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汚い。大人は汚い。大人たちが好き勝手しているせいで、子供たちが苦しめられる。自分の父のせいで、陽人が苦しめられている。
「涙子?ご飯よ。早くいらっしゃい」
母がさっきから涙子を呼んでいる。母だって父のせいで苦しめられたんだ。
「いらない……お腹すいてない……」
それだけつぶやいて机に顔をうずめた。右手に貝殻のつまった小瓶を抱きしめて……
次の日も、その次の日も、涙子は決められたとおりに塾へ通った。
浮き輪を持った家族連れとすれ違いながら、そう言えば梅雨明けしてから一度も雨が降っていないと気づく。
雨が降ればいいのに……雨が降って海があふれて、父の病院も、この町も、何もかもなくなってしまえばいいのに……
重い足取りでバスを降りた。模擬試験の結果は最悪だった。こんなものを父に見せたら、きっとあきれられるだろう。
塾の夏期講習にいくら払っていると思ってるんだ?お前の成績を上げるためにいくらつぎ込んでいると思ってるんだ?お前なんかいらない。うちには陽人さえいればいい。陽人は勉強ができるから、うちの跡取りにすればいい。
堤防の手前で足を止める。オレンジ色の空の下、涙子を待っていたかのように、陽人が堤防の上から飛び降りた。
「この前はごめん」
涙子の前で陽人がつぶやく。ふたりの上を海鳥たちが羽ばたいている。
「意地悪言って……ごめんな?」
会わなくなってたったの数日しか経っていないのに、もう何年も会わなかったような気がするのはどうしてだろう。
涙子は何も答えずに、ただ黙って首を横に振った。
「俺、東京に行くから」
陽人の聞きなれた声が耳に響く。
「涙子には、言っておこうと思って」
「……すぐに帰ってくるんでしょ?お母さんに会ったら、すぐに帰ってくるんでしょ?」
「それは、わかんない。帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれない」
「やだよ!」
涙子は思わず陽人のシャツをつかんでいた。握りしめたその手がかすかに震える。
「帰ってこないなんて言わないで!あんたの家はここでしょ!?ここで今までどおり、おばあちゃんと暮らせばいいじゃない!?」
「でも、俺がここにいると、涙子のお母さんが悲しむよ?」
母の哀しげな表情が頭をよぎる。
「そんなのは……ハルのせいじゃない」
「それに……」
陽人は涙子の手にそっと触れると、自分の服から引き離す。
「それに?」
涙子が陽人の顔を見る。しかし陽人は目をそらし、黙って涙子に背中を向けた。
「ハル……行かないで」
涙子はつぶやく。
「行かないでよ、ハル」
「……ごめん」
夕日がアスファルトの上に影を伸ばす。幼い頃から歩きなれたこの道。ふたりで手をつないで歩いたこの道。
小さくておとなしくて、クラスの男の子たちにいつも泣かされていた陽人。
「ハルっ。泣いちゃだめ」
そう言って、陽人の手を引きながら、祖母の家まで歩いた。
「あたしが明日、あいつらのこと殴ってやるから。だからもう、泣いちゃだめ」
涙子の隣で陽人が鼻をすする。そんな陽人の小さな手を、ぎゅっと握ったあの頃……
今、涙子より背が伸びた陽人が、背中を向けて歩いていく。泣いている涙子のことを、振り向こうともせずに歩いていく。
「陽人の……バカぁ……」
その夏、陽人の姿を見たのは、この日が最後だった。