8.リヒトの悲劇
次のデートはどこにしようかと、まさにリヒトが頭を悩ませているその時、驚きの知らせが彼の耳に飛び込んできた。
「ロレーヌ侯爵令嬢エレノア様が家出をなさいました。」
「は?」
まさに寝耳に水である。
「婚約者が自分であれば、殿下の足を引っ張ってしまうのではないか。殿下にはもっと相応しい人がいるはずだ。そのような内容の置き手紙と殿下がプレゼントされたブローチも残されていたようです。それに、探さないでとの一文も…。」
「…。」
「殿下?」
下を向き固まったまま動かないリヒトの顔を、側近のマリウスが心配そうに覗き込む。
「ここは任せる。」
そう言うと、リヒトは外套を掴み執務室の扉に向かうが、マリウスが道を塞ぐ。
「殿下、困ります。すでに騎士団と侯爵家の私兵が捜索にあたっています。殿下は殿下のお仕事を。」
「急ぎのものはすでに終えている。今日中に必ず戻る。頼む、行かせてくれ。」
王国一とも言われるその整った顔に、誰も見た事がない焦りの色が滲む。
「読み間違えてしまった。1番大切な人の心を。そんな事で一国の王など務まるものか。」
そう呟き、リヒトは自嘲の色をうかべる。
そんなリヒトの様子に、マリウスが折れて道を譲る。
「お気をつけて。今日中には必ず帰ってきてくださいね。」
「ああ、分かった。ありがとう。」
そして、リヒトは外套を羽織ると、執務室を後にした。
「…どうか、無事でいて。」
祈りともとれるその声共に。
その頃、エレノアはフワフワと王都モスケニア近くの空の上を浮遊していた。
「さて、飛び出してきたのはいいですが、どっちに向かいましょうか。」
どうしてエレノアが1人空に浮かんでいるかというと、それは少し前に遡る。
リヒトから外出禁止令は引かれていたが、屋敷内は自由に歩けたし、攻撃魔法以外は屋敷の敷地内でも使えた。エレノアは中庭散歩のフリしてしばらくフラフラと歩き、外壁に1番近い所で立ち止まる。
「【上昇気流】」
高く飛び上がって塀を乗り越え、文字通り屋敷を飛び出した。ロレーヌ邸の使用人たちの目の前で。しかし、『ああ、またいつもの逃亡か…』と判断され、すぐに帰ってくるだろうと予想した使用人たちは特に慌てることもなく、彼女を見送ってしまったのだ。
エレノアが身につけているデイドレスの中には、お忍び用の平民らしい軽装の服を着込み、売ればお金になりそうな宝石、こっそり溜め込んでいたお小遣いを、手縫いで縫いつけた内ポケットにぎゅうぎゅうに詰め込んでいる事は知らずに。
そして数時間後、エレノアの私室に掃除のため入った使用人が彼女の置き手紙を発見し、ロレーヌ邸と王城ではとんでもない騒ぎになっている。
そんな大事になっているとはつゆ知らず、エレノアは空の旅を楽しんでいた。
「あー気持ちがいい。いいお天気で良かったわ。最近は自由に出歩くこともできなかったから。1人でのんびり散歩するのはやっぱりいいわね。」
すでに平民らしい服装に着替え、逃亡時に上から着ていたデイドレスは脱いで【火炎】で燃やしておいた。証拠は隠滅ぬかりなし。ドレスのポケットに入っていたものは、全て大きめのショルダーバッグに入れ替えている。ズボンを履いて、平民男子に変装しているから、地上から見られても…
「イヤイヤ大騒ぎになるな。少しスピードをあげて人気の無いところに向かおう。」
空を飛んでいる人がいれば、貴族だろうが平民だろうが皆が驚く事は間違いない。足元に【上昇気流】を当て続けて空を歩くなど、常識的な魔力のものには考えられないのだ。
「魔力がほとんどない平民が空を飛んでる方が、むしろ目立つ気までしてきた。とりあえず、人通りの多い王都からは離れましょう。」
のんびり空の旅はおあずけにして、地面と水平方向にも気流を作る。そして、目にも止まらぬ速さでモスケニアから距離を取ったエレノアであった。




