お〜い
お……
微かな音がした。
お〜
それは小さくて周囲の音に紛れそうでした。
……いえ、実際紛れていたかもしれません。前からしていたのに今まで気づかずにいただけ……、だったのかもしれません。
お~い
それは誰かを呼ぶ声のようでした。
ゾクリ
背骨を冷たい手で掴まれたようでした。
お〜いぃ
一体どこから聞こえてくるのか。
わたしは周りを見回しました。
そこは勤め先の事務所のお茶場の小さなスペースで、わたし一人しかいませんでした。
事務所の方へ目を向けました。
ほとんどの人は外回りに出ていて、事務所には部長以下、三、四人しかいません。
みんな、デスクでディスプレイとにらめっこしていました。
誰かが呼んだわけではなさそうでした。
お~い
また声がしました。
後ろから……つまり、お茶場から聞こえてくるのです。
わたしは困惑しながら、お茶場のあちらこちらに目を泳がせました。
部屋の隅の冷蔵庫。
シンク。
その横の台に載せた電子レンジと湯沸かし器。
どこからも人の声は聞こえてきません。
お〜〜い
それでもやっぱり声は聞こえてきました。
しかも、だんだん大きくなってくるようでした。
視線がシンクへと注がれました。
シンクの排水口に。
おぉ〜い
おぉ〜〜い
わたしは、そっと排水口へ耳を近づけました。
おぉ〜〜いぃ
はっとなって排水口から耳を離しました。
そして、確信しました。声は排水口からするのです。
一瞬、頭がおかしくなったのかと思いました。
そんな声が聞こえてくるなんて絶対におかしいのです。
……いえ、そうとも言えないかもしれません。そう、すぐに思い直しました。
排水口は色んなところに繋がっています。
だから、この雑居ビルのどこかの部屋の音が、なにかの拍子に伝わってきているのかもしれません。
お〜〜い
排水口の蓋へゆっくりと手を伸ばしました。
心のどこかで開けてはダメと思いながらも、それでもなぜかその手を止めることができませんでした。
ゆっくり、ためらいながら、蓋を摘んで……
「林さん?」
突然、後ろから声をかけられ、飛び上がるほど驚きました。
振り返ると瀬川先輩でした。
「林さん、なにしてるの?」
瀬川先輩は、わたしの反応に少し面食らったような顔をしました。
「え……、いえ、その……」
どう答えようかと、悩みました。
排水口から聞こえてくる声について話そうと思ったのですが、声はいつの間にか聞こえなくなっていました。
声がしなければ、変な顔をされるだけでしょう。
「な、なんでもありません。
ちょっと、排水口の掃除をしようかなぁ、なんて思っただけです」
わたしは適当なことを言い、お茶場から飛び出しました。
*
「ふぅ~」
わたしは大きなため息をつきました。
家の近くのコーヒー屋さんでのことです。
時間は夜の9時頃。
そろそろお店が閉まる時刻のためか、店内には、わたしのほかに数人の客しかおらず、閑散としていました。
あのお茶場の声は一体何だっただろう
空になったアイスコーヒーのストローをもてあそびながら、わたしはぼんやりと昼間のことを思い出していました。
あの後、声は聞こえませんでした。でも、また急に聞こえてくるんじゃないかと、ずっと引っかかっていたのです。
「ま、忘れるのが一番よね」
そう自分に言い聞かせ、席を立とうとした時です。
おーい
声がしました
とたんに、びくんと体が震えました。
お店の中を見回します。
カウンターでは店員さんたちが片づけを始めていました。
二人の女子高生風の女の子たちは会話に夢中のようです。
お店の奥の男の人は携帯をじっと見つめています。
わたしに声をかけた人は一人もいません。
お~い
声は微かでしたが、確実に聞こえました。
空耳なんかじゃありません。
お〜〜い
どこかすごく近くから聞こえてくるようでした。
どこだろう。
心臓がバクバクと音を立てます。
お~~い 助けてぇ〜
助けて……?
誰かが助けを求めている……とでも言うのでしょうか?
でも誰が? どこから?
お〜〜い 誰かぁ〜
声はテーブルから聞こえてくるようです。
テーブルから?
でもテーブルには、氷だけのアイスコーヒーのコップと空になったお皿が一枚あるきりです。
声なんて聞こえてくるはずが、ないのです。
お~~い
それでもやはり、声は聞こえてきました。
声は……コップから聞こえてくるようでした。
「えっ? えっ?」
戸惑いながらコップを凝視しました。
お〜い
お〜〜い
おぉ〜〜〜ぃ
コップに無造作にささったストローから聞こえてくるようでした。
お~~いぃ だれか 助けて~
馬鹿げた行為です。
頭では分かっているのにわたしは、まじまじとストローの小さな穴を覗き込みました。
じっと見ていると、ストローの奥になにかあるのに気がつきました。
薄い緑色のなにか。
それは、もぞもぞと動いているように見えました。
慌ててストローから目を離して、外からコップを見直します。
コップには氷と溶けかけた水があるばかりです。
緑色のものなんてありません。
わたしはもう一度ストローの中を覗き込みました。
やはりなにかが蠢いていました。
「なに……これ……」
なにかぶよぶよしたものが、ストローの奥から少しずつ少しずつ上ってくる、ようでした。
「きゃあ!」
思わず悲鳴を上げてしまいました。
立ちあがった拍子に、膝でテーブルを蹴り上げました。
鋭い音を立てて、コップが倒れ、氷と水がテーブルと床を濡らしました。
「大丈夫ですか……?」
すぐに店員さんが近寄ってきました。
「あっ。す、すみません」
慌ててコップを拾ってティッシュを取り出そうとしました。
「ああ、いいです。そのままで。こちらで片付けますので」
店員さんは何事もなかったように答えると、コップを回収して床を拭き始めました。
「あっ?!」
店員さんがストローを拾った時、思わず声が出ました。
「なにか?」
不思議そうに店員さんは、わたしを見上げました。
声は……もう聞こえませんでした。
「いえ、なんでもないです」
頭を下げると、そのままコーヒー屋さんを飛び出しました。
**
バタン
ほとんど走るようにして家まで帰ると、ドアを閉め、震える指先で鍵をかけました。
ついでにチェーンロックもかけます。
それで恐怖が消えるわけではありません。でも、そうせずにはいられませんでした。
一体、何が起きているのか、さっぱりわかりません。
やはり、自分の頭がおかしくなってしまったのでしょうか?
