瀬名先生のお誘い
仕事終わり。今日は土曜日だから午前診療のみで、外来窓口の精算が済んだら帰る。
「二時過ぎ」
いつもそれくらいだ。
「食事に行こう、迎えに来る」
再び頬を寄せ軽くリップ音をさせると、
「蛍光は、今もグリーンなんだな。俺もだ」
ああこれ、胸ポケットに差しているから。ボールペンで使う赤と青を避けて、子供の頃から蛍光ペンはグリーン。ケント伯にお見せしたのも同じ物。そんな些細なことを覚えていたなんて。
胸に温かな感情を抱いて、エレベーターホールへ向かう後ろ姿を見送っていると、ツンツンと突かれた。
顔が緩んでいたかもしれない。引き締めて隣を見れば、後輩が好奇心一杯の様子で見上げていた。
もしや。待合室をうかがえば、まあまあの人数がこっちを見ている。
そうでした、診察待ちは退屈なので動くものは何でも注目される。すっかり忘れて自分の世界に入っていた私は、良い見せ物になったことでしょう。
純日本人の私が「外国かぶれ」のような挨拶をしてしまったと、今さら悔やんでも遅い。
「水野さん、先生とお知り合いなんですか! すごいですね! ものすごい親しげでしたけど」
決して大きくはない声なのに、こんな時だけ耳の良い患者さんが、うんうんと静かに同意しているのが波動のように伝わる。
ケント伯……ついて行きたかった……
気を取り直して。
「ケント伯とは――」
「けんとはく?」
何ですかそれ、と首を捻る後輩に慌てて訂正を入れる。
「ケント君」
あ、ケント名字じゃない。名字何だった? 副院長なんて呼んでた?
「瀬名さんとは――」
「も、いいです」
後輩が遮る。そっちが聞いたくせに。
「名前で呼ぶほど仲が良かったんですね。ほんと医者とは思えないほど、カッコ良かったですもんね」
「……ドクター全般に失礼よ」
冷やかされておかしな汗が出る。
待合室の皆さんも、いちいち同意は不要です。
「瀬名先生はいいです、競争率が高すぎるので。他の先生を紹介してください」
ちゃっかりと約束を取り付けようとする。
地元に残る独身男性は少ないから、その気持はわからなくもないけれど、ケント伯はそういうの疎い気がしなくもない。
即座に断れないのは患者さんからの「そうそう、この子にもいい人紹介してあげなさいよ」という、圧力による。
「聞いてみるわ」
無難に返して、歪んでもない名札の位置を直しながら思った。
「ミソカイチミナミさんの右側の人が、新しく来た先生とできている」と噂が駆け巡るだろうと。




