの短剣を取り出して、リリアンヌの足元へと刃先を地面に突き立てた。
「簡単には死なせてあげられないがね。あの子が怒り狂う様が見たいから。…さぁ、剣を取りな。自分で死を選ぶのだよ」
頭の中では心が嫌だと叫ぶのに、マリエダの言葉には逆らえなくて、体が勝手に剣へと手を伸ばす。
剣など、手に取ったことも無いリリアンヌにはそれはずっしりと重く、手に取った物が人の命を奪う物だと伝わってくる。
ひんやりとした感触が首筋にあてられて意識を取り戻せば、両手で短剣を持ち、両刃の片面を首に押し当てていた。
「残念だねぇ、ルビウス。儂の勝ちだ」
くつくつと笑う彼女。
本来なら人間にあるはずの瞳がなく、空洞でどす黒い血の固まりが目の縁に所々固まっている。
見るも無惨なその顔を見つめて、リリアンヌは自身の手に力を込めた。
まだ、死ねない。
やり遂げないといけない事があるから。
瞳を閉じて、短剣を握りしめた。
右腕をその想いと共に引き、首元を強く切り裂いた。
痛みはなく、変わりに生暖かい血が頬を伝って瞳を開けた。
マリエダの首の右側から、黒みを帯びた赤色の血が吹き出していた。
「何故だ…。何故、鏡映しが使える?まさか…」
そう言って、力無く地面に仰向きに倒れた老女を冷たく見やるとリリアンヌはそっと近付いた。
あぁ、そうだ。留めを刺さないと。
ぼんやりと考えて、彼女の上に馬乗りになった。
マリエダの左胸に短剣を押し当てて留めを刺そうとしたが。
「駄目だよ、リリアンヌ。君の手は、人を殺める為にあるのではないのだから」
ふわりと暖かい体温に抱きしめられたと思ったら、マリエダから引き離されてルビウスの腕の中へと収まっていた。
「マリエダ様、随分と弟子達を可愛がって頂いたようで。御礼を申し上げます」
冷たく笑うルビウスをぼんやりと見上げて、リリアンヌは身体から力を抜いた。
「何、大した事は無い」
「そうですか」
「しかし、出遅れたな」
むくりと傷口を右手で押さえながら起きあがったマリエダは、ルビウスにニヤリと笑った。手の隙間からは、まだ赤黒い血が大量に溢れている。
「いいえ。計算通りですよ。まぁ、リリアンヌが魔力を解放する事は読み違えましたが」
リリアンヌがまだ持っていた短剣を優しく取り上げるとべっとりと血が付いた刃をマリエダに向けた。
「儂を殺すか?」
「守る為には、何かを犠牲にしなければいけませんからね。それが守ると言うことですよ」
「親切に魔法を教えてやった恩を仇で返すか」
寂しそうに溜め息を付いたマリエダを冷たく見つめるルビウスは、気にもとめないように言った。
「教えたと言っても、破壊の魔法でしょう?」
「教えてやったことには変わりないだろう。それに儂はカインド家の血筋の者だぞ。儂を殺せば、幹部が黙っては居らん。」
「あなたはもう、カインド家の者では無いでしょう。それに爺様からは既に許可を頂いてます」
顔を引きつらせるマリエダに、にっこりと微笑んで言葉を続ける。
「あなたが好きな、破壊の魔法で死なせてあげますよ」
ひゅんと風を切る音が辺りに響いた。
ドスッと物が刺さる音が聞こえた。マリエダの喉仏には、先程リリアンヌが持っていた短剣が深々と刺さっていた。そこでリリアンヌの視界は、ルビウスの手の平によって遮られた。
「君が見るような物ではないよ」
ぎゃあぁと叫ぶマリエダの声と何かが破裂する音が耳に届いたが、真っ暗な闇の中では何があったのかリリアンヌには確かめようもない。
ルビウスが手をのけた時にはその場所にマリエダの姿は無く、どす黒く染まった草原の地面だけがあった。
「先生」
いつの間にか側に来ていたジョナサンが、控えめにルビウスに声を掛けてきた。
「ジュリアンが先生の指示通り、一人生かして捕らえています」
「分かった。ありがとう。他は?」
「俺とエリックの相手も、自害しました。…すみません」
