世界から祝福されてるとしか思えない神童
世の中には、世界に愛されたとしか思えない神童がいる。
――これは、そんな神童にまつわる、少し奇妙な物語だ。
一ノ瀬律は、だいたい何でもできた。子どもにしては、ではない。五教科も、美術も、体育も、音楽も、周囲が理解するより先に、自分の中で答えへ辿り着いてしまう子どもである。
けれど、その才能を褒められたことは一度もない。周囲よりできるのは、ただ周りのレベルが低いからだと教えられ、学校で問いの曖昧さを指摘しても、「教わったやり方で解きなさい」と退けられるばかりだった。律にとって、世界がまだ少しだけ素直に見えたのは、美術と体育と音楽の時間だけである。
数字も、理論も、構造も、美しささえも、律は誰より早く理解できる。けれど、自分がすごいのかどうかだけは、最後まで誰も教えてくれなかった。
だから彼は、もう人に尋ねることをやめた。答えはいつだって、自分よりずっと先を歩き終えた過去の偉人たちの中にある。そう信じて、律はただ一人、完成された正解だけを追いかけていく。
「そこはね、複雑にみえるけど、要するにリンゴを箱に詰める作業と同じだよ」
放課後の夕暮れ、茜色の光が差し込む教室で、一ノ瀬律はノートに丸を描きながら、困り顔のクラスメイトにペンを手渡す。
見た目は少し冷めた雰囲気で、クラスの隅で静かに本を読んでいる、どこにでもいるような凡人っぽい少年。目立つ髪型をしているわけでもないし、背が飛び抜けて高いわけでもない。
けれど、彼の中身はとんでもない怪物。
他者が難しく感じる複雑な数式も、大人が使う専門用語も、律の頭を通れば驚くほど優しく丁寧な言葉に置き換わってしまう。勉強が分からなければ付き合い、楽器が苦手な子が音を外せば弾き方をその手で教える。
「走るっていうのは根性じゃないんだ。足じゃなくて、骨盤を前に出すゲームだよ。ほら、こうやって動かすと勝手に進むでしょ?」
体育の時間のグラウンドでも、律は実際に自分の肉体を効率的に動かして見せる。
指導者側に回った時の彼はどこまでも完璧で、汗一つかかない。
家では、冷徹な両親から毎日のように「周りのレベルが低すぎる」と言われ続けて育った。
そんな環境が、律の心に自然と「周囲を見下す」という冷めた視線を与えている。
だからこそ、彼の脳裏にはいつも、悪意のない純粋で残酷な疑問が浮かんでいる。
(なぜ、こんな簡単なことができないんだろう? なぜ、分からないんだろう?)
クラスメイトたちは律を「学校の神様」のように崇めた。けれど、あまりの不気味な完璧さに誰もが一線を引いている。
「あいつは、見た目は普通だけど、中身は特別だからな……」
男子たちが遠巻きに囁くたび、律の周りには絶対的な、透明な「溝」が完成していく。
そんな日常の中で、律の思考の法則がどうしても通用しない存在がいる。
同級生の美波。
彼女はテストで一桁の点数を取って先生に呆れられ、リコーダーを吹けば変な鳥の鳴き声のような音を出す。
お母さんから「美味しそうに白ご飯を食べるのが唯一の才能ね」と呆れられるような、ちょっと太めで、勉強もスポーツも学年最下位に近い女の子。
それなのに、美波はいつも驚くほど明るかった。逆上がりができずに鉄棒から泥の中に落ちても、彼女はふっくらした顔を真っ赤にして笑う。
「あはは、また失敗しちゃった!」
屈託のない、ひまわりのような笑顔。律は、クラスの隅からその姿を見つめながら、不思議で仕方がない。
(何もできないのに、どうしてそんなに楽しそうに笑えるんだ? 彼女の頭の中はどうなっているんだろう)
小学校の終わり際、律はその美波に勉強を教えることになる。
「美波さん、この数字はお菓子の箱の数だと思って。十の位は大きな箱、一の位は小さなバラのチョコ。そうやって分ければ、頭がごちゃごちゃにならないよ」
二桁の掛け算すら怪しかった彼女に、律は数日間、根気強く効率的な解法を教え続ける。
同日、美波のノートに綺麗な正解の数字が並んだ。ついに自力で正解を導き出す。
「できた……! できたよ、一ノ瀬くん!」
その瞬間、美波が浮かべた笑顔を、律は一生忘れることができない。
裏も表もない、100%純粋な、ひまわりのような笑顔。
「お父さんとお母さんにも、すっごく褒めてもらったんだ!」
飛び上がって喜ぶ美波を見て、律は愕然と立ち尽くした。まるで、世界が滅亡する瞬間の数式でも見つけてしまったかのような、ものすごい衝撃。
(これが……両親の言っていた『レベルが低い』ということなのか?)
