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父の医院の隣にある、自宅のドアを開くと、母が涙子を待ち構えるように立っていた。
「涙子、遅いじゃない!どこで道草していたの!?」
母の声には答えずに、涙子は黙って靴を脱ぐ。
「バスは四十分に着いたんでしょう?もうとっくに家に帰ってる時間じゃない!」
「……ハルと、そこで会ったから」
そう言いながら、上目づかいで母を見た。にらむような目をした母と視線が合った。
「お母さん、ハルは悪い子じゃないよ?そりゃあ一学期は、学校来なかったりしたけど……でも頭だっていいし……」
「涙子。お母さんはそんなこと言ってるんじゃありません」
「じゃあなんなの?あたしがハルの話をすると、お母さん怒るよね?どうしてお母さんはハルのこと嫌いなの?」
「嫌いなんて言ってないでしょ!?」
「じゃあ教えてよっ!ねえ、ハルはなんでおばあちゃんと暮らしてるの!?ハルのお父さんとお母さんはどうしたの!?」
母の表情が変わった。哀しいような苦しいような、複雑な表情に……
「涙子。もうやめなさい」
涙子の背中に声がかかる。普段、娘にかかわろうともしない父が、怒った顔をしてそこに立っている。
「なによ、お父さんまで……こんなときだけ出てきて、文句言わないでよっ!」
吐き捨てるようにそう言うと、今脱いだ靴を履いて外へ出た。
「涙子!待ちなさい!」
背中に母の声が聞こえたが、振り向かないで涙子は走った。
「今夜はここに泊まるって、お母さんに電話しておいたからなぁ」
ちゃぶ台の前に座る涙子に向かって、祖母が台所から微笑みかける。やがて冷蔵庫が開き、麦茶を注ぐ音が聞こえてきた。
涙子は黙って、もうすっかり暗くなった網戸の向こう側を見た。丁寧に手入れされた庭からは夏の夜風が吹き込んできて、風鈴の寂れた音が響く。
「涙子、家出してきたんだって?」
風呂上りの陽人が、タオルで髪をぐしゃぐしゃと拭きながら、涙子の前で笑っている。
「うるさいな……そんなんじゃないよ」
「またママと喧嘩したのか?」
「な、なによっ!あんたのせいなんだからねっ」
何気なくそう言ってから、ハッとした。そっと顔を上げて、陽人の顔を見つめる。陽人はさっきの母と同じような切ない顔をしていた。
「あ、いや、違うよ……あんたなんか関係ないから……」
「いいよ。どうせまた、俺と一緒にいたから怒られたんだろ?」
「違うって言ってるのに!」
すると陽人は、持っていたタオルを涙子の頭にぱさっとかぶせた。
「いいんだ。わかってるから。俺がいないほうがみんな幸せなんだ」
タオルで覆われた涙子の耳に、陽人のくぐもった声が聞こえる。涙子は思いっきりタオルを畳に投げ捨てた。
「ハルっ!あんた、なんでそんなこと言うのよっ!」
しかし陽人は背中を向けると、何も言わずに自分の部屋の襖を閉めた。
風呂から上がって、祖母とふたりでスイカを食べた。よく熟した甘いスイカだった。
「ハルは……食べないのかな……」
締め切った襖を見つめながら涙子がつぶやく。
「声をかけたんだけどねぇ。いらないって」
「ハル、スイカ好きなのに……」
涙子は顔を上げると、うちわを扇いでいる祖母に向かって言う。
「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんは、ハルがアルバイトしてること、知ってるの?」
「ああ、海の家のことだろう?あの子が勝手に決めてきちゃって、最初は驚いたけどね。知り合いの店だから、うちの子をよろしくって頼んでおいたよ」
『うちの子』――祖母の言ったその言葉が、とても温かく聞こえる。
「ハル、なんでお金欲しいんだろう……」
「本当のお母さんに、会いに行きたいんじゃないだろうか?」
涙子が祖母の顔を見た。『本当のお母さん』?ハルの『本当のお母さん』?
「ハルのお母さんって……生きてるの?」
祖母はうちわで風を送りながら、窓の外を見つめて答える。
「ああ、生きてるよ。今は東京に住んでる。あの子もそのこと、知ってるんだよ」
「ハルも……知ってるんだ……」
だからお金をためて、東京に行こうとしている?
「なんだかんだ言っても、自分を産んでくれた親だからなぁ……あの子が母親の元へ戻りたいって言うなら、ばあちゃんにも止める権利はないよ」
「そんな……」
祖母は涙子に視線を移し、穏やかに目を細める。
「あ、あたしはイヤだよ!ハルがどっか行っちゃうなんて……あたしはイヤ!」
「るいちゃん……」
涙子の目から涙が落ちた。こらえようとすればするほど、その涙は止まろうとしない。
泣くのなんて大嫌いだった。両親が名前に『涙』なんて字をつけるから、涙を見せれば『涙子が泣いた』ってからかわれた。それが悔しくて、絶対涙なんか見せたくなかった。それなのに……
どうしてこんなに涙が出るんだろう……どうしてこんなに寂しいんだろう……
子供のように泣きじゃくる涙子の背中を、祖母がいつまでも優しくさすってくれた。