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『不浄の店を閉鎖しに来た司教、店内の温度差に気づかないまま三十分が過ぎた』 ~追放された聖女、初めて本気で怒る~ ep-12

掲載日:2026/05/09

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

「今日こそあの店を閉鎖する」

 司教イグナーツ・フォン・ホルンベルクが馬車に乗り込みながら言った言葉を、姪のエリーゼは三回聞いた。

 一回目は屋敷の食堂で。

 二回目は馬車の中で。

 三回目は路地裏の入口で。


「今日こそ、です。わかっています」とエリーゼは三回とも同じ返事をした。

 先月、腹心のフリードリヒ神父が行政調査を受けた。孤児院への賜付金の横流しを暴かれたのだ。調査書類を書いたのがシルヴィア・ヴェルナーで、その女があの路地裏の店に入り浸っているとわかったとき、司教の顔色が変わった。

 そしてあの店にはリーネもいる。

 追放した、あの娘が。

 司教は暖簾を乱暴に開けた。


 ◇


 その時、店内では。

 シルヴィアが書類を広げながら定食を食べていた。

 オスカーが一番端の席で手帳を開かずに定食を食べていた。

 グスタフが二杯目を静かに頼んでいた。

 ハンスが皿を洗っていた。

 アル爺が蒸籠を磨きながら根菜を切っていた。

 リーネが味噌を溶きながら鼻歌を歌っていた。

 揚太郎が黙って鍋を睨んでいた。


 そこへ司教とエリーゼと修道士三人が、どかどかと入ってきた。


 揚太郎が振り向かずに言った。

「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」


「定食など要らん!」と司教が言った。


「そうか」

 揚太郎は鍋に向き直った。


 ◇


「リーネ!」


 司教がリーネを指差した。

「この店を今すぐ閉鎖する。神の名において、不浄の発酵を王都に撒き散らすことは許さん」

 リーネが振り返った。


 笑顔だった。

「いらっしゃいませ、司教様」


「笑うな! お前はわかっているのか、この店がいかに神の教えに反しているか!」


「はい」


「なら......」


「でも今、仕込みの途中なので、少し待っていただけますか」


 司教が固まった。

「……待てと言ったか」


「お玉から手が離せないんです。味噌が固まってしまうので」


 エリーゼが「リーネ、司教様に向かって……」と言いかけたとき、隣の席のシルヴィアが静かに箸を動かしながら言った。


「少し声が大きいですね。他のお客様のご迷惑になります」


 エリーゼが振り返った。

 眼鏡の令嬢が、書類を広げながら定食を食べていた。


「……貴女は」


「シルヴィア・ヴェルナーです。定食をいただいています」


 エリーゼの顔が、みるみる赤くなった。

「フリードリヒ神父の件を暴いたのは貴女ね!」


「事実に基づく報告書を提出しただけです」


「それで済むと思っているの!?」


「済みました。先週、調査が完了しております」


 エリーゼが司教を見た。

 司教が「まずリーネの件を片付ける!」と言った。

 二人が再びリーネに向き直った。

 リーネはまだ、お玉を回していた。


「もう少しで終わります」


「終わるまで待てん!」


 アル爺が蒸籠を磨きながら言った。

「味噌の仕込みを急かすな。味が変わる」


「貴様は何者だ!」


「出汁担当だ」


「何の話をしている!」

 グスタフが二杯目の定食を受け取りながら、静かに言った。


「店内では静かにしていただけますか。飯がまずくなる」


 司教がグスタフを見た。


「……貴様も何者だ」


「客だ」


「なぜそんなに落ち着いているんだ!」


「うまい飯を食っているからだ」


 司教が「ええい!」と言って、再びリーネに向き直った。


「リーネ! いい加減にしなさい! この店を……」


「司教様」

 リーネが、お玉を置いた。

 振り返った。

 笑顔が、消えていた。


 ◇


 店内の空気が、変わった。

 揚太郎の手が、一瞬だけ止まった。

 アル爺が蒸籠から目を上げた。

 ハンスが皿洗いの手を止めた。

 シルヴィアが箸を置いた。

 オスカーが顔を上げた。

 グスタフが杯を下ろした。


 リーネが、司教を真っ直ぐ見た。

「三年前、司教様は私の料理を『腐敗』と呼びました」


「そうだ。お前の作るものは不浄——」


「違います」


 声が、低かった。

 天然で、アホ毛が揺れていて、いつも笑っているリーネの声が、今日だけ、違った。


「私の料理は腐敗じゃない。発酵です。大豆と塩と時間が作る、命の変化です。司教様はそれを知っていたはずです。知っていて、追放した」


「……リーネ、お前は……」


「孤児院の子供たちが、今月初めて金貨二枚の賜付金を受け取りました。フリードリヒ神父が五年間横流しにしていたお金です。その子供たちも、この店で泣きながら定食を食べました」


 司教の口が、閉じた。


「私はここで、揚太郎さんのとんかつと、私の味噌汁で、毎日誰かを幸せにしています。それが不浄なら、不浄で構いません」


 リーネの目が、真っ直ぐ司教を見ていた。

「でも、この店を閉鎖させません。絶対に」


 沈黙。

 司教が口を開きかけた。

 そのとき、揚太郎が振り向いた。


「客か、そうでないか、どちらだ」


 司教が固まった。

「……そうでない」


「なら帰れ。定食の時間が終わる」

 司教はしばらく動かなかった。

 修道士たちが顔を見合わせた。

 エリーゼが「司教様……」と小声で言った。

 司教は踵を返した。

 暖簾をくぐった。

 修道士三人がぞろぞろと続いた。

 エリーゼだけが、一瞬だけ振り返った。

 リーネと目が合った。

 エリーゼは何も言わなかった。

 ただ、視線を外して出ていった。

 暖簾が、静かに揺れた。


 ◇


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 最初に口を開いたのはアル爺だった。


「……よく言った」


 リーネは一秒だけ固まった。

 それから、目の奥が急に熱くなった。


「……アル爺、褒めてくれたんですか」


「褒めていない。事実を言っただけだ」


「褒めてますよね絶対!」


「うるさい、仕込みを続けろ」


「それはお兄さんのセリフです!」


 グスタフが静かに言った。

「見事だった」


 オスカーが手帳を開いて、一行書いた。

 シルヴィアが眼鏡を押し上げて、書類に視線を戻した。

 ハンスが「すごかった」と小声で言った。

 揚太郎は何も言わなかった。

 ただ鍋に向き直って、今日最後の一枚を揚げ始めた。


 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 リーネはお玉を取り直した。

 手が、少しだけ震えていた。

 だがその震えは、恐怖ではなかった。


 ◇


 閉店後。

 リーネが一人で仕込みをしていた。

 揚太郎が厨房から顔を出した。


「泣いているか」


「泣いてないです」


「そうか」


「……少しだけ泣きました」


「そうか」

 リーネは味噌を一口舐めた。


 今日もいい味がした。

「お兄さん」


「なんだ」


「怒ったの、初めてでした」


「そうだったな」


「怖かったです。でも言えてよかったです」


 揚太郎は何も言わなかった。

 鍋に出汁を足した。

 ぐつぐつという音だけがした。


 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 路地裏に、今夜最後の揚げ物の音が響いた。


(完)


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