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その夜は、祖母と布団を並べて寝た。祖母の部屋には、古い柱時計が掛かっている。その、どこか懐かしい音を聞きながら、涙子は昔のことを思い出していた。
あれは小学校低学年の頃。梅雨のじめじめした時期に、学校から陽人がいなくなってしまったことがあった。
いなくなる前の休み時間、陽人は同じクラスの子にからかわれていた。理由は確か、授業参観に、陽人だけ祖母が来ていたことだったと思う。子供は残酷だから、お母さんが来ない陽人のことが、ただめずらしくて、からかいの対象になってしまったのだろう。
陽人がいなくなって、学校は大騒ぎになった。先生はすぐ祖母に電話をかけたけれど、家にも帰っていなくて、大人たちが町中を探し回ることになった。
涙子も一緒に陽人を探した。空は黒い雲に覆われていて、南風が強くて、海は少し荒れていたのをよく覚えている。
「ハルー!ハルー!」
ぽつぽつと降り始めた雨の中、涙子は精一杯の大声で陽人の名前を呼んだ。
だけど夕方になっても見つからなくて、涙子は祖母の家で祖母と一緒に陽人を待った。
陽人の帰りを待つ時間はとても長く感じた。祖母は心配そうに部屋をうろうろしていて、あの柱時計ばかり見ていた。
その時玄関の引き戸が開いて、父の声が聞こえた。父は陽人がいなくなったことを聞いて、すぐに医院を休診にし、町中を探し回っていたのだ。
「ハルっ」
祖母と一緒に玄関へ駆け寄ると、陽人は半べそ顔で父に抱かれていた。
「まったく……人騒がせなヤツだ」
父はそう言いながら笑って、雨で濡れた陽人の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
その時の父の優しい笑顔。涙子の前では見せたことのない父の笑顔。
陽人が見つかって嬉しいはずなのに、涙子は心のどこかで陽人に嫉妬していた。
そしてそれはちょっと切ない思い出となって、涙子の胸の奥に今もこびりついていたのだ。
次の朝、涙子の母が迎えに来た。
「おばあちゃん、お世話をかけました」
「いいって、いいって。るいちゃん、また泊まりにおいでな?」
「うん……」
陽人はあれから一度も、部屋を出てこなかった。もちろん涙子を迎えに来た母の前にも姿は見せない。
母の後について石段を下りる。緑の木々の隙間から、真夏の日差しが肌を照りつける。蝉の声は耳にやかましく響き、今日も暑くなりそうだった。
「涙子、早くしないと塾に遅れるわよ」
背中を向けたままの母が、それだけ言った。
その日は勉強なんて、何も頭に入らなかった。隣の席の詩織は、今日も好きな彼の話をしていたけれど、その声も涙子の耳を、風のように通り抜けるだけだった。
塾は午前中で終わった。涙子はいつものようにバスを降り、おじぎをしている向日葵の前を駆けて、浜辺へ向かう。そして陽人がバイトしているという海の家をのぞいたけれど、そこに陽人の姿は見えなかった。
「おや、るいちゃん」
石段を上がって祖母の家に行くと、祖母は少し驚いた顔をして涙子を見た。
「ごめんね、また来ちゃって……陽人、いるかな?」
塾でも、バスの中でも、涙子の頭の中は陽人のことでいっぱいだったのだ。どうしても今、陽人と会って話がしたい。
「ばあちゃんの代わりに、買い物に行ってくれてるんだよ。もうすぐ帰ってくると思うから、中で待ってな?」
祖母はそう言うと、いつもの笑顔を涙子に見せる。
「うん。そうする」
涙子は小さくうなずいて、祖母の家に上がった。
居間に入ると蚊取り線香の匂いがかすかにした。開け放した窓からは、太陽の光をたっぷり浴びた、畑のトマトやキュウリが見える。
居間の奥にある陽人の部屋は、襖が開いたままだった。涙子は何気なく陽人の部屋をのぞいてみる。何度も遊びにきたことのあるこの部屋は、いつもと何も変わりはなかった。
古びた風鈴、脱ぎっぱなしのシャツ、机の上につまれた教科書……その時涙子は、教科書の間に無造作に挟まれている、白い封筒に気がついた。
『陽人へ』
そう書かれた文字に見覚えがあり、涙子は思わず封筒を手にとっていた。封は開かれたままで、中を見ると数枚の一万円札が見えた。
「涙子」
背中に声が響く。陽人の声だ。涙子はすぐに封筒を戻そうとしたが、慌てたためか、それはポトンと足元に落ちた。
「ごめ……あたし、のぞくつもりは……」
「いいよ。別に」
陽人はかがんで封筒を拾うと、ジーンズのポケットに押し込んだ。
「何しにきたの?」
「え、あ、あの……ハル、あんた、お母さんに会いに行こうとしてるって……ほんとなの?」
「なんだ、知ってるんだ」
陽人はちょっとバカにしたような顔つきで、涙子に笑いかける。
「本当だよ。いろいろ聞きたいこととかあるし」
「……聞きたいこと?」
涙子の胸が音を立てる。静まれ、静まれ……そう思えば思うほど、心臓の音が激しくなる。そんな涙子に陽人が答えた。
「お母さん、なんで僕を産んだのって。捨てるくらいなら、お腹の中にいる時、どうして殺してくれなかったのって」
涙子は黙って陽人を見た。見慣れた陽人の顔が、知らない人のように思えた。
「俺って、不倫相手の子供なんだって。俺の母親は俺を産んで、相手の男に押し付けた。自分が遊ばれてるってわかったから、男やその奥さんを、苦しめてやりたいって思ったんだろ?」
「そんなの……嘘でしょ?」
「ほんとだよ。でもたぶん、俺は涙子が思ってるほど、かわいそうな子じゃないよ?」
陽人がそう言ってポケットの中の封筒を差し出す。涙子の目にあの文字が映る。
「俺の父親っていう人は、遊んで暮らせるほどのお金をくれるし、俺のこと、すごく可愛がってくれるんだ。もしかしたら娘よりも、俺を跡継ぎにさせたいとか思ってるかも。ほら、俺って頭いいから」
「ハルっ!」
その言葉をさえぎるように、涙子が叫んだ。握った両手が、小刻みに震える。
「ハルの……ハルのお父さんって……」
あとは言葉にならなかった。封筒に書いてある名前がぼやけて見える。
「そうだよ。俺の父さんは、お前の父さんだよ」
陽人の声は、どこか遠くから聞こえてくるようで、現実のものとは思えなかった。