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頭に降り注ぐような、蝉の声を聞きながら石段を下りる。祖母の家まで迎えに来た母は、涙子のことを一度も振り返ろうとしない。
涙子は何気なく手のひらを広げて、貝殻を見つめた。するとなぜか、幼い頃の陽人の姿が浮かんできた。
「これ、るいちゃんにあげる」
涙子の誕生日には、毎年必ず、海岸で拾った貝殻をくれた陽人。
「大事にしてね」
そう言って、少し照れくさそうに笑う陽人の顔が好きだった。涙子の机の上のガラス瓶の中には、そんな陽人との思い出がしみこんだ貝殻たちが、今も大事にしまってある。
「涙子」
母の声が突然響いた。涙子は思わず右手を握りしめる。
「夏休みは、おばあちゃんの家に行っちゃだめよ」
「え?」
ぼんやりと立ち尽くす涙子の前で、母が振り向く。
「あなた、一学期の成績ひどかったでしょ?遊んでいる暇はないはずよ」
「そ、そんなにひどくなかったよ。『5』だってちゃんとあったし……」
「いけません!夏休みは塾の夏期講習に行かなきゃだめよ!」
母はそれだけ言うと、涙子の返事も聞かずにまた石段を下り始めた。
「……なんでよ?」
涙子がつぶやく。
「お母さん、あたしをハルに会わせたくないんでしょ?」
その言葉に母がゆっくりと振り返った。そして低くて冷たい声で涙子に言った。
「あの子の話はしないで」
『あの子』とは陽人のこと。母は昔から、涙子が陽人と会うことを嫌っていた。いや、母は、陽人のことを嫌っていたのだ。
「あたし、ハルとは会うからね!塾もちゃんと行く!だから文句ないでしょ!?」
涙子は母を追い越し、石段を駆け下りた。背中に母の声が聞こえたが、立ち止まろうとはしなかった。
涙子の父は、この小さな海沿いの町で開業医をしていた。そのためなのか、涙子の両親は教育熱心で、小学校の頃からしつけや成績にはうるさかった。
しかし涙子は、ピアノを習ったり勉強をしたりするよりも、男の子と一緒に野球やサッカーをするほうが好きだった。スカートなんかはいたことがなくて、髪はいつもショートにしていた。
だからといって、勉強ができなかったわけではない。二年生最初のテストだって、上位十番以内には入っていた。あの陽人にはかなわなかったけれど……
隣町にある大手の塾が終わる頃には、もう夕暮れだった。
涙子はバスを降りて、堤防沿いの道を、鞄を振りながらぶらぶらと歩いた。
母は『塾が終わったら真っ直ぐ帰りなさい』とうるさいけれど、家に帰っても面白いことなど何もない。無口な父に優しくされた覚えはないし、母は涙子の顔を見るたび、何かと文句を言う。
足を止め小さくため息をついた涙子の目に、見慣れた顔が映った。堤防の上に座って、陽人がにやにや笑いながら、アイスキャンディーを舐めていた。
「今日も塾?頭いい人は大変だな」
「それ、イヤミ?あんたは勉強しなくても頭いいから、得よねっ」
陽人の前に駆け寄って、その顔を見上げる。陽人は少し笑うと、堤防の上から軽く飛び降りた。
「アイス食う?」
「いらない。ハルの食べかけなんか」
「じゃあ、やらない」
陽人が笑いながら歩き出す。涙子も少し小走りになって、そんな陽人の隣に並ぶ。海から吹く潮風が、涙子の短い黒髪をかすかに揺らした。
「あんた、暇そうね」
「暇じゃないよ。今までバイトしてたんだ。そこの海の家で」
陽人はそう言って振り返り、浜辺を指差す。小さな海水浴場には何軒かの海の家が建っていて、真夏には観光客がやってきたりもする。
「バイト?中学生のくせに?」
「高浜のばあちゃんちの子って言ったら、雇ってくれた」
「信用あるんだ」
「ばあちゃんがね」
陽人が目を細めて前髪をかきあげる。何気ないふとした表情が、祖母によく似ている時がある。親子でなくても、一緒に暮らしていると似てくるってこと、あるのだろうか……
「涙子さぁ」
歩きながら、涙子はぼんやりと陽人のことを見ていた。Tシャツから出ている腕が、真っ黒に日焼けしていて、なんだかたくましく見える。涙子の後を追いかけてめそめそ泣いていた、あの小さな陽人はもういなかった。
「俺と一緒にいたら、また怒られるでしょ?俺、お前の母さんに嫌われてるもんな」
「そんなこと……」
そうつぶやいて言葉につまった。陽人はそんな涙子に笑いかける。
「じゃ、俺、先帰る」
「ちょっと待ってよっ」
思わず陽人のTシャツをつかんだ。潮の匂いがふっと鼻をかすめる。
「……石段のところまで、一緒に帰ろ?」
ふたりの脇を一台の軽トラがのんびりと走る。道路を挟んだ向こう側には、緑の山がせり出していて、ヒグラシのカナカナという声が聞こえてくる。
「いいけど。ママに怒られても知らないぞ?」
「なによっ!その言い方、ムカつくっ」
涙子が叩くまねをして、陽人がおかしそうに笑う。
このままずっと、こうやっていたいのに……どうして一緒にいられないのだろう。
涙子は心のどこかで、いつか陽人との別れが来ることを感じていた。