表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

 父の医院の隣にある、自宅のドアを開くと、母が涙子を待ち構えるように立っていた。

「涙子、遅いじゃない!どこで道草していたの!?」

 母の声には答えずに、涙子は黙って靴を脱ぐ。

「バスは四十分に着いたんでしょう?もうとっくに家に帰ってる時間じゃない!」

「……ハルと、そこで会ったから」

 そう言いながら、上目づかいで母を見た。にらむような目をした母と視線が合った。

「お母さん、ハルは悪い子じゃないよ?そりゃあ一学期は、学校来なかったりしたけど……でも頭だっていいし……」

「涙子。お母さんはそんなこと言ってるんじゃありません」

「じゃあなんなの?あたしがハルの話をすると、お母さん怒るよね?どうしてお母さんはハルのこと嫌いなの?」

「嫌いなんて言ってないでしょ!?」

「じゃあ教えてよっ!ねえ、ハルはなんでおばあちゃんと暮らしてるの!?ハルのお父さんとお母さんはどうしたの!?」

 母の表情が変わった。哀しいような苦しいような、複雑な表情に……

「涙子。もうやめなさい」

 涙子の背中に声がかかる。普段、娘にかかわろうともしない父が、怒った顔をしてそこに立っている。

「なによ、お父さんまで……こんなときだけ出てきて、文句言わないでよっ!」

 吐き捨てるようにそう言うと、今脱いだ靴を履いて外へ出た。

「涙子!待ちなさい!」

 背中に母の声が聞こえたが、振り向かないで涙子は走った。


「今夜はここに泊まるって、お母さんに電話しておいたからなぁ」

 ちゃぶ台の前に座る涙子に向かって、祖母が台所から微笑みかける。やがて冷蔵庫が開き、麦茶を注ぐ音が聞こえてきた。

 涙子は黙って、もうすっかり暗くなった網戸の向こう側を見た。丁寧に手入れされた庭からは夏の夜風が吹き込んできて、風鈴の寂れた音が響く。

「涙子、家出してきたんだって?」

 風呂上りの陽人が、タオルで髪をぐしゃぐしゃと拭きながら、涙子の前で笑っている。

「うるさいな……そんなんじゃないよ」

「またママと喧嘩したのか?」

「な、なによっ!あんたのせいなんだからねっ」

 何気なくそう言ってから、ハッとした。そっと顔を上げて、陽人の顔を見つめる。陽人はさっきの母と同じような切ない顔をしていた。

「あ、いや、違うよ……あんたなんか関係ないから……」

「いいよ。どうせまた、俺と一緒にいたから怒られたんだろ?」

「違うって言ってるのに!」

 すると陽人は、持っていたタオルを涙子の頭にぱさっとかぶせた。

「いいんだ。わかってるから。俺がいないほうがみんな幸せなんだ」

 タオルで覆われた涙子の耳に、陽人のくぐもった声が聞こえる。涙子は思いっきりタオルを畳に投げ捨てた。

「ハルっ!あんた、なんでそんなこと言うのよっ!」

 しかし陽人は背中を向けると、何も言わずに自分の部屋の襖を閉めた。


 風呂から上がって、祖母とふたりでスイカを食べた。よく熟した甘いスイカだった。

「ハルは……食べないのかな……」

 締め切った襖を見つめながら涙子がつぶやく。

「声をかけたんだけどねぇ。いらないって」

「ハル、スイカ好きなのに……」

 涙子は顔を上げると、うちわを扇いでいる祖母に向かって言う。

「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんは、ハルがアルバイトしてること、知ってるの?」

「ああ、海の家のことだろう?あの子が勝手に決めてきちゃって、最初は驚いたけどね。知り合いの店だから、うちの子をよろしくって頼んでおいたよ」

『うちの子』――祖母の言ったその言葉が、とても温かく聞こえる。

「ハル、なんでお金欲しいんだろう……」

「本当のお母さんに、会いに行きたいんじゃないだろうか?」

 涙子が祖母の顔を見た。『本当のお母さん』?ハルの『本当のお母さん』?

「ハルのお母さんって……生きてるの?」

 祖母はうちわで風を送りながら、窓の外を見つめて答える。

「ああ、生きてるよ。今は東京に住んでる。あの子もそのこと、知ってるんだよ」

「ハルも……知ってるんだ……」

 だからお金をためて、東京に行こうとしている?

「なんだかんだ言っても、自分を産んでくれた親だからなぁ……あの子が母親の元へ戻りたいって言うなら、ばあちゃんにも止める権利はないよ」

「そんな……」

 祖母は涙子に視線を移し、穏やかに目を細める。

「あ、あたしはイヤだよ!ハルがどっか行っちゃうなんて……あたしはイヤ!」

「るいちゃん……」

 涙子の目から涙が落ちた。こらえようとすればするほど、その涙は止まろうとしない。

 泣くのなんて大嫌いだった。両親が名前に『涙』なんて字をつけるから、涙を見せれば『涙子が泣いた』ってからかわれた。それが悔しくて、絶対涙なんか見せたくなかった。それなのに……

 どうしてこんなに涙が出るんだろう……どうしてこんなに寂しいんだろう……

 子供のように泣きじゃくる涙子の背中を、祖母がいつまでも優しくさすってくれた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