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照準の外

作者: 野梅惣作

雨上がりの午後、街路樹の濡れた匂いがまだ通りに残っていた。


約束の十分前、俺は小説家の平屋建ての玄関先に立った。質素な造りの家だが、窓のカーテンの隙間からは柔らかな灯りがこぼれている。


「刑事さんですね、どうぞ」――呼び鈴に応じる声がした。


部屋に入ると、そこは拍子抜けするほど簡素な居間だった。畳敷きの床に、擦れたちゃぶ台。けれど壁際には帯付きの受賞作が整然と並ぶ棚が置かれていて、背表紙の金色の文字がまぶしく光を弾いていた。


男は五十五。写真で見るより柔らかく見えたが、体の動きには“仕事”で身を守ってきた者の癖が染みついている。死角を作らず、窓を背にしない座り方。


俺も同い年だ。刑事として積み重ねた経験でわかる。相当場数を踏んでいる。


「お茶でいいですか?」


「いや、お構いなく……。お忙しいところ、すみませんね、先生」


「いえ。大体察しはついてます。あなた、時効案件を調べてたんでしょう?」


俺は苦笑した。


テーブルに録音機の代わりに小さなノートを置く。白紙のまま、彼に向けて開いた。


「今日は記録を取りません。ここで聞いたことは外に出さない。約束します。――それでも、真実だけは、私の胸の中に残したい」


男は目を伏せ、指先で湯呑みの縁を撫でた。その仕草は、まるで引き金の感触を確かめているかのようだった。


「どこまで、知ってるんです?」


「四十まで“業務請負”。最後の任務をしくじって、組を追われた。四十五で直木賞、以後は売れっ子。……抜けた穴は、上手く埋めてある。けれど、四十以前の履歴は、どこも浅い」


男は頷いた。その頷きには、否定を諦めた者だけが持つ清潔さがあった。


「私は、どうしようもないガキでした。目の前のチンケな金で喧嘩して、捕まって、出て、また捕まって。そんな繰り返しでした。


学校なんてまともに通ったことはない、ゴミ捨て場の漫画本が私の教科書だった。


ある日、世話になってた組員から、夜の仕事に呼ばれた。そこからは早かった。ひとり殺せば、ふたつもみっつも同じこと。荷物になった名前を捨てて、昼の通りを歩かなくなった。」


