『不浄の店を閉鎖しに来た司教、店内の温度差に気づかないまま三十分が過ぎた』 ~追放された聖女、初めて本気で怒る~ ep-12
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
「今日こそあの店を閉鎖する」
司教イグナーツ・フォン・ホルンベルクが馬車に乗り込みながら言った言葉を、姪のエリーゼは三回聞いた。
一回目は屋敷の食堂で。
二回目は馬車の中で。
三回目は路地裏の入口で。
「今日こそ、です。わかっています」とエリーゼは三回とも同じ返事をした。
先月、腹心のフリードリヒ神父が行政調査を受けた。孤児院への賜付金の横流しを暴かれたのだ。調査書類を書いたのがシルヴィア・ヴェルナーで、その女があの路地裏の店に入り浸っているとわかったとき、司教の顔色が変わった。
そしてあの店にはリーネもいる。
追放した、あの娘が。
司教は暖簾を乱暴に開けた。
◇
その時、店内では。
シルヴィアが書類を広げながら定食を食べていた。
オスカーが一番端の席で手帳を開かずに定食を食べていた。
グスタフが二杯目を静かに頼んでいた。
ハンスが皿を洗っていた。
アル爺が蒸籠を磨きながら根菜を切っていた。
リーネが味噌を溶きながら鼻歌を歌っていた。
揚太郎が黙って鍋を睨んでいた。
そこへ司教とエリーゼと修道士三人が、どかどかと入ってきた。
揚太郎が振り向かずに言った。
「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」
「定食など要らん!」と司教が言った。
「そうか」
揚太郎は鍋に向き直った。
◇
「リーネ!」
司教がリーネを指差した。
「この店を今すぐ閉鎖する。神の名において、不浄の発酵を王都に撒き散らすことは許さん」
リーネが振り返った。
笑顔だった。
「いらっしゃいませ、司教様」
「笑うな! お前はわかっているのか、この店がいかに神の教えに反しているか!」
「はい」
「なら......」
「でも今、仕込みの途中なので、少し待っていただけますか」
司教が固まった。
「……待てと言ったか」
「お玉から手が離せないんです。味噌が固まってしまうので」
エリーゼが「リーネ、司教様に向かって……」と言いかけたとき、隣の席のシルヴィアが静かに箸を動かしながら言った。
「少し声が大きいですね。他のお客様のご迷惑になります」
エリーゼが振り返った。
眼鏡の令嬢が、書類を広げながら定食を食べていた。
「……貴女は」
「シルヴィア・ヴェルナーです。定食をいただいています」
エリーゼの顔が、みるみる赤くなった。
「フリードリヒ神父の件を暴いたのは貴女ね!」
「事実に基づく報告書を提出しただけです」
「それで済むと思っているの!?」
「済みました。先週、調査が完了しております」
エリーゼが司教を見た。
司教が「まずリーネの件を片付ける!」と言った。
二人が再びリーネに向き直った。
リーネはまだ、お玉を回していた。
「もう少しで終わります」
「終わるまで待てん!」
アル爺が蒸籠を磨きながら言った。
「味噌の仕込みを急かすな。味が変わる」
「貴様は何者だ!」
「出汁担当だ」
「何の話をしている!」
グスタフが二杯目の定食を受け取りながら、静かに言った。
「店内では静かにしていただけますか。飯がまずくなる」
司教がグスタフを見た。
「……貴様も何者だ」
「客だ」
「なぜそんなに落ち着いているんだ!」
「うまい飯を食っているからだ」
司教が「ええい!」と言って、再びリーネに向き直った。
「リーネ! いい加減にしなさい! この店を……」
「司教様」
リーネが、お玉を置いた。
振り返った。
笑顔が、消えていた。
◇
店内の空気が、変わった。
揚太郎の手が、一瞬だけ止まった。
アル爺が蒸籠から目を上げた。
ハンスが皿洗いの手を止めた。
シルヴィアが箸を置いた。
オスカーが顔を上げた。
グスタフが杯を下ろした。
リーネが、司教を真っ直ぐ見た。
「三年前、司教様は私の料理を『腐敗』と呼びました」
「そうだ。お前の作るものは不浄——」
「違います」
声が、低かった。
天然で、アホ毛が揺れていて、いつも笑っているリーネの声が、今日だけ、違った。
「私の料理は腐敗じゃない。発酵です。大豆と塩と時間が作る、命の変化です。司教様はそれを知っていたはずです。知っていて、追放した」
「……リーネ、お前は……」
「孤児院の子供たちが、今月初めて金貨二枚の賜付金を受け取りました。フリードリヒ神父が五年間横流しにしていたお金です。その子供たちも、この店で泣きながら定食を食べました」
司教の口が、閉じた。
「私はここで、揚太郎さんのとんかつと、私の味噌汁で、毎日誰かを幸せにしています。それが不浄なら、不浄で構いません」
リーネの目が、真っ直ぐ司教を見ていた。
「でも、この店を閉鎖させません。絶対に」
沈黙。
司教が口を開きかけた。
そのとき、揚太郎が振り向いた。
「客か、そうでないか、どちらだ」
司教が固まった。
「……そうでない」
「なら帰れ。定食の時間が終わる」
司教はしばらく動かなかった。
修道士たちが顔を見合わせた。
エリーゼが「司教様……」と小声で言った。
司教は踵を返した。
暖簾をくぐった。
修道士三人がぞろぞろと続いた。
エリーゼだけが、一瞬だけ振り返った。
リーネと目が合った。
エリーゼは何も言わなかった。
ただ、視線を外して出ていった。
暖簾が、静かに揺れた。
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのはアル爺だった。
「……よく言った」
リーネは一秒だけ固まった。
それから、目の奥が急に熱くなった。
「……アル爺、褒めてくれたんですか」
「褒めていない。事実を言っただけだ」
「褒めてますよね絶対!」
「うるさい、仕込みを続けろ」
「それはお兄さんのセリフです!」
グスタフが静かに言った。
「見事だった」
オスカーが手帳を開いて、一行書いた。
シルヴィアが眼鏡を押し上げて、書類に視線を戻した。
ハンスが「すごかった」と小声で言った。
揚太郎は何も言わなかった。
ただ鍋に向き直って、今日最後の一枚を揚げ始めた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
リーネはお玉を取り直した。
手が、少しだけ震えていた。
だがその震えは、恐怖ではなかった。
◇
閉店後。
リーネが一人で仕込みをしていた。
揚太郎が厨房から顔を出した。
「泣いているか」
「泣いてないです」
「そうか」
「……少しだけ泣きました」
「そうか」
リーネは味噌を一口舐めた。
今日もいい味がした。
「お兄さん」
「なんだ」
「怒ったの、初めてでした」
「そうだったな」
「怖かったです。でも言えてよかったです」
揚太郎は何も言わなかった。
鍋に出汁を足した。
ぐつぐつという音だけがした。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
路地裏に、今夜最後の揚げ物の音が響いた。
(完)
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