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5/8

 その夜は、祖母と布団を並べて寝た。祖母の部屋には、古い柱時計が掛かっている。その、どこか懐かしい音を聞きながら、涙子は昔のことを思い出していた。


 あれは小学校低学年の頃。梅雨のじめじめした時期に、学校から陽人がいなくなってしまったことがあった。

 いなくなる前の休み時間、陽人は同じクラスの子にからかわれていた。理由は確か、授業参観に、陽人だけ祖母が来ていたことだったと思う。子供は残酷だから、お母さんが来ない陽人のことが、ただめずらしくて、からかいの対象になってしまったのだろう。

 陽人がいなくなって、学校は大騒ぎになった。先生はすぐ祖母に電話をかけたけれど、家にも帰っていなくて、大人たちが町中を探し回ることになった。

 涙子も一緒に陽人を探した。空は黒い雲に覆われていて、南風が強くて、海は少し荒れていたのをよく覚えている。

「ハルー!ハルー!」

 ぽつぽつと降り始めた雨の中、涙子は精一杯の大声で陽人の名前を呼んだ。

 だけど夕方になっても見つからなくて、涙子は祖母の家で祖母と一緒に陽人を待った。

 陽人の帰りを待つ時間はとても長く感じた。祖母は心配そうに部屋をうろうろしていて、あの柱時計ばかり見ていた。

 その時玄関の引き戸が開いて、父の声が聞こえた。父は陽人がいなくなったことを聞いて、すぐに医院を休診にし、町中を探し回っていたのだ。

「ハルっ」

 祖母と一緒に玄関へ駆け寄ると、陽人は半べそ顔で父に抱かれていた。

「まったく……人騒がせなヤツだ」

 父はそう言いながら笑って、雨で濡れた陽人の頭をぐしゃぐしゃとなでた。

 その時の父の優しい笑顔。涙子の前では見せたことのない父の笑顔。

 陽人が見つかって嬉しいはずなのに、涙子は心のどこかで陽人に嫉妬していた。

 そしてそれはちょっと切ない思い出となって、涙子の胸の奥に今もこびりついていたのだ。


 次の朝、涙子の母が迎えに来た。

「おばあちゃん、お世話をかけました」

「いいって、いいって。るいちゃん、また泊まりにおいでな?」

「うん……」

 陽人はあれから一度も、部屋を出てこなかった。もちろん涙子を迎えに来た母の前にも姿は見せない。

 母の後について石段を下りる。緑の木々の隙間から、真夏の日差しが肌を照りつける。蝉の声は耳にやかましく響き、今日も暑くなりそうだった。

「涙子、早くしないと塾に遅れるわよ」

 背中を向けたままの母が、それだけ言った。


 その日は勉強なんて、何も頭に入らなかった。隣の席の詩織は、今日も好きな彼の話をしていたけれど、その声も涙子の耳を、風のように通り抜けるだけだった。

 塾は午前中で終わった。涙子はいつものようにバスを降り、おじぎをしている向日葵の前を駆けて、浜辺へ向かう。そして陽人がバイトしているという海の家をのぞいたけれど、そこに陽人の姿は見えなかった。

「おや、るいちゃん」

 石段を上がって祖母の家に行くと、祖母は少し驚いた顔をして涙子を見た。

「ごめんね、また来ちゃって……陽人、いるかな?」

 塾でも、バスの中でも、涙子の頭の中は陽人のことでいっぱいだったのだ。どうしても今、陽人と会って話がしたい。

「ばあちゃんの代わりに、買い物に行ってくれてるんだよ。もうすぐ帰ってくると思うから、中で待ってな?」

 祖母はそう言うと、いつもの笑顔を涙子に見せる。

「うん。そうする」

 涙子は小さくうなずいて、祖母の家に上がった。


 居間に入ると蚊取り線香の匂いがかすかにした。開け放した窓からは、太陽の光をたっぷり浴びた、畑のトマトやキュウリが見える。

 居間の奥にある陽人の部屋は、襖が開いたままだった。涙子は何気なく陽人の部屋をのぞいてみる。何度も遊びにきたことのあるこの部屋は、いつもと何も変わりはなかった。

 古びた風鈴、脱ぎっぱなしのシャツ、机の上につまれた教科書……その時涙子は、教科書の間に無造作に挟まれている、白い封筒に気がついた。

『陽人へ』

 そう書かれた文字に見覚えがあり、涙子は思わず封筒を手にとっていた。封は開かれたままで、中を見ると数枚の一万円札が見えた。

「涙子」

 背中に声が響く。陽人の声だ。涙子はすぐに封筒を戻そうとしたが、慌てたためか、それはポトンと足元に落ちた。

「ごめ……あたし、のぞくつもりは……」

「いいよ。別に」

 陽人はかがんで封筒を拾うと、ジーンズのポケットに押し込んだ。

「何しにきたの?」

「え、あ、あの……ハル、あんた、お母さんに会いに行こうとしてるって……ほんとなの?」

「なんだ、知ってるんだ」

 陽人はちょっとバカにしたような顔つきで、涙子に笑いかける。

「本当だよ。いろいろ聞きたいこととかあるし」

「……聞きたいこと?」

 涙子の胸が音を立てる。静まれ、静まれ……そう思えば思うほど、心臓の音が激しくなる。そんな涙子に陽人が答えた。

「お母さん、なんで僕を産んだのって。捨てるくらいなら、お腹の中にいる時、どうして殺してくれなかったのって」

 涙子は黙って陽人を見た。見慣れた陽人の顔が、知らない人のように思えた。

「俺って、不倫相手の子供なんだって。俺の母親は俺を産んで、相手の男に押し付けた。自分が遊ばれてるってわかったから、男やその奥さんを、苦しめてやりたいって思ったんだろ?」

「そんなの……嘘でしょ?」

「ほんとだよ。でもたぶん、俺は涙子が思ってるほど、かわいそうな子じゃないよ?」

 陽人がそう言ってポケットの中の封筒を差し出す。涙子の目にあの文字が映る。

「俺の父親っていう人は、遊んで暮らせるほどのお金をくれるし、俺のこと、すごく可愛がってくれるんだ。もしかしたら娘よりも、俺を跡継ぎにさせたいとか思ってるかも。ほら、俺って頭いいから」

「ハルっ!」

 その言葉をさえぎるように、涙子が叫んだ。握った両手が、小刻みに震える。

「ハルの……ハルのお父さんって……」

 あとは言葉にならなかった。封筒に書いてある名前がぼやけて見える。

「そうだよ。俺の父さんは、お前の父さんだよ」

 陽人の声は、どこか遠くから聞こえてくるようで、現実のものとは思えなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 4の最後で、私も気がつきましたがこうしてはっきり言葉にされると涙子も辛いところですね。
2023/10/22 23:06 退会済み
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