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「明日から夏休みかぁ……」
古びた校舎を出た途端、蒸し暑い空気が頬に当たった。肩まで伸ばした髪が、ブラウスの襟のあたりをまとわりつく。涙子は髪を耳にかけ、ピンク色の傘を雨の中に開いた。
「涙子、今日もマック寄ってく?」
同じクラスの葵がそう言って、赤めの髪をかきあげる。彼女の耳に、最近開けたばかりのピアスが光る。
「うーん、今日はやめとく」
「なんでぇ?康介くんとデートとか?」
「違う違う。そんなんじゃないって」
十七歳になったばかりの涙子は、隣町にある公立高校に通っていた。本当は親の進めた、このあたりでは有名な私立高校へ行くはずだったのだが、受験に失敗してしまったのだ。
両親はそのことでしばらく嘆いていたが、涙子はどうでもよかった。
『勉強なんて意味がない。それよりもっと大事なもの、あると思わない?』
いつかの陽人の言葉が、今ではわかるような気がしていた。
だけど涙子は思うのだ。あの頃の陽人にとって、勉強は『意味のあるもの』だったのではないか?
勉強ができれば父に気に入られる。そばに置いてもらえる。捨てられることはない……小さい頃から自然と、陽人はそんなことを思っていたのではないだろうか……
「あー、あたしも彼氏欲しー」
葵が携帯をいじりながらつぶやく。ふと空を見上げたら、降っていた雨がいつの間にかやんでいた。涙子は傘を閉じて、葵と同じように携帯を開く。
涙子の携帯には、朝から何通も康介のメールが入っていた。
『今日、うちに遊びにこない?』
康介は、高一の終わりに、友達から紹介してもらった彼氏だ。近くの工業高校に通っていて、背が高くてわりとカッコいい。中学からバスケをやっていることと、カラオケがうまいのが自慢らしい。
だけど……涙子にとって康介はそれだけの男だった。好きでもないし、嫌いでもない。ただなんとなく付き合っているだけ。
「行くの?康介くんち」
葵が携帯を覗き込んでにやりと笑う。
「断る」
「なんでぇ?」
康介の家には何度も誘われている。だけど一度も行ったことはない。なぜって……行ったらやることは決まっているから。涙子は康介に、キス以上のことは許していない。
「もう、ダメかもな……」
断りのメールを送信してつぶやく。何度も誘いを断る涙子に、康介もそろそろ愛想をつかすだろう。やらせてくれない女なんていらない。康介にとって涙子も、きっとそれだけの女なんだろう。
「あ、メールだ」
涙子の携帯が震えた。
「康介くんから?」
「ううん……親」
携帯の画面には、祖母が亡くなったという文字が並んでいた。
空は青く晴れ渡っていた。海から吹く南風が、梅雨の終わりを告げている。涙子は喪服の大人たちの中からそっと抜け出し、高台の寺院から、ひとり海の見える道へ下った。
この道を歩くのは久しぶりだった。銀色に輝く穏やかな波を眺めながら、涙子は何気なく母のことを想う。
一年前、母は父と別れ、この小さな町を出て行った。涙子は母に『一緒に行こう』と言われたが、結局父と残った。
母より父を選んだわけではない。むしろ父とは、ほとんど会話もないような関係だった。それでも涙子はこの町にいた。この町にいれば……いつかきっと、あいつに会えるような気がしていたから……
やがて堤防沿いの道で、涙子は立ち止まる。そして両手を伸ばして手を掛けると、制服のスカートを広げ堤防によじ登った。
「ハル」
涙子の声に後ろ向きの背中が振り向いた。三年ぶりに見る陽人は、少し痩せて髪が伸びて、なんだかとても大人びて見えた。
「涙子?」
「そうだよ」
「お前、やっと女みたいになったなぁ」
堤防に座ったまま陽人が笑った。その笑顔はあの頃と変わっていなかった。