「ふむ、まぁいいさ。ジョナサン、エリック。リリアンヌを連れて、先に屋敷に戻ってなさい」
ジョナサンにリリアンヌを引き渡して、彼はオリヴィアとレイチェルのいる場所へ向かっていった。
「歩けるか?」
気遣わしげに声をかけてきたジョナサンに首を横に振った。放心状態のリリアンヌに溜め息を漏らして、ジョナサンはリリアンヌを背負ってくれた。
その後、くたびれた様子のエリックも合流して屋敷へと戻った三人は、談話室でのんびりと茶を飲んでくつろいでいるアレックスを見つけて驚いた。
「シエルダ郷、何故こちらに?」
驚いたエリックが声を上げるのと同時に、長椅子から腰を上げてこちらにやってきた。
「兄上からの指示だ。先程の対戦、なかなか見事な物だった。流石、兄上の自慢の六人の弟子達だ。しかし、まだ生きて捕らえるのは難しかったようだが」
ふんと鼻を鳴らしたアレックスは、眉を寄せてジョナサンの背中に背負われたリリアンヌを眺めている。
「なる程。あぁ、長椅子にでも」
ジョナサンの視線に気付いたアレックスは、近くにあった長椅子を指差した。
「兄上は後始末に?」
「えぇ、でも直ぐにお戻りになられると思います」
疲れた様子のエリックが丁寧に答えたのに納得したアレックスは、静かに長椅子に横になったリリアンヌに近いていく。
「王都から幹部や保安員なんかが来て、ここも騒がしくなるだろう。兄上のご機嫌が損なわれるな」
ふぅと溜め息をついて、リリアンヌを覗き込んだ。
「兄上が戻られるまでこの姿を戻してみるか」
「アレックス様?一体、何を」
アレックスが呟いた言葉に、二人の一番近くにいたジョナサンが反応した。
「ちょっと試してみるだけだ」
懐から手の平大の丸い手鏡を取り出すとそれを左右に振ってからリリアンヌに見せた。
「これが本来の姿だ」
無意識に手鏡を覗き込めば、そこには肩につかない短い真っ黒の髪と鮮やかな真っ赤な瞳の色をしたリリアンヌの姿があった。
目を見開いて叫んだ。
「…私じゃない。これは、私なんかじゃない!嫌っ」
自身の姿を見てわなわなと震え出して、アレックスの手鏡を振り払うとそれは壁にぶつかって粉々に砕け散った。
「リリア、落ち着け!」
突如、暴れだしたリリアンヌを鎮めようとジョナサンとエリックは、慌てて近寄るがリリアンヌ平常心を失っていた。
「アレックス、何をしている?」
その時、フレドリッヒを従えたルビウスが戸口から声をかけた。
「あ、兄上」
つかつかとアレックスに歩み寄ったルビウスは、ぱしんと乾いた音でアレックスの左頬を思いっ切りぶった。
「私はリリアンヌの魔力が暴走しないように、お前をつけたんだ。余計な事はするな」
「…申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました」
冷たい言葉でアレックスを叱りつけ、詫びの言葉を受け取るとしゃがみ込んでリリアンヌを抱きしめた。
「大丈夫だ、リリアンヌ。ゆっくり息をして」
リリアンヌはルビウスの言葉通り、ゆっくりと息を吸ったり吐いたりして気持ちを落ち着かせようとした。
「自分の姿を思い出してごらん。髪はどんなだった?」
「銀色の髪…」
「そうだね。じゃあ、瞳は?その色だったかな」
ふるふると首を横に振って、リリアンヌは否定した。
「もう少し暗くて」
「ほら、見てごらん。元通りだろう?」
ぼやっと柔らかい光に包まれてルビウスの手の平に現れた正方形の鏡を恐る恐る覗き込んだ。
そこには、いつも元通りの。
白みを含んだ灰色の銀色の髪をした少女が、黒みを帯びた暗赤色の瞳を瞬いて鏡の世界から同じように覗き込んでいた。
「うん」
やんわりとルビウスに微笑むと腕の中に閉じ込められて、とんとんと小さな子供をあやすように背中を優しく叩かれた。
