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白南風――梅雨が明けた頃に、南から吹く風のこと。ちなみに黒南風は、梅雨のさなかに吹く、南風のことだそうです。
額にじんわりと汗がにじむ。海から吹く南風が、少し切りすぎた前髪を揺らす。
昨日十四歳の誕生日を迎えたばかりの涙子は、デニムのショートパンツにサンダルを履いた足を止め、何気なく空を見上げた。
そういえばさっきテレビのニュースで、梅雨が明けたと言ってたっけ……真っ青な空には白い雲が流れ、夏の始まりの日差しが、Tシャツから伸びる腕にじりじりと照りつける。
涙子は吹きぬける潮風をすうっと吸い込むと、緑の木々に覆われた狭い石段を、一気に駆け上がった。
「おばあちゃん!」
石段を登りきった高台にある、古くて小さな一軒家。そこが涙子の父方の祖母の家だった。
「おお、るいちゃんか。あがんな、あがんな」
開けっ放しの玄関の中から、しわだらけの笑顔で祖母が言う。
「学校はもう終わったんか?」
「うん。明日から夏休みだよ」
「そうか、そうか」
涙子はサンダルを脱ぎながら、祖母の家の中をそっとのぞきこむ。すると薄暗くて、かすかに線香の香りが漂う部屋の中から、陽人が同じようにこちらを見ていた。
涙子と同い年の陽人は、この家にずっと、祖母とふたりで暮らしていた。いつから陽人がここにいたのか、思い出せないほど小さな頃から……そして周りの大人たちは、『あの子は親戚の子』としか教えてくれなかった。
「るいちゃん、ばあちゃんの作ったトマト、食べるか?」
「うん、食べる食べる!おばあちゃんのトマト、甘くておいしいんだよねぇ」
涙子はそう言いながら、居間の小さなちゃぶ台の前に座った。縁側の向こうの庭には、小さな畑があって、祖母はそこで少しの野菜を作っているのだ。
蝉の声を聞きながら、赤く実ったトマトを眺めていたら、いつの間にか陽人がすぐそばに来ていた。
「髪、切った?」
「うん。前髪だけ」
「切りすぎ。すっごくヘン」
涙子が陽人をにらむ。陽人はにやりと笑うと、何事もなかったように涙子の前に座る。
「な、なによっ、ハル!あんた最近、生意気だよ!」
「そうかな?ほんとのこと、言っただけだけど?」
「うわっ、ヤな態度!あたしより年下のくせにっ」
「ちょっと誕生日が早いだけで年上ぶるな。ガキ」
言い返そうとして口を開けた涙子の前に、祖母がトマトをふたつ運んできた。真っ赤に輝く、祖母自慢のトマト。
「わぁ!おいしそう」
「こんなんでよければ、たくさん食べな」
「うん。いただきまぁす!」
涙子はトマトを手に取り、そのままがぶりとかじりついた。じゅわっと甘酸っぱい味が口の中に広がってくる。やっぱり祖母のトマトは格別だ。
「サルか?お前は」
「うるさい、ハル。殴るよ?」
陽人はトマトを頬張る涙子をおかしそうに笑うと、もうひとつのトマトを同じようにかじった。
陽人の部屋は、祖母の家の中で一番景色の良い部屋だった。
開け放した窓からは、緑の林と、その合間に真っ直ぐな水平線が見える。部屋に吹き込む潮風が、古びた風鈴を鳴らし、机の上に置いてある真新しいままの教科書を、ぱらぱらとめくった。
「なんで学校来ないの?」
涙子は見慣れた景色を眺めた後、窓辺に寄りかかり、視線を陽人に移した。
「勉強なんて意味ないよ」
陽人は勉強机の椅子に反対向きに腰掛け、背もたれに頬杖をつくようにして答えた。
「なに言ってんの?そりゃあ、勉強はあたしも嫌いだけど……学校は行かなきゃダメでしょ?」
「そんなことないって。学校の勉強よりも大事なこと、あると思わない?ばあちゃんの手伝いするとか、アルバイトもやりたいし……」
「アルバイト?中学生がバイトなんかできるわけないじゃん」
そう言ってふうっとため息をつく。窓からの風が前髪を揺らし、涙子はさりげなく右手で押さえた。
陽人とは幼い頃から、きょうだいのように育ってきた。体が小さくて泣き虫だった陽人は、男勝りの涙子の影にいつも隠れていた。可愛くて、優しくて、おとなしくて……そして頭がよかった陽人。
それが中二になって初めてのテストで、学年トップの点数を取ったあと、陽人はぱったりと学校に来なくなった。
どうしてだろう……陽人は変わった。涙子の背に追いついた頃から、陽人は変わった。
すると、黙り込んだ涙子に、陽人がふっと笑いかけた。
「他にもいろいろあんだよ。涙子みたいなお嬢さんには、わかんないこと!」
「なによ!?その言い方!やっぱりあんた、ムカつくっ」
そう言いながら、涙子の胸がほんの少し痛む。
陽人には両親がいないから。優しい祖母に育てられてはいるが……もしかして陽人には、涙子にはわからない苦労があるのかもしれない。
「涙子」
気がつくと目の前に陽人が立っていた。いつの間にか、涙子より背が高くなっている。
「な、なによ?」
「これやる」
陽人が涙子の手のひらに、小さな桜色の貝殻をのせる。
「誕生日プレゼント」
顔を上げた涙子の目に、陽人の笑顔が見えた。それなのに「ありがとう」という言葉が、なぜか素直に出てこない。
「るいちゃーん!お母さんが迎えに来たよ!」
玄関先から祖母の声が聞こえた。陽人が涙子の背中をぽんっと押す。
「ほら、お迎えだよ。お嬢様」
「うるさいな。じゃあ、これ、もらっといてあげる」
「大事にしろよ」
陽人の声を背中に聞きながら、涙子は振り返らないで部屋を出た。右手に小さな貝殻を、大事に大事に握りしめて……
新しいお話を始めました。
不定期連載になると思いますが
更新されていたら、ちらっとのぞいてやってください。
全8話くらいの予定です。
よろしくお願いいたします。