窓の外で陽が差す。小さな埃が浮いて、彼の声に合わせて揺れた。


「変わったのは三十そこそこの頃。“業務請負”の帰りに路地を歩いていて、ふと、道端に捨てられた古い文庫本が目に入った。


誰かに見捨てられたその姿が、自分と重なったのかもしれない。気づけば、埃をかぶったその一冊を手に取っていた。


タイトルは――まあ、ここでは伏せます。そう!この文庫本のせいなんですよ!笑っちゃうでしょう!?俺みたいな人間が。“生き直したい”なんて思うんですから」


「笑いはしません」


「その夜に、ひと息で読み切った。意味のわからない語もたくさんあったけど、分かる所だけが、まるで俺を待っていたみたいだった。


一行が胸に刺さって、抜けないまま朝になった。……それからです。仕事の合間も、寝る時も、帰り道も、屋上でも――擦り切れるまで、何度も、何度も」


俺は黙って聞いていた。


湯呑みを持つ彼の指が、かつては引き金を何度も撫でた指だと思うと、妙な重さが胸に沈む。


だが同時に、その指が今は紙をめくり、言葉を紡いでいることを思うと――人間の行き先の不確かさに、ただ圧倒される。


罪の数を数えるのは刑事の仕事だ。だが「擦り切れるまで何度も読み返した」というその一言は、事件記録のどこにも残らない事実だった。


俺は自分が聞いているのが「供述」ではなく「告白」だと、はっきり意識した。


――


「最後の任務は、四十の冬でした。郊外の住宅街。二階の書斎、窓の隙間、カーテンの揺れ。


ターゲットは散歩帰りの男で、簡単に言えば“悪い人間”でした。


いつも通り、呼吸を整えて、ライフルのスコープを覗く。……その時、見えたんです」


彼は手を少し上げ、空に円を作る。そこに、見えない照準器が浮かんでいるかのように。


「書斎の奥、背丈ほどの本棚。上段の三分の一が空いていて、そこに、“あの一冊”があった。


同じ表紙、破れた角、タイトルの下の部分だけが薄く剥げている。


一瞬で、夜中に文字を追い続けた自分の指先の感覚が戻ってきた。


引き金にかけた指が、あの紙の手触りに変わった」


彼は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


「ライフルを下ろしました。理由なんて、後付けでいくらでも言えます。人道とか、更生とか、祈りとか。……ただ、あの瞬間、俺は気づいてしまった。


今まで殺し続けてきた“物”たちは、決して物なんかじゃなかった。すべて俺と同じ人間だった。――いや、逆だ。俺もまた、あの連中と同じただの人間だったんだ。


同時に悟ったんです。“殺し”を続けた先に、自分の名前が何一つ残らないことに、もう耐えられなくなった。


誰かの本棚に、自分が残していくものが一つもない。撃った弾は消えていくだけだ。


だったら、一行でいい。誰かの胸に残るものを撃ち込みたかった」


「……それで、組を?」


「逃げましたよ。裏切り者だって罵られて、仲間だった連中からも追われる立場になってね。


貯めていた金で戸籍を買って、名前を変えて、住所も変えて……歩き方や癖まで全部変えました。


日雇いに紛れて、倉庫でコンテナを押したり、古本屋の裏で段ボールを潰したり。とにかく人の目に埋もれて過ごしていました。


でも、夜になると……ノートを開いたんです。最初はただの真似事ですよ。本の一節を書き写したり、響きを真似して文章を並べたり。


けれど、そのうち気づいたんです。俺はあの文庫の一行の“裏側”にある景色を探していたんだって。


一文字ずつ、自分の手で世界を作ろうとしていました。


答えが見つかるまで、五年かかりました。


そして四十五で直木賞をいただいたとき、スピーチで言ったんです――“言葉に拾われた人間です”ってね。


あれは嘘じゃない。ただ半分でした。俺を拾い上げてくれたのは、言葉と……あの本棚なんです」


壁掛けの時計が静かに進む。


秒針の音が、やけに大きく聞こえた。


「今日、お会いしたのは二つ。


ひとつは、自分の引いた引き金の数を認めるため。


もうひとつは……今書いている長篇が終わったら、自首するつもりだと伝えるためです」


「自首、ですか」


「はい。遅すぎますけど。


けれど、あの頃の私の罪は裁かれたわけではない。


それに――これは職業病かもしれませんが、この物語の終わりを、他人に書かれたくないんですよ。」


俺はしばらく黙って、湯呑みを見つめた。


目の前で何人もの“終わり方”を見てきたが、この物語はまだ続きがあるはずだ。


「先生、その必要はありません」


「……どういう意味です?」


「法の話は、今日はしません。ここは記録に残らない場所ですから。


ただひとつお願いがあります。次の作品に、先生自身の“更生の続き”を書いてください。


“終わるために自首する”話ではなく、“終わらないために生きる”話を。


――誰かの本棚に、先生の続きが置かれるように」


男はしばらく黙っていたが、やがて胸ポケットから万年筆を取り出し、白紙のノートにゆっくりと文字を書きつけた。


照準の外


「――撃たないことを学んだ夜から、人はどこへ行けるのか。


私の物語は、あの本棚の前から書き始めます。」


別れ際、玄関で握手を求めると、彼は一瞬驚いた顔をして、それから強く握り返した。


掌には、銃の冷たさではなく、紙のざらつきがあった。


外に出ると、雨はもう乾いていた。


街路樹の葉先から、最後の雫がぽたりと落ちる。


交差点の向こう、古本屋の看板が陽に白く褪せていた。俺は無意識にそちらへ歩いていった。


棚を覗くと、インクと古い紙の匂い。


誰かが捨て、誰かが拾い、また誰かの胸に残った本たち。


そのどこかに、あの男の新しい一冊が加わる日が来るのだろう。


――残す者と、残される者。


撃つ者と、撃たれる者。


紡ぐ者と、紡がれる者。


三十年、俺はその線の上に立ってきた。


けれど今日、初めて思う。この物語にはまだ続きがある。


照準の外――引き金の先に、言葉がある。

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― 新着の感想 ―
刑事さん……粋なセリフを吐かせる
まるで長大な物語の終着点を切り取ったかのような短編でした。 立場も過去もまったく異なる二人が、事件という細い糸で結ばれ、常道を外れた結末へと辿り着く。その展開は実に文学的で、「人は言葉によって生き直す…
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