「アレックス。爺様がここが片付き次第、王都のカインド本邸に戻るようにと。私も弟子達の学期末までには皆を連れて戻る」
「承知しました」
アレックスは、恭しく頭を下げて静かに部屋を出て行った。
「フレドリッヒ、ジョナサン、エリック、聞いていた通りだ。学年が上がる秋までには、王都についていなくてはいけないから。学期が終わる夏までには全ての荷造りを終わらして、何時でも出立を出来るようにしておきなさい」
「分かりました。オリヴィアとジュリアン、レイチェルにもそのように伝えます」
フレドリッヒが部屋を辞するとジョナサン、エリックも後に続き、部屋は静かな静寂に包まれた。
大きな時計の針の音だけが、部屋に響く。
「と言うわけで君が学校に行く頃には、王都に着いているから王都の学校に通う事になるよ」
リリアンヌが落ち着いた頃合いを見計らってルビウスが言った。
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「さっきのマリエダとか言う人、誰なんですか?私の事、狙ってたんでしょう?」
「答えるのは一つだけ。あの人、マリエダ・コウリィースは爺様の妹にあたる人だよ。もう、カインド家とは繋がりがない人だけど」
「そうなんだ…。じゃあ」
「うん?」
なんだい?と嬉しそうに聞くルビウスの体を無理やり腕で遠ざけ、彼の腕から脱出したリリアンヌは長椅子の上に仁王立ちとなって言い放った。
「魔法、教えてもらいますから!」
あぁ、覚えてたのと溜め息をついたルビウスに勝ち誇ったように微笑むリリアンヌは何というか、八歳の少女にしては不似合いな女性の色気を醸し出している。
「…仕方がないね、約束をしていたから」
取りあえず座りなさいと言葉を続けるルビウスに大人しく従い、長椅子へと座った。
「魔法はね、決して万能ではないんだ」
少し悲しそうに言うルビウスは、視線を窓へと移した。灰色の雲が風に流されてゆっくりと移動し、濃い赤みを帯びた黄色の空が雲の切れ目から顔を出していた。
「…例えば、人が怪我をしたとするね。それを治すのに、治癒魔法を使う。けれど、それはその人自身の治る力を助けるだけ。治す力が無い者は、どれだけ治癒魔法を使っても意味が無い。魔法と言うのは、時に無力だ」
一息ついて、彼は更に言葉を続けた。
「攻撃魔法・防衛術は、人を殺めるどんな道具よりも簡単に人を殺せる。また、どんな頑丈な盾よりも対象物者を守る。けれどね、その分使う者の心と精神を壊すんだ」
ルビウスは、窓から視線を離してリリアンヌを見つめた。
「いいかい、リリアンヌ。どんな小さな魔法を使う時も、自分の心を見失ってはいけないよ」
「大丈夫よ!」
あっさりと返したリリアンヌに困惑しながら、ルビウスは続きの言葉を探した。
「だから…」
「だから、私に魔法を教えて」
言葉を被せるようにリリアンヌが言った言葉が、沈黙を破った。
「そうだね、君はどんな時も前だけを見つめてる」
ルビウスは自嘲に似た笑みを浮かべて呟いた。
「え?」
聞き返したリリアンヌに、何でもないよと言って話題を変えた。
「リリアンヌ、君の能力は言霊だね。言霊によって自分の魔力を封印し、眠らせる。また、相手の魔力を奪って自分に取り込む。さっき、君の髪や瞳が変わったのは、鏡映しという魔法を無意識に使って眠っていた魔力が目覚めたから。もしかして気づいてなかった?」
あんぐりと口を開けたリリアンヌはこくりと頷いた。
「まあ、能力はなかなか自分では気付きにくいからね。後、魔法は使い手の性格と比例するんだ。リリアンヌは、攻撃魔法が得意分野となるだろうね」
どういう意味だと皮肉気に呟くリリアンヌをルビウスは楽しそうに笑う。彼が右手を一振りすれば、部屋にあった家具が床を滑るような速さで窓辺に集まっていく。
家具が全て端に寄ってから、ルビウスが腰をあげた。