濡れた唇あえかな吐息
保管室の扉の上にはガラス窓があり、手を伸ばしてギリギリ届く窓枠に部屋の鍵が隠し置いてある。
それをお従兄弟から聞いていたブレンダン殿下は、迎えを遅めの時間に指定して、ここで時折ひとりの時間を楽しんでいらしたそうだ。
知らぬこととはいえ、お邪魔をしてしまい申し訳ない気持ちになる。
「君はどうしてここに?」
室長をしていることから順に経緯を説明する。私も殿下も立ったままだ。
「次から長居はしません」
悪書を読んでいた反省もこめる。
「いや、気にしないで。僕は毎日通学しているわけではない。勉学なら学校より家庭教師が先をいっていて、済んだところばかりだから」
それでも通っているのは「見聞を広めることと息抜きを兼ねて」だそうだ。
「たまに来た時に君がいても、かまわない」
これ、と手のひらの上で本を弾ませる。
「続きを読みたい君の邪魔をするのは、僕のほうだね」
本当に止めて欲しい、と私は息も絶え絶えな気分になった。もう少しマシなタイトルの本を選べば良かったとの後悔は、今後に活かしたい。
「はい」と返してくれながら「今日はこれで」と、スマートに背を向ける。
適当な見送りの挨拶が思いつかない私に、
「名前は」
肩越しに振り返った殿下が尋ねた。
「アリス・ウォルター、一年です」
声が上ずる。
「ウォルター、アリス・ウォルター嬢。はい、覚えた」
朗らかな声が響き、今度こそ殿下が出ていく扉の音がした。
殿下が去っても空気はキラキラとしたまま。お話しできたのが信じられない気持ちで、本を抱きしめた。
これが私アリス・ウォルターとブレンダン殿下の最初の出会いだった。
次にブレンダン殿下と保管室で会ったのは、一ヶ月経った頃。
数回ひとりだったことで油断していた私は、本を読み耽っていて反応が遅れ、殿下にひょいと本を取り上げられた。
抗議する間もなく、
「なにが書いてあるの?」
読みかけのページに目を落とした殿下が、すぐに声に出して読み始める。
「白く細い首すじに唇をあてると、彼女の濡れた唇から、あえかな吐息が零れた。それは徐々に熱を帯び――」
「やめてください!」
私は飛びつくようにして本を閉じた。指を挟みかけた殿下が、不思議そうにぱちりと瞬きをする。
「君が読んでいた本なのに」
正しい指摘もやめてください。
「声に出して読むのは、また別です!」
変な汗をかく私を見て、殿下は楽しげに笑った。