忘れ物
夜間、車を走らせていた。
街灯もない真っ暗な夜道を、車のライトだけを頼りに。
速度メーターは70km/hを指している。
山道だろう、緩く傾斜した道はぐねぐねとしており、反射板がキラキラと道の端を示している。
ふと、対向車がぞろぞろと現れ、トンネルに吸い込まれて行くのが見えた。
バックミラーに映るトンネルに。
知らず踏み込んだのか、メーターは80㎞/hを指している。
再び対向車の群れがやって来て通り過ぎ、そして再びトンネルへと吸い込まれていった。
何かが奇異(ルビ=おか)しかった。
そもそも何故こんな場所で車を走らせているんだったか?
そうだ。
祖母だ。
祖母が、忘れ物を取りに行って欲しいと頼んできたのではなかったか?
「……さんていうお家なんだけど……を忘れちゃって」
何さんで、何を忘れてたんだったか?
三度、対向車の群れが、今度は随分と長い行列が前からやって来た。そして背後のトンネルへと吸い込まれていく。
いや。
何故、気付かなかった?
速度メーターは95km/hを超えようとしている。
トンネルは、変わらずバックミラーに映り込んでいる。
山道を、ぐねぐねと走るこの車の後ろに、トンネルはまるで当たり前かのように存在し、次々と対向車を飲み込んでいっている。
スピードを落とせば、対向車と同じ様にトンネルに呑み込まれるだろう。
祖母には、今日は諦めて貰おう。
片手でスマホを操作し、祖母へ電話をかける。と。RRRRRR……と後部座席で呼び出し音が鳴った。
思わず振り返ると助手席の後ろに背を丸めた小さな影が見える。刹那、派手なクラクションに慌てて正面に向き直った。
「なあに、電話なんかして」
祖母がのんびりと声を上げる。
「ば、ばあちゃん、あのさ……」
祖母が居た事に、1人では無かった事に安堵する自分を感じる。
「ごめん、忘れ物、今度で良いかな?」
今はちょっとそれどころではない。
「ああいや、大切なものでねぇ……。大切なものなんだよ。取りに行かなきゃ。お願いだから、ねぇ?」
懇願するように祖母が言う。
数瞬の迷いの後、兎に角逃げ切ってから考えようと決めた。
「ばあちゃん、ちょっと飛ばす。しっかり捕まっててね」
上っているか下っているかわからない道を、アクセルをグンと踏み込み、メーターは100㎞/hを超えた。
徐々に、徐々にトンネルが遠去かり、一時間も飛ばしていただろうか、気が付けば車は見知った道を走っており、トンネルは何処にも見えなくなっていた。
スピードも60㎞/hまで戻し、コンビニの駐車場へと車を入れて停める。
「ちょっと珈琲買ってくるけど……」
振り返って祖母に声を掛けようとすると、祖母の姿は何処にも無かった。ただ、祖母の携帯電話だけが後部座席に置いてあった。
スマホが鳴る。
母の名が表示されていた。
「……はい」
「繋がった! あんた今どこ? お婆ちゃんが大変なの! すぐに病院に来て! わかるわよね?」
母が取り乱して病院の名を告げる。
そうだ。
祖母はもう何ヵ月も入院していて、何度も見舞いに行っていたではないか。
「わ……かった……。すぐ行く」
病院はここから車で30分程で着く。
訳もわからず祖母の携帯電話をポケットに突っ込み、珈琲を買う。
温かい珈琲は、何故かしょっぱかった。
祖母は、もしかして、祖母が、最後の力を振り絞って助けてくれたのだろうか?