それまで律にとって「レベルが低い」とは、単に能力の数値が低いこと、見下す対象を意味していた。
しかし違った。彼女たちは、二桁の掛け算ができるようになっただけで、親に褒められただけで、あんなにも世界がひっくり返ったように喜べる。
なんて単純で、小さくて、低い次元の幸福。
――なのに、どうしてあんなに眩しいのだろう。
疑問を解消したくて、律は普段勉強を教えている他の生徒たちに、自覚のないまま聞いてしまった。
「ねえ、できないことができるようになるって、どんな感じ?」
質問された子供たちは引きつった笑みを浮かべ、気まずそうに目を逸らす。
「え……? 何言ってるの一ノ瀬くん。嫌味?」
誰も悪くない、前提の決定的なズレ。溝はさらに深まっていく。
律は諦めず、あの最下位の美波にも同じ質問を投げかける。
「え? 嬉しいし、楽しいじゃん! ……っていうか一ノ瀬くん、できなかったこととかないの?」
その一言が、神童の心臓をダイレクトに貫いていく。
できないこと? 自分に、できないこと?
自問自答の末に、律の脳裏に浮かび上がった答えは、あまりにも切ない欠落だった。
(……僕は、褒められたことがない)
何でも最初からできて当たり前。
親からも教師からも、成果への「評価」や「感嘆」はされても、存在そのものを無条件に全肯定されるような、あの美波のような「本物の褒め言葉」を、一度ももらったことがない。
自分には「できないこと」がないせいで、「褒められて心から喜ぶ」という人間の最も温かい経験が一生できない。
(なら、もっと高いレベルで突き抜ければいい)
普通に100点を取っても誰も驚かないなら、世界中の誰もが認めざるを得ない偉業を成し遂げれば、あの本物の祝福が手に入るはず。
その日を境に、律の心には「本物の賞賛を得るための執念」が静かに灯る。
どれほど高いレベルへ突き抜けても、周囲の驚嘆はただの「評価」に過ぎず、美波が親からもらっていたような無条件の肯定は手に入らない。
そんな中、唯一、律が幼少期に良いとも悪いとも言われなかった世界がある。
「美術」
そこには数字のような明確な正解がない。
両親からも「絵なんか描いても人生の足しにはならない」と切り捨てられていた。
だからこそ、そこは誰の支配も及ばない唯一の聖域に見えた。
中学で美術部に入った律は、周囲の「好きに描きなさい」という言葉を無視し、世界の巨匠たちのタッチを完璧に再現し始めた。
ダ・ヴィンチ、ゴッホ、ピカソ。彼らの技法を脳内で細部まで分析組み合わせる。
満を持して、全国規模のコンクールに出品する。
結果は――落選。誰一人として、彼の絵を認めない。
「自分の絵を描きなさい」
美術教師のその一言に、律の築き上げてきた絶対の正解は破綻しかけた。
(線を引いて、色をつけて、その配置の美しさを競うゲームではないのか? 自分らしさとは何だ? ゼロからイチを生み出すとは、どういうことだ?)
