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風呂上りの髪をタオルで拭きながら、涙子は机の上のガラス瓶を眺めていた。小さな瓶の中には、誕生日ごとに陽人からもらった貝殻がつまっている。涙子が右手で瓶を持ち上げた時、ドアの向こうから父と母の、言い争うような声が聞こえた。
両親が怒鳴り合いの喧嘩をすることは、めずらしいことではなかった。涙子が幼い頃からすでに、夫婦仲はよくなかったからだ。
だから涙子は幼心に、『この家には愛がない』と感じていた。祖母の愛情をたっぷり受けて育っている陽人のことが、とてもうらやましかった。
ドアの外でガラスの割れる音が響く。父が何か物を投げたのかもしれない。
昔は泣きながら止めに入ったこともある。だけど今の涙子はそれをしない。そんなことをしてもふたりの仲は、もう戻ることはないのだから……
「るいちゃんって、陽人くんと仲いいよね」
塾の講習が終わり、ノートを片付けている涙子に、同じ中学の詩織が言った。詩織とは特に仲がよかったわけでもないが、顔見知りということで、夏期講習の間はいつも隣の席で勉強していた。
「陽人?親戚だからね」
「へえー、そうなんだ」
「陽人はあたしのおばあちゃんと住んでるの」
鞄にノートやプリントを入れて立ち上がる。そんな涙子に詩織が言う。
「おばあちゃんと?陽人くんのお父さんとお母さんは、いないの?」
涙子は詩織の顔を見た。人の秘密をさぐるような、どこかわくわくしたような目をして、詩織が涙子の返事を待っている。
「いないよ」
「亡くなったの?」
「たぶん」
「ふーん、かわいそう」
かわいそう……そう、陽人はかわいそうな子。それは涙子もわかっていた。だけど……陽人の両親がどうしていないのか……どうして祖母とふたりで暮らしているのか……それを詳しく聞いたことはなかった。子供心に、聞いてはいけないことのような気がしていたからだ。
塾を出て、詩織と一緒にバスに乗った。詩織は好きな男の子の話を楽しそうにしていたが、涙子はどこかうわの空だった。なぜか陽人に会いたくて仕方なかった。
バスを降りて詩織と別れると、涙子は堤防に向かって走った。今日も陽人がアイスを食べながら、そこに座っているような気がしたからだ。
だけど陽人はいなかった。涙子は足を止めて小さく息を吐く。夕日がどこか物悲しげに、自分の影を長く伸ばしている。
その時涙子の背中に、人の気配がした。いきなり乱暴に腕をつかまれ引っ張られた。
「ちょっとお姉さん、付き合わない?」
「やっ……」
小さく声をあげて振り返る。すると陽人が、笑いながらそこに立っていた。
「バーカ、びびってやんの」
「……ハ、ハル……」
それ以上は声にならなかった。胸を押さえてしゃがみこむ。心臓がドキドキして飛び出しそうだ。
「なに?そんなに驚いた?大げさだなぁ」
うつむく涙子の顔を、陽人がのぞきこむ。
「涙子?……ごめん?」
潮騒にまぎれて、陽人の声が聞こえる。
少し前だったらこんなに驚くはずはなかった。陽人の手の感触も声も、ずっと前から誰よりも知っていた。それなのに……いつの間にかその手も声も、知らない男の人みたいになっちゃって……
「涙子、ごめんってば」
ふうっと息を吐いて顔を上げる。陽人が真面目くさった顔で、涙子のことを見つめている。
「許さない。おばあちゃんに言いつけて、しかってもらう」
「マジで?それはやめてよ」
「じゃあ、あたしの言うことをひとつだけ、なんでも聞くこと」
「なんだ、それ」
「嫌ならいいよ。おばあちゃんに言うから」
「……わかったよ」
陽人がため息をついて手を伸ばす。涙子がそっとその手に触れると、陽人は力いっぱい涙子の体を引き上げた。
「で、何を聞けばいいんでしょうか?お嬢様?」
ふふっと笑って陽人を見る。陽人はむすっとした顔をして、そっと涙子の手を離す。
「そうねぇ……何にしようかしら」
あごに人差し指を当てながら、ふと、さっき詩織が言った言葉を思い出した。
『好きな人とキス、してみたいと思わない?』
顔を上げて陽人を見る。陽人と視線がぶつかって、自分の顔が赤くなる。
「ほら、早く言えよ」
「……もったいないから、まだやめとく」
海から潮風が吹いた。涙子はくるりと後ろを向いて、逃げるように歩き出す。
「なんだよ、それ。自分で言っといて」
「だから!楽しみはあとにとっておくの!」
陽人が涙子の横に並び、堤防沿いをふたりで歩いた。ちらりと隣を見たら、オレンジ色の夕日が、陽人の横顔を優しく照らしていた。