溢れ出る涙を止められず、車の中で一頻り声を上げて泣いた。
泣いて泣いて、やっと息を整えた頃には珈琲はすっかりと冷めていた。
病院へ行かねば。
エンジンをかけて病院へと走らせる。
到着すると祖母はもうすっかりと冷たくなっていた。
微笑むような安堵したような表情に、再び涙が溢れる。
父と母が疲弊しきった表情で椅子に座り込んでいた。
それからは目まぐるしく時が進んだ。
葬儀屋の手配、火葬、喪服、お坊さんの読経、忌明けの食事会……。
慌ただしく、しなければいけない事が押し寄せてきた。
「そう言えばさ……」
食事会を終えて家に帰ると、両親がソファーへ沈み込むように座った。
せめてもの労いにと珈琲を淹れる。
「俺、あの日、ばあちゃんに助けて貰ったんだ」
「あの日?」
「ばあちゃんが死んだ日」
「死んだ日って……」
「あの日、何かわからないけどトンネル?穴?に追い掛けられてて……。ばあちゃんが忘れ物を取ってきて欲しいって一緒に車に乗ってて……」
「それって、婆さん、幽体離脱してたって事か?」
「お婆ちゃん、最期に雄太の所に行ったのねぇ……」
「ばあちゃんのおかげで俺、助かったんだと思う」
「そっかぁ、お婆ちゃん……」
「婆さん、雄太の事ずっと、気にしてたもんな」
「で、さ。ばあちゃんの言ってた忘れ物を、取りに行こうかなって思うんだ」
それから少しして、葬儀に来て貰った祖母の交友関係を当たり、忘れ物を預かってないかを聞いて回った。
すると、それならあの人だろうと1人の名前が上がった。
入院前、祖母が懇意にしていたと言う祖母と同年代の女性。
電話は無いというその女性の家へ、住所を頼りに車を走らせる。
マップは何も無い場所を指し示したが、まぁ近くまで行けば分かるだろうと高を括った。
果たして、その住所には平屋の古そうな木造の大きな家が建っていた。
30分程で迷う事なく辿り着いたその場所は、あの日、母からの電話を受けたコンビニに程近かった。
弔問客の中で、ただ1人、名前だけで住所を書かなかった人物。
インターホンは、無い。ノックをし、引戸をおずおずと開け「すみません」と奥へ声を掛けた。
随分と暗い。人が住んでいるのが疑わしい程度には。だが、返事は意外にもあった。
「はぁい」と返ってきた声に相応しい腰の曲がった、小さな老婆が奥から現れた。
「あら、フミさんのとこの」
「その節はありがとうございました」
「いえいえ、御愁傷様でございます」
「何か祖母の忘れ物を預って頂いていると伺っておりまして」
「……ああ、そうでしたわね」
老婆は残念そうに頬に手を当てる。
「四十九日迄待って頂けませんか? そちらさんも落ち着かないでしょう?」
「いえ、折角来たので、受け取って帰りたいのですが」
「困ったねぇ。あれは質草なんですよ」
「え?」
祖母が借金をしていたという話は聞いた事が無い。
「いくら借りていたんですか? と言うか借用書はあるんですか?」
「金じゃないんですよ。フミさんはまだ女学生だった頃にある約束をアタシとしましてね」
長くなるからと老婆は奥へ招き入れた。
老婆の話はこうだった。
身分違いの恋をしていた当時の祖母は、学校裏の山で朽ちた社を見つける。
祖母は、まだ幼く、初めての恋におぼれていた。
そして、恋の成就を社に願った。
自分の全てを捧げても良い、と。
恋は叶った。
子ができ、孫ができ、人生も終盤になった頃、ヨリ子と名乗る老婆が現れた。
雄太の目の前の老婆である。
二人は仲良くなり、ある日、フミが言ったと言う。
「孫はアタシの全てだよ」と。
だから。
忘れ物というのはその言葉だ。
老婆の目が、口が、冥く沈む。
歯が、まるでトンネルの中の照明の様だった。
ぐらり、と目眩がした。
気が付くと、車を運転していた。
日が落ちていたのだろうか。
街灯もない真っ暗な夜道を、車のライトだけを頼りに。
速度メーターは70km/hを指している。
山道だろう、緩く傾斜した道はぐねぐねとしており、反射板がキラキラと道の端を示している。
対向車がトンネルに吸い込まれていった。
バックミラーに映る、あのトンネルに。
後部座席で、祖母の携帯電話が鳴る。