訳が分からなくなった律は、放課後の部室で、真っ白なキャンバスをただじっと見つめる。
そして、初めて脳の制御を壊し、目を閉じ、意味を持たないままに筆を激しく叩きつける。
形はめちゃくちゃ。
色はバラバラ。
目を開けて出来上がったものを見た律は、その場で愕然とする。
ひい目に見ても、それはかつて見た「ピカソの模倣の、まがい物」
(ヤケクソで本能のままに描いたのに……結局、僕の脳にある過去の記録をなぞっただけに過ぎない。僕は、人生で一度も、何かをゼロから生み出したことなんてないんだ)
数学も、スポーツも、音楽も、すべて最初に答えがあることの最適解をなぞってきただけ。自分という人間は、最初から空っぽの箱だ。
「なら、美術なんて曖昧なものはもういい」
律の思考は、より単純明快な、数字がすべてを証明する絶対的な世界――陸上へと傾いていく。
高校生になった律の走りは、文字通りの化け物だった。
世界記録保持者のフォームを1コマずつ分析し、自分の肉体で完璧に再現する。
汗もかかず、息も乱さず、他者を寄せ付けない無音の檻を纏ったまま、律は夏のインターハイ――全国大会の決勝の舞台に立っている。
――号砲。
爆音とともに弾け飛んだ律の加速は、文字通り異次元だった。
ゴールまで残り20メートル。
そこで律は、あろうことか、トップスピードを維持したまま、首を横に傾けて他のレーンを振り返るという、圧倒的な傲慢さを見せつける。
誰も、追いついてきていない。自分の背中に指先ひとつ触れさせてもらえない現実。
律はそのまま独走状態で、静かにゴールを駆け抜ける。
電光掲示板に刻まれたタイムは――『9.88』。
スタジアムが、地鳴りのような大歓声に包まれる。狂熱するメディアのカメラが一斉に律を取り囲み、フラッシュの嵐が彼の乾いた瞳を照らす。
マイクを向けられた律は、レンズの向こうの世界を見つめ、低く、冷たく、言い放つ。
「敗北を知りたい――。だから俺は、俺より速いやつに会いに行く」
その一言は、日本中のメディアを狂わせる。
翌日からのマスコミの過熱ぶりは異常だった。
テレビの特集番組では、律が出品して落選したという、あの中学生時代の絵が映し出されてる。
画面の中では、当時律を落選させた審査員の一人である、高名な老画家へのインタビューが放映されてい
る。
『なぜ一ノ瀬律のあの見事な絵を落選させたのか、ですか? 決まっている。あれは絵ではない。ただのデータの抜け殻だ。技術は凄いがあの絵には描き手の心が欠片もない。過去の正解を最速で繋ぎ合わせただけの、空っぽな機械のコピーだよ』
続いて番組のナレーションが、さらに世間を驚愕させる事実を読み上げる。
『しかし世間の熱狂は止まりません! 何より驚くべきは、一ノ瀬選手が陸上を始めたのは高校に入学してからということ! 美術での挫折を経て、競技歴わずか1年10ヶ月という段階で、彼は世界の壁をぶち破る9.88秒を叩き出したのです!』
(……違う。僕はただ、過去の正解を最速でダウンロードしただけだ)
自宅のソファで、消音にしたテレビ画面を見つめながら、律は自嘲気味に口元を歪める。
画面の向こうでは、冷徹な両親が澄ました顔で自分たちの教育を誇り、教師たちは実績を自慢し、陰で律を敬遠していた陸上部の仲間たちが「最高の戦友」を演じて涙ぐんでいる。
彼らは一ノ瀬律の実績をもてはやしているが、律の中身の空っぽさや、彼が抱える悲痛な飢えなど、ただの一人も見ようとはしなかった。
「僕がどれだけ突き抜けても、世界は僕を、優秀な記号としてしか処理してくれない」
世界一のタイムを出しても、あの最上位だった少女がもらったような、心の底からの本当の笑顔は、どこを探しても手に入らない。
そんな、人生に対する底なしの退屈と諦めに支配されながら、律が独り、駅前の雑踏を歩いている時だった。
「久しぶりー、一ノ瀬くん! 相変わらず凄いね!」
テレビの狂騒など届かない場所から、あの美波が、昔とまったく変わらない無邪気さで、律の前にフラリと現れる。
「『敗北を知りたい』って言葉、本物の人間が言っているのを初めて聞いたよ」
美波はけらけらと笑う。
世界中が彼を神格化するか、あるいは傲慢だと叩く中、彼女だけは、あの放課後の教室で二桁の掛け算を教えてもらっていた時のままの距離感で、律の隣に並んで歩いく。
そして、夕日に照らされながら、誇らしげに胸を張った。
「でもね、一ノ瀬くん。君にないものを、私はもってるよ?」
律の思考が、ぴきりと止まる。
すべてを手に入れたはずの自分に「ないもの」を、何もできなかったはずの彼女が持っているというのか。
「……何、それ」
「教わること! あと、誰かに頭を低くしてお願いすること! それから、ごめんなさいって謝ること! あ、あとさ、『ありがとう』って言った回数も、絶対に一ノ瀬君より私の方が多いぞ?」
――教わること。頭を下げてお願いすること。
謝ること。
そして、ありがとう。
律の頭の中で、それまで信じてきた世界の規則が、音を立てて崩れ去っていく。
完璧すぎた自分は、誰かに教わる必要も、頭を下げる必要も、謝る必要もない。他者に依存をしないから、心の底からの「ありがとう」を口にする機会もなかったのだ。
美波が誇ったのは、律が「レベルが低い」と切り捨てていた不完全さの中にしか存在しない、人間が他者と本当に繋がるための、圧倒的な心の豊かさだった。
言葉の意味は分かる。
けれど、脳が理解を拒む。神童と言われ続けた少年が、生まれて初めて完全に動きを止め、呆然と立ち尽くしていく。
そんな律の抜けた顔を見て、美波は「あはは!」と大笑いすると、彼の細い手首をぐいと引っ張っる。
「ほら、試合が終わったばっかりでしょ? 難しい顔してないで、今から一緒に遊びに行こう?」
訳が分からないまま連れて行かれたのは、放課後の賑やかなハンバーガーショップだった。
そこには美波の友人たちが集まっている。
彼らは律の「九・八八秒」という記録に驚きながらも、すぐにたわいもない話題で脱線していく。
「さっき歌った美波の歌、マジで音痴すぎてヤバかったよね」
「駅裏のクレープ屋の裏メニュー、めっちゃ美味しいんだよ!」
彼らは、律が一度も関心を持たなかったどうでもいいことについて、まるで世界の一大事のように熱く語り、笑い合っている。
律の残した偉業は、そこではただの「足が速いという、ひとつの個性」として、当たり前のように溶けていた。誰も彼を、腫れ物のような特別な怪物としては扱わない。
夜になり、駅前で友人たちと別れ、美波と二人きりになった。街灯の下、美波は律の顔を覗き込み、ついつい微笑む。
「どうだった? 一ノ瀬くん、知らない世界、いーっぱい知れたんじゃない?」
「……あ」
その瞬間、律の胸の奥で、何かが静かに破裂していく。
世界のあらゆる正解を知り尽くした気になっていた。
けれど、彼らが持っている「くだらなくて、愛おしい、無数の世界」を、自分はただのひとつも知らない。
そして律は、人生で初めて、本当の意味で気がついてしまった。
(ああ、僕は……ずっと、孤独だったんだ)
檻の中で、誰とも繋がらず、ただ一人で数字だけを追いかけていた。
込み上げてきたのは、絶望ではなく、胸が痛くなるほどの静かな感動だった。
自分が空っぽの孤独だったと知ったからこそ、目の前にいる美波の眩しさが、初めて律の心を満たしていく。
「……うん。知らなかった。僕に、教えてほしい。……君たちの世界を」
美波は驚いたように一瞬だけ目を見開き、それから、これまでで一番優しい笑顔を咲かせる。
「うん! いいよ、いっぱい教えてあげる。……じゃあ、まずは明日の放課後ね!」
アメリカへと出発する数日前、放課後の駅前にあるフライドチキン店。
「……おかしい。肉と骨の構造上、どうしても指が油で汚れるし、軟骨の周りにどうしても可食部が残ってしまう。これは、非常に非効率な設計の食べ物だね」
一ノ瀬律は、見た目は冷めた凡人風の真面目な顔をして、トレイの上のチキンを睨みつけながらブツブツと呟いていた。彼の細い指先はすでに油でテカテカだ。
高校生にして十代の百メートル世界新記録を叩き出し、世界最高峰の肉体の動かし方は知っているのに、目の前のチキン相手に完全に行き詰まって動きを止めている。
その姿が可笑しくて、隣に座る美波は、ちょっと太めの体を揺らしてけらけらと笑う。
「もう、一ノ瀬くんは頭が良いのに本当に不器用だなぁ! 貸してみなさい!」
クラスに一人はいる、尖った才能は何もないけれどやたらと明るい女の子。
美波は紙ナプキンを一枚取り出すと、チキンの両端をきゅっと挟む。
「いい? まず、この太い骨の関節をね、こうやってグッとひねるの。そうすると、ほら!」
すぽん、と綺麗な骨が一本、お肉を傷つけずに抜け落ちる。
「あとは残ったお肉をパクッと食べるだけ。ほら、手も汚れないし、お肉も一ミリも残らないでしょ!」
美波がふっくらとした頬を膨らませて、得意げな顔で綺麗に食べきってみせると、律は、あの小学校の放課後に彼女が二桁の掛け算を解いた時と同じくらい、ものすごい衝撃を受けた顔で愕然とする。
「……幾何学だ。美波さん、君は今、チキンの構造的欠陥をナプキン一枚の摩擦とひねりだけで完全に解決した。……僕の知らない食べ方を、君は知っているんだね」
「あはは! 幾何学とか難しいことは分かんないけど、美味しくきれいに食べる方法なら、私の方が一ノ瀬くんより百倍詳しいんだからね! さあ、幾何学の天才くん! アメリカに行っても、その調子で美味しいものいっぱい食べて、世界中を驚かせてきなさい!」
「……うん。実践してみるよ」
律は油のついた指をナプキンで丁寧に拭きながら、不器用で、ぎぎこちないけれど、確かに温かい人間らしい笑顔を浮かべる。
日本中を騒がせているマスコミの狂騒、彼を「優秀な記号」としてしか見ない大人たちの冷徹な視線。
そんな檻から解き放たれるように、律は美波の送り出しと、彼女が教えてくれた『僕の知らない世界』を胸に抱き、アメリカの超名門大学へと飛び級で渡米したのだった。
アメリカの地は、律にとって圧倒的な解放の地である。
広大なキャンパスでは、誰も律を腫れ物扱いしない。
物理学の講義でも、陸上部のトラックでも、律の「過去の正解を最速で分析し、再現する才能」は異次元である。
けれど、今の律の心は、かつてのように傲慢に冷え切っては居ない。
彼には、時差を超えた毎晩のビデオ通話という絶対的な温もりがあるからだ。
満たされた日々のなかで、律の人生に対する底なしの退屈は、純粋な世界への好奇心へと姿を変えていく。
そんなある日、律の世界をさらに大きくひっくり返す出来事が起こる。
それは、暗闇の中に自分で光を灯して、誰も見たことのない新しい世界をゼロからイチで生み出している、本物の天才たちとの遭遇である。
陸上の世界選手権をかけた前哨戦。
隣のレーンに立ったジャマイカ出身の新星が、号砲とともに文字通りの爆発を見せ、律の保持していた十代世界記録を塗り替える『九・八五秒』を叩き出す。
またある朝、大学の講義室で、いつも偏屈な初老の数学教授が、これまでの世界の誰も導き出せなかった宇宙の法則を証明する「新数式」を黒板に書き殴る。
(凄い……! 僕は、過去の正解をなぞることしかできない空っぽの箱だ。だけどこの人たちは……!)
かつて美波が教えてくれた、不完全だからこそ他者と繋がれる豊かさ。そして今、目の前の天才たちが魅せる、不完全な人間がゼロからイチの奇跡を生み出す瞬間の美しさ。
「教わる楽しさ」を知ってしまった律は、もう誰にも止められない。
彼は、見た目は相変わらず覇気のない冷めた凡人風の佇まいのまま、ノートとキャンバスを抱え、世界中の天才たちのもとへと歩き出す。
「先生。僕に、その新しい数式の美しさを教えてください。僕の頭の記録には、まだその答えが存在しないんです」
大学の狭い研究室で、直立不動で頭を下げる律の瞳にある本物の敬意を察した瞬間、老教授は嬉々としてチョークを握り直した。ゼロからイチを生み出した本人の熱量を直接教わる。
化学反応は、爆発的だった。
律の巡礼は、あらゆる分野へと広がっていく。
考古学の准教授の元へ行っては、新解釈のさらに奥にある未知の領域をその圧倒的な脳内処理速度で整理し、世紀の大発見へと昇華させる。
そして、かつてデータの抜け殻と酷評された彼の美術も、この巡礼の中で完全に覚醒を遂げる。
現代アートの巨匠に「心で描くとはどういうことか」を貪欲に乞い、天才たちの生き様を見つめ続けた律のキャンバスからは、かつての完璧な模倣が一切消え去っていく。
代わりに増えていったのは、生きている人間が持つ生命の爆発をそのまま定着させたような、独自の激しい躍動感。
データとしての美しさを超え、観る者の魂を震わせる「命そのもの」が、彼の描く絵に宿り始めていく。
陸上のトラックでも、律は自分の記録を抜いたジャマイカの新星のもとへ行き、ぎこちない笑顔で握手を求める。
「君のバネの動き、本当に素晴らしい。僕に、その風の切り方を教えてほしい」
ライバルは不敵に笑い、二人は並んで走り出した。理論を超えた野生のスピード。
それを間近で教わった律の肉体は、限界の檻を粉々に破壊する。
数ヶ月後、世界陸上の舞台。
号砲とともに弾け飛んだ律は、もはやゴール前で他者を振り返るような不作法な真似はしない。
ただ純粋に、隣を走る最高のライバルたちへの畏怖と敬意を抱き、走る喜びを全身で爆発させる。
電光掲示板に刻まれたタイムは――『九・六九秒』。
世界陸上金メダル。数学、考古学、芸術、陸上。あらゆる分野で同時に歴史を塗り替え続ける一ノ瀬律の怪物っぷりに、世界中のメディアは正気を失ったように大熱狂していく。
激闘を終えた律は、スタジアムの巨大な記者会見場の壇上にいた。数千人の記者たちが一斉にフラッシュを焚き、世界中に生中継されるマイクが向けられる。
「一ノ瀬選手! なぜ、これほどあらゆる分野で凄い結果を叩き出し続けることができるのですか!? あなたのその才能の秘密を教えてください!」
大衆の狂騒を前に、律はマイクを引き寄せ、世界に向けて静かに口を開く。
「特別な秘密はありません。僕はただ、世界中の素晴らしい偉人たちに、頭を下げて教えを乞うただけです。……たとえば、そうですね」
律は真面目な顔のまま、ふっと視線を落として語り始める。
「渡米する直前、私はある彼女から、フライドチキンの食べ方が不器用だ、と指摘されました。骨の周りにお肉を残してしまう、と。そこで私が『じゃあ、どうすればいい?』と頭を下げて聞くと、彼女はナプキンを一枚使っただけで、一切手を汚すことなく、見事なまでに綺麗にチキンを平らげてみせたのです」
記者席が、一瞬ぽかんと静まり返る。
世界を揺るがす天才の口から、あまりにも庶民的すぎるファストフードの話題が出てくるとは、誰も想像していなかったからだ。
律は、少年のような、悪戯っぽくぎこちない笑顔を浮かべて、言葉を繋ぐ。
「物理学の定理も、効率的な骨盤の動かし方も、チキンの綺麗な食べ方も、僕にとってはすべて同じ、価値ある知の財産です。私の知らないことを、彼女は知っている。だからこそ、私はいつもこう答えるようにしています」
律は一度言葉を切り、世界中のカメラのレンズを、真っ直ぐに見つめる。
数千のフラッシュが激しく瞬き、全世界が生中継の画面越しに、彼の次の言葉を固唾を呑んで待っている。静寂が、巨大な会見場を支配する。
たっぷりと間を置いて、律は彼にとって最も最強で、最も謙虚な、この物語のすべての答えを紡ぎ出す。
「――私の知らないことは、隣の誰かが知っているかもしれない、と」
ワンテンポ遅れて、会場が地鳴りのような割れんばかりの喝采と大歓声に包まれた。全員が立ち上がり、惜しみない拍手を送る。
テレビの向こうでは「なんて深く、すべての人をリスペクトした名言なんだ!」と大騒ぎの嵐が巻き起こる。
けれど、律にとっての世界一の先生は、今頃日本の実家でお腹を抱えて大爆笑している、あのちょっと太めの、学年最下位だった女の子だけだった。
控室に戻った律は、ネクタイを緩めながらスマートフォンを取り出す。
世界を揺るがす天才の顔から完全に仮面が外れ、ただの一人の男の子の顔に戻る。
彼は日本のひまわりへ向けて、メッセージを打ち込む。
『美波さん。今日も世界には、僕の知らない面白いことがいっぱいあったよ。でも――』
感謝の意味を込めて、律がアメリカの自宅で描き上げ、あらかじめ送っておいた絵画。
そこには、かつて日本の自室で描いた、どう笑っていいか分からずにぎこちない顔をしていた自分の姿は、もうどこにも居ない。
キャンバスに定着していたのは、相変わらず屈託のない笑顔で大爆笑している、ちょっと太めの彼女の姿。
そしてその隣で、世界中の天才たちの熱量を浴び、純粋な知的好奇心に目覚めた少年の、キラキラとした瞳が鮮烈に特徴的な「私」の姿だった。
かつて老画家に「描き手の心が欠片もないデータの抜け殻」と言われた絵は、美波の笑顔という光を知り、世界への畏怖とリスペクトを知ったことで、観る者の魂を震わせる本物の命を手に入れたのだ。
キャンバスの隅には、小さく、だけど力強い筆跡でタイトルが書かれている。
――『私はもう孤独じゃない』
画面の文字を見つめながら、律はフッと嬉しそうに笑う。神童の檻を完全に抜け出し、世界一謙虚で、世界一最強になった少年は、心の中で静かに、あの熱いオマージュの言葉を付け足す。
(――俺は、俺よりすごい奴に会いに行く。だから、次の放課後も、僕に君の世界をたくさん教えてね)
新しく始まった彼の人生の旅路は、まだまだ、どこまでも、楽しそうに続いていくのだった。
(完)
お読みいただきありがとうございます。
1話完結の短編 あなたにとって神童はどっちでしたか?
感想や評価くれると嬉しいです。
それでまた別の作品で会えることを楽しみにしています。