いきなり、こんな風に狂ってしまうなんてことがあるのでしょうか?
幽霊かなにか、でしょうか?
そういうものが世の中にあるのかもしれません。
でも、そんなものを見たり、聞いたりしたことなんて一度もありませんでした。
どこかに肝試しに行ったこともありません。
声、排水口、幽霊…
そんなキーワードでネットを検索してみましたが、わたしが経験しているようなことは出てきません。
明日、誰かに相談しようか……
そう考え始めた時でした。
お~~い
声が……しました。
心臓が止まるかと思いました。
お~~~い 助けてぇ~
声は確かに部屋のどこかから聞こえてきます。
わたしは狂ったように部屋の中を見回しました。
お~~いぃ
おぉ~~いぃ
シンクの排水口?
違います。
トイレ?
違いました。
……、お風呂の排水口でもありません。
お~~いぃ
お~~いぃ
だんだん声が大きくなってきます。
どうも洗面所の方から聞こえてくるようです。
お~~いぃ 助けてぇ~
やはり……、洗面所の排水口から聞こえてきます。
震えながら排水口を覗いてみると、やはり薄緑色をしたものが蠢いているのが見えました。
お~いぃ
ジュルリ
お~~いぃ
ジュルリ ジュルリ
声を上げながら、それは排水口の中をせり上がってきます。
吐き気がしました。
それでいて、頭が痺れて動けなくなっていました。
ピッチャ
排水口から何かが飛び出しました。
それは……小さな手でした。
人形ぐらいの大きさの、でもちゃんと五本の指を持つ小さな手。
薄緑色の皮膚にはところどころ黒い斑点が見える。水死体の手。
ピチャリ
もう一本、手が排水口から現れ、洗面の底に張り付きました。
そして、排水口いっぱいに、緑色の泡が湧きあがってきます。
下水の腐臭が泡になって湧き上がってきた、そんな感じでした。
泡がぎょろりと動きました。
それは! その泡らしきものは、ぶよぶよに膨らんだ人の顔でした。
それが、今排水口から出てこようとしているのです!
「うわ、うわ、うわぁあ!」
わたしはとっさに栓をその顔に押し付けました。
顔がぐにゃりとひしゃげ、押し戻されます。
小さな手が排水口から出てこようと必死にもがきます。
ぴちゃぴちゃと水が跳ねました。
わたしは、声にならない悲鳴を上げながら、渾身の力をこめて、栓を排水口にねじ込みました。
「はぁ、はぁ、はぁ」
しばらく荒い息をついていましたが、すぐに狂ったように部屋中を駆け回り、部屋中の水の通り道を塞ぎ始めました。
台所とお風呂場の排水口には蓋をしました。
トイレの便座は蓋が開かないように紐でぐるぐる巻きにしました。
最後にシャワーヘッドを布でぐるぐる巻きにしました。
そしてようやく、ベッドへ逃げ込みました。
朝になったら、病院へ行こう
あるいはお寺か神社だろうか
頭から毛布をかぶり、そんなことをぐるぐると考えました。
***
ふと、目が覚めました。
いつの間にか眠ってしまっていたようです。
時計を見ると夜の3時でした。
もう少し。夜が明けたら家を出て、誰かに助けを求めよう
当てはないのだけど……
お~い
びくりと体が震えました。
お~い
声です。
声が聞こえました。
飛び起きると部屋を見回します。
排水口はすべて塞いでいるはずです。
だから、たとえ声がしたとしても、あれは出てこれないはず……です。
お~~い
それでも声はやむことなく続きました。
そして、やはり声はだんだんと大きくなっている気がしました。
お~~い 助けてくれ~
わたしは周囲を必死に見まわします。
どこか見逃した排水口があるのでしょうか?
必死に考えます。
お~~~いぃ だれかぁ~ 助けてぇ~
でも今回はいくら耳を澄ましてみても音の出どころが分かりませんでした。
顔を動かしても、どこもかしこも、音の中心に聞こえるのです。
それはまるで、わたしの体の中から聞こえてくるようでした。
体の中……?
ふと、壁に掛けた鏡へ目が向きました。
お~~~いぃ
お~~~いぃ
出してくれぇ~
鏡に映る自分の顔をじっと見つめます。
ゆっくりと口を開きます。
そっと覗いてみると……喉の奥に蠢くものがあります。
お~~~い
喉の奥が声に合わせて震え、と同時に猛烈な嘔吐感がこみ上げ出てきました。
「きゃああああ~~」
ペタリ
鏡の中で、濡れた小さな手が頬に張りつきました。
気づくと暗闇の中でした。
なんでこんなところにいるのか分かりません。
痛い。
冷たい。
苦しい。
逃げ出したい。
でもどこに?
ずっと上のほうに小さな光が見えました。
わたしはそこへ向かって、思うように動かない体を少しずつ這わせました。
誰か。
誰か、助けて。
助けを求めて、声を上げます。
お~~~い




