殿下に何がおこったか・1
帰りの馬車で殿下は黙ったきり。隣に座る私の手をご自分の腕にのせ、何かしら考えるご様子だった。
不安になれば伝わってしまう。私は「平常心、平常心」と心のうちで呟いた。
夜に殿下のお部屋には入れない。特別な女性になってしまうから。
季節もよく月の明るい夜。宮殿の庭にある噴水の縁に腰掛けて話すことにした。
私のお尻の下にあるのは殿下の上着ではなく、馬車から持ち出した膝掛けだ。
ここなら誰か近づけばすぐに気がつくし、会話は水音が消してくれるはず。護衛と従者は昼間のように適度な距離を取り、背中を向けてくれている。
それでも殿下の声は抑え気味だった。
「なにから話せばいいのか。君の話を聞く方が先かな」
「私にはお話しするようなことが、あまりありません。お尋ねしてよろしいでしょうか。ここは、私の知っているままですか。だとしたら両親はどこに」
殿下は思わずという風に息を吐いた。
「ここは君のいた世界だ。ただ異なる点がある。君のウォルター家はある日忽然と存在自体が消えた。確かめようはないが、僕が思うに君がこの世界からいなくなるのと同時だ」
ゴクリと唾を飲む音は、殿下か私か。膝を突き合わすようにして、殿下が私の両手を握った。
「落ち着いて聞いて欲しい。誰も君の一家を記憶にとどめていない。学校の在籍者名簿にも君の名はなく、紳士名鑑にあるはずのお父上の名も消えていた。消されたと言うより、先祖から今に至るまでが存在しなかったことになっている」
ファミリーツリーの文字が風に吹かれた砂粒のように消えていく映像が浮かぶ。その上に書き込まれるのは見知らぬファミリーツリー、伯爵ケント家。
「ウォルターのかわりにケント家があの屋敷に住み、ずっと存在したかのように振る舞う……」
思いつきを付け加える。
「昔から王家を支える名門貴族として」
月明かりの下、殿下の少し青ざめたお顔は冴え冴えと美しい。
「誰もがケント家を知っている、それにケント伯は『幼少の頃からの殿下のご学友』」
軽く顎を引いた殿下にお尋ねする。
「殿下のご記憶にも、ケント伯が?」
「子供時代に引き合わされた記憶まである――そんなはずはないのに」
殿下の表情が歪んだ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、むしろ君と話せて気分は昂っている」
私を安心させるかのように、殿下が手を握りなおす。
「ケント伯とは、初めから上手にお付き合いができましたか」
「逆に初めの数日はよかった。その後、君の姿が校内に無いことに気がつき尋ねたら『ウォルターさん?』と揃って知らないと言う。『知らない』の意味が分かった時には、ゾッとしたよ。僕の頭がおかしくなったのかと